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哲学いろいろ

#16

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§29 信仰の話は強制か

前章の議論をもう少し継ぎましょう。
曽野さんは 同じ著書の中で 次の聖書の一節をかかげ 文章を書いています。

わたしは すべての人に対して自由であるが できるだけ多くの人を得るために 自ら進んですべての人の奴隷となった。ユダヤ人には ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。
律法(安全の道)の下にある人には わたし自身は律法の下にはないが 律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。(パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 9:19−22 柳井直行訳)
曽野綾子私の中の聖書 (集英社文庫 9-F) 〈15.その人のように〉)

おんぶお化け――もしそう言うならば――は このような動態でありまして――ともし釈迦に いや キリスト教徒に 説法しますと―― 想像をとおしてこの動態を生きている。もしこれを想像において抱くとしますと この想像はじっさい わたしそのものではなく わたしの有(もの)であって それが 《右肩の後にあったり 目の前に廻って来る》ということになるのでしょう。これは そうなのです。
なぜなら この動態は 人間にとって――とさらに堅苦しい議論にどうかおつきあいいただきたい―― 矛盾構造なのでありまして 復活に関係づけられその罪がおおわれていたとしましても(これを 曽野さんは 《私流の言い方をすれば 信仰を持つ人間こそ 大悪人になり得るのである》と表現していたわけですが) とうぜんのように わたしは 復活そのものではない。もし 復活そのものではないのに 復活に関係づけられていると言うとしますと そこには つまり 矛盾・言いかえると動態(時間)があるということです。
したがって 復活そのものをわたしは指し示すことも見ることも出来ないのですが 時間(矛盾)という隔たりをもって かつこれを超えて 信じている。つまり信仰があるというわけです。
この信仰は――キリスト・イエスが永遠に同伴者であるのではないのでしたから 人間に時間的に生じてくるものだと言わなければならないのですが―― したがって その見ないものの信あるいはその思念 これは見うるわけなのです。いまだ見ない復活そのものは とうぜん 見ていないのですが それへの信 これは 人間に――こころの眼で――可視的です。
ところが この信仰を わたしたちは――何度も繰り返すように――あの動態の中で もっている。想像をとおして 持っている。ところへ この信を想像において抱いたなら どうなるか。
この信じたい(自体)は見うるものですから 右肩の後あたりに行ったり 頭蓋骨の中にあったりするというわけなのです。
言いかえると――正直に申さなければならないことには―― 曽野さんのおっしゃる《私の右肩の後の神》というのは じつはかのじょ自身の信のことなのです。これを記憶し知解し また行動においても現わすようにということで 意志していられる。そういう存在の形式 つまり 人間の一つの生き方だといったほうがよろしい。

  • つまり特にいづれの信仰であるかを問わない性格の 一般に誠実であろうとするときなどの信念の問題ということです。

復活に関係づけられる――これを想像をとおして また 信仰によって おこなっている――というとき この人間を関係づける力と関係づけられる人との 支配と服従があるのではないのでした。そうでなければ この復活を告知したキリスト・イエスは どこかの宗教の開祖であったりまたどこかの何らかの地位ある偉い人(たとえば現代の太閤秀吉)と違わない。言いかえると 信仰は 復活をいまだ顔と顔を合わせて見ていないけれども もし顔と顔を合わせて見まつるときには――消失するという表現をとらずとも――ただ 後からあの時わたしはこの信を持っていたのだなぁという記憶としてのみ残る つまり もはやその時 信は残らない ということになります。つまり わたしは 日から日へ 変えられてゆく。そういう動態。
なら この復活がおんぶお化けであるというのは おかしい。それは 人間の信のほうであり しかもこの信もいわば動態であります。
かかる意味で わたしは律法(法律またおんぶお化けといった想像規範 つまり 安全の道)に死んだのであります。またそれゆえ 仕事がつづいてのように この安全の道の下にある人には 安全の道の下にある人のようになることが出来る。何の危険もなく 自分自身のように 他人を愛する(また欠陥を憎むを含む)ことが出来る。パウロが《その人を得るために》というのは ここで誤解があってはならないことには あたかもその人とわたしとが おんぶお化けなる核の傘の中に入るということではなく その人が正当にも復活に関係づけられて あの仕事がその人にもつづくようにということでなければいけません。
そして これは 支配と服従の関係ではありませんが じつは 《宣教という愚かな手段》(パウロの言葉として)というように ある種の強制であります。あのヨーロッパの宣教師たちも その布教という活動は殊に この強制であります。
もっとも これに対しては 人が自由でなければ つまり信教・良心等の自由のもとに わたしがわたしであるのでなければ 強制は言わば軟弱なつきあいになってしまう。つまりお互いにとって 布教が成立しなかった(その教えが根付かなかった)ことになるし これだけではなく あの仕事も 宣教する側においても される側においても 始まっていないと言わなければならないことである。ことであるのですが この弁解はじつは弁解をなさないのでありまして そこに 曽野さんの言う《なにもしない勇気》という仕事の生きた実践が つづくのです。
弁解をしようとおもえば こうなります。仕事をおこなうのは 強制が入ります。

  • 厳密には そんな心配は要らない。話を持ちかけるという最初の段階が 強制に見えるという意味にすぎないゆえですが。

しかしおこなわなければ 軟弱なつきあいとなる。わたしは 軟弱なつきあい――安全の道――に対して 弱い。弱いがゆえに 弱いことを知っているゆえに 強制をむしろ自らに対しておこなう。強制は 強制としては 発揮されない。ここで なにもしない勇気が つまり 自分と同じように他人を愛せ いや 人を愛させよという愛が 発出するということになるでしょう。かくて あの信仰がこの愛をとおしてはたらくというわけです。はたらくというのですから これは 仕事です。
ところが じつは 安全の道つまり時に軟弱と言わなければならない付き合いの中にも 強制はおこなわれるのです。社会的な規範あるいは組織じょうの上からの命令 これがそれです。わたしたちは この共同自治のための便宜的な強制(つまり 支配と服従の関係)は どうでもよい事柄に属している だから その命令者(ミコト emperor)のようにわたしはなれるというわけです。わたしがわたしでなくなるために つまりわたしは自己犠牲のために そうするのではなく たしかにもはや仕事を与えられてのように わたしがわたししているがゆえに つまりその人を得るために この強制をおこなうことができる。この強制は 愛であると――まだウソを許容しているが 人間の愛ではあると―― 人びとは言うことが出来るし おそらく多くの人びとはこれに同意するのです。つまり わたしもそう思うし わたし自身そうして来たのだと。
ここには 服従と支配の関係ではなく 強制をおこないつつも 時間的には 先に教訓を得てこれを与える者とそして与えられる者との――その場面のバツの悪さを介した―― 一致があるのです。これを 神という言葉を用いてそう表現するのです。もちろん人間は さらに一層ふさわしい表現を発明するかも知れません。
教えが根付くのではなく また神という語が根付くのではなく――なぜなら 神の語は それぞれの国のことばで はじめからあった―― キリシタンその人が仕事に根付くのであり つまり わたしがわたしするということが根付いて行くという寸法です。
けれどもパウロは言います。

わたしは すべての人に対して自由であるが できるだけ多くの人を得るために 自ら進んですべての人の奴隷になった。

《宣教という愚かな手段》または《強制》という仕事をおこなう《大悪人》になったと。
こう書くと まるで精神訓話を披露したもののようですが その罪はカトリック作家にあるというわけです。

パウロの言葉は 時代を反映して やや思い上ったような印象を受けないでもない。

  • いや 強制ですから 時代を反映しなくとも その精神は高揚しています。――引用者註。

しかし総じて 聖書の世界では表現は簡潔で乾いている。

  • わたしは 潤っていると思いますが。

パウロの言わんとしている態度が じつは人間理解の根源なのである。しかし一生に一度も 相手と同じになるという努力をしたことがないのではないかと思われる人も正直なところ いないではない。
曽野綾子:その人のように 《私の中の聖書 (集英社文庫 9-F)》)

というふうに――最後の文章で特別に――思い上がっていると見られるからにはです。つまりこれは 聖書のことばを楯に取った 想像倫理の強制なのです。

  • これは 正真正銘の強制でしょう。これは わたしたちは しないし 出来ません。出来ないという能力を与えられていると考えます。

(つづく→2005-11-19 - caguirofie051119)