caguirofie

哲学いろいろ

#6

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

§10 森田ミツは永遠の同伴者か

ところが――と 前章の議論を引き継ぎますが / ということは ここで遠藤の作品をとおして見られたカトリック作家の問題の問題 つまり遠藤さん本人のいわば言わなければならないこととして欠陥ということなのですが これを明らかにして 欠陥はこれを徹底的に憎み わが力の及ぶ限り遠藤さんその人はこれを愛するという作業を 実際には意味することになるのですが――
ところが 遠藤は一方で 人間凝視の義務を言い もう一方で 永遠を見つめることを言っている。言いかえると わたしたちも捉えてきたように そのような矛盾構造を しかしながら言うなれば想像(その力またその世界)において一個の完結した・またその意味で閉じたイメージとして持ってしまっている。
同じことで言いかえると 一方の人間凝視の姿勢の中にも じつは一般的に言ってももう一方の永遠を問い求めるという行為(観想)は含まれざるを得ないのだけれども 遠藤の場合は 今度は逆に無理にでも そこで なおむしろ変な人間凝視を つまり 単なる人間の観察にしかすぎない姿勢として つらぬくことになる。ほんとうは そのときには ストレートに――といっても 《永遠》の像をではなく 人間の理性的に争われるべきどうでもよい真実の議論として―― たとえば教訓というかたちで 思惟するところを表現してしまってもよいのです。あるいは 登場人物のひとりにこれを主張させてもよいのです。そういうことになるかと思うのです。
これをしないと かの《永遠》のイメージは むしろそれに対するこの人間のどうでもよい世界のただの自覚となって それは 同じことで人間の自己の罪人たることを 反省的意識において ある種の限界として したがって 一個の閉じられた倫理=心理=道徳の世界に一生しばられて――むしろ自己をそのようにわざわざ縛って――生きていくことになる。あたかもキリスト・イエスがそうせよと言ったと言わんばかりに。
先に取り上げた《わたしが棄てた女 (講談社文庫)》という小説の中では このちっぽけな倫理世界の製造を ひとりの《修道女》がになうという恰好であるのです。
一修道女が 《わが信念》を自由に語ることは ふつうの小説です。ところがこの作品では すでに引用したように この《修道女の感懐》を 主人公の《ぼく》に関係させている。

もし この修道女が信じている 神というものが本当にあるならば 神はそうした痕跡(主人公において《Bの女》であった森田ミツが かれの内面的な同伴者となるような出来事)を通して ぼくらに話しかけるのか。
わたしが棄てた女 (講談社文庫)

というように。そしてこの一節は 物語の最終に置かれています。もし 作品執筆じょうの注意としても述べることがゆるされるとすると じつは 問題は 《ぼくらに話しかける》という出来事が歴史したなら この真実の歴史から ストーリはすべて出発するはずなのです。そうでないと それは ただ 最終の結論として じつはありもしない倫理的な想像世界を 読者や作者の自己の顔のおおいとして 人びとよ着けなさいと言っているに等しい。
これは 人間凝視の義務が 単なる経験的な人間観察の姿勢にすり替わっただけではなく 最終的に 永遠の凝視などとさえ言い張るにもかかわらず なおありもしない想像の押しつけを じっさいには教訓としている。キリストは――それを永遠の存在と言うことはできるそのキリストは―― 心理や想像力ではないというのが カトリック者でなくとも 常識であるからです。また この常識が 人間の矛盾構造であったのですが 遠藤さんはむしろ この構造を 想像と倫理による人間の閉じられた一元世界に押し込めようと意図しているとも捉えられかねない構成が それぞれの作品のそれぞれの仕立ての中にうかがわれるといわれても ためにする個人攻撃であるとして反論することは難しいのではないか。
きだみのるの名著《気ちがい部落の青春――ある高校生のアヴァンチュール――》では 次のように 《永遠》の問い求めの局面でも 人間凝視の姿勢がつらぬかれている。つまり人間凝視が《永遠》の問題にかかわるときには 確かに教訓ようのものが 自由に主張されるという恰好です。それでいいのです。なぜなら 誰も《わたしが永遠である》などとは言ってはいないし 言うつもりもないのですから。

クラスの者たちは 牧さんに一斉に何か言おうとして相談していたので運動場の中ほどまで来たとき 皆は叫んだ。
 ――マキトオルウ オメエハエエオトコジャナァ。
牧さんは秋の日の降っている校庭から窓を笑いながら眺めた。それから校舎の前で自転車を止めた。
私たちが驚いたことに 牧さんはそのまま教室に入って来て言った。
 ――みんな元気だなぁ。
そこへ先生が入って来た。先生は 牧さんに短い話をしてくれるように頼んだ。牧さんは教檀に上がらずに私の机の端に腰かけたまま話しだした。
 ――兎は臆病だが足は早いなぁ。猟師だって猟師の犬だって 追いつけないだろう。それなのに猟師は兎を取ってくる。なぜだろう。知ってるかね。
そういうと牧さんは私の返事を促すように私を見た。痩せ馬というアダ名の生徒が答えた。
 ――知ってらぁ。兎には通い道というきまった通り道があるべぇ。犬に追われて兎はその道しか逃げねぇのよ。だから猟師は杉林の中や雑木林の裾でその通い道の傍で立っていれば 兎はそこを通るから うたれるんだよ。
 ――そうだ と牧さんは答えた。ところで僕には一つ解らんことがある。猟師が待ち受ける場所は沢でも 平でも 河原でも 峯でもきまっている。僕は兎うちには猟師の三造さんといっしょに行くんだが 犬が兎を追い出して啼きながら追いはじめると 彼は私をここで自分はも一つの場所でと兎の出そうな二つの場所を選んで待つんだな。するとそのうち兎はそのどっちかに出てくる。兎は自分で通い道を作ることがあるかも知れないが 本当は先祖代々に同じ道を歩いているんだろう。ふだんだったらこの道は兎の敵である鷹とかいたちとかから兎を守ってくれる。しかし猟師という例外的な人間が現われると この安全の道は死の道になるんだ。ところで 君たちの日々の暮し方はどうだろう。子供の暮し方は兎の通い道のように昔からずっと同じじゃないかと思う。青年は彼等が子供のとき 当時の青年に教わってやったことを君たちに教え 君たちは 青年になるとまた次の子供に教えるのだ。正月には門松とシメナワを焼き 夏には西瓜を盗む 昔の子供のような親孝行をする。しかし君たちの世の中は 前の世の中とはずっと違っている。よい生活 つまり君たちの持っている才能を一番よく発揮できる生活をするには 兎のように先祖代々の道を歩いた方が好いかどうか考えるんだな。
 わからないことがあったら こんどきたときもそう言いたまえ。僕はこれ以上 君たちの勉強の時間に食い込みたくないから。
牧さんの話はそれで終った。私は牧さんが西瓜盗みの話にふれたときひやりとして首をさげ小さくなったことは云っておこう。
きだみのる:《気違い部落の青春》(六))

主人公たる《私》が 村の或る兄貴分に誘われ 《伝統的な行事》たる《西瓜盗み》に初めて参加し その成功物語を《牧さん》に語ったあとのちょうど出来事である。ここでは 人間凝視が人間観察にすり替わることは出来ない。《越えるべからざるものを越えてはならぬ》という想像力の倫理に 想像において・つまり そうして同伴者イエスを抱いて 服従するということも 結局おなじ罪だということが言われていると考える。
倫理を知っていればいいということにはならないのは 当然であるけれども この倫理に服従して正しい行ないをしていればよいというのも 虚偽をまぬかれず むしろその論理規範たる《同伴者イエス》を想像において抱きつづけることは まちがった信仰であると考える。
それでは 《牧さん》が ここに聖十字軍を結成して 罪人たちを退治すべく魔女狩りに出向くかというと それは 別問題である。人間凝視の義務をつづけるのである。そこで 教訓を主張することも ありうる。西瓜盗みの罪は覆われた おおわれるであろうと信じると 言葉を自由に語って 人間凝視をつらぬくことはありうる。これは 《越えるべからざることを越えてはならぬというマルクスの言葉はわが信念だな》と語って 実現するというわけにはいかないことは 中学生でもわかっていることであるが 信念を守りとおしたなら罪はおおわれるということにもならないのではないか。
Aの女・マリ子の愛は得られるかも知れないが Bの女・ミツの愛はついに得られないであろう。しかも吉岡くんは 《神が話しかけたのではないか》というように ミツのほうに実際には愛があると悟りかけて 物語は終えられている。つまりマリ子との愛は どうでもよい愛だと悟りかけた。

  • だから これを解消せよというために またそのつもりで 言っているのではない。《どうでもよい》の意味は すでにわたしたちに自明である。

言いかえると 《兎の通い道》つまり《伝統的な》《海》から 《太陽》を想像において《同伴者イエス》として抱くことが 問題なのではなく 太陽によって海を航く 罪への快活な恐れをもって愛がつづくと 牧さんやランボーあるいはマルクスとともに わたしたちは かんがえているはずである。
これは 押しつけでないのではないが ストレートにして自由な押しつけであり 言おうと思えば 遠藤さんのそれは 陰険な押しつけである。わたしたちももし 陰険にならなければならないとするなら こうこたえるであろう。遠藤の手法から行けば かれは そうだ そうなのだ だから あの森田ミツこそ神に等しい愛の同伴者なのだ わたしはそう言いたかったのであると答えてくるだろうということである。
わたしたちは 人間・森田ミツの愛は どうでもよい世界に属していると語ったのである。言いかえると 遠藤さんやマリ子たちは どうしてもあの《兎の通い道》をそのまま おとなしい善良な人間として・その意味で奴隷の精神となって保守したくてたまらないと言いたげなのである。それには 森田ミツや街の女たちや《気違い部落》を自分たちの踏み台にして かれらを新たな犠牲としてまつり上げ すでに犠牲となったキリスト・イエスを 自己の想像の倫理において盾とするのである。

§11 《キリストの誕生 (新潮文庫)

《安全の道》である《兎の通い道》は 《律法(これを守ること)》という言葉に当てはめて捉えることができます。また律法つまり想像による倫理的な規範 これを持たない人びと 善良な《Aの階級》の兎であるのではない人びと これらの人びとは 《異邦人》(つまり ガイジン)ということばで呼ばれていました。このような概念での遠藤さんの議論は 次のように始まります。

生前のイエスはたしかに律法を守り 神殿にも詣でユダヤ教徒の生活を送った。そしてユダヤの外へ出ず ユダヤ人のみを相手におのれの思想を語った。だが他方 その行動においてはイエスユダヤ教の律法を越えようとするものがあった。《人は安息日(つまり《安全の道》)のためにあるに非ず 安息日こそ人のためにあるなり》という言葉は 愛のほうが律法よりも神殿よりも高いという彼の意志を示している。
・・・
ユダヤ教の信徒として生活したイエスか それともユダヤ教を超えるイエスか。この二つのイエス観がはじめは混乱しないで信徒たちに受け入れられたが 異邦人の問題を契機として分裂したと言ってよいのだ。
だからユダヤ教の完成者――つまり旧約の完成者としてのイエスをとるか あるいはユダヤ教を超える愛のイエスをとるか この二つが《異邦人問題》の問題とも言えるであろう。
キリストの誕生 (新潮文庫)〈第八章 弟子たちとポーロのちがい〉)

わたしの考えでは 《Aの女とBの女》の区別や《男のウソと女のウソ》のそれがなかったように 《二つのイエス観》とはどういうものであるか 実際にはわからないのですが ここで この《キリストの誕生》という作品の〈第八章〉の題名にあるごとく 上に言われた《〈異邦人の問題〉の問題》は 遠藤さんの《パウロ(ポーロ)観》にかかわってくる つまりそのように角度を変えて論議することができる。
つまり こうです。作品《気違い部落の青春》の中で 《牧さんあるいは主人公の一家》は村の人たちにとって《異邦人》であるのか。《気違い部落》は 一般の日本人にとって《異邦人》であるのか。《Aの女や男たち》にとって Bの人びとは異邦人であるのか。異邦人に教訓(いや福音)を述べ伝えようとしたパウロは 兎たるユダヤ教徒にとって 異邦人であるのか。キリスト・イエスの《弟子たちとパウロに違い》はあるのか。

とりわけポーロの場合は長年の間 自分が学んだユダヤ律法の限界に苦しみ それを超えるものとしてキリストを選んだからだ。律法を守ること それは逆に罪を知ることである。律法に拘泥すること それは逆に罪に際限なく縛られることにもなる。そう考えたポーロは律法を超えようとしたキリストこそ主なりと信じたのである。彼にとっては生前のイエスなどもう問題ではなかった。キリストのみが問題だったのだ。律法にこだわり 異邦人布教を拒絶しようとする者は彼にとって《にせ兄弟》(ガラテア人への手紙2:4)にしかすぎなかった。
我々日本人にとって縁遠い《異邦人問題》もこのように原始キリスト教団における二つのイエス像の相克と考えれば 問題はわかりやすくなる。
(同上)

と遠藤は言っている。これはそのまま作者・遠藤の見解ととっていいであろう。だがここで やはり遠藤が 初めに矛盾構造であった世界をまたしても 閉じられた一元にもってゆくのをわたしたちは 見ないであろうか。キリスト教の教義のことはわかりませんが ここで あの人間凝視が 単なる人間観察になっている・つまり同じことで 永遠観察のようなものに仕立て上げられたと考えます。
キリストは この世に属しておらず 肉である人間イエスは この世のどうでもよいちっぽけな――その限りで遠藤さんも言うところの《無力な》――存在であるというのは 初めの大前提であったのですから。つまり矛盾構造という出発点の中味であったことです。どうしてこの構造を 想像において 閉じてしまうのでしょう。
もしわたしたちが 遠藤さんに異を唱えるだけではなく このように 盾突いているとすると それは 遠藤さんは 部分的にはわたしたちと同じ見解を主張しているからです。確かにわたしたちも無力であるから 言葉において反論することだけはしておこうと思うわけです。
だが 同じ見解をいちいち述べ立てても始まらない。ちがった感想を持つことを明らかにしていくことが ここでの任務であり 散文家の問題(=カトリック作家の問題の問題)であると考えることになります。
パウロにとって 《律法にこだわり 異邦人布教を拒絶しようとする者は 〈にせ兄弟〉にしかすぎなかった》というのは 仮りにそうであったとしても 《異邦人問題》でも何でもないと考えます。言葉のうえからは 同じパウロがこの書簡ですぐあとに 

この人たち(=にせ兄弟たち)が そもそもどんな人であったか わたしにはどうでもよいことです。
ガラテア人への手紙 2:6)

と述べています。だがわたしの考えでは この《にせ兄弟たち》とは むしろ《異邦人問題》など存在しないと固く考えている人たちではないかという気がします。
わたしは遠藤さんがそうであると言うつもりは十分にあるのですが かれはこのにせ兄弟たちと違って 人間凝視の義務を放擲しないという姿勢で出発しています。だからあの森田ミツ問題つまりそういう《わたしが・棄てた・女》としての異邦人問題の論争においては おそらく わたしたちと同じように 異邦人問題は存在する つまり逆に言うと 兎の通い道たる安全の道に従う人とそうでない人とのへだたりは 存在しない と考えるものと思われます。そのあとに 見解の相違が残るとしたなら わたしたちは この安全の道を越えるかも知れない罪への快活な恐れをもって 矛盾構造として生きているゆえ 分け隔てが存在しないと考えるというに対して 遠藤さんは それはそうだが この矛盾構造は 同伴者イエスという復活のいわば大方の人々による共同想像において いわば保たれると反論して来ることにあるでしょう。
わたしたちはこれに対して 想像の倫理は どうでもよいことであり その共同想像(心理的な倫理規範の共有)は なお新たな兎の通い道を作るだけだ 言いかえると この新たな安全の道が 旧いそれと同じように 死の道となる つまり律法の限界に縛られて一生を罪人として送る死へつながっている以外にないと答えたのでした。人間は 兎ではないというわけでした。
これは わたしの考えでは パウロと同じものであり そればかりではなく 他の弟子たちつまり象徴的にペテロとも同じであると思うというわけですが 遠藤さんは これに一見解をしめして 次のように言います。

迫害をひとつひとつ誇らしげに数えあげたこの述懐(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)11:23−27)にはポーロの倨傲な性格がよく あらわれている。このような告白をする人間はおそらく烈しい自尊心と闘争心の持主である。それゆえにまたその信念は強く その信仰も強かったのだ。おそらくこうした性格ゆえに彼はバルナバと別れ ペトロと争ったのだが しかしまた その性格ゆえに七年間にわたる苦しい伝道旅行もやりとげられたのである。だが逆にこの彼の性格のために傷つけられた善意の人たちも多かったのではないだろうか。
キリストの誕生 (新潮文庫)〈第十章 すべての路はローマに・・・〉)

わたしたちは すべからく兎であるべきだというわけです。こうなると まさに水掛け論の個人攻撃であって そうしてわたしたちも この議論を取り上げている限り その罠におちいっているのですが そもそも じっさい 人間凝視の自由な論争とは そういうことを その罠の入り口までは ともなうものなのです。
あの《牧さん》も どうしても教訓を述べなければならないような場面にいくつか遭って来た人物であり それゆえに 生徒たちからは 《マキトオルウ オメエハエエオトコジャナア》といった個人攻撃的な嘲笑を受けなければならなかったとも考えられます。この生徒たちの中に 《にせ兄弟》がいたかどうか それは 牧さんにとって どうでもよいことなのでしょう。また 中には《牧さん あなたの考えは ぼくと同じだ》という生徒たちがいたとすると かれらも 決して牧さんに服従したというわけではなく 自分の意見を確認したにすぎないのですから。
このとき――もしわざと神秘的な表現で述べようとおもえば―― ある種の仕方で 《義の太陽が昇り かれらの内にある虚像が焼き尽くされる》のを確認したということだと誰かが説明したとしても 決して心理学の安全の道を 不当に超え出てしまったことにはならないでしょう。この意味で・つまりウソが焼き尽くされるという意味で その時には バツの悪い思いをし 《傷つけられる》ことは ありうるし 実は あっても 一向にかまわないわけです。
そのゆえにしも 誰も牧さんを《倨傲な性格》の人であって 《その性格のために善意の人びとを 傷つけた》と言う人はいないでしょう。
(つづく→2005-11-09 - caguirofie051109)