caguirofie

哲学いろいろ

#19

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§32 伝道者たち

前史(一般的な歴史の始まり)が 原史(縄文前期のパライソ)と つながったというのは 前史において 本史(復活)によって その後史が見通されたことに原因する。この本史による前史から後史への回転は 一般に 旧約(律法の時代)から新約(信仰が愛をとおしてはたらく)へのそれであると言われている。その生活(仕事)の経済社会的な基礎は 一つの画期としては 近代とよばれる時代から徐々に現われはじめたのだと。おおまかに言って そうであり この近代のキャピタリスム社会の進展によって 後史は本史にまで突入すると表現上は 説かれたことがあった。そして 前史が原史とつながったということは 前史が後史へ回転して その回転の推進力たる本史が見通された――つまり 復活に関係づけられることが可能となった――ことであるが とりもなおさず 原史が すでに初めに 本史によって始められていたことを意味している。
ここで 日本においては ある意味で閉鎖的な もしくは エデンをエデンとまだ人びとが自覚していないところの その意味での自給自足の生活―― 一般に 縄文時代とその以前――である原史から 端的には 《異邦人》(つまり先住民にとっては)の渡来とそのかれらとの交通と同化をつうじて 前史(弥生時代)に入った つまり歴史が始まった。が この日本における前史の時代は 想像倫理の時代から信仰による愛の時代への回転がおこなわれたかどうかが いまの焦点であります。
想像倫理の時代は確かに 前史として あった。仏教や儒教やあるいは道教によるものに限らず 神道とのちに呼ばれたその意味で固有の宗教による律法は あったであろう。もし 逆になかったとするなら 前史が この律法の時代として律法の時代を経ずに 直接 外国人の宣教師たちの来訪によって 後史への回転の少なくとも教えが もたらされ その限りで 前史は 回転のモメントを持ったことになる。
このような輪郭の中で――まだ非常に大雑把なものであるが―― 黄色い人は 白い人たちとどう付き合って行くかが 問われているのである。
この黄色い人は はたして 《冷たくもなく熱くもなく なまぬるい人》であるのかどうか。端的に言うと 外国人宣教師たち 日本人にとっての異邦人を あの鎖国の時代――それは人びとが ちょうど自分たちの原史を見つめ直そうとしたかのようである――を通じて 排除していったこと この歴史は 冷たい もしくは自分たちなりに 熱いと言われるべきではないだろうか。あるいは このようにこじつけることのほうが 遠藤さんの議論の性格をそうであるといったところのその自虐性を われわれのほうが持ったことを しめすものなのだろうか。
黄・白・黒という区別は 復活(本史)に対する関係のしかたにも はっきりした区別をもたらしているものであるだろうか。われわれは 何ごとも中庸がよろしいと言って 復活から吐き出される その教えを受け付けない人種であるのかどうか。
教えを受け付けないことが 吐き出されがたい人種(もしそうだとしたら)の性格を物語っているのではあるまいか。そして これを妨害するのは 故意に妨害するのは すでに本史が見通される後史に入っているのに なお 前史の律法の時代へ逆戻りさせようとする想像倫理の人たち つまり その意味での限りでのカトリック作家の人びとに その要因は見出されるのではないだろうか。
かの人たちは じつに 自虐的であり もしくは絶望が好きなのです。
沈黙 (新潮文庫)》の中のかの奉行 つまりポルトガル人宣教師のロドリゴを詰問した井上筑後守は その教えの強制を受け付けず 想像倫理による仕事を妨害するのを妨害しようとしたと考えられます。この所謂 日本人による妨害を描いて カトリック作家は 自虐的のようである。
《自分が傷ついて 自己を犠牲にして わたしを差し置いて 人を愛する》ように思われます。このように言う中庸 このように言える中庸は すでに 前史において 後史への回転を 証ししています。仕事はそこですでに 始まっています。この中庸は すでに 本史つまり復活をつまりキリスト・イエスを見たかのようでさえあります。その日常の生活にあって。
ところが 皮肉なことに 西の人びと 白い人たちは これがわからないかに思えます。このことを 見ようとしないかに見えます。われわれは 中庸をも尊んでシントウという海に 太陽が昇っていることを見なければならない。こういう表現は 危険をともないますが この義の太陽つまり復活は この世に属していないことは イロハのイでした。
もし 共産党が 想像においてと想像をとおしてとを 同じ一つのことだと考えているなら つまり マルクスの言った前史から後史への本史が この世のものであると考えているなら 上の表現にともなう危険の要因の一端をになっていることになります。シントイストたちとて だれも 縄文時代の原史にそのままさかのぼるのが一番だなどとは 考えてもいないでしょうから。
つまり この中庸が 生きた矛盾構造の動態なのであると言うべきでしょう。ここで 前史は 本史によって(本史を仲介者として) 後史へ入りつつあるというわけです。この基盤は すでに本論でるる説明しました。
人はここで 何をなすべきか知らないと言ってはなりません。人を愛させよ これです。人間の経験的な部分的な愛も あの復活の愛に関係づけられている(《悪霊の午後》論ノート)のでしたから。中庸を貴ぶ黄色い人は この海に寄留しつつ 生活している。純白の雲の上の教えへただちに飛翔していこうとは思わないし また そうすることは 仕事ではないと 肌で感じて知っているわけですから。
すでに宣教師たち あるいは マルクシスムという福音の伝道者たちによって この海にあの太陽が昇ったという知らせは 聞いて知っています。そのそれぞれの教えに対しては 転ぼうと転ぶまいと 知ったことではありません。かくて 仕事はすでに始められていた そう生活して来なかったわけではない 知られ得べきものは知られ得るし 知られ得べきものが知られなかったときにも 愛すべきものを愛していたということは いま明るみに出されるのです。われわれは 密教的に 仕事をおこなっていなかったわけではないし その自分を たとえ知られていなかったとしても 愛して来なかったわけではなく いまこれを知ったとしたなら 自分の生涯が過去を通じて一貫するように 黄色い人たるわれわれの歴史は 容易につながるのです。
これを見ようとしない人びと また たとい見ても なお想像において想像倫理として捉える人びと かれらは じつに われわれの生活のあの道を阻む妨害者だと見られます。あの道とはいまここで――なぜなら イエス・キリストはすでに歴史した―― 復活に関係づけられる船の道です。現代カトリック作家たちは じつに この海にあって(あるいは すでに港にたどり着いてのように) 道を航く船のともづなを解こうとしている 汝らすべからく善意の兎となって解纜したまえと言っているかに見られます。なぜなら われわれは 《冷たきに非ず 熱きに非ず なまぬるく いつまで経っても 昨日的であって その旧慣行の安全の道を墨守する弱きあるいは強き人間》であるにすぎないと言いたげであるから。
けれども カトリック作家たちは ここでも言い訳の道をすでに準備しています。それは 《日本人はキリスト教を信じうるか》(遠藤周作の対談集)というように あの《教え》と《宗教的信仰》を問題にしているから。《私の中の聖書 (集英社文庫 9-F)》というように わたしは想像規範をここで扱っていますという逃げ道を用意しているからです。
たしかに おっしゃる通りで わたしは今から仕事に着手しますと かれらは 言い訳することができる。言い訳の道を用意することによって タワケとよばれる嘲笑を甘受する逃げ道を作っている。
もっとあからさまに言うと これらの人びとは いまそれぞれ論じていること・描いている事柄は その仕事としてタワケであることを みづから知っている。知っていて これを おこなっています。だからわたしたちも――しかし言い訳をもはや用意せずに―― このようにたわけているかたちです。
(つづく→2005-11-22 - caguirofie051122)