caguirofie

哲学いろいろ

#40

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§47b(パスカル

パンセ (中公文庫)》の第五章の抄訳をつづける。

323 《わたし》なるもの。
窓に寄って外の道をゆく人を見るひとりの人。もしわたしが通りかかるなら わたしはその人がわたしを見ようとしたのだと考える。もちろん その人はとくべつ わたしを知りもしない。そして人は 美しさのゆえに誰かを愛するということも 愛することにはならない。たとえば美しさは その人が亡くならずに 天然痘で壊され 理由がなくなるから 愛することも消える。
わたしと知り合って つきあいの想い出ができるゆえにわたしを愛するというときは どうか。わたしは《わたし》が愛されているのか。
だが わたしは 自分のそんな人柄を失っても 生き延びる。ならばこの《わたし》は どこにいるのか。からだの中にも たましいの中にも ないとするのならば。からだを あるいは こころを 愛するのは ひとがらゆえにでないのなら いかに起こりうるか。ほろび去るゆえに わたしを成り立たせるものではない人柄のためにでないのならば。人の魂の奥にあるものを なんとはなしに愛するということなのだろうか。そして 人柄は そこにかたちづくられているものなのか。つまり人は 人を愛することはない。ただ人柄を愛することはありえている。
人は人が その職務や地位ゆえに尊敬されたがるとしても 冗談じゃないと言ってはならないだろう。人が人を愛するというのは ないと考えねばならないし ただ 資格によってつくられた人柄をとおして愛するというふうに 《愛する》という言葉を用いるのだから。
324 民衆は たしかに健全な考えを持っている。例の一。詩よりも気晴らしや狩りをえらんだこと。なまはんかな物知りたちは このことをあざける。得意がって それは 愚かな人のすることだと。理性のうそで民衆にぶがあるのは 物知りがまだ考えを掘り下げていないからである。例の二。貴族ゆえにとか財産によってとか 見かけで人を判断したこと。もちろん これに対しては全世界が 勝ち誇ったように 反対する。だが民衆の合理性は まだ持ちこたえる(――人食い人種は 幼い王を見て笑いうるから)。
例の三。侮辱をうけて腹を立てること あるいはひじょうに名誉を欲しがること。ここには けっこう良きものがある。のぞましいことである。平手をくわされて うらみにも思わず 傷に悩み手当てに追われる男。
例の四。確実なことでなくとも 仕事をする。海に出かける。一枚の板の上で日々を過ごす。
325 モンテーニュはまちがっている。習慣は それが習慣であるゆえに守られるべきなのであって 合理的だからでも正しいからでもない。人びとは 正しいものと思って そしてこれを唯だ一つの理由として 習慣に従っている。もしそうでないと いくら習慣なのだと言っても 従わなくなる。つまり 理性にか あるいは正義にかでなければ 耳を貸さなくなっている。習慣も その理由づけがなければ 暴力だとあげつらうようになった。しかし 理性と正義の帝国も 快楽のそれと比べれば 暴力でないと言いきれない。自然本性じょうの原則から こう考えるべきである。
だから 法律や習慣に従うのが ともかくそういうおきてなのだからというのは 結構よいことである。そこに 正しい本物を導入したいと言っても かなわないと知ること 経験じょうそんなものはないと知ること まずは受け容れられていることがらをだけ守るべきと知ることは よいことである。こうして足を地につけていることができる。この意見を民衆は 受け容れ難いと思うかも知れない。かれらは 真理は発見されなければならず じっさい 法律と習慣との中にあると考えるから この法律と習慣とに属(つ)いている。それらは すでに古いということが その真理であることの証拠だという(そして 法律および習慣のもつ権威そのものには 真理がなく だから 古さは 権威の証拠であるのではないと)。だから 従う。しかも民衆は 自分たちが主体であると称し 法律も習慣も まったく値打ちがないことを 誰かが示すとなると 叛乱にうったえる。こういうことは 見方を変えて見れば あらゆるものごとについて 言っていくことができる。
326 不正――。民衆に向かって 法律は正しくないと告げることは あぶなっかしい。正しいと信じるからこそ従っているからである。同時に こうつけ足しているべきである。地位が上の人に対しては その人が正しいからではなく 地位が上という理由で 従うものであるように 法律も それが法律であるゆえに従うのだと。正しさの定義は このほうがもっともだとの理解が ゆきわたるなら この理解は 暴動に先んじる。
327 世間はものごとを正しく判断する。自然本性じょう 無知であることによって。これが 人間の指定席である。知識には 二つの極端があって それらは互いに触れ合っている。初めの極端は 純粋な無知という自然本性である。そのように人は 生まれてくる。もう一つは おわりの極端であって すばらしい精神をもった人が あらゆることを知り尽くした挙句 何も知らないと知るそれである。かくて 初めと終わりとが 無知という点で 握手する。もちろん二つ目のは 知の無知を 自覚するに到っている。これら二つのあいだで 初めの無知から出発して おわりのに到達しなかった人は その知識に満足する傾向をもつ。そして ものわかりがよい。ものわかりのよさで 世間を騒がし すべてについて その判断はよろしくない。民衆と識者とが 世間の暮らしを成り立たせているのであるが 中途半端な人びとは これを軽蔑する。そして 軽蔑される。かれらのくだす判断は すべてのことについて よろしくない。世の中が正しく判断する。
328 現象の理由――。これがよいが これではいけないに くつがえるのが 世のつね。
したがって われわれは 人間がむなしいものであると 結論していた。存在などしないものについて尊敬をはらうということをもって。この尊敬によって築かれた意見は すべて 破滅するということをもって。われわれがつぎにしめしたことは この意見もきわめて健全なものだということである。そういうふうに すべてのむなしいことも根拠のあるものなので 民衆がむなしいと言うのは まちがいである。つまり われわれは 民衆の意見を破滅させるところの意見 これを打ち壊した。
いまや この第二の命題も うちこわさなければならない。世間はむなしいということは つねにただしいと証明すること。真理のあるところに真理を見ないからである。真理でないものを真理とするから 意見そのものは 間違っており まちがったかたちで健全なのである。
329 現象の理由――。人間は ひよわいので 物事をつくりなおすが かずかずの美しいものも このひよわさにもとづいている。弦楽器のリュットをじょうずに弾けるといったことが それである。
これは 我々のひ弱さによるにすぎないのであるが 一つの悪である。
330 王の権能は 理性および民衆の愚昧の上に立っている。より多く愚昧のほうにである。世の中のことで 大きな問題 重要なものは 弱さを基盤としている。これより確かなことはない。つまり民衆は力が弱いということ。まともな理性を基礎に持ったもの これは 知恵に対して敬礼することと同じであって その基礎は悪である。
331 プラトンアリストテレスといえば 学問というたいそうな服を着せてでなければ 人は考えつかない。もちろん かれらは ふつうのまじめな人間であった。友と笑いながら話をかわす ほかの人びとと変わりない。気が向いて《法律〈上〉 (岩波文庫)》や《政治学 (岩波文庫 青 604-5)》をものしたというのは わざわざ そう楽しんだのである。それは 生活の一部であって 哲学がもっともお留守になった時間 どちらかといえば ふざけに近い行為なのだ。かれらの流儀で哲学の時間とは ただ静かに過ごし 生きるときである。政治について書いたというのは ちょうど狂った状態からなる病院に規律を与えようとしてであり むずかしいことを語っているように書いたのは その狂った状態の人たちというのが 自分たちを王であり皇帝であると思いこんでいるのを知っていてなのである。かれらの与えた原則は これらの人びとの狂気をやわらげ 最小限度の悪にとどめようとするためであった。
332 暴力は 支配欲から成る。すべてのものに向かおうとしていて 順番をくるわせたところで 支配したいという欲求から。
いろんな部屋 強いものの 美しいものの よい心の 敬虔な心の。それぞれの部屋は 自分の部屋をおさめている。入り乱れない。たがいにぶつかり合うのも しばしばだが 強さと美しさとが出会うと どちらが主人となるかで 厚かましくも 議論する。それぞれの部屋において みな 主人なのだが。かれらは いうことをきかない。外に出かけ どこででも おさめたいと考えるのは まちがいである。どれ一つとっても それは できっこない。力さえ ここではお呼びでない。力も 学問の王国では 用はないし それは 外のおこないに対してだけ女主人である。
暴力――。・・・だから こんな文句は 暴君のそれである。つまり 《わたしは美しい ゆえに人はわたしを恐れよ。わたしは強い ゆえに人はわたしを愛しなさい。わたしは・・・》。
暴力とは これこれの道によってしか得られないものを あれそれの道によって得ようと欲することである。相手の才能の種類に応じて こちらのつとめがある。愛するという務めは 好みに応じる。恐れるという務めは 力に。頼る務めは 知識に。つとめは 果たすべきである。これをこばむのは 不正であり ちがった種類の才能に応じてつとめるのも 不正である。そしてまた こんな文句も あやまり・かつ暴君そのものである。《あいつは強くない。敬うものか。あいつは能がない。恐れるものか》。
333 こんな場合に出会ったことがないか。一所懸命 してあげたことが その人にとっては気に入らず 身分の高いだれそれさんは 自分をこれこれのように もてなしてくれたといった例を 次から次へ かぞえたてられるはめに会ったことは。こんな場合 わたしの答えは こうである。《だれそれさんに褒めてもらったという才能を見せてくれたまえ。そうすれば同じふうにしましょう》。
334 現象の理由――。よこしまな望みと力とが われわれのおこないすべてのみなもとである。よこしまな欲求によって為すわれわれの行為は わがままである。力の前にわれわれは ままならぬ行動をとる。
335 現象の理由――。それゆえ 言える。世の中のだれもが まぼろしの夢の中にあると。民衆の意見は健全だが その意見は頭の中でそうなのではないのだから。かれらは 真理のないところに真理があると考えているから。真理は かれらの意見のなかにある けれども 想像しているところにはない。かくて 貴族は 敬わなければならない。しかも そうすることは 生まれが 先を行くという結果をかれらに得させているからではない。あるいは そんなふうな他の理由からではない。
336 現象の理由――。頭のうしろに あたまを持たねばならない。そこから判断をくだすこと。話すことは 世間のと同じであるはずである。
337 現象の理由――。きざはし。民衆は 高貴な生まれの人びとをうやまう。中途半端な人びとは それらの人びとを軽蔑する。生まれは 人格が人びとの先頭を行くことにはつながるものでなく 偶然の得であると考えて。有能な人びとは この高貴な人びとをうやまう。民衆のあたまによってではなく うしろのあたまによって。知識に対して熱心をより多く重んじる信心家は 高貴な人びとを軽蔑する。有能な人びとがそれによって高貴な人をうやまうところの理由についても知ってはいるものの なお軽蔑する。あたらしい光 すなわち敬虔な信仰においてあたえられるという光によって そのあたまの知恵というものをも 判断するということにおいて。完全なるキリスト者は もう一つ別のいっそう高い光によって その人びとをうやまう。こうして 人がもつ光に従って 意見は これがよい いや それではいけないといったふうに くつがえされていく。
338 それにもかかわらず まことのキリスト者は 狂気に従う。狂気をうやまうのではない。神からの順序をとうとぶ。それは 人間に対する処罰の結果 かれらをして この狂気にも仕えさせるからである。《造られたものはすべて虚無の力に服しています。かれらは解き放たれて》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 8:20−21)。確立された人トマスは 《ヤコブの手紙》(2:1−4)の中にある富める人を優先して もてなすというくだりを説明して言って かれらは 神の眼の前で 狂気に服するのではないならば おしえの順序から はずれる。
パスカルパンセ (中公文庫)第五章)

宿題に答えて なんとか まとめなければならない。
(1) パスカルの《パンセ》のこの一章は――編集のかたちで まったく別のかたちをとる場合もあるが このかたちの一章は―― ホッブズの議論と その重心は別だと思うが 焦点とする対象領域は 似かよっている。経験科学のあつかう社会生活のことがらが 焦点となっている。ただし それをとおして 人間学を議論している。主観的観念論だと言われようが 明らかに そうしようとしている。他方で やはりただし アウグスティヌスの神学 なぞの信仰動態の議論よりは 主観基礎 あるいは すでに生活態度の出発点のほうに より多く関心を移している。

  • 神を論じても(断章314・338) この出発点での人間のあり方として 話をすすめている。

(2) しかも けっきょく議論していることは 《わたし》をである。断章323の《〈わたし〉なるもの》でも そこでは 結論めいたことを語っていないのだが したがって 全体をとおして パスカルは《わたし》を議論し 動態させている。だから 社会経験領域の法律や習慣などなどにかんして それらを肯定・断定しているような文章も それが文字通りそのまま 主張となっているわけではない。
ただしこう言うと そのような 文章の背後の《わたし》は 結局ペシミストとして ひかえていると 取る場合も出てくるかも知れない。これについては わたしの議論をひかえる。わたしは そうではないと思うが それを 経験論理で 推していくのは無理であり もうあまり証明しようと思わない。性格としては この《わたし》を パスカルは表現において 合理的に定義・理論整理しようとしないかたちである。一連の判断過程が 《わたしがわたしする》行為であることを 目指している。

(3) なかで パスカルは 《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》といった意味内容 もしくは一般に《この世の社会生活は 悪である》とのそれさえも 表明したかの含みを持たせている。だから ボルケナウのこの批評も パスカルを逸れたわけではない。パスカルの目指したところを この一つの批評点のもとに包み込んでしまうことは 逸れた意見だと考えられる。カルヴァン主義のように パスカル教会をたくらんだわけではないし あるいは もう国法しかわれわれの拠り所はないと言っているわけではない。
(4) 上の(2)と関連するが 《わたし》は 明示されなかったから たとえば断章323で 《人は人を愛し得ない》という明白な文章があっても この《人》というのは 必ずしも主観動態のことではないと考えられるか それとも もしそうだとしたら その《主観動態どうしとして 人が人を愛することはない》というのは 《人間のちからによっては》ということだと考えることができる。あるいは そうでないとしたなら たしかに《孤独の存在》であり パスカルには限界がある。
しかしながら 最後の断章338は その限界を吹き消そうとしている。《狂気(=《論内の論外》)に仕えるとか 人間に仕える》ことは じっさい 愛することだから 限界を吹き消している。
(5)《内乱がいちばんの不幸》と断章313および320で言っているが その主張内容の当否は別としても 生活態度の出発点としてこれを言っており そして この場合は あまりにも出発点にとどまりがちである。内乱をおそれず突き進むべき時は突き進めとも わたしは言わないが ややパスカルでは 出発点が閉じられかかっているかの感をもつ。

  • 社会偶然の領域にかんして 主観動態の出発点は 意志の自由を保留すると考えたい。無力にされることがあっても。 

(6) 断章330で 《基礎をまともな理性に置くこと》を 悪く言っている。これは  合理主義志向に対してのことだと とらねばならないかも知れない。つまり ふつうの合理思考かつ合理志向ではなく その自己目的化した志向主義に対してだと。
(7) 断章310は ちょっとわからないところがある。わたしの訳は 社会習慣のことがらへの皮肉と そして すでに主観動態の経験的な内容に触れようとすることとの 両方を含ませるように 捉えている。
(8) その他の点として とうぜん パスカルの表現(扱うことがら)には いまから見れば 古いものを持っている。つまり 時代がちがう。
(9) もう一度 (1)(2)の人間学基礎の点では パスカルは デカルトの《わたし》を発展させたし また それを 表現・議論として 超えたものがある。と思う。これは パスカルが 自己目的化した合理主義志向への批判(また合理思考そのものについては それが全体観にとって部分観にとどまりがちという弱点)を提出したという論点で ボルケナウも 認めるところである。(§8・?)。
パスカルは 《ホッブズとマキャヴェルリとを綜合》したかどうか。したかも知れないし だが したとしても もしこれを 素朴な初期の社会科学じょうの理論として 目指していたと取るならば そのパスカルは 《孤独であったし 孤独の存在に終わった》といわなければならないのではないか。

  • 主観動態学の観点と分野で捉えるべきであろう。ただし 舌足らずの面もあると思う。

(1)から(9)までをまとめてみると パスカルは 人間学基礎をどこまでも追究しただけである。(自然科学の仕事は まったくいま別としてである。)これは 孤独を捉え これを克服した主観動態に立ったゆえに なし得たことだと考える。
孤独の克服の過程でもなければ 主観動態に立ったあと 孤独をまぎらすためのものでもないだろう。理論はできたが実践はひかえなければならなかったという性格のものでもないだろう。ただ このとき 生活態度の出発点にとどまるようなくせがあったとしたなら 時代の事情が事情であったという側面からでは必ずしもなくて パスカルは 実際じょうの首相あるいはそれに近い立ち場にいなかったし そうしようとしなかったからだというように思われる。
たとえばパスカルは 自然科学じょうの仕事も然ることながら 提言として パリに初めて乗合馬車を走らせた。こういったことは もちろん社会習慣じょうのことがらであるが 生活態度の一端でもある。そして とうぜんのこととして 社会習慣をあつかうとき そのものとして いまでは やはり古い部分がある。社会習慣じょうの経験行為として 集団を形成して力を発揮しようというとき(断章303)の その表現の仕方も 古い。つまりわれわれなら ひとり歩くと言うであろう。パスカルと同じく もはやひとりではないのだから ひとり進むと言う。
ひとまずいちおう 十七世紀よさようならとする。