caguirofie

哲学いろいろ

孤独について

【Q:孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa9006514.html
Q&Aのもくじ:2011-03-26 - caguirofie

 表題の内容を 次の評論にからませて問います。

 ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:


  かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き
 るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。

  そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――
 哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ
 れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし 
 またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。

  そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に
 よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ
 である。
   (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4 
   水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳  2004 p.673)


 あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。

 だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。



 パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。

 だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。

 問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。


   パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。


 しかもこれは うそである。
 《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。


 つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。


 わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。

 わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。

 自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。


 わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。

 ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。

 わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。

 そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。

○○○

あなたの質問とか回答を、これまで長く見てきて、いつも思うことですが、簡単に一行でいえば済むことを、ああでもない、こうでもないと、長々と説明するので、一つも明晰ではなく、何を言っているのか分からなくなります。
もうちょっと明晰に、簡単に、誰にでも分かるように平易に説明できないんですか?
ショーペンハウワーは言っています、
「難しいことを平易にいうことは技術を要する、しかし平易なことを難しく言うのは誰にでもできる」と。
いい換えると、平易なことを難しく言うのは、それが分かっていない証拠だということ。


ヨーロッパは個人主義を原理に出来上がっているので、人間が孤独であることは自明であり、社会的にも、人が孤独であることを許容する精神風土が出来上がっており、その社会関係からして、孤独は決して孤立を意味しない。


それに反して日本の場合は、共同体を原理として出来上がっており、孤独を許容する精神風土がないから、人間が孤独だと、それを社会関係に位置づけられず、社会的に孤立を招く。


やはりヨーロッパの場合、自己の中に神がいるから、どんな辺境にたった一人で赴いたとしても、神と共にある、という信仰があるから孤独感は感じないけど、日本の場合、自己の中には何もない、周囲の人びととの「きずな」が唯一の頼りだから、辺境に一人で赴くと、孤独感を感じ、故郷へ帰りたいノスタルジーに駆られる。


そういえば、簡単なのではありませんか?
わざわざ、ボルケナウなんて持ち出さなくても。


パスカルに関して言えば、パスカルは来たるべき19世紀と20世紀に人は資本主義の元で、それを許す精神風土が失われ、人間は孤独感に苦しめられる時代がやって来ることを時代に先駆けてそれを予見していた、市民的世界像における人間観を同時代の人には理解されず、それを示した、ということなのではありませんか?

bragelonne:お礼

 ○○○さん ご回答をありがとうございます。



 ★ もうちょっと明晰に、簡単に、誰にでも分かるように平易に説明できないんですか?
 ☆ これは 一般に妥当なご指摘です。

 わたしの文章(ないし文体にまで及ぶと考えますが)については多くの場合 弁明があります。

 誰が言ったんでしたっけ。マルクスでしたか 何ごとも始めはむつかしい。

 たとえば 《非知》という概念を打ち出しています。そう簡単に理解されないようです。何度も説明にこれ相いつとめています。あたらしい理論は そういうものではないのですか?


 ついでに言っておきますが ショーペンハウアーの《意志》は 分かる人がいますかね? これは ふつうの言葉なのですから もっとしっかりと定義し説明しないと 自分でも分かっていないのではないかと疑われます。

 もうひとつついでですが デカルトの《われ考える》のわれは 実存としての存在ではなく形而上のものとして言っていると分かったわけです。つまりは 早く言えば 《アートマン(霊我)》のことです。だから その後 《それが考える( Es denkt. )》なる議論が出て来ました。だから 現在においても・そしてうりがだいさん あなたにあっても きわめてあいまいなままです。これは こんなに物言いを言われたからには ごくつつましい反論でありましょう。




 ★ ヨーロッパは個人主義を原理に出来上がっているので、人間が孤独であることは自明であり、社会的にも、人が孤独であることを許容する精神風土が出来上がっており、その社会関係からして、孤独は決して孤立を意味しない。
 ☆ 最後の結論は いいはずですが 《ヨーロッパ人にとって 孤独が自明だ》とは どうなんでしょう? あるいはつまり そのことが《個人主義》とかかわっている。という見方も どうなんですかね。

 否定はしませんが 一本調子では(一筋縄では)行かないように思います。

 理由は かんたんです。《孤独》の中に《人それぞれのおのが固有の時》を見るとは限らない。からです。そういう伝統は ないはずです。薄いはずです。だからです。(議論を 引き延ばしませんが)。

 つまりあるいは 《孤独であることを許容する精神風土》と言いますが それは――ヨーロッパ人とその社会における生活感覚がゼロの人間として推測するだけですが―― 要するにその《許容》の仕方は 《互いに相手との関係をそれぞれおのれの意識における対立とその均衡を図ることにおいて捉えており保っている》と考えるからです。

 つまり早い話が ヨーロッパ人とて《孤独が孤立に成りやすく 孤独全般という言い方をして捉えるなら やはり孤独に耐えられるかと言えば それほどやさしいことではない。のではないか》という藪にらみからです。(これもいま 議論を深めません)。






 ★ それに反して日本の場合は、共同体を原理として出来上がっており、孤独を許容する精神風土がないから、人間が孤独だと、それを社会関係に位置づけられず、社会的に孤立を招く。
 ☆ 上に議論めいたことを書いたのは すべて憶測交じりであって 非常にはにかみながら言ったものですが この見解については 積極的に反論したい。

 日本人こそが 孤独に耐えると言いますか 孤独に強い。と言いますか むしろ孤独こそが 人間存在の原点であることをよく知っている。――こう考えています。

 共同体が出来上がっているとすれば それは むしろ一人ひとりが 孤独だからであり 孤独の人間性を知っているからだと思っています。

 近代・現代になりアメリカ化して もはや共同体は遠い昔のお話になったという意味合いの議論をする人は そういう人に限って 孤独の効用を知らない。孤独に強くない。つまりは 個人主義という思想すら知らない。つまり ただ 横文字に酔って 横文字に依拠して何ごとも考え行動しているだけではないか? こう考えています。






 ★ やはりヨーロッパの場合、自己の中に神がいるから、どんな辺境にたった一人で赴いたとしても、神と共にある、という信仰があるから孤独感は感じないけど、
 ☆ ぎゃくですよ。あたまの中に観念の神 あるいは神という観念が巣食っているから 孤独に弱いのです。

 観念は いわゆる偶像であり いつ滅び朽ちてもおかしくないものだからです。もう枯れてしまっているはずです。


 ★ 日本の場合、自己の中には何もない、周囲の人びととの「きずな」が唯一の頼りだから、辺境に一人で赴くと、孤独感を感じ、故郷へ帰りたいノスタルジーに駆られる。
 ☆ いいえ。その空洞が わが固有の時なる原点なのです。元気の湧き出る泉なのです。
 そういう生活の感覚は 村の生活を知ると 分かって来るはずです。

 きづななど無くても 生きて行く人たちがいます。(祭りがありますから それなりの信仰も見受けられますが それは 形から入るといった生活様式を採っているだけであって ノスタルジアは おのれの固有の時の内に深くおさめられているのです)。(NHKの新日本風土記を見て そう思います)。




 ★ 人間は孤独感に苦しめられる時代がやって来る
 ☆ これは 先のほうでヨーロッパ人は 個人主義で孤独に強いといった見解と矛盾するぢゃないですか。

 ニヒリズムなどというのも 軽く扱われてはいけないのでしょう? むしろ虚無としての孤独を わが固有の時と捉えるなら 人間にとっては《関係の絶対性》という命題にまで揚棄して行けるはずです。




  ボルケナウを持ち出したのは たまたまそれに触れた回答を最近したからですが パスカルは 正当にも孤独の問題にかかわっていると考えます。


 パスカルを 資本主義の興隆とからませて捉える議論については わたしは M.ヱ―バーの例の議論と同じように あまり触れたくありません。理由は 要素要因がたくさんあるのにあまりにもそれを絞り過ぎだと感じるからです。



 というより いくつかの主題ないし論点を出しておられますが いまの段階としては 《孤独》論にしぼりたい。
 さもなくば ひととおり全体観を捉えることのできるあらまし論を もう少し展開してもらわないと手をつけることが憚られます。



 こんな感じでしょうか。