caguirofie

哲学いろいろ

#27

もくじ→2006-12-23 - caguirofie061223

l'icône de la Trinité d'André Roublev

第一部 インタスサノヲイスム(連帯)

第十五章b 予備軍の解放のあとは 従って《本史から前史に臨み後史として進む》である)

――ふたたび 《前史》たる少年時代の回想――


ここんとこ数章は 議論が先行していたので ふたたび アウグスティヌスの《告白》の文章にもどろう。そしてふたたび 現在の告白から 過去の自己の省察にもどろうと思う。なぜなら 《本史》から前史に臨み 後史をもって 前史を革命的に転換させて(過去の自己の再省察――死者の復活を経て)引き継ぐことが 内なる人の秘蹟にかんしては われわれに要請されている。むろんこの内なる人の自己修練が 外なる人と同時一体である また そうでなければ何の価値もない。
なおこのテーマは 次章へと途中でつなぐかたちになると思うが ふたたびアウグスティヌスの少年時代にもどって その第一巻第十一章を取り上げたい。《病いあつく 洗礼を乞うたが 母モニカは或る思慮にもとづいて延期した》と要約される一章である。
すでに触れた(§10)ごとく この第一巻第十一章の前後の諸章は 《勉強が嫌いだった》といったかたちのテーマで告白される内容を持っている。しかるに この章は 上に示したごとく 別の主題を――むろん事実そういう事件があったからだが―― 回想して 差し挟んでいるところである。
この第一巻第十一章の主題に沿って われわれが考察すべき課題は 二点あると思う。一点をここで取り上げ もう一点をわれわれの次章で引き継ごう。
二点の課題とは 少年アウグスティヌスにとって 神(ないし自己)との関係 そして母との関係の二つであり 前者をまずかんたんに取り上げる。

私はまだ子どものころ 主なるわれらの神が傲慢な私たちのところまでくだりたまい その謙遜によって永遠の生命を約束なさったということを聞いていました。私は あなたに深くたのんでいた母の胎内を出たときからすでに 主の十字架のしるしを受け その塩で味つけられていたのです、
(告白1・11・17

これが 第十一章の書き出しです。
人間の存在が 始めあるものなのと同じように かれの信仰にも――共同主観の形成の 自覚的にしろ無自覚においてにしろ 開始にとっても―― 初めがある。すなわち 神(ないし自己)の――あたかもなお無自覚の中におけると言うべき・つまりなお神の手で蔽いをかけられていると言うべき状態にある中の――自覚は 人に時間的に生起するのである。《罪を犯し》(告白1・10・16)ていた少年時代 次に見ようとするように 《病いあつく 洗礼を乞うた》一事件があったが これを思い浮かべるとともに この自覚の生起が この時代にまでさかのぼるということを回想する。むろん 苦しいときの神頼みで 神を問い求めようとしたそのことに 神を見出し始めたのだなどと言っているのではない。また わたしたちも そのようなことを言おうとしているのではない。どういうことか。
この点が この神ないし自己との関係それじたいにおいて 他者との関係(つまりここでは母モニカとのそれ)と深くかかわっていたことを証し さらにこれが反転して 自己ないし神との関係なる前史を 後史もしくは本史とするという心の転回につながるものなのだと思う。
前史において つまり負のかたちにおいて すでに自己と他者(このばあいかれの母)との関係の中に 互いの共同主観形成が始まっていた。少なくとも その場(やしろ)が問い求められていた。主観の共同性――互いに独立主観において だからそれぞれ個性をもった主観として 多様性においての共同性―― これは ここにある あそこにあると言って目の前に差し出されて認識するものではなく たしかに 動態であるに違いない。その過程 Prozess が始られていたなら 始められていたということは 人間の共同性の仲介者がすでにはたらいていたということに他ならない。むろんこの仲介者を 人間の内にある力と考えて一向に差し支えない。それでもそのとき つまり前史においては かれはまだ自覚していないのである。
自覚していた範囲のことが 後史からは(または本史からは)なお無自覚であったと知らされることになる。したがって この仲介者は たしかに愛(なぜなら 愛は 或る二者をつなぐものである)と呼ばれるのは ほんとうであるに違いない。愛は 一般に幻想であるが――なぜなら 或る二者をつなぐものは じっさい 必然や欲望であったにちがいない―― しかもこれが反転してのように もしあのアマテラス予備軍・すなわちこの場合特に禁欲の《精神》あるいは純粋の見せかけの精神 さらにすなわち情欲やその必然でもってもつながらない・ついに関与不可能な存在としてわれわれが なんらかの形で譲歩しなければならないその精神 これに対してなおわれわれが そこに 関係の絶対性を見る または見なければならないとしたなら この絶対的な関係性をわたしたちに見させるその仲介者なる愛は 現実の力であるというのは ほんとうであるに違いない。
われわれは アウグスティヌスにとって 《熱心なカトリック信者》であった母モニカが このような精神として 関係していた すなわちむしろ 自己が その関係の中に 関与不可能な存在としてでも 現実に関与していたことを 知るのである。アウグスティヌスは このことを語ったに違いない。
だから いまだ負のかたちにおいても つまり前史として 母モニカとのあいだに たしかに共同主観形成がすでに進行していたのを 後史から見出し 告白したと知るのである。これを図式的に言うと 告白 confiteri が 神の讃美 confiteri であることより この愛の仲介者が たしかに神から来て神である聖霊のなせるわざであったということになるのであろう。
けれどもこれは 反面での図式であるところの オイディプス・コンプレックスもしくは《無意識》なる自己の問題ではない。なぜなら 経験的に言うのであるが わたしたちの共同主観形成は 単なる常識(知識の共有)としての共同主観ならいざ知らず――つまりたとえば近親相姦の禁止は 単なる時代(その法)の違いによる・可変的な常識に属しており(《キリスト史観》第一部〈はじめに〉;《神の国について》15・16) このような常識ならいざ知らず―― 意識も無意識もすべて開放されて 自己が生きるときにでなければ 確立され得ないから。なぜなら 欲も禁欲もすべて解き放ってのように われわれの第一章で見たように いわゆる《賢くなる》のではなく むしろ愚かでいなければ(これを アウグスティヌスは避けなかった) 関与不可能な関係性などということは人間に見えない つまりむしろ 欲(意識)または禁欲(だから欲を一時的にでも無意識へと追いやることに成功している)のどちらか一方に片寄ることによって そして特に後者の禁欲の《精神》に従って生きるとき 《無意識》の領域が 問題となり 問題とされ 言いかえると 《賢くある》とき 精神分析学の研究・治療の対象とするコンプレックス(つまり そのようなA者性‐S者性の倒立に起因する時間と時間知の複合・錯綜)が問題となるのであり このとき 共同主観形成は ただ負においてだけではなく 正負の二元論または 夜の領域それじたいにおける昼・夜の二元論支配のかたちにおいて複雑に 入り組んでしまっておる。だから この後者のばあい 実際には 共同主観形成は その開始が 猶予(モラトリアム)されておる。つまり あの仲介者なる愛は むしろ自分からこれを 避けて これに自分から蔽いをかけてしまっているというような状態のことを 言っているからである。
アウグスティヌスは この少年時代 《罪を犯し》ていたが だから この愛なる仲介者を見てはいなかったが いやむしろかれに敵対していたのだが 自己は確かにこの共同主観形成の前史を生きていた したがって神との関係を――あの内なる人の秘蹟において――無自覚的に自覚していたのだと言っていることになる。本史に立ってこのことを たしかに見出したと語ったのだ。われわれは これ以上明白に語ることは出来ない。わたしたちに このことを現実を尋ねるべきではないであろう。自己の歴史に立って 神に尋ねるべきである。心理学・精神分析を用いてもよいが その罠(なぜなら おそらく 自己と他者との資本関係の中で 自己を問い求めることが 近代市民キャピタリスムの時代になってから この或る二角協働の資本連関を そこからあたかも生み出されるところの第三角価値(利潤)をちょうど《主体・主観》としてのように見出すというかたち このかたちの中に 認識・実践されるようになった だからこの罠)に陥らずに・少なくともこの枠組に捕縛されないかたちで 用いるべきである。
現実の資本連関過程(欲望または禁欲)を 《無意識(禁欲または欲の)》の領域に ちょうど ただそのまま反映させてのように 自己の前史と後史とを尋ねていってはならない。
この点を 次に 母モニカとの関係にしぼって 論議することにしよう。
(つづく→2007-01-20 - caguirofie070120)