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哲学いろいろ

#23

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§36 悪魔論の補足

善とか悪とかいうことが出てきたので これは――哲学的に議論するつもりはないのであるが―― しばしばややこしい問題をはらむのだし 上のように簡単に片付けてしまっておくわけにも行かないであろう。その意味で さらに補って話を終えたい。
著者・河合隼雄とともに 神(三位一体)が 人間の《意志の行為 / 自己実現の過程 / 〈無〉の直接体験 / 個体の社会的な存在としての全体性》にかんれんして議論されるとする限りで 善とか悪とかの問題として その議論に触れないではおけない。

〔三位一体に悪魔を加えた〕ユングの四位一体説は――とあらためて著者・河合の言うところによると―― キリスト教の教義にもとるものとして神学者より強い攻撃を受けた。彼は《昔だったら火焙りにされていただろう》と言ったとのことであるが それは凄まじい戦いであったと思われる。ユングの弟子のなかには この論争を緩和させるような解釈を発表している人もあるが 筆者は次のように考えている。
三位一体の神は 神学的に完全な神であろう。自らの存在のうちに多くの悪をもつ人間と隔絶した完全性を それはもっている。このような神の姿は確かに非の打ちどころのないものではあるが われわれ心理学療法家として 人間の弱さや悪にもろに直面するものにとって このような神の姿はあまりにも完全すぎて手がとどかないのである。実際的に このような人々と接触するわれわれは まず人間の悪の存在の肯定から話をはじめねばならぬことが多い。・・・
昔話と日本人の心 (岩波現代文庫―学術) 8・5.太字は 原文の傍点つきの文字)

つづいて 《その存在の肯定からはじめるといっても われわれはそのことをすぐによしとするのではない。善と悪との間の長期にわたる葛藤のなかから 一筋の統合的な道を探り出そうとするのである》うんぬんと著者は さらに論じていく。

  • 要するに わけが判らないことになっている。《一体》だと言えば 《善は悪である。悪は善である》と言ったも同然である。《肯定しても それをよしとしたわけではない》など わけが判らない。
  • どうでもよい事柄から成る経験世界に住む人間にとっては 《善と悪との葛藤》はあるかも知れないが 《絶対善》にとっては そのような葛藤はないし 《善と悪との一体》にとっても やはり葛藤はないであろう。なにを考えているのだろう。
  • 印象批評としては 上のようになる。

われわれの考えでは ここに 重大な欠陥があると見る。仮りに 《意志する》行為が 善を欲する・あるいは善が悪をも良く用いることであるとすると それは 《善と悪との間の長期にわたる葛藤のなかから》その意志の力が獲得されるものであるとしても 《一筋の統合的な道》は 《善と悪とを容れた意志》の道として 探り出されるべくもなく それはあくまで 善の《一筋》――そこにむろん 悪との間の葛藤は見られるところの――である。これは 原則に匹敵する命題であろう。

  • この世の人間にとって その人間の存在や行為にかんして 完全な善があるという意味ではない。

この善の一筋の道を 問い求めようとするとき 悪に従わされていることも 認めざるを得ないゆえ 人間の弱さがあるのであって もし変な言い方をすることができるならば 悪をも意志するという場合には それは もはや弱さではなく 同じく変な言い方をすれば 強さなのである。またそのときにはもはや 葛藤は起こらないであろう。逆にいえば 四位一体ではなく 悪を含まない三位一体であるゆえに 《葛藤》は起こるのであって いったい何を考えているのだろうと繰り返さねばならない。
もしさらに譲って 仮りに葛藤がつづきこの葛藤のなかから確かに 一筋の統合的な道を問い求めようと意志するなら それは 善の一筋の主体としてなのである。善と悪との一体となった一筋であるなら すでに《統合的な道》は得られているではないか。
悪を意志する あるいは 悪の主体が意志するというのは 論理的なばかりではなく現実的な矛盾なのである。この矛盾は もはや人間の弱さによるそれではなく 変な恰好で人間の強さによるものなのである。《実際的に 心理的な葛藤を経験している人びとと接触するばあいにも 決して 人間の悪の〈存在〉の肯定から話をはじめねばならない》ことはない。善と悪との葛藤の存在の肯定と 悪を意志する・悪が意志するという存在の肯定とは 別である。
要するに 善の一筋の道を 無意識のうちにも 主体が意志しているというのでなければ 悪との間の葛藤は起こらない。悪が意志する 悪をも主体が意志することが可能 こういった事柄を もう一方の現実なのだと言ってしまうと 葛藤などありえないし――または そう言い切ってしまうことに対して ある種の葛藤が生じるのであり―― 心理療法家など商売としても成り立たなくなるということであるに違いない。
ではなぜ人間は 悪をも意志するというふうに見えるのか。これは 善と悪との問題である。

神学者の言う神は おそらく彼らの生来の宗教性の故に 自らも天国にあって 天国にある神の姿を写し出したものであり ユングの描く神のイメージは 地獄にあって 地獄から垣間見た神のイメージなのだということになろう。従って 神学者の説く神の姿の方が より完全で立派であることは論を待たない。ただ それは地獄に居る人々にとって あまり役に立たないように思われる。
(同上 8・5)

というのは したがって 嘘である。地獄が悪であるとすると この悪を 《神学者》も《善の欠如》なる状態であると認定しているのであって 逆に 地獄に居る人びとから見て神のイメージとは やはり 善の欠如が欠如している状態なのである。

  • 状態というような移り変わるものではないけれど。

ゆえに 後者で人びとは 神をイメージするのである。もしそのイメージが《あまり役に立たないように思われる》ときには この役に立たないということによって そのイメージの〔背後の〕全体性において 役に立っているのである。そうでないと 《より完全で立派であることは論を俟たない》などというイメージに対する判断は 成り立っていないであろう。
言いかえると 三位一体の絶対善なる神〔この場合 そのイメージであるようだが〕に照らして〔でも〕 人びとは 悪の状態を つまり なんならその存在(悪魔)をわきまえているのである。河合の議論では ここが曖昧である。そうでないと その説はただ 悪は悪だから悪だ 意志していないということは 意志していないのだから 意志する女性像ではないと言っているようなものである。そういうことになる。
このような認識は こんなにも深い真理について問い求めようとしている――あの葛藤を経験している――人びとによって 静かに心のうちで合意され持たれることになる奥義なのである。こう言ったからといって 誰か人間が あの天国にある神そのままの完全な存在になってしまう なってしまっていると強引に論じているということになるであろうか。
むしろ いささか皮肉って言うと 人は三位一体の絶対善なる神のほかに 悪魔をそれに加えたところの四位一体をおのれの神とせよなどと説いているようにも見える河合その人が 全知全能の神となって そう言っていると見たほうがいい。完全性 全体性 無の直接体験等々を 自分は 人に先駆けて 体得したのだとちょうど 言わず語らずに 言っているようなものである。《すべて労苦する者 重荷を負う者 我に来たれ。我 汝らを休ません。我が軛を汝らの上に取れ》(マタイ福音書 (希和対訳脚註つき新約聖書)11・28)と河合その人が言っているようなものである。のではないだろうか。
これが 善と悪との問題なのである。
完全でない者も 全体性でないことを全体性だという議論に対しては その誤謬を その根拠を明らかにして 示しつつ 全体として 一筋の統合的な道を問い求めようとしうる。しっかりと さらに人びとは 議論していかねばならないであろう。細かい事柄をめぐって 問題が生じるのである。
言いかえると 昔話といえども 人びとが このことを議論しあったその成果として いいもの悪いものを含めて 人びとの間で 語られ伝えられてきたと考えられる。この昔話を解釈しなければいけない。

  • その核は 人間があくまで 基本で主体なのであるから 通史的に普遍的に あとからあとから おおいかぶせて 捉えなおしていくことはできる。

河合の議論には 昔話の核――ただ人間という現代人でもわれわれの善と悪との葛藤 そこにおける一つの像――を解釈しつつ 同時に その昔話に解釈されてしまうという一つの転倒が 横たわっている。これは 歴史(また現実の人間)と昔話(現実の人間の善と悪との葛藤の 想像による 純粋なストーリ化)との混同であるとも言うことが出来る。
全体性とは これら両者の正しい位置づけ 正しい位置づけを意志するというわたしたちの心のなかにある。このただしい心と 《昔話》と 《その昔話の中で実現されたかのような日本人の心》とをわたしたちは 正しく区別しなければならない。
《昔話の深層》とわれわれの心のその現実の存在の深層とを ただしく区別しなければならないであろう。善の欠如を欠如させて行くことが 一筋の統合的な道であったように この上の転倒を転倒させていく過程が意志する人の自己実現の道なのである。
なぜなら 河合によれば 三位一体の神がたしかに神なのであるから。河合は これを 四位一体として この地上に引きずり降ろしたことになる。ところが この天国にある神も――誰も人が天国にあると言ってはいない;そう言うのは 河合のほうである;この天国にある神も―― 死者の神ではなく 生ける人びとの神であるから その人に 善と悪との間の葛藤が起こるのである。善の欠如を欠如させようとし 三位一体を四位一体とする転倒を転倒させようと その同じ天国にある神の力をわれわれが 分有して 昔話を解釈しこれを用いつつ 生きる。ほかのことではない。この単純なことを わざと複雑にし しかも河合はその誤謬へ人びとを渡そうとしたのである。なぜか。そんなことをしてもかれに何の得にもならないではないかとは言えず かれは 現在の秩序をそのまま保守したいと言ったわけである。むつかしく言っても 簡単に言っても そういうことだと思う。いわゆる幻想をふりまいたのである。これが 効くようである。
われわれは 現存の秩序を破壊せよと言った覚えはない。三位一体の神で十分だと言ったのである。昔話のなかの人びと あるいはそれを作った人びとも そう生きてきたのである。これが 日本人のこころです。
だから もっと言うと 河合は この日本人にこびた。こびりつきというのは ご飯の焦げのようになることである。もちろん おこげのご飯のほうがうまいと言う人もいるわけである。
こうして昔話あるいは 昔話に解釈されていく現代話(心理学) これを解釈することが 全体性の問題なのであった。現存の秩序を人びとの力によって動かして行く意志する女性のすがたのことである。人は なお善と悪との間で葛藤することは大いにしてもよいが この全体性を絶対に疑ってはならない。

  • というほどに われわれは相対的に 井戸端会議を起こして この世を 変えるべきは変えて行くであろう。この点で 日本人は 捨てたものではない。そのときには かく言うわたしについて来て欲しい。全体性をとおして わたしとは きみのことでもあるのだから。うんぬん。

(つづく→2005-11-26 - caguirofie051126)