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哲学いろいろ

#39

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§47a(パスカル

最終章も 上の宿題について まだ はっきりさせえないかも知れない。パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると 褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。
だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。
問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。

パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。
(ボルケナウ§8・〓 p.673)

しかもこれは うそである。
《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと 言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。

  • つまり 時代総体としての出発点ということになる。

わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まずは ひるがえるならばただちに 孤独であっても よいと言う。すなわち そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。しかし もはや かれは ひとりではない このことを 最初の〈序(その一・二・三)〉(§16〜18)の議論を受けて 言い 明らかにすることにつとめよう。
わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが―― これが 社会経験の生活領域でも 出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) ゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも ゆきわたった動きを見せるなら 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。
わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度はこれを受容し 他方で その生活態度の観点から言って ボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》ひとりの人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ることに反を唱えること これだけで まずは じゅうぶんだと考えたい。
そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。パスカルの手は じつにうつくしいと。(これは ただし 形容のことばである。)
パスカル自身に語ってもらうのが よい。断章291から338までを翻訳した。そのあと ほんの少し結びのことばを述べることにしたい。

正義および現象の理由

――ブレーズ・パスカルパンセ (中公文庫)第五章

291 年上がすべてを所有するというばかげた話を 《不正について》の手紙の中で語ることができる。《わが友よ きみは山のこちらで生まれたから きみの兄がすべてを所有することは 正しい》。
《なぜ きみはぼくをころすのか》。
292 かれは川をへだてて住んでいる。
293 《なぜきみはぼくをころすか。しかしきみは 川のあちらに住んでいるではないか。わが友 きみがもしこちらに住んでいたなら ぼくは人殺しになるだろう。そんなことで きみを殺すのは不正なことである。だがきみは あちらにいるのだから ぼくは勇士であり おこなうことは正しい》。
294 かれは 自分の治めたいと思う世の中のいとなみが どんな基礎のうえに成り立っていると考えるか。人間の気まぐれの上にだと考えるか。なんという錯乱。正義の上にであるか。それをかれは知らない。
かれが正義を知るならば 郷に入れば郷に従えというこの処世法を――人間社会のあるところでは もっとも一般的な前提ではあるこの処世法を―― 持ち出したりしなかったろうことは たしかである。常識は もっと確実な公平の原則を見出しており 法律を立てる人びとも このような常なる正義の代わりに ペルシャ人やアレマン人の空想や気まぐれを模範にすることはなかったであろう。世界のどの国にもどの時代にも この常識の正義が植わっていたはずだ。正義のにせよ不正のにせよ 所変われば品変わるというようなことを見ずに済んだ。ところが 緯度が三度変われば 法律はまったく異なっている。子午線が真理を切り売りしている。領主が変わって わづかの年月が経てば 憲法が変わる。法的な権利にも時の限界があって 土星が獅子座に入ると 犯罪に成り変わる。それだから 一つの川で 法律はゆき別れる。山はピレネー こっちでは真理だが あっちでは非道である。
もちろん 《正義は習慣のうちにあるのではなく 自然の法がそれだ》とかれらは言いたてる。《どの国でもそれは知られている》と ふたりは言いつのる。《法律を人間に立てさせた向こう見ずな偶然が その自然の法の一つの種でも蒔いていさえするなら われわれも同じものを持つことになっていたはずだ。ただ たしかにばかげているのは 人間の気まぐれもさまざまなのだから まだ共通のものを持つにいたっていないだけだ。盗みや不倫 子殺しに父殺しがみな りっぱな行ないの中にかぞえられていたことがある。かれは 川の向こうに住むからというので わたしを殺す権利があるなどということ ただ かれの領主がわたしのと いさかいをおこしたためで わたしとかれとは 何のけんかもしていないのになどという こんな笑い話にもならないことは 承知のうえだ。自然の法がまちがいなくある。だけれど このよき理性もすでに傷がついてしまったので いまは何もかもが傷なしではいないのだ。キケロも〈もはやわれわれのものは ない。われわれのものと呼ぶのは 人間の手を加えたものだ〉 セネカも〈元老院の決議と人民投票によって 罪が犯される〉 またタキトゥスは〈われわれはかつて自分の悪徳に苦しんだが いまや自分たちの法律に苦しんでいる〉と言うではないか》。
かれらのこの苦しい弁明の中には あらたに 《正義の本質は 立法者の権威である》という見解 また《君主が生活の便宜をはかることがそれだ》という見解 そして最後に《いま現在の習慣こそが正義の本質である》というのが 見られる。最後のが もっとも 確からしい。いづれも 頭の中で考えつめただけでは 正しくない。時とともに みな ゆれうごく。習慣は それが受け容れられているという理由では 公平なのだ。そこに 習慣の権威の不思議な謂われがある。そして その起源にさかのぼろうとする人が これを破る。しかも 正義をもってまちがいを正すという法律ほど まちがったものはない。法律に それが正しいゆえに従うという人は 自分の想像する正義に従っている。法律の本質にではない。法律は法律じたいの内に集約されている。法律は法律であり それ以上のものではない。法律に従う動機をしらべてみようとする人は それが 弱くて軽いものだと知って そのときもし 人間の想像力の驚異に慣れ親しんでいなかったならば 一つの時代のうちに なんと華やかでとうとぶべき数々のかたちを その動機が持ったかと 驚きの目を見張るであろう。それぞれの国家に背むきこれをくつがえすやり方は すでにある習慣をぐらつかせることである。その起源にまでさかのぼって そこでは 今の習慣は 権威も正義も持たないと明らかにすることである。《国家の基礎がおかれたときの憲法をしらべてみたまえ。不正な習慣がそれらをだめにしてしまったのだ》と。
これでは 何もかもを破滅に追いやるであろう。この秤りにかかっては 正しいものはすべてなくなる。だが民衆は この議論にたやすく耳をかす。くびきが頭の上にかかっていようものなら ただちに払い除ける。かしこい人たちは これを利用して くびきを取り壊すが そこで新しく受け容れられた習慣をまたまた詮索するのは 単なる物好きだとしてこれを 破滅に追いやる。あるいは逆に 人びとは 前例のないものでなければ それらを執り行なうことは すべて正義にかなったことだと しばしば考えている。こういうわけで 立法者でも手のこんだことを言う人は 人間の幸福のためには 時には欺くことも必要であると考えている。あるいは やはり政治家で 《民はそのくびきを解くべき真理を知らないから 欺かれていることは かれらにとって よいことである》と言う人。 《所有が横取りであったという事実を勘付かせてはならない。かつて理由なしで入り込んできたのだが いまでは納得づくなのだから。由緒正しく永久になくならないものと思わせなくてはいけない。その始まりは是が非でも隠し通さなければ。それを終わらせたくないと考えるならば》。
295 ぼくのもの きみのもの――。子どもたちも言っていた 《この犬はぼくのだ / そこは ぼくの日向ぼっこの場所だ》。地球のうえに横取りが始まったのは ここであり そのしるしが これである。
296 戦争にうったえ多くの人間を殺してよいものかどうか 多くのイスパニア人を処刑に処すべきかどうか 問題がこうであるとき 人が判断をくだすのは たったひとりの人としてであり 問題にかかわりのある人間に限る。かかわりのない第三者が これに首をつっこみうる。
297 真正の法律――。われわれはこれを持たない。もし持っていたとすれば くにの風習にしたがうべしといったひとかけらの正義を 定規として ものごとを量らなかったであろう。
だから 正義を見いだし得ず われわれが見つけたものは 力 その他その他。
298 正義 力――。正しいものに服従するのは 正しいことであり 強い力に服従することは 必要なものである。正義も力がなければ なにもできず 力も正義がなければ 向こうを見ない。力のない正義は 反対に会う。つねに悪人がいるから。正義のない力は 非難にあう。正義と力とを共に持たねばならぬ。正しいものを強くあらしめるか 力強きものを正しくあらしめるか。
正義は議論をまつ。力は すでに認められていて 議論をよびたくない。こうして 正義に力をあたえようとすることも かなわなかった。力は 正義に反対して正義は正しいものでなく 正しかったのは自分であると言ったから。正しいものを強くあらしめることも こうしてかなえられず 力強きものを正しくあらしめようと人びとは つとめた。
299 どこでも通用する物指しといえば ふつうの事柄については 人数が多いということ。どうして こうなるか。そこにある力のため。それゆえまた 王は自分がとりわけ力を持つとき 大臣たちの多数意見に従わない。
むろん 財産の平等は正しい。正義に従うことを力としえなかったので 力に従うことを正しいとした。正義を強固なものにせしめ得なかったので 力を正当なものとみなした。このようにして正義と力とをかけ合わせることで 平和を得ようとした。平和が何にも増して必要な財産だと考えた。
300 《強い者が武装してその財産を所有していれば 持物は安全である》。
301 数が多いことに なぜ従うか。いっそう多くの理性があるからか。いな 力がいっそう多くあるから。
かつての法律 かつての意見に なぜ従うか。いっそうまともだからか。いな 一つひとつはっきりしていて 今のまちまちであるものを ふるい落としてくれるから。
302 それは 力の結果であり 習慣のではない。新しい考えを出せる人は まれでもある。大多数であることによって強い人びとは 新しい提案を出す人たちの栄誉をのぞまず 栄誉の持ち上がらないところに ついていくだけである。新しい発案者がその意見を引っ込めず 何の意見も出さない人たちを蔑もうとすれば 人びとはかれをあざけるすべを知っている。棒でなぐるかも知れない。怒って発明の才を自慢しないことか 自分だけで満足していることとなる。
303 力はこの世の女王である。意見がではない。――けれども意見は 力を用いる女王である。――意見をつくるのは 力である。われわれの意見では 弱さはよいことである。なにゆえ?綱渡りをしようとおもえば ひとりきりだから。けれどもわたしは それは褒めたことではないと主張する人びとといっしょに もっと強い一団をつくりたい。
304 互いに対して払う敬意をむすぶ綱は 一般に 必然性の綱である。先駆けたいと思う人びとがいるとき そうできるのは そのうちのわづかであるから 敬意にも度合いの差がある。
差のある度合いが いま かたちづくられようとしているところを われわれが 見ているとしよう。度合いの差は 互いに闘いあって 強いものが弱いのをおさえつけていく。こうして先頭に立つ仲間ができあがる。一たんこの先頭集団が確定してしまえば その指導者たちは 戦争をもはや好まないから 自分たちの手ににぎった力のもとに 歩むことを命じる。ある者は人民投票にゆだね ある者は世襲にゆだねる。
想像力がその役割を演じ始めるのは ここである。それまでは 権力が事を制してきた。これからは ある党派のうちに想像力によってみづからを保つ力が 現われる。フランスでは貴族のうちに スイスでは平民に。
こうして この人あの人に払う敬意をつなぐひもは 想像のつなである。
305 スイス人は貴族といわれると 気をわるくする。平民であることがりっぱな仕事をなしていくにふさわしいのだと 証明してみせる。
306 公爵領や王権やそれに司法職は 実在し 力で一切のものをまとめていくため必要であるから つねにどこにでもそれらがある。そして これらをそうあらしめているのは 気まぐれによるのだから 必ずしも定まったものではなく 移り変わったりする。
307 大法官は いかめしく 飾り立てた服をまとっている。その地位が見せかけのものだから。王はそうではない。王は 力を持つから 想像をはたらかせる必要がない。裁判官や医者などは 想像力しか持たない。
308 われわれは王が 衛兵や鼓手や将官あるいはその他まるで機械がはたらいたようにわれわれが敬いや恐れをいだいてしまったりするあらゆるものによって 取り巻かれているのを見慣れているが この習慣は 王の顔が すなわち王もお供から離れてひとりいるときもあるのだから われわれ臣民に たしかに敬いや恐れを刻み込むためにある。こうして臣民は 王の人柄を頭の中に思い浮かべようとするとき そのお供たちを切り離してしまった王の姿を描かない。もし このような結果が その習慣から来るのを知らないとすれば 自然の力から来ると思いなす。こういうふうに言われる 《かれの面持ちには 神の気品がただよう》。
309 正義――。好みがはやると 流行の楽しみをもたらす そこより 正義もつくられる。
310 王と暴君――。わたしも 頭のうしろに あたまを持つことにしよう。
わたしは旅に出るごとに 気をつけていよう。
打ち立てられたことのない大きなことと 打ち立てられたものへの敬い。大いなる人びとのしあわせは たのしいことをして暮らせることである。
富は 惜しみなく与えられることを 自分のこととする。
ものごとは みづからを見つけ出して欲しいと願っている。人の力は たすけることを 自分のこととする。
力が しかめつらを襲うばあい ひらの兵士が高等法院長の角帽をうばい窓からほうりなげるときには どうか。
311 世論と想像とによって打ち立てられた帝国は しばらくのあいだ君臨する。この統治は 甘く気持ちよい。力の帝国は いつでも立つ。だとすれば 意見は この世の女王であり 力は暴君である。
312 正義はすでに出来上がったものである。法律も敷かれたからには べつだん詮索されずに正しいものとして とおっていくであろう。
313 民衆の健全なる意見――。何より大きな不幸は 内乱である。はたらきに報いようとおもえば 内乱は確かに起こる。そしてだれもが手柄を言い立てる。長子の権利で相続する愚か者からこうむるかも知れないわざわいは 大きくもなく確実なものでもない。
314 神は みづからのために万物を造り みづからのために苦しみと幸いとのちからをあたえた。
きみは このちからを 神のこととすることも あるいは きみにあてはめようとすることも できる。神のこととならば 福音が規律である。きみにあてはめようとならば きみが 神の代わりであることになろう。神は 愛に満ちた人びとに取り巻かれ 人びとは かれに そのちからの中にある愛のたからをねがい求める そのように・・・。だから きみを見とめなさい 自分が 邪悪に対する王であることを知りなさい そして 邪悪の道をとりなさい。
315 現象の理由――。おどろいたことだ。わたしが 錦を着て七・八人の従僕をつれた人に敬意を表するのは いけないというのだ。そしてわたしは その男にごあいさつしなかったなら あぶみ草で鞭打たれたであろう。この服装は 力なのだ。りっぱな馬具をつけた馬も そうでないのと比べるなら 同じく力なのだ。モンテーニュは しあわせにも そんな違いを見ないと 言っている。見る人の気が知れないと。《実際――とかれは書いている―― どうしてこんなことが・・・》と そのわけを みづからに尋ねている。
316 民衆の健全な意見――。着飾ることは さほどむなしいことではない。たいそう多くの人びとが その着飾る人のために仕事したことを 示すことになる。その髪のようすによって 従者や香水づくりやをその人がかかえていることを示すし 胸飾りや糸や飾り珠によっては・・・等々。しかし 人手を多く持つことは ただのうわべのことでもなければ ただの馬具のばあいとは話がちがいもする。着飾ること それは 力をしめしている。
317 わたしは敬意をはらって 《めんどうなことなんでしょうねぇ・・・》と言ったのである。むなしいことのようだが これは正しいことである。《もしあなたがお困りでしたら わたしも めんどうなことをお引き受けしましょう。あなたに何の役にも立たないとしても そのめんどうをいまも 引きうけているのですから》と言ったのである。尊敬とは えらい人たちをおそれうやまうことではない。尊敬が 安楽椅子の中にあったなら 人はみな 尊敬される。おそれうやまうことも なくなる。めんどうを引き受けることには うやまいの心をあらわす。
318 かれには従者が四人いる。
319 むしろ内面の性格でよりも 外面で人を判断しうやまっていること。わたしたち二人のうち どちらが先にとおるべきか。どちらが相手にゆづるか。有能でない人のほうか。けれども 有能の点では わたしも かれに引けをとらない。議論でもするか。かれは従者を四人も連れている。わたしには 一人だ。これは 目に見えている。かぞえさえすればよい。ゆづるのは わたしである。もしわたしが相手と口論でもするなら わたしはばかである。これで うまくゆく。なんたる仕合わせ。
320 人間がどうかしてしまったので 世の中のことは もっとも不合理なことがもっとも合理的なこととなる。国家の統治者に 王妃の第一子をえらぶことほど 合理性にとぼしいことがあるか。人は 船の舵取りに 旅客のうちからもっとも家柄のよい人を選びはしない。それがおきてなら どうかしているし ただしくもない。ところが 人びとがどうかしているし そうでありつづけるであろうから そのおきては 理にかなった正しい法律となる。ほかに だれをえらぼうというのか。もっとも徳のある人?もっとも有能な人?たちまち けんかだ。自分こそがその有能な人 有能な人だと言いあらそう。だから この資格を だれにもはっきりしたものに あてはめるべきである。王の長男。これなら すっきりしている。あらそう余地はない。理性もこれ以上よくは考えられない。なぜなら 内乱こそ いちばんの不幸なのだ。
321 自分たちの友だちがうやまわれるのを びっくりした子どもたちが 見ている。
322 貴族は ずいぶん先を行っている。十八歳になれば道がひらかれ 敬いを受けるひとかどの人物である。ほかの者なら五十歳になるまで こつこつと歩まねばならぬ。苦もなく三十年を得している。

(つづく→2005-11-02 - caguirofie051102)