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哲学いろいろ

#20

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§18(序の三)

序の一(§16)において述べたことは わたしたちの議論の――ボルケナウとの対話の――導入部である。

社会生活は 経済史が基礎であり これを研究するとき 哲学ないし思想史が その研究たる経験科学一般の方法基礎(つまり 思想的な表現としてのそれ)となっているはずであり しかも 生活のであれ経験科学の研究のであれ その主体は 一人ひとり具体的な人間である。
のだから 経済活動ないし哲学活動に対する主観が その意味でやはりいま一つの方法の基礎となっている。ボルケナウは この主観基礎ないしかれの言う人間学を またはこの人間学の視点で ここに長いしかも一連の思索をおこなった。
そのことが 批判をくぐり抜けて われわれの前に残されてきている。

これが その導入部の前提である。
議論本体の前提は 序のニ(§17)に述べた。ローマ字記号をつけて引用したボルケナウの文章をとおして その輪郭をつかもうとした。〔 b 〕から〔 c 〕までの引用文を かれ自身の主観の内容として またその内容を経由して 引用文〔 a 〕にいたる主観の運動および一個の結論的な主張。この輪郭の中味は 第一に デカルトの思索をとおして 言ってみれば経験科学一般の――だから人間一般の――方法 しかも オプティミスティックな汎合理主義ゆえに すでに初めにともかく実践に踏み込んでいるような方法。
第二に これをつかみ これをも一つの切り札もしくはさまざまなカードとして利用していくような《わたし》の主観は その構造または基礎を パスカルが提示した。
第三に 主観の構造の社会経験的な側面――人間関係とか倫理とかの側面―― これは ホッブズがそれにむしろ関心を示さずに その結果としてのように 枠組みとしての社会つまり国家的な秩序の問題として とらえていた。
とりあえず これら三つをボルケナウが綜合するのは 国家論といった社会観をすでにホッブズとは逆の方向に内に引き寄せてきた主観が 合理思考のカードを利用して 合理主義的に形成されてきた世界に対して 社会生活を その変更へ向けても おこなっていくという《わたし》の動態としてである。このようにパスカルを――もしくは トマスから非連続に連続してたどりいたった一人の思想家たるパスカルをも――通過したのだと。
これが わたしたちの議論本体の前提である。
ボルケナウ自身の言うところを聞こう。すなわち〈序文〉をこう始めている。――

デカルトが基礎をすえたような 認識論的傾向をもつ近代哲学は 近代の数学的‐機械論的世界像の基礎(――または カード――)である新しい数学および物理学とともに成立した。この二つの思想群が 内的に連関しあって出現したものであることは 明白である。ところが この連関の歴史的把握は つぎの事情によってさまたげられてきた。すなわち 新しい自然科学は・・・ひろく一般にみとめられた方法とおびただしい量のみとめられた成果とを意のままに支配し この自然科学の発展はつねに同一方向に前進していく経験の集積という外観を呈し また自然科学的認識は無条件の客観的真理であるとの主張に成功していたのに 他方 哲学においては それとは逆に どの命題を一つとっても確固たる妥当性をもたないのである。こうして 他の文化的諸時代とはまったく反対に 近代においては 世界と人生についての哲学的な総括的な見解は 主観性の一領域であり 精密自然科学が客観性の領域としてそれに対立するものとみられる。したがって 自然科学の歴史的発展については 人間精神が神学の桎梏から解放されるや ただちに自然の《自然的》考察にむかったということ以外には 別に語ることもさしてないように思われた。これにたいして 近代哲学の成立は 多種多様な解釈に委ねられたままであった。・・・
封建的世界像から市民的世界像へ 序文 p.14)

こうして思索が始まった。こう述べてきてボルケナウは 一つに このあと 《事実 近代哲学は その母胎たる世界像 すなわちそれが基礎づけもし かつてはそれにたいして戦いもしたところの精密自然科学の世界像から切り離しては理解できないのである》(p.14)と語って このような哲学と自然科学との連関の問題をあつかおうとするとき ただ哲学の主観基礎をとおしてのみ おこない 経済史にあらわれた自然科学的な事実成果の認識の点で 不正確となった。
主体と主観と主体を取り巻く経済事実とが そのまま 結び付けられてしまった。そのような思索の迂回もしくは過剰があった。 で この点をすでに別とすれば ここでボルケナウの主張の方向には 《近代哲学の成立――そしてそれとしての主観基礎――は 多種多様な解釈に委ねられたままであった》ということの意味するものとして デカルトのカードの社会的に普及したかたちに着目するならば 自然科学のほかに社会の経験科学が起こって これは やがて 専門分化し しかも同時に ただ合理主義という《一種》ないし《一種多様》な各人の主観動態をもって いとなまれている ということが示されているはずだ。
哲学と自然科学との分離は 合理主義という一種の切り札によって連関しあう社会諸科学をとおして 間接的に 連関するかたちとなった。
哲学と自然科学との分離によりも ――その言外でとしても――哲学と社会科学とのそれ もしくは 社会科学内部での専門分科どうしの哲学じょうの分離に 問題を見出している。いや 分離ではないとしたなら 《一種多様》のかたちで 協力しあっているとしたとしても まだそれは 経験合理主義というカードによってであるにすぎない。このカードは 哲学ないし主観基礎の根拠ではなく 主観の用いる道具にしかすぎないではないかと。
《近代においては 世界と人生についての哲学的な総括的な見解――さらには 〈自己観 / わたし学〉――は 主観性の一領域でありうんぬん》というとき ここで この《主観》観が 回転して肯定的に評価されようとした。しかもそれは 必ずしも《客観性の領域としてそれに対立する精密自然科学》に反抗するかたちではなく 社会科学の客観性の問題に対抗するかたちでである。自然科学の成果は まだそれじたい 世界像の模型であることが わかってしまっている。神学との闘争は まだつづいたのだが。
この主観ないし主観基礎・その意味での人間学 の主張は ボルケナウは じっさい じつに この〈序文〉から歩み始めて 引用文〔 a 〕にたどりついてやっとというように 長い思索の最後に打ち出すことになったとさえなのだと。
長い引用になるけれど この点 〈序文〉からもう一箇所 引用して論議する。

わたしのもともとの計画は――とボルケナウは出発する―― ブルジョア哲学の三つの根本形式 合理主義 感覚主義 批判主義‐歴史主義を ブルジョアジーの三つの相異なる発展段階における 同一問題のさまざまな現われ方として しめすことにあった。だが やがて こうした問題設定の仕方がやはりブルジョア的世界像の自然性という幻想にとらわれていることがわかった。というのは 感覚主義と批判主義(――これら両者はやはり《主観》に根ざす――)とは すでに客観的真理とされていた精密自然科学〔にもとづくところの社会経験科学の一般〕の世界像の たんなる解釈にすぎないのに これに反して 合理主義(――これは《人間一般》にかかわる――)は その真理性に異論をとなえる以前の思考形式と戦いながら その世界像をつくりだしたものだからである。

  • すなわち しかもこのとき 《合理主義が 古い伝統主義と戦いながら その世界像をつくりだす》というとき 《感覚主義と批判主義とを伴ないうる各自の主観》が 合理主義を媒介としてまず 自己の内につくりだすのであり この主観をもった一人ひとりの主体が出て来なければ 作り出しきれない。という地点まで 容易にすぐに たどりついておくことができる。――引用者。

のちの発展においてはたんに間接的にしかおこなわれていない哲学と自然科学との統一が (もしくは 専門分化された社会科学の諸部門の連関が) この最初の局面においてはなお直接的にあたえられている。

  • つまり まだその最初の局面では 専門分化されていなかったのだが 主観基礎の人間学の歴史的な系譜として 統一ないし綜合は のちにどこまで細分されても 有効であるというかたちで あたえられていたのではないか と読みすすめておくことができる。

それゆえ さしあたってこの局面についてのみ

  • つまりそのような《主観における感覚および批判》と《主観の作業形式たる経験合理》とが 葛藤しながらも 統一ないし直接に連関しあっていたところの歴史的な時代にまで さかのぼって

この連関を研究することができた。

  • とボルケナウは 主張する。それは 具体的に 自然法――かんたんに《自然》が感覚であり 《法》は合理性 どう主張するかが批判――が どうとらえられたかに関してである。

したがって

  • として以下に述べることがらは 時にまちがいを持つことになった迂回としての・もしくは傾斜する過剰としての思索過程である。

自然科学にかんしても わたしは 合理主義とむすびついていたその変革の第一の時期 すなわち機械論的な自然学説だけしか考慮し得ないということになった。それゆえ 十七世紀の数学的‐機械論的世界観の根本的カテゴリーの成立を 当時の社会的闘争から実際に即して叙述するということ これが課題となったのであった。
封建的世界像から市民的世界像へ 序文 p.16)

最後の一文のように 《主観基礎を 経済史ないし思想史にからむ社会的な闘争の実際に即したものとして とらえようと試みる》ことは たしかにすでに そのボルケナウの主観の構造は そのときもう固まっていたはずである。過剰傾斜の以前に 一定の主張をさえ持っていたはずである。
《合理主義 感覚主義 批判主義‐歴史主義を 市民の社会生活としての発展段階における 同一問題のさまざまな現われ方として しめすこと》が それである。ばくぜんとした一定の構成を持っていたのではないか。
変わったのは――つまり実際に言って 明確になったのは―― それが 主観の構造であると はっきり自覚するようになったこと ボルケナウという生きた人間の主観基礎の問題であると見るのも 一つの方法基礎なのだと あらためてそこで確立され その自己が自立するということ これらであり このことは 正統の経験科学から見れば 単なる主観性の領域にすぎないのだが 合理主義にしろ感覚主義にしろ歴史主義にしろ それらは 経験科学が作業するところのもの(また道具)にほかならないゆえ 《単なる主観性の領域》――この《わたし》――を措いて その外にはありえないと 明確に主張すること これである。
《問題設定》の仕方が 変わった。過剰傾斜する思索を別にすれば その設定の仕方が 主観基礎のもとに 明確になった。そして しかしながら この主観基礎を主張するための《経験科学的な論証の作業》としては 過剰傾斜して あらぬ方向にもすすんだ。そのことは そういう欠陥であるにもかかわらず だから負のかたちで 自己の主観ないし主観基礎はこれを保持し つらぬこうとしたかれの思索の過程をあらわしている。
こんなことは だれでも――少なくともすでに現代人はだれでも―― 難なくおこなっていると言うときには それは 《序の一》の最後にふれたように 必ずしも ひとりの主体の主観としてではなく ひとりの主観として想像世界を提出するかたちで 実践しているのであって それは この想像世界での共存 想像されたひとりの主観行為というものの共有によっていて 基本的に――そして単位的に言って――想像主観の出し手と受け手とのふたりとしてであるように 考えられる。
問題設定の仕方も すでに 主観の原点から出発するというかたちをとっているのだけれど その一個の主観というものは 想像の世界で 保持され共同化されている。相手がどう想像して受け取るかは 自由にゆだねられ 相手の勝手であるというかたち。(勝手であることが 悪いのではない。)
これは もしそうだとすると 主観は ひとりの存在のものとして 保持されておらず 共同化も果たされておらず 依然としてボルケナウによれば パスカルがそうであったというように 孤独におわる一つの生活態度である。
つまり 主観基礎という原点が 相手のところにまで広がってゆき(これも自由勝手となっていて) その広がった想像世界――これは 経験行為=人間関係 という出発点である――において 成り立っている。原点の自由が 出発点の自由にある。わたしが 相手 もしくは 相手とわたしとの関係の世界(それも 想像の上での)に 遊泳している。合理も感覚も批判も この無重量状態の世界で 勝手に――想像力の問題として―― 出発している。つまり まだ 出発していない。先行する原点が さだまっていないから。

  • 主観の想像もしくは主観関係の想像のうちには 想像物として さだまっている。

すでにわたしたちの議論は本論に入っているが まだ前提であり ここまでが確かに前提(また わたしの疑問点としての仮説)である。

   ***

なお 本論に入る前に ガッサンディ(§17)について ひとこと 言っておかねばならない。
ボルケナウがここで――ここで――ガッサンディをそれほど重要視しないのは 次のような理由からであって ガッサンディの思想が おおよそデカルトホッブズの思想に 必ずしも反しているのではなく それらに含まれると見たからのようである。

ガッサンディが かれの生涯を通じて 認識素材の自然的な秩序の体系 つまり 簡単なものから複雑なものを導きだすことによって制約された秩序の体系という 近代的概念を知らなかったということである。
〔その代表作〕《哲学集成》においてもなお かれは 自分が倫理学の前に自然学を扱うのはたんに慣習にもとづくのだといっている。デカルトホッブズの大著がすでに存在していたときにすら 科学の段階的構造という思想はかれにはまったく無縁であったのである。
封建的世界像から市民的世界像へ§6・〓 p.487)

ということは 逆にとらえようとわたしたちが試みるならば ガッサンディの主観動態――経験科学的な思想のほうではなく――は デカルトホッブズの思想に横たわるやはり主観基礎を むしろすぐれて説明しえていたということにもなるはずである。

ガッサンディは熱中する人ではなく ある宗教的党派の代弁者でもなかった。・・・かれの宗教的見地(つまり主観動態の問題)は なんの秘密によってもかくされてはいない。かれは デカルトがべリュールとそうしたようには のちにこれを利用しつくした神学者たちと内密の取極めを結ぶことをしなかった。客観的には かれのしたことはジェズイットに奉仕したのである。主観的には かれは一個の自由な人間であり 自らの信仰のただしさを意識していつでも自分のほんとうの意見をのべ かれの時代のもっとも疑わしい人物たるガリレイ リュイリエのようなリベルタン ノーデのような懐疑家などと デュ・プレシのような敬虔な高位聖職者の親友でもあった。
(§6・〓 p.484)

この点に もう少し立ち入れば ボルケナウが

ガッサンディの〔このような〕オプティミズムは モリーナ主義である。
(§6・〓 p.486)

と言うとき モリーナにかんして やはりボルケナウが見るところは 次のような主観基礎の問題だからである。

モリーナ説の・・・恩寵説について 要約してもいいであろう。・・・その結論は 《成人はだれも かれ自身の功徳によるほかは 永遠へ予定されない》ということであるし その際 神の助けと賜物は 自由意志(これが 主観基礎の問題である)が実際それを受けとるか拒むか ということをけっして妨げるものではない。
(§4・〓 p.286)

《恩寵(恩恵)・神の助けと賜物・永生 / 功徳》といった旧い概念で議論されており 《自由意志》は必ずしも旧い概念ではないが それを議論するのは或る意味で旧いものであったりするが この〔限りでの〕モリーナとガッサンディとの見解は その主観の構造が ボルケナウのあの引用文〔 a 〕の命題にいたって表明されたそれと 遠くへだたるものではないのであるから。
すなわち ここでわたしたちが逆に言いかえた点を 内容に即して捉えるなら ガッサンディは ボルケナウにとっても 迂回としての思索に属するのではなく その主観の中核に位置していると言っても よいようである。
ボルケナウが見るところでは このモリーナのオプティミズム(引用文〔 c 〕)〔の実際には 主観基礎〕の主張されたあと つづく時期でとしてのように

(1) カルヴァンによってもっとも強く特色づけられる 資本主義出現の初期の段階では 自然的世界秩序にたいする人間本質の不適合が承認され(――つまり かんたんに言えば ペシミズムへ移り――)・・・
(2) 第二の段階では この〔オプティミズムにしろペシミズムにしろ 世界秩序と人間本質との〕関係はすてさられて 世界と人間はいろいろちがった衝動や可能性の合成物としてあらわれてくる。・・・
(3)これにつづくのは ガリレイ デカルト パスカル ホッブズによって特色づけられた時期 すなわち統一的な機械論的見地のもとに先の合成物を把握する時期であり 機械論的体系(合理主義もこれにかかわる)によって人間本質にたいする問いに答えようと試みる時である。
(§4・〓 pp.280−281)

というのであるから モリーナ主義的であるガッサンディは 体系的な思想においてではなく 第三の時期の基礎に横たわるような《第一の時期以前》のオプティミズムにかかわる人間学の視点で なお〔隠れて〕生きている。引用文〔 c 〕のように 《デカルトオプティミストである》と見ることができるのは そういった人間学の系譜が与っている。そのボルケナウの長い議論は

内容からいえば 近世初期の人間学や神学と 数学的・機械論的自然科学や合理主義との 連関を一貫して原典にもとづいて研究したものであって これは 一六三〇〜一六六〇年の偉大な哲学的諸体系に則して展開される ブルジョア世界観の類型学へと通ずる結果となった。そのさいわたしは ガッサンディの人物と体系(主観基礎の であろう)との 〔だから〕まったくはっきりしない役割を 新しい光のうちにしめそうとつとめ・・・た。
(序文 pp19−20)

というものでもあるから。だから 《いったんわかってみれば ガッサンディは 理解するのに困難ではなかった。デカルトパスカルについては 事情は逆であった》(序文 p.20)とさらに言うのは このデカルトらの思想を 直接には 主軸にすえたのが――いったんわかってみれば―― むしろボルケナウの思索の部分・過剰傾斜の部分であるとも 考えられるのである。つまり そういう体系的な 経験科学による議論としてのいま一つの方法基礎にも 触れなければならなかった。
わたしたちは ボルケナウに随って ガッサンディ――また モリーナ そしてさらにはトマスやアウグスティヌスら――を 直接 前面に出さないとするなら つづく本論で デカルトパスカルの主観基礎の問題に 焦点をあててみなければならない。

(つづく→2005-10-14 - caguirofie051014)