caguirofie

哲学いろいろ

#8

――遠藤周作論ノート――
もくじ→2005-11-03 - caguirofie051103

悪霊の午後》論ノート

§14 悪霊の午後

《あなたの知らない / もう一人のあなたを / ――そっと / 教えてさしあげます // 長編サスペンス》(単行本の表紙の帯に記載)と銘打った長編小説:

悪霊の午後

悪霊の午後

遠藤周作のもっとも新しい作品(1983年4月現在)です。
この小説には 《校正を見終わって》作者が述べた《まえがき》が付けられている。いわく――。

この小説は今まで私が書いたエンターテインメントとは非常に趣を異にしていると思う。新聞連載中も読者からその疑問を手紙にもらったことさえあった。
私はこの小説をユング影の問題から刺激をうけて書いたことを率直に告白したい。我々の心の奥には世間でみせる我々の顔とは別の秘密の顔がある。それを当人さえ気づかぬこともある。その秘密の顔は無意識に抑圧された ある意味で本当の顔だが しかしそれを表面に出すと我々は社会的に生きていけない場合もある。ユングはそれを影といった。
ジキル博士とハイド氏》の話は有名だが しかしこれは人間誰にも存在する命題なのだ。この小説はある意味で私の《ジキル博士とハイド氏》である。
悪霊の午後 〈まえがき〉の全部

わたしは これを見てはじめ ついに遠藤さんはその正体を現わしたかと思ったことを率直に述べておこうと思う。
しかし 事情はちがわなかった。
まず遠藤の奮闘ぶりを買うと こう言える:遠藤は この作品によって あのわたしたちの言う矛盾構造を 真に見据えようとした だから 想像における安全の道の一面化を脱却しようとつとめている。想像におけるキリスト教(たとえば《同伴者イエス》の像の心理的・倫理的な共有)なる顔覆いを 取り除こうとしておられる。生活の営為を表わした作品である。
われわれの遠藤周作論ノートは ここで趣きを異にする。


一口でこの作品の性格を語ろうとおもえば すでにわたしたちも取り上げて論じた《悪魔》の問題を 具体的に経験的に 教訓を交えつつ 扱っている。題名の示すとおり 《悪霊》の問題を――つまり《何もない夜》(その力)あるいは 虚偽のウソの問題を―― あの人間凝視の仕事として みづから闘いこれを 経験的に描いてみせた。開かれた 動態的な過程としての矛盾構造がよく描かれた。あの罪を――つまり《秘密の顔》を――見せない・言わせない・聞かせないとして 矛盾構造を閉じるのではなく よく登場人物のそれぞれの人間を見つめきった。

  • 他の作家や評論家は この書物の批評において あまりこういう表現をしないと思う。一読者の立ち場からは こういう偉そうな物の言い方が いちばんふさわしいかと思う。

ここで 《悪霊――または悪霊なり首長(かしら)に仕える悪鬼と言ったほうがよいかも知れぬ――》たる人間は 南条(西川)英子という一女性であり その内容は次のごとく はっきりとその定義があたえられる。

いわゆる世間でいう悪女というやつですな。悪女というのは悪いことをする女とは限りません。悪運をまわりにばらまく女という意味です。しかし彼女が意識的にそんな行為をやるんじゃない。彼女がいるためにまわりのものの何かが狂うと言ったほうがよい。
・・・
一言で言うならば その女性は まわりのものが日常生活で抑制しているものをよび起こす力があるのでしょうね。つまり我々は自分の意識下にいろんな本能や欲望をかくしているでしょう。・・・そういう抑えつけたものが 彼女に出会うと噴出してしまうのです。噴出したもので その人は目茶苦茶になるのです。
悪霊の午後 〈過去〉の章

それで私は英子さんはそのような潜在欲望を人の心に触発させる能力をもった女――これを学術的にはネクロフィラストと言うのですが――そんな女ではないか〔とあの時は考えたわけです〕。
(同上:〈渦〉の章)

などなど。
わたしはここで この具体的なストーリをいくらか――あるいは大幅に――抽象して 議論を続けたいのです。
作家自身が《趣を異にする小説》だと言い われわれも この評論ノートの趣を異にすると言ったのは 本質が変わったわけではない。趣きが変わったのは 矛盾構造を一面化していたのを 構造的に見つめようという方針の転換があったからである。言わば ここで誰もがみとめざるを得ないところのこの大前提に 共に 立ったのである。そういう局面転換である。
しかも本質(存在)が変わらないというのは 兎の安全の道を――すでに一面的ならざるものとして――なお問い求めている もしくはこれに縋ろうとしているからである。どういうことか。
想像における《同伴者イエス》なる一面化を――それは 《Aの女とBの女》との二元論ないし二階級論を その反面で表わしていたこれを――回避しつつ この経験的世界の中でのみ あの矛盾構造を見ようとしている。これである。つまり この作品で描かれた構造的な動態――要するに生活――は 《この世のどうでもよい事柄と この世に属さないどうでもよいのではないもの》との立体関係ではなく そうではなく 前者の《この世の経験界》の中での二局面構造に変換したからである。
要するに 《世間でみせる我々の顔》=意識と 《秘密の顔》=無意識=潜在欲望との二段構えに変わったし それにすぎないとまずは言わざるを得ない。けれども 無意識・潜在意識とは この世の人間的な 可変的な 経験的などうでもよい事柄に属している。
はっきり言うと 悪霊たる南条英子 つまり 人びとの潜在意識を顕在化させる力のはたらき これを作者は 結局において 肯定しているかのようである。これは 言われるように あのユングの基本的な特徴であるものである。

  • 三位一体の神――要するに《復活》――に 悪魔をくわえて 四位一体の神にするユング心理学精神分析)への批判については 河合隼雄《昔話と日本人の心》についての書評で軽くあつかったことがある。→§34以下:2005-11-23 - caguirofie051123

ここで なお この作品を取り上げる価値があると思うことには 反面で ヒロイン南条英子の悪霊の力に抗する力が 描かれていることにある。ヒーローである作家・藤綱は この英子の誘惑に対して――もしくは 藤綱じしんの中にある虚偽のウソの力に対して―― あらがい かれは その妻・慶子の《愛》によって これに打ち勝ったと ストーリのもう一つの基調は述べているからである。
この――ここでは 夫婦の――愛についてわれわれは 検討してみなければならない。基本的な大前提としては 人間の愛 これはこの世のどうでもよい事柄である。復活=真理の愛は どうでもよいのではないものである。これであった。それらのこの世での絡み合いがもしあるのなら そこに 問題もその解決の焦点もある。
人間の愛には ウソがありうる。復活の愛には ウソが欠如している。(そういう定義である。)しかも後者は 単に意識し認識する論理上の事柄にとどまらないとするとき そのことによって この復活は この世のわれわれにあたかもはたらきかけてのように われわれの罪をおおうであろうということであった。虚偽のウソから来る罪がおおわれるということは この経験的な出来事が 意識および無意識を超えて 経験の世界には属さないものに関係づけられるということだ。
すなわち ここで 慶子と藤綱との人間の愛が 人間の意識および無意識の出来事を超えて すでに復活の愛に関係づけられていると見なければならないことなのである。
われわれの議論は このようにその焦点の趣を変えて 再出発しなければならないであろう。


人間の潜在意識=《〈何もない夜〉の力――何もないとは 真実がなく どうでもよいということであり それが 現象していないというのではない――が 〈火の中の昼に仕える〉》つまり要するに 《何もないものがそのまま何もないとして把握されてゆくこと》といった内容の潜在意識のことが ここでは確かに捉えられているのである。
なおかつ その仕事の視点の本質は 変わっていないというのは 単純化して言えば 次の一点の理由による。慶子の愛――または 立ち場を変えて 藤綱の愛――は 英子の愛(悪霊も 人間の愛であると自身を示してみせかけることが出来る)に勝ったが 藤綱じしんは――あるいは 慶子じしんは―― まだ勝利をおさめたわけではないということ。そういうことに この作品では なっている。実際そうなのである。
なぜなら 作品の最終章〈大団円〉では 藤綱は(あるいは慶子は) 英子の愛を振り切ったが 英子じしんは――つまりその存在は―― なお元のまま 存続している そう描かれている。だからである。つまりこの最後にも あの勝利を――つまり想像における《復活》の像の共有ではなく 想像をとおして《わたし》が復活するというその教訓を―― 言い出すべきなのであって 作家はここで この点には、無関心となったからである。

§15 悪霊の夜

教訓が描き出され表現されたなら 事はすべて終わりとなるのではない。むしろ仕事は つづく。なお快活な恐れをもって。
しかしながら 教訓をとおらないでは 仕事はまだ着手さえされない。慶子または藤綱の人間的な愛をとおして 英子の悪霊的な愛に抗したというとき もしその勝利のようなものを なお想像において保持しようと思って その後は英子の存在に無関心となることは あの復活の愛に関係づけられたのではなく 関係づけられることを望んだことであり それは われわれの仕事に着手したのではなく 仕事を持つことを望んだにすぎないからである。かれらはまだ教訓に出会わなかったことを意味する。
どういうことか。
遠藤さんは 《悪霊の午後》を描いたのであって その黄昏と没落をまだ見なかった。そしてその夜つまり最終的な死をかれは 描ききれなかった。これは持ち越されたのである。
しかもわたしたちにあっては 矛盾構造が生きた動態となって あの仕事が 快活な恐れをもって続くとき このことは 徐々に たとえば自己の内なる虚偽とそしてその力の拠って来たる悪霊が 朝から昼へそして午後をとおって 夕になり ついに夜の死に至るということを意味せず そうではなく あの教訓そのものにおいて・またこれを通して その最終的な死が信じられることを意味する。(あえて言えば 一瞬のうちに悪霊の死が信じられるということを意味する)。こののち 時間的に 虚偽がおおわれ 虚偽からもたらされた傷が癒されてゆくのである。

  • とげが抜かれるのは――抜かれたと信じられるのは―― 一瞬の出来事であり その患部が癒えるのは その後の時間の経過とともにである。われわれは 大胆に自由に そのむしろ信仰の一瞬を描いてもよい。教訓なら教訓 詩なら詩 なんらかの表現があるはずだ。

けれども 人の生活が 朝から昼となり夕となって 現象じょうの夜をとおって また次の朝を迎えるというのは 経験世界の法則である。この経験的な出来事で すでに実は 夜へは渡されないというのが 教訓をとおしての復活に関係づけられたことである。言いかえると この意味で わたしたちのあの仕事は むしろ夜から始められるのである。快活な恐れをもってである。その逆の順序ではない。
悪霊たる英子の 午後から黄昏へそして夜への移り変わりを じっさい 観察することによってではなく これを すでに 夜から始めて 凝視すること これがわれわれの仕事である。われわれがその罪がおおわれてあるのであって 朝から昼そして夕となり しかも夜へは渡されずに次の朝となるということは  そのようにわれわれが復活に関係づけられていることでなければならない。太陽によってこの海を航くのである。だからわれわれは心が清められなければならなかった。
すでに新しい一日がはじまっていることでなくてはならない。われわれは この肉体の意識および無意識の重さによってこの世にあっては抑圧されており 義(復活・自由)とされないが なおかつ信仰によって義とされると聞いたのである。これは 神秘ではあるが この人間のなぞを凝視しないことのほうが もっと神秘である。
遠藤は この作品によって この経験的な世界の神秘とその謎を もっと濃くしてしまったとしたなら 問題である。悪霊の《午後》の情況までを描いたのだからいいではないかという一面の見方を一方において 問題である。謎をいくらかは描き出したというのではなく 余計に濃くしてしまったとするなら 問題である。
朝から昼となり その午後から始めて 夜つまり虚偽とその死を願ったが そのときには むしろ夜から始めて 全体として新しい一日をもって この隠れたところにある真の神秘じたいを 明るみに出すこと これがわれわれの仕事であるにほかならない。虚偽またその死から出発するのであって 虚偽の死を想像において人びとよ まじめな兎となって 認識せよ ということには なお人間の神秘(?)しかない。これによっては 謎がいっそう濃くなりはしないかという不快な恐れがある。
こういう作品なのである。
われわれは容易に この小説は棄ててしまうことが出来るが 遠藤周作論ノートは その部分的に一致する見解についてはいざ知らず そのかれの欠陥はこれを徹底的に憎み棄てるというのが 最初にこれを着手した出発点であった。

われらが存在の一つの像としての 意識と無意識つまりここでは《ジキル博士とハイド氏》 これは あの矛盾構造を その想像において一面化へ追いやらないところの 一個の動態である。しかもここには なお真の意味の構造や動態はない。なぜなら 秘密の顔たる無意識とかハイド氏の部分 これは なおこの世のどうでもよい事柄に属している。想像における顔蔽いを説くのではないが なお全体として 平面にとどまっている。
ここに 構造・矛盾・動態を見ようとおもうなら 藤綱と慶子の夫婦愛にある。けれども この人間の愛もなお どうでもよい世界の出来事である。従って この人間の愛に これら平面構造がみちびかれるというのではなく もし人間の経験的な愛がどうでもよいのではない復活の愛に関係づけられるというのなら この人間の愛から始めて 平面構造(?)の中へ近づくべきである。復活は歴史したと聞いているからである。これが 《あなたの知らないもう一人のあなた》の神秘つまり現実なのである。遠藤さんの欠陥を徹底的に憎むという私たち読者の愛が 語らしめるのは この帰結だと思うのであり 一考すべきであろう。
わたしは これによって 英子を無視せよ かのじょに近づくなと言ったであろうか。人間の――そしてもっと自然本性としては 男の――愛をもって 対処せよと言ったのである。
しかも越えるべからざるものを越えよと言ったのではなく これを越えてしまう虚偽への快活な恐れをもって つまりこれをすでにわれわれは持っていると言ったのである。あたかもそして この越えるべからざるところを越えてもよいと考えられるのは その罪がおおわれるときである。外から来る観念の姦淫なる罪のばあいもあるであろうし じっさいの姦淫にまで至らないとも限らない。しかも正当にこの罪がおおわれると観念されるのは 夫婦愛においてである。だれがこの現実を 想像において安全の道=律法を守るために守って 厚かましくも 慎めと説くであろうか。
じっさい藤綱は すでに結婚生活にあるのだから別としても 英子はここで夫に死なれている身であるから かのじょ自身も われわれとともに 罪のおおわれることを欲するなら かのじょに近づかない法はない。婚姻の純潔は 意識・無意識の両方の欲望を善く用いると考えられる。これ以外に 人間凝視の義務はないと思われる。
われわれは 《悪魔は はじめから真理の中にいなかった》(ヨハネ8:44)と聞くが この《はじめから》というのは 時間的存在としてつくられたその始原という意味ではない。というのが わたしたちの人間学になる。
したがって 物語の中で ヤッセン神父はこう話しかける。

汚れたる霊よ。何らかの徴(しるし)によって我に告げよ。汝の名と汝の堕地獄の日時を。
悪霊の午後 〈闇〉の章)

《はじめから真理の中にいなかった》が 《真理の中にいなくなった》日時があると考えられる。わづかに この神父のこのような仕事は われわれの生活日常のあの《仕事》の 教会制度にもとづく職業じょうの専従者としての仕事であるという違いである。われわれの生活日常の仕事とは あたかも兄弟として あるいは 一人の男がその夫として 自然本性を 想像において回避することなく つきあい 生活することである。
この悪魔の罪は すでにおおわれたとわれらは聞いたのである。だれが 女性を 歴史の共同相続人から遠ざけようか。
もし復活は そして人間の復活が しかもふたたびの堕地獄 つまり第二の死へしかみちびかれないためにこそ あるとしたなら しかるべく経験的な出来事としても歴史するであろう。
だからといって われわれは その仕事をほっぽり出して この英子なる一女性を 無視せよと かのじょに近づくなという想像上の経験法則(律法)によって 異邦人あつかいすることはゆるされていない。キリスト教なる制度じょうの慣習によって 慣習じょうの専従化された仕事によって 対処するまた葬ることも ゆるされないのではなかろうか。
しかも今ある(そしてつねに動態的に変革されてゆく)法律を用いて これに対処するのは どうでもよい世界の有り方として それも当然のことである。
この矛盾構造の動態化――それは 経験的な夫婦の愛・男の女に対する関係を基軸とすると思われる――が 歴史的な現実であり 人間の真実である。つまり 普通の生活である。
ここから出発しているのであって その逆の順序ではない。
けれども この人間学は その仕事を専従化したキリスト教(その宣教)をとおして 隠れたところから明るみに出されたのである。歴史的に世界史的に そうだったと見られる。この仕事は キリスト教の伝えられる前にも 少なくともその隠れたところで 生活する人間に明らかであった。したがって次の課題としては 非キリスト教の世界において これが布教されるという時期の歴史として そこに人間凝視の義務を さかのぼりつつ つらぬかせて 捉えるという仕事がつづくであろう。遠藤周作論としては 戦国時代ないしその後の隠れキリシタンの時代をあつかった《沈黙 (新潮文庫)》等々の作品が 対象となる。

(つづく→2005-11-11 - caguirofie051111)