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哲学いろいろ

#110

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第四部 ヤシロロジとしてのインタスサノヲイストの形成

第六十三章a 聖なる徳なる魂の死〔とその復活〕は 目に見えない ゆえに〔むしろ〕 肉において存在する

――告白5・10――


それゆえあなたは 私を病いから回復させ あなたの婢女(しもめ)の子を健康にしてくださいました。当時はさしあたり身体の健康だけでしたが それは 後にもっとすぐれた もっと確実な健康をお与えになるはづの者が ともかくも身体によって存在を保たんがためでした。
ところで私は 当時ローマにおいてすらも あの虚偽で欺瞞的な聖者(これは マニ教のである)と関係していました。すなわち たんにかれらの聴聞者たちのみならず えらばれた者と呼ばれる人びとともまじわっていたのです。私が病気にかかり回復した宿の主人も 聴聞者の一人でした。
じっさい そのころまだ私は 罪を犯すのは自分ではなくて 自分のうちに存在する何か知らないが ある別の本性の者であると思っていました。そして 罪の責任をまぬがれているということが 自分の傲慢な心に満足を与えました。何か悪いことをしたときにも あなたに対して罪を犯したから魂をいやしてくださるように 《自分がそれをやったのです》と告白せずに 自分を弁護し 何か知らないが自分とともにあってしかも自分でない他のものに 罪をなすりつけようとしていたのです。
しかしほんとうのところ その全体が私だったのであり 私を自分自身に対して分裂させたものは ほかならぬ私の不敬虔でした。その罪は 自分を罪人であると思っていなかっただけに いっそう救われがたいものになっていました。私はそののろうべき不義によって 全能なる神よ 自分があなたに克服され救いにおもむくことを願うよりはむしろ 私があなたを克服して身の破滅となるほうを願っていたのです。
ですからまだあなたは 不義をはたらく人びとともに罪を犯しながら 私の心が弁解のために悪いことばへかたむくことがないように 私の口に守衛をおき 唇のまわりにつつしみの戸をつけてくださいませんでした。それゆえ私はまだ マニ教徒の《えらばれた者》たちと結びついていたのです。しかしながら その虚偽の教えにおいて これ以上何か得るものがあるだろうというのぞみは もう失っていました。それ以上に善いものを見つけないかぎりは満足していようと決心していましたが それとてももういいかげんに 怠りがちに保っていたにすぎません。


のみならず アカデミア派と呼ばれる哲学者たちのほうが ほかの者たちよりも賢明だったのではなかろうかという思いが 心にうかんできました。かれらは万事について疑わねばならないと考え いかなる真実も人間にはとらえることができないと主張しました。私はまだかれらの真の意図を理解していなかったので 一般にそう信じられているように かれらはほんとうにそう考えたと思っていたのです。
また私は 宿の主人が マニ教の書物をみたしている作り話をあまりにも強く信じこんでいるのをみて その信仰をゆるがそうとせずにはおれませんでした。それにもかかわらず私は この異端に属さないほかの人びとよりはむしろ これらの人びとと親密な交わりをつづけていました。以前のように熱狂的にこの宗派を弁護しませんでしたが かれらと親しかったので――ローマには多数のマニ教徒がかくれていました―― 何か別のものをさがすのがつい怠りがちとなったのです。とくに 天地の主 すべての見えるもの見えざるものの創造主よ あなたの教会のうちに真理を見出すのぞみを失っていましたから なおさらのことでした。
マニ教徒たちは その真理から私をそむかせていました。あなたが人間の肉の姿をもち われわれの身体の形体的な輪郭によって限られていると信ずるのはまことにいとわしいことだと 私には思われたのです。そして神について思いめぐらそうとしても 容積のある物体しか考えてみることができませんでした。――何であれそういう性質でないものが存在するとは 思われませんでしたから――。これこそは 私のさけがたい誤謬の 最大の ほとんど唯一といってよい原因でした。


ここからまた私は 悪には何かそのような性質の実体があり それは 地と呼ばれる粗雑なものにせよ 気体のように微細精妙なものにせよ とにかくいとわしく醜い容積を有していると信ずるようになりました。この微細精妙なものをかれらは 地上をはいまわる悪意にの精神だと想像しています。
しかし私は わづかながらもっていた敬虔な念から 善なる神が何か悪い本性のものを創造したなどということはどうしても信ずる気になれませんでしたから 二つのもののかたまりがあってお互いに対立し どちらも無限であるが 悪いかたまりのほうが狭く 善いかたまりのほうが広いのだと考えてみました。そしてこの危険有害な思想の発端から 他のすべての冒涜的な考えが生じてきたのです。
じっさい 私の精神はカトリックの信仰にたちかえろうとするたびに突きかえされましたが それは 自分の考えていたものがじつはほんとうのカトリックの信仰ではなかったからです。神よ あなたにむかって私は自分にそそがれたもろもろのあわれみを告白いたしますが たとえ悪のかたまりがあなたに対立するというこの一つの側面においてあなたの有限性をみとめざるをえないにしても 他の側面においては無限であるとみとめるほうが 人間の身体の形の中ですべての側面からあなたが限定されていると考えるよりは 敬虔であるように思われたのです。
また あなたはいかなる悪しきものをも創造しなかったと信ずるほうが このような悪の本性があなたに由来すると信ずるにまさると思われたのです。この悪なるものを 無知の私は たんに何らかの実体であるばかりか 物体的実体でもあると思っていました。なぜなら精神でさえも 精妙な物体ではあるが やはり空間におしひろがっているとしか考えられなかったのですから。
またあなたの独り子なるわれらの救い主さえも いわばあなたのきわめて輝かしいかたまりから 私たちを救うために出てきたものであって 自分の妄想しえた以外のことは何一つ キリストについて信ずることはできないと思っていました。ですから キリストのsのような本性が処女マリアから生まれるためには キリストが肉と混合しなければならないと考えました。しかし 私がこのように勝手に虚構したものが 混合しながら汚されないとは思われませんでした。ですから私は 神の子の受肉を信ずることをはばかっていましたが それは 神の子が肉によって汚されたと信ぜざるをえなくなることを恐れたからなのです。
いま あなたに属する霊的な人びとがこの告白を読むならば いたわりと愛の心をもって笑うことでしょう。それにしてもじっさい私は そのような人間だった。
(告白5・10・18−20)

マニ教は 神の子キリストをみとめる。それは 人間の魂を救うため光の国から闇の国に光の父なる神によってつかわされた《第一の人間》である。しかし ダヴィデの子孫イエスがそのキリストたることは 否定する。
そしてダヴィデの子孫たることを述べる《マタイ福音書》を否定し 神の子キリストの系譜を述べる《マルコ福音書》を肯定する。アウグスティヌスがこの説に従ったのは 神の子の受肉が 神を汚すことになると考えたからである。すべて肉的なものは悪であるから(《マニ教ファウストゥスを駁す》2・1)と。
山田晶 註解)

(つづく→2007-04-13 - caguirofie070413)