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哲学いろいろ

#36

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§45(シャロン / ガッサンディの《物質》)

アウグスティヌスの主要な教説は 自然的人間が無であるということと予定の絶対性とである。
(ボルケナウ:封建的世界像から市民的世界像へ§5・〓〓 p.409)

これが まちがいであるか もしくは あいまいであることは すでに論じたと思う。あいまいである場合というのは 《意志行為の内容に 無を予知されたのではないところの人間》についても それは 一つに 高々一個の自然法主体としての存在なのであり(それゆえにまた 無ではない のだが) 一つにその同じ意志行為によって 自由に 堕落し得た――つまり 自由な意志の合理必然的な関係だけとして 社会をいとなんでいくというのではないところの あたかも虚無の 世界ができあがっている――ことに思いをいたすなら 《それこそ神の命令を 自由に受け取って 真実にこれをおこなう人間の意志(愛)》も その原因を神の意志に帰さなければならないところの 習慣経験的な社会行為にまさしく相い対している この意味では 《自然的人間は無である》。特に《自然本性》そのままでは――生まれたままでは―― そうである。という場合があるからである。

  • 赤ん坊や幼児は 純真で天使のようだと言われる場合があるが これは ただ そう想像する親や大人たちの側の その想像の問題である。(だから悪いと言おうとしているわけではない。)ただ 社会習慣を知らない それに染まっていないから 天使のようにとうといとは 必ずしも言えない。
  • 悪に対しては 実際 子ども〔の心〕であってよいし いなければならないのだが 考えかたにおいては 大人でなくてはいけない。赤ん坊は 自然的人間として あたかも無であるが 人びとの主観動態の愛につつまれている。つまり同じ主観動態 人格として同じ存在であり 自然的人間としてあたかも無であるが かれは無を予知されているのではない。その自然本性に法をもった自然法主体である。

この問題を解決するにあたり わたしは人間の意志の自由な選択の確保のために苦労したが 神の恩恵(恩寵)が勝った。そうでなかったら 使徒パウロ)が《いったいあなたを偉くしているのは(=自然法主体にしているのは) だれなのか。あなたの持っているもので もらっていないものがあるか。もしもらっているなら なぜもらっていないもののように誇るのか》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)4:7)というきわめて明白な真理を述べたとき その意味を理解することができなかったであろう。
アウグスティヌス:《シンプリキアヌスへ》の再考録アウグスティヌス著作集 第4巻 神学論集

ボルケナウが《予定の絶対性》というのは 《神の恩恵》のことである。こう解するならば ボルケナウとわれわれとは 意見が一致する。ただし この一致したアウグスティヌス観からの出発の方向はちがうのだから それについてわたしたちは 《もしわれわれが もらっているのなら》 ボルケナウのようには 表現することもなかっただろう。と語り返す。
ボルケナウのここでの方向・表現の仕方は カルヴァンまたはカルヴァン主義のやり方である。禁欲とか現世拒否とか あるいは拒否しないで――または 拒否しつつも――もはや現世内での職業労働に突っ走って その社会習慣行為の成果をもってこそ 《神の栄光をあらわす / つまり 〈やっと もらった〉と言う》ということを あらわす。ボルケナウは アウグスティヌスないしその主義を カルヴァンのやりかたで批難して けっきょく わたしたちと新しい同地点に立つであろう。言いかえると その回り道は要らないということである。

サン・シランとヤンセンとが アウグスティヌス主義を復活し それによってモリーナ主義〔のジェズイットたち〕を攻撃する計画をもったとき かれらは暗号で文通をおこないはじめた。
(ボルケナウ§5・〓〓 p.416)

《主義》として 社会習慣の行為として そういうことがあったとしたなら そのとおりなのであろう。信仰にあって 神の法はなぞであると言っても 習慣行為としてこれを 《暗号》に代えることはできない。そうしては ならないのである。ボルケナウは 微妙な暗号通信を迂回して おそらく ふたたびアウグスティヌスの地点に立つ。

シャロンは 次のように教えている。

霊魂は物質的であるということ それはこうである。善悪の精神とデーモンは すべて物質から分離したものであって すべての哲学者や主要な神学者たち たとえばテルトゥリアヌス オリゲネス 聖バジリオス グレゴリウス アウグスティヌス ダマスケヌスなどのいうところによって 物質的である。はじめにあり 物質に結びつく人間の霊魂は なおさらそうである。かれらの解決は すべてのものは神になぞらえて創造されており それは粗野であり 物体的物質的であり 神のみが非物質的である・・・ということである。

もちろん霊魂は

目にみえぬ実体であり 大部分の哲学者と神学者がみとめるように 霊魂は生気をふきこまれたものであり また 若干のヘブライ人やアラビア人たちがみとめるように天上的なものである。
シャロン:知恵についてPierre Charron*1(1541-1603):Sagesse (Bordeaux, 1601). )

ボルケナウ:§6・〓 p.480)

《物質》の問題は 本論(§28)でも述べたが この上の議論は あいまいである。シャロンのそれがそうであるばかりではなく ボルケナウも このシャロンを青年時代に読んだガッサンディが おおむねこの説に従ったと言うし そして これをもってガッサンディを《不信者》とみるべきではないといった言い方で 議論している。つまりボルケナウは このシャロンの見方を どちらかといえば 肯定する側にまわっている。アウグスティヌスの名が挙げられているゆえ 議論に応じる。
アウグスティヌスの若いときの作品で 《魂の不滅》(アウグスティヌス著作集 第2巻 初期哲学論集 2)と題した短い論文がある。《物質的》というとき シャロンガッサンディやボルケナウは 《目に見える質料ではなく 目に見えない物質》をもって言っているのではなく まさに《物体的物質的》のことを言うのだから それにかんしては
 《霊魂は 物質ではない》とやはり言わなければならないであろう。精神が身体と結びついているように――なぜなら 霊魂とは 理性・精神のことであり 身体とは物質(質料)から成る――それをもって 《霊魂は物質的だ》と言おうとする気持ちは わかる。わたしたちは 幽霊を信じるのではないから。また 精神の思念――ないし具体的な義務・良心の声――は 概念作業のようなかたちのものとして 心の眼に見られる。《物質的》である。概念は 精神行為の視像(イデア)である。しかし 精神は・ないし生命存在は これのみであるだろうか。
思念の場そのものを あるいは思考する主体そのものを――つまり自然法の実在そのものを―― われわれは 見うるであろうか。主観動態の全体そのものを。
自然法の経験的な具体内容(倫理であり法律となりうるものであり また経験科学の認識する経験法則〔この場合は 存在の法則 だから 民主主義の原則など〕)これは 自然法として規定した法一般じたいの 概念代理である。ただし《わたし》が 自然法主体なのだから そのときには わたしのものとなっているし 自然法じたいも わたしに内在するものである。
世界精神が現象するといったヘーゲルの論法に そっくりなのだが やむを得まい。われわれは 内在する自然法を想定するが 自然法が おでましになって 生活するのではなく わたしが 意志の自由な選択によって 行為し生活する。このわたしを 内容的に説明するものとして 自然法主体であるという。
主観動態とか自然法とか理性・精神などなどと 概念で言うのは そこにあるものの代理である。思念をとらえた概念は 前者(=思念)が見られたものなのだから 両者たがいに 対応していると考えられる。主観動態ととらえて言った概念は 部分的・過程的な個々の思念内容と同一のものではないが やはりそれらと対応してはいて ある意味で物質的(つまり神経細胞のはたらき)である。そして 全体として・また主体としての主観動態は――つまり《わたし》は―― 必ずしも物質的なものではないのでは ないだろうか。

  • 《存在》は つまり《生命》は という意味である。

《的》ということばをつけて そう言えるのは ただその精神が身体と結びついているということをもって なのではないだろうか。ただし この点は 深入りしたくない。わからない。大方の議論に俟つ。
アウグスティヌスが《魂の不滅》で言っていることは たとえば

魂全体(これは 主観動態・それとして理性・精神)は 身体の個々それぞれの部分に同時に存在し そしてまたそれは 身体のそれぞれの部分において同時に感覚するのである。
アウグスティヌス:魂の不滅 アウグスティヌス著作集 第2巻 初期哲学論集 2)

といった内容があげられ これを見ると 《霊魂は 物質的である》ようである。ただし そのようであるのは むしろ初めに基本的に 《身体の感性(また経験心理)と 精神とは 別個のものであり しかも結びついているのだから これによって 精神は身体〔の動き〕をおおう》という意味である。精神の意志が 自由であることを 初めに 意味させている。また この精神の意志の自由を 社会習慣に対して・あるいは身体の動きに対して つらぬきとおせると 言おうとするものでもない。肉体は それじしんが 何か悪いものなのではないことを意味している。これらをもって  《霊魂は 物質的だ》とアウグスティヌスが言ったというなら そう言いたまえ。ただ それだけである。

しかし 魂は自己の身体という塊(かたまり)全体の中に存在しているのみならず 身体の個々の部分に全体として同時に存在するのである。なぜなら 魂は身体おのおのの部分の痛みを魂全体として感ずるのであるが しかし身体全体〔的なもの〕としては感じないからである。
(同上)

霊魂は 物質的だが 物体的物質そのものではないであろう。人間の自然本性は この霊魂を持つ(もらっている)ゆえに 偉大である。つまり 自然法主体である。《物体的物質》によってではないと思う。――同じ箇所でアウグスティヌスは 《感覚におこらないことは情報として信用すべきではない》とさえ言っている。ただし 主体は 感覚ではないはずだ。ちなみに このただそれだけとして抜きだした一文〔だが〕は 一つの出発点として ホッブズのものでもあると考えられる。

すべての思考( Thoughts )の根源( Originall )は われわれが感覚 SENSE とよぶものである。(なぜならば 人間の心の中の概念はすべて さいしょは 感覚の諸機関に 全部一時にあるいは一部ずつ生じたものだからである)。残余のものはこの根源からひきだされる。
ホッブズリヴァイアサン〈1〉 (岩波文庫) 第一部 人間について 第一章 感覚について)

もちろん だからといって 感覚主体説なる唯物論でもないはずだ。感覚が 感覚をとらえ その概念を 持ち出し用いていくのではない。感覚じたいの中に 法がある――つまり自然法――というのなら おそらくこの法を見出すのは 心・魂つまり精神であろうが この精神が 感覚にその根源を有するとさらに言うのなら 人間は そういう意味での――つまり唯物論としての――自然本性たる存在である。こういう表現も成り立つかも知れない。
ただ言えることは 《法》を言うときには そこでもやはり けっきょく《外からの掟・のり・さだめ》を持ち出している恰好にもなっている。唯物論でもそうならないとは限らない恰好である。
これは なぞとしたほうがいいし 非物質的だとしたほうがよいのではないか。そのほうが この法の人間における内在を言い出していけると思う。また そうしないと 世界は感覚や経験心理の・つまり情念の 天国だというあのリベルタン風の議論が 大手を振ってまかりとおる。――まだ 論証したことにはならない。

***

この日の新聞の夕刊に この月の論断時評がのっていて ちょうど 《〈身体と自我〉の追求》を論じている。この論者・見田宗介は このテーマにかんして 《〔人びとは〕言葉(つまり概念)のもつ力に幻惑され 自己とは何か 主体とは何かについて 様々なる意匠の神話をくりひろげている》と言い放って 察するに《すべては迷信だ》と主張したかのようである。それでは 見田は《〈私〉はどこにあるのか》と問うとき この《ことばの神話》の外にある――つまり 迷信におちいらないその場にある――と答えたかというと それも あいまいである。わたしは この見田の議論は うえのホッブズの以前に戻ったと思われるので いくらか見てみておきたい。
まず具体例をあげ そのあとに自己の見解を述べている。

《余生》十月号(整体協会)におもしろい記事がある。出産直前になっても頭を下にしていない胎児(逆子)は 難産となるが 母親が気を整えて胎児に話しかけ 《さかさまよ 位置を直して》というと グルッとまわって自分で位置を直すことが多い。あるいは気の操法に熟達した人が母体の外から話しかけても 信頼関係が深ければ たいてい位置を直す。イスラエルの母親がこの評判を聞いて 整体協会の創始者である故野口晴哉のところに逆子を直してもらいに来た。野口はヘブライ語はしゃべれないので 仕方がないから日本語で《オイ逆さまだぞ 頭は下が当たり前なんだぞ》と言った。そうしたら 翌日ちゃんと正常に生まれたという。
胎児は 日本語の単語を知っていていうことをきくわけではない。言葉を発するときにこめられた《気》に感応しているのだと わたしは思う。
《神秘的》なはなしではない。《硬い身体》にとじこめられて他者から孤立した《内面の精神》だけが《私》だという 近代的な身体感・自我感から解放されれば ごくあたりまえのことである。
見田宗介〈論断時評〉朝日新聞1985年10月28日夕刊)

《近代的な身体感・自我感》というのは 《〈精神>こそが〈私〉であって 〈身体〉はその所有物であるという近代的な身体図式〔そしてこれ〕は 十七世紀デカルトによって史上初めて明言化された》(見田・同上)と言われるものである。わたしは ここに報告された体験記事の信憑性を問おうとは 思わない。《ことばによるさまざまな意匠の神話》・要するに《精神〔の知解〕による理論》のほかのところに 《わたし》があるという見解の内容として その《わたし》は 《〈気〉に感応するところの主体》がそれであると言ったわけだと思うが これは 《感覚からの情報を信用すべきものとして受け容れる精神》と どうちがうのであろうか。デカルトの《内面の精神》が  《他者から孤立し》《硬い身体にとじこめられて》いるというのは いかがなものであろうか。
人は 思想を なになに主義として またそういう形態になった思想に対して よくものを語る。ボルケナウが この書で アウグスティヌス主義その他その他のように これを対象として研究するのは はっきりとは断わってはいないが そういう一つの議論のかたちを取っただけである。と推察できるし 少なくともそこまで譲歩して捉えるべき内容をもっている。見田の議論では この短い論文をもって 性急に判断しようとおもえば――また それは 短い文章であるゆえに 論者は 慎重であらねばならないとも 言えるからだが―― デカルトデカルト主義も 同一であるかのように 論断している。
わたしの独断が入るといけないので さらに長く引用する。

〔かくして〕わたしたちが言葉を交わしているときに ほんとうはたがいの身体の全体が感応し合っているのだ。ことばとは このような間身体の呼応のことのは 事の一端をなすにすぎない。言葉は気の波がしらである。
ただ人間の指先や耳たぶなどに鋭敏な気が集中してゆくように この波頭には 気が凝縮してこめられている。非近代社会の人びとが呪術のうちに感受していた《言葉の力》とは このような現象の核に 様々な意匠の神話を分厚くまとったものではなかったか。
見田宗介 同上)

《ことば つまり概念》は感覚にもとづく物質的なものであるが 《気》はそうではないと言うのだろうか。あるいは 《気》も 身体的(身体関係的)で物質的であるのだが 《ことば》以前の・あるいはそれを超えたその《現象 の核》として 《主体たるわたし》だと言うのであろうか。そんな気なら わざわざ こんな一論文を作成しなくとも だれもが お馴染みのものである。社会習慣は およそ そういった気をもって過ぎていく。その気が この論文を書くときには 少しちがったのではなかろうか。気がちがったところに いま いるから こんな社会習慣としておなじみの気の現象を わざわざ 確認しなければならなかったのか。
人びとは このおなじみの気におされて しばしば 社会習慣行為の中で 欺かれるのである。つまり見田は こう言って 《新しい別の意匠の神話》をつくりだすことに 腐心しているにすぎない。いや ふつうの社会習慣の経験現実をすら はっきり確認・把握することができないところに 閉じ込められているから やっと認識したこの経験現実の一端をもって それは けっして神話や空想ではないと言う人間の話を 語らなければならなかった。きみの《〈私〉はどこにあるのか》。唯気論は たんなる情況証拠であり しかも 習慣行為そのものの問題である。それとも 《気》が自然法だと 自然法の一端だと 言おうとしているのだろうか。
(つづく→2005-10-30 - caguirofie051030)