caguirofie

哲学いろいろ

#24

もくじ→2005-12-23 - caguirofie051223

§33(パスカル

パスカルは 古い表現を使って 会議の宣言を 思索している(《LES PENSÉESパンセ (中公文庫)》)。
古い表現の中には すでに 資本志向からの跳躍たる資本主義志向を批判する観点がこめられているとも考えられるし 他方で この批判の観点は いまでは 商品生産者として互いに交通しあう人びとの社会的な結びつきが 抜き差しならないものとなり また一つのまとまりを持つようになったと考えられるその世界の事態 これに――この後行経験の領域での事態そのものに―― になわれるようになっているのだとも考えられる。商品の交換・流通あるいは分業社会という事態には 出発点に 理念があるからである。この理念が 資本主義社会という後行領域での経験そのものとして なにごとかを語るようになっている。つまり パスカルの思索を その意味で(その意味でのみ) 古いものとしている。そういった一つの確認として。――

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        パスカル:《パンセ》
      第三章 賭けの必然性について
断章184 神を問い求める気にさせるための手紙。
そして 哲学者たち 懐疑論者たち および 独断論者たちの中に 神をさがしてみるのもよいと書いてやること。それらの人たちは いづれも 苦心して書いている。自分を神が見つけてくれないものかと。
185 神が人をみちびくそのやり方は あらゆるものごとを甘美に配置するというそれであるから そのおしえが与えられるのは 理性には思考をとおして 心には恵みをとおしてである。だが おしえを力づくで理性に与え 脅しで心に与えようとすることは まだおしえは配置されずに 恐怖がまず置かれたことである。《おしえよりむしろこわさを》である。
186 《おしえられないで 恐怖をいだかせられるなら ほとんど政治と同じものであると見られるおそれがあって》(アウグスティヌス書簡48または49)。第四巻《虚言の無用――コンセンティウスへの回答》
187 順序――。人びとは おしえを誤解している。それが嫌いだし それを真理だと言ってくれなければよいのにと思っている。これを癒すためには まずおしえは理性に対するものではないことを示す必要がある。とうとぶべきものであることを示して 注意を引かせ 愛すべきものであることをおしえたならば 良心にうったえて おしえはどこまでも真理であってくれればいいがと 欲せしめなければならない。そうして おしえが真理だとわたしは信じていると告げてやればよい。
とうとぶべきものだというのは おしえが人間のことと切っても切れないものだから。愛すべきというのは 人間の幸福を約束するものだから。
188 相手が一人であれ多数であれ こうやって話し合う場合に 自分からその議論を離れていく人がいる。そのときには いつでも 《すべて自分のことと関係しているのに どこでどの点で 自分を切り離すのか》と問いかけてやらねばならない。
189 信じがたいのだという誤解をまず つつかなければいけない。その状態は じゅうぶんに不幸である。それが不正だとつげてやるのは よほど誤解が頑固な場合で 必要なときに限る。しかし 不正ではないかという問いかけは 誤解をもそこなって 消えさせうる。
190 無神論者たちは じゅうぶん不幸だから かれらが求めるときには その無神論をつつくのか? 不幸を自慢する人たちには かれら自身に逆らってでも 議論の内へ引き入れなさい。
191 無神論者たちの中で 求めはじめる人びとは 不幸を自慢していた人びとをののしるだろうかって? なんで だれが ののしらなければならないのか。じっさい 後者の人びとは ののしるどころか 前者の人びと〔がどうなるのか〕を 真剣に見守っている。
192 〔懐疑家の友人〕ミトンを神が近づけようとするのを ミトンは しかし 動くことをしない このミトンを議論に近づけるべきだ。
193  《小さい力では〔近づけようとしても〕だめだと言い 多き力では 信じがたいと言う人間を どうすべきか》。
194 ・・・せめて おしえがどんなものかを おしえと競うまえに かれらは知るべきである。もし仮りに このおしえが 神を明らかに見ることができると言い どうぞ見てください ここに持っているものがそうですと 言いふらすのであれば いや その証拠の品は世の中に ちょっと見当たりませんねと返すのは おしえと競うことである。もし そうではなく 人間は闇の中にいて神から遠く離れていると おしえが言い だから神は人間の目や頭に対してみづからを隠したのであって この《隠れています神》というのは 聖書で神じしんがみづからにあたえた名でさえあると言うのなら どうか。つまり もし このおしえが 第一に 神は 人びとの会議(社会)の中で まじめに探し求める人たちには じゅうぶんわかるような みづからを知らせるためのしるしをそなえたと言おうとしており 同じく第二に そうではあっても 心より探し求める人たちにしか やはりわからないような仕方なのだから それらのしるしも結局 神はおおい隠したと言おうとつとめているのなら おしえと競争する人たちはまだ半歩もその先へ行ったことにはならないのではないか。真理を証拠で示すものは何も見当たらないと叫ぶだけなら かれらはまだ まず ただ 自分たちが真理をさがし求めることを怠っていると白状しなければならないだけである。この何も定かには見えないということは かれらが自分たち自身その薄暗い場所にいるということなのであって かれらはこれを証拠に おしえの人びとの会議に反対するのでもあるが これは むしろ確認したのにほかならない。第一点には何ら触れなかったというわけだが 結局このまま おしえと競争して それを破壊するどころか かえって おしえの内容を確立している。
もし競争しようとするのなら かれはこう叫ばなければならない。あらゆるところで あらゆる努力をかたむけて おしえを探そうとしたが そしてむろん 会議がみづからの導きとするところのおしえの内容にもあたってみたが 満足すべきものは見つからなかったと。このように語ったのならば かれらは じっさい 真理の点で おしえの主張のもう一つをも打ち負かしたことになるであろう。けれども わたしがここでつとめようとしていることは 理性をもった人で このように語ることになる人はいないと 示しうれば示すことである。あえて前もって言うならば そのような競争をやりきった人は かつてひとりもいないとさえ考える。人びとは そんな狙いをもった人たちが どんなやり方でふるまうかを けっこうよく知っている。かれらが たいへんな努力をして学んだという確信をもつのは 聖書の中の一編を 数時間かけて読み 或る聖職者をも訪れ 信仰の真実とはどういうものかを いくつか質問することによってである。これで 書物と人とをたずね求めたが 得られなかったと 確信する。わたしがくどいように言うのは 〔数編・数人の量のことではなく〕 この種の怠慢は耐え難いということなのだ。なぜならば 問題は どこかの知らない人にかかわる小さなことを こんな仕方で処理すれば よいとかよくないとかのことではなく われわれ自身の問題だからだ。はじめに一人ひとりの全存在がかかっているものなのだから。
霊魂の不死というのは われわれにとってなかなか大切なことで われわれに深くかかわるものである。それについて何がどうであるかを知ろうとも知るまいともせずにいるためには 意識という意識を次から次へ殺しづづけていく必要があるくらいのはずである。われわれのおこなう思考と行為とは さまざまな形態をとるものであるが それらは われわれが永遠のよきものを 希望において持つか持たないかに従って 道筋が分かれるはずのものである ということは 直観と判断とをもって出発しようというときに その出発じたいが 上の観点に従って用意されているのであって ならば この一観点こそが われわれの究極の目的とかかわっているとしか考えられない。
この課題について明らかにすること そのこと次第でわれわれの行為はすべて決まるのだからを われわれは最初の関心事としなければならないし 最初の義務としているのである。こういうわけで わたしは そのことを承知したがらない人びとを例にとって 片や それでも学びはじめる場合に あらゆる手段の力を用いようとする人たちと 片や 難なくその最初の義務を受け入れるという人たちが それでも決して何も考えることなく過ごしている場合とを 二つの極端として区別して論じることから始めたのである。
懐疑をもってまじめに悩む人びと 懐疑の中にいることは不幸の最終的な形態だとみなし なにものをも惜しまずそこから抜け出そうとつとめ この問い求めを しかしながら 自分たちの主義とし主要関心事とする人びとに対しては わたしはただ同情するだけである。
この人生の最終目的について何も考えずに日々を送る人びと 自分たち自身の内に みちびかれるべき光を思い出さないというただ一つの理由をもって もうどこにも探そうとしなくなり そんな意見は ただ信じられやすいという単純なことで受け入れてしまったものなのか それとも 人びとの意見というものが すでに薄暗いものであるとはいえ もうこの場合の基礎は固まり動かしがたいものとなっているものなのか こういったことをも検討しなくなった人びとに対しては わたしは別様の見方をもっている。
この怠惰のほう 自分たち自身が その永遠性であるとかその全人格とかにかかわって 問題であるところのものに対して怠惰であることは 同情をよぶというよりも わたしをして吠え立たしめる。言いかえるとわたしは 石のようになって しかも恐れでふるえる。つまりわたしにとっての怪物である。霊魂をささげた敬虔な熱情で 言うのではない。わたしのような反応と感情を持つのは 人間が持つ関心の原則からいっても 自己愛をつうじてのかかわりからいっても 当然だと考える。光を理解していない人びとが見るところのものしか扱ってはいけないというのは そのことを言ったものでもある。
この世の満足が確実でもなければ堅固なものでもないと理解するためには 精神の高みを持つには及ばないのであって われわれの喜びは虚しく過ぎ去り われわれの邪悪は限りなく起こり とどのつまり死が すなわちわれわれを一瞬ごとに脅かしていた死が いく年もたたぬうちに その恐るべき必然の中へまちがいなく放り込んで われわれは 永遠の無となるか それとも 永遠に不幸でいるかである。
これほどの現実はほかにない。おそらくこれほど ぞっとすることはない。もちろんわれわれは 好きなだけ 強気でいてよい。この世のかくも美しい人生が待ちもうけているこの結末に対しても。そのうえで 上にのべたことを考えるべきである。そして もし うたがいなく この世に生きることの中にしかないとなれば その希望にちかづくに従ってのみ人は幸福であると 結論しなければならない。だが 永生を全く確信した人にこそ もう不幸が何もないというのであれば その光のきざしをすら持ち得ない人には 幸福がありえないことも その結論の内容である。
ゆえに いまの問題のうたがいの中にいることは たしかに大きな不幸なのである。しかし さがし求めることは 欠くことのできない最小限の義務である。そのために うたがっているのであるから。うたがって さがし求めない人は 不幸でありかつ不正である。それで安心し満足であると はばかることなく公言し これこそが 喜びをもたらし誇りとするものだというのであれば こんな見事な人間をわたしは どう言ってよいのかわからない。・・・

わざと カチカチの護教論のように見えるところをえらんだのであるが それは そういった信仰動態の部分をないがしろにせずに しかも一個の主観動態として むしろルウソをも超えてスミスの経験行為論へとそのままつながるようにして きっぱりとした生活態度をとるといった議論へ 転調していくのを 人は 見るであろう。引用は途中で打ち切ったのではあるが。ただし 会議が 神学・形而上学的に語られてはいる。資本主義志向という生活態度は 経験行為に対して・そして経済生活としては資本志向として きっぱりとした態度をとった主観動態から出発し しかも このあとで 出発点とか原点主観とかの愛(意志関係)に うたがいをもったもの ゆえに 二重信号をおくって密会せざるをえないもの だと考える。だから 信仰動態ということも 依然として問題であることに変わりはないのである。そしてただし いまでは それゆえにも われわれは歴史を 夜から しかも経済基礎の経験行為を すでに議論と実践との基調として 始めていくというかっこうになっている。
つづく→2006-01-17 - caguirofie060117