caguirofie

哲学いろいろ

#28

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§31(時代の問題は 人間の相対性)

すでに経験科学の出発点を秘めた人間学の原点をみてきたわけであるが ボルケナウは そうは言わずに――または この段階では そうだという主観を控えめにして―― 思索そして模索をつづけて ここで《かの天才 デカルトがたちあがったのである》(§4・?? p.330)というふうに 議論する。あらためて この社会全体観――普遍学――への切り札を示したのだと。議論を区切っていくとき 一つづつまとまったものとしていくのが われわれの行き方であった。議論を長引かせるのを嫌うし 長引くのも いやだ。
ボルケナウは 延々と材料を吟味しつつ料理し 長々と味わっている。
この時代 宮廷に出入りする《尊貴な人びと(プレシユー)》も――主観動態(またはそのなぞ)を かれらとしては 彼岸に見てのように・従ってその意味で 理想像の認識として(§27ドゥ・スキデリ) 捉えていたかも知れないが そうは言うものの――人間学の芽生えを示さなかったのではない。
プレシユーズ(女性形)の一人 マドレーヌ・ドゥ・スキュデリは 兄ジョルジュとともに 別のところで同じくこう書いた。かのじょにとって 理想とは ギリシャ・ローマの古典古代である。

クレリの思い立ったことは かんたんにいうと こうでした。かのじょは やさしさを三つのことをとおって 得ることができると考えたのです。とうとぶこと みとめること そして 心のかたむき。だから 《やさしみ》の三つの町を それぞれの名をもった三つの川のほとりに築きます。それぞれの町へ行くには 三つの道があるわけです。それでちょうどイオニア海岸の町クメとティレニア海のクメとがあるように 心の傾きのほとりのやさしみ とうとびの辺のやさしみ そして みとめるの辺のやさしみと名づけました。
まず 心の傾きによってすでに生まれるやさしさは もうそれだけで あとは何もいらないとクレリは考えたので この川の岸辺には村を 名指しておかなかった。・・・次の《とうとびの辺のやさしみの町》へ行くには そうではなかった。かのじょの話に聞いていたこのやさしさを とうとびによって起こすには 小さなものごと・大きなことどもの起こる村々を 巧みにしつらえました。そこで 《新しい出会い》に立ち そこを発って かのじょが《とうとい魂》とよぶところへ 移っていきます。とうとびは ふつう ここから始まるからです。こうして 《さわやかな詩》《つけぶみ》そして《恋文》といった感じのよい村々をとおって とうとい魂がごくふつうに動き出し 友情がめばえることになります。
この道をさらにすすもうと思えば 《まこと》《とうとい心》《たしかな心》《ひろやかな心》《うやまい》《まちがいのなさ》そして《よい心》をとおります。・・・
このあと もしお望みならば あらためて《新しい出会い》に立ち返り そこから 《みとめる川のやさしみの町》へはどう行ったらよいかを 確かめなくてはなりません。ということは 次には この《出会い》からまず《快さ》に移り 《従う》という小さな村に来て これを過ぎるとすぐさま《心遣い》とよばれるよい感じのする村にいたる道をさがすのです。そこからさらに《つきっきり》にたどりつき・・・《せっせと》という次の村をとおり・・・《身をささげて仕える》をも過ぎて・・・《もののあわれ》をとおりこえ・・・《やさしみの町》へ行くには《やさしさ》をとおらなければなりません。さらに最後に 《かわらぬ友情》の村。この村がおそらく《みとめるやさしみの町》への入り口となるでしょう。
それだから もし地図ははっきりしたとしてもクレリは 《友情の始まり》の村にいた人たちが この地図の道を右へ少し寄り過ぎたり左へ少し折れすぎたりすると 迷ってしまうと考えたのです。《とうとい魂(感覚)》から旅立って 《怠りの村》にまよい入り 踏みとどまったまま《むらっ気》に着き 《なまぬるい》に足を入れ 《軽はずみ》そして《とうとび川のほとりのやさしみの町》へはたどりつかず《つれないの湖》に出るということになりはしないかと。・・・反対に左へ寄ってしまうと 《無遠慮の村》が見えてきて 《うらぎり》をとおり 《高ぶり》《わるくち》つまり《いぢの悪い》の村々をおとづれる そうして《みとめる川のやさしみ》にはたどりつかず 《いがみあいの湖》に出やしないかと。・・・
(ジョルジュおよびマドレーヌ・ドゥ・スキュデリ:《クレリ ローマ史》1Clelie, Histoire romaine (1654-61))

これは これで 主観動態のオプティミスム過程を言おうとしている。主観心理のことがらで 内面的・過程的な人間学を言おうとしている。このスタイルのあとには ドゥ・ラファイエット夫人の《クレーヴの奥方》の心理小説があり――すなわち この心理の動きをとらえる生活態度があり―― その前には たとえば 美の女神 知恵・愛・苦悩・憎悪・欺瞞・忘却・戦い・運命その他その他の神々を立てて 人間を考える生活態度があった。これらも これらで 合理思考を及ぼしている。また 端緒である。
そしてまた あとの時代では クレーヴもラシーヌのフェードルも 《もったいぶる(プレシオジテ)》ことはなかったし ゼウス(ユピテル)といった最高神によって主観動態の なぞの統一を はかることもなかった。ジェズイットたちは なぞの統一を 旧い伝統・外の宗教で はかろうとしたし オラトワール派やヤンセン派は なぞの神学の議論と実践とをもって ジェズイット主義に立ち向かいつつ 新しい生活態度を築こうとした。
そこですでに 時代の問題を 時代の相対性ゆえに 合理思考の切り札をもって 社会全体観――社会偶然の中に合理必然を見て 有機的な構造をとらえるところの全体観ないし――経験科学の可能性のもとに とらえていく経済史的および思想史的な生活態度 これが芽生えたということを ボルケナウは あぶらっこい思索の連続のなかに・なかで 《かの天才 デカルトがたちあがったのである》という。
明確に表現した議論(また実践)がなければ 主観動態は あやふやであるが また デカルトを立ち上がらせなくとも ボルケナウ自身は立ち上がっていなくてはならない。これは 時代の相対性として 時代の問題をみるとき 人間の相対性のことである。ここには 《千一夜》をついやす長い議論は いらない。あってもよいが 一つひとつ完結したほうがよい。
このことは 資本主義の根付こうとする時代に新しい生活態度を築こうとするその過程が たとえば三つに分かれるとしても それら・すなわち《資本主義的道徳(つまり生活態度の慣習部分)の完成と あたらしい理論的世界像(社会科学)の創造と 資本主義に対応する政治的ならびに法律的秩序の達成》とが およそ互いに やはり相対的なものなのであるから それらの作業をおこなってそこに生きるおのおの《わたし》を 分断しないでほしいということである。
思想家どうしの歴史的な連続性を 思索の中に とらえつつ 一人の思想家の作業分野もしくはその達成への限界によって かれ一個の人間を 分断するかたちである。言いかえると 一個の人間を 思想の歴史的な継承性のもとに 他の人とつなげることによって 一人ひとりが その作業分野または達成の仕方と度合を基準として それぞれ切断されている。思想家それぞれの部分像を 歴史的に持続させていく。時代の限度の問題で その部分像がやむをえないとしても である。これは ボルケナウの言う人間学のやり方ではない。わたしたちも これまで そうしたやり方をとっていたとしたなら 今後いましめたいと思う。資本主義の隆盛の時代あるいは爛熟の時代では とくに そうなりがちであると思われるのである。
分業とは そういうことではあるまい。人間はその一個の存在で 完結している。ゆえに――ゆえに―― かれ・つまりわれらも互いに 相対的なものである。時代についても どの時代でも そのかぎりで相対的なものである。そして 時代は――あるいはけっきょくそもそも人間は―― 進展するものだから ならびに いま生きる時代を飛び去っていくのではないから 歴史の さまざまな分野でのことがらも 継承されるし発展するし そういう認識が可能である。継承・発展ということと――だから そういう事項ごとの認識と―― 人間じたいの継承とか分業=協業とか(つまり或る人間が次の時代の他の人間へ発展したと見ることとか)とは 別問題である。
人間は どの時代にあっても 二人や三人集まって初めて その主観動態・生活態度が完成するというものではない。発展史の中で 一人の人の限界を見たとしても かれはかれで 完結しており 他の人間がかれを補うといったことは ありえない。人間学――学としては――は それも一つの視点であり事項であるから そのなかで 複数の人びとの 思想的な相互の関係過程を見て言うことは ありうるとしても。そして このようであるならば そのあと ドゥ・スキュデリ嬢はきらいで ドゥ・ラファイエット夫人は好きだとかいった批評も 哲学の問題として 起こりうると考える。好き嫌いの情念で表現しても 情念を問題にしているのではないからである。こういうわたしたちそれぞれの主観動態の 少なくとも場は このいま見てきた時代に 明らかになろうとしている。もともと成立していたのであるそれが ことばによる表現として 実ってきたのではないかと。
デカルトが だれの眼にも明らかなほうの 合理思考の切り札を あたらためて示した。パスカルはこれを受け止め それを 幾何学の精神だと言った。こうしてこの時代に 《とうとびの川とみとめるの川とのほとりにあるやさしみの町》が 社会一般化していくのを見る。経済史基礎として 資本志向の生活態度でこれをささえ また 資本主義的な行動様式も もとはといえば この資本志向のもつ役割りをめざさなかったわけではない。そうでない場合は 社会をつくりかえないか それとも はじめに《わたしは経済だ( homo economicus )》と自由意志によって宣言することから始める点において そういう人間学の一形態の実践として 社会をつくりあっている。
《つれない湖》も《いがみあいの湖》も そのどちらも 目指したわけではない。もしそれらの湖へ迷い込む人がいたとしたなら それは かれらの人間学がまちがっているからだと議論することができる。この点 アダム・スミスは 利己心をみとめ 利己主義に譲歩した。
わたしは ボルケナウの思索を分断した。
(つづく→2005-10-22 - caguirofie051022)