caguirofie

哲学いろいろ

#19

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

§17(序のニ)

その研究における長い議論が じつに一編の・しかもボルケナウ本人の思索――自己の省察――でさえあるという観点に立って またこの観点でのみ かれの主観の運動と主張とを取り上げ わたしたちの議論をおこなっていく。
だとすると それにしても どうしてこんなに長編の 自己にかんする人間学が 必要であったのか。
この問いと議論とは たしかにかれ個人にまつわる・あるいは 同時に人類としての・もしくは少なくともヨーロッパ社会の 経済史や思想史やの問題であり研究を必要とする。歴史一般・経験科学一般からの解明を必要とする。もちろん 逆にそうではなく かれ個人が あくまでその内面の問題として 必要としていたとする結論が出るのかも知れない。フランツ・ボルケナウという一個の人間の自己にかんする学が そのときには そのいくらかを明らかにすることができるのかも知れない。だが この問いは措く。そこからは 入っていかない。

  • つまり それは わからない。また あまりそこまで知ろうとも 思わない。
  • もっとも やはり内面の問題が基本だとすると そのままわたしたちが仮設した観点に立つことになり この問いは 必然的に出て来ており また それに答えていかなければならないかもしれない。その場合には 一般にほかの人びとも 一冊の書物だけではなく やはりその複数の一連の自己学を編むかたちで 長い思索と議論をおこなっているという事実で 反論しておく。
  • わたしの言いたいのは ボルケナウはここで 一つのまとまった長い思索をおこなっている その点かれは まれであるかも知れないのだが 要は 人に発表するものとしては 主観の運動としての長い思索のほうに 焦点があるのではなく 主張のほうに・その意味での議論のほうにあると じっさいには思われるし そう言わなければならないだろうということである。
  • 自己学の内容が 価値判断としてあらわれた主観表明のなかに捉えられるといえる。
  • ボルケナウの場合は 長い主観の運動のほうも必要な限りで取り上げて かれの議論とお付き合いしていかなければならない。でも わたしは できるだけ 簡潔でありたい。

つまり ボルケナウの議論は たしかにその中に いまわたしたちがここでこうやって足踏みしているような そしてもう少し意地悪く言うと ああでもないこうでもないと考えまどうような 長いそんな意味での思索が 差し挟まれたと見られる。
かれは 一人ひとりの思想家について 時代を追って研究をおこなっているのだから そしてそれぞれの思想家についてそのつど明確な評価を示しているのだから わたしのこの見方は まちがっていると思われるかも知れない。だが だとすると かれの議論は 経済史や思想史の方法の問題にかんする批判で その評価は 済んでしまうというたぐいのものなのである。
こうしてわたくしもその議論のしかたが かれの思索のしかたに似てきてしまったが まず取っ掛かりとして この点をおさえておきたい。《それにしても なぜこんなに長く思索しそれを しかも 残さなければならなかったか》という初めの問いかけ これには 必然的な理由があるが 焦点はそこにはない これである。


わたしたちの議論の取っ掛かりは かれの議論について 焦点をしぼろうと思う。(これは ただアプローチのしかたとしてである。)しかも――アプローチとしては―― かれの議論の中で 思索(主観の運動)と主張(価値判断)との両部分を あらかじめ 分けようと思う。分け方には わたしの主観が入るが ここでの議論は そういう観点に立ったものである。

  • パスカルの研究そのものとか 自然法の研究そのものとか 近代という時代の・つまり歴史そのものの研究などなどを ここでの目的とはしないという前提。直接に目的とする考察の対象 それは ボルケナウその人の主観とその議論であるという前提。

第一章 マニュファクチャー時代の科学
第二章 自然法則( Naturgesetz )の概念

第三章 自然法( Naturrecht )と社会契約

  • 〓 序説
  • 〓 マキャヴェルリ
  • 〓 ルター
  • 〓 ・・・

第四章 あたらしい道徳とあたらしい科学

第五章 デカルト
第六章 ガッサンディ
第七章 ホッブズ
第八章 パスカル

これらの中で 自然科学の問題は 問題をグロスマンの書評に預けることができる。次に 第二章から第四章までは 思想の中の概念ないし思想体系の問題として その章題が立てられているからのように ボルケナウの議論としては まだ過程的な思索に重点がおかれたものであるか もしくは そこに評価がくだされていても のちに続く諸章にその結論的な主張は受け継がれていくものかである。だから 便宜的にとしても これらから 入っていかない。
後半の四つの章の中で ガッサンディは 明確で積極的な思想(生活態度)を持たないとして 評価されたから――少なくとも ボルケナウにとって わたしたちが前章に〔 a 〕の符合で引用したような思想をみちびいていないということをもって―― 思索の過程の部分に属すると考えられる。

ホッブズは ボルケナウの議論で必ずしも多くのページをさかれてはいないが それは 一般に見られるホッブズ研究および評価と それほど ボルケナウ自身も ちがう評価を見出さなかったとしての結果であるから これは かれの主観の主張の部分に入れ 結局 このように ボルケナウの主張に 直接 深くかかわってくるところは 思想家として デカルト ホッブズ パスカルの三人である。あるいはさらに ホッブズは ボルケナウの見るに 一般にただしく評価されており そのようにその限りで ボルケナウの主観の中で ホッブズは その大方の一般的な評価のままで 位置している・そしてその意味で ボルケナウ個人の思索に波風を立たせず 問題を提起しなかったのだとしたなら わたしたちの取っ掛かりは デカルトパスカルとにある。

〔 b 〕 青年パスカルは――おそらくはホッブズを知ることなしに――ホッブズの国家学説の基本命題を体得し それとともにデカルト的オプティミスムを排撃することによって その時代全般の趨勢と同じ方向にすすんだ。
封建的世界像から市民的世界像へ§8・〓 p.580)
〔 c 〕 かれ(デカルト)は 生涯のいかなるときにもオプティミスト(われわれはいつでもこの言葉を 倫理と世界の成り行きとが一致しうると信ずるという意味で用いているのだが)である。
(§5・〓 p.382)

  • わたしたちが考えるに このオプティミスムは 客観認識とそれにもとづくところの施策を提供する経験科学が――有効・有益なだけではなく―― 社会的に有力となるといった観念に つながるものと思われる。
  • 社会的に有力というのは 《われ考えるゆえにわれ有り》というときの《考える》という言葉をそのまま文字通りに捉えて 考えるというその知解の過程が大事であり 有力となってよいのだといった風潮をもふくむようなかたちのことである。

〔 d 〕 ホッブズは・・・〔主観の運動・思索の〕かぎりない試練という課題については 関心がない。

  • このことは しかし 上の〔 c 〕のオプティミスムの延長上にも ありうるであろう。

・・・大衆道徳〔または主観の思想〕は ホッブズにあっては 国家的秩序 すなわち 最小限の道徳に還元される。・・・全人間学は 国家理論に還元されるのである。

  • ヘーゲルは一つに 人間は国家において自由であると言ったかどうか。字面では 言った。

(§7・〓 p.548)
〔 e 〕〔《〔 b 〕:その時代全般の趨勢と同じ方向にすすんだ》といっても〕 個性(――その生きた主観――)の役割は パスカルの場合には当時のどの思想家の場合ともちがった特別の考察が要求される。というのは デカルト主義の汎合理主義や ホッブズの絶対主義〔とボルケナウは言う〕は その時代のものとして〔あるいは 人間一般のもの・経験科学のものとして〕考察されねばならなかったし・・・。ところがパスカルの観念〔ないし主観?〕はなるほど数多くの社会的要因によって制約されてはいても しかもそのいずれによっても強制されたものではないからである。パスカルこそは 一つの歴史的状況が提示するもろもろの可能性をすべて利用しつくした唯一の人 孤独な人間であった。
(§8・〓 pp.586−587)

そして この最後の《主観の孤独》が その時代情況とともに 《生きることは 見まいとすることであ》っては いけないという先の〔 a 〕の議論につながる。
ボルケナウにとってパスカルは 《 pascal 》つまり《通過》の地点であったかのごとくである。デカルトも ただ単に思索の一過程ではなく 主観・主張の核をつくる通過地点であったのなら――ことば遊びのようだけれど―― 《 des cartes 》つまり《切り札をも持ったかずかずのカード》を提供するものであったとさえ 言っているようである。パスカルが そのすべてを利用しつくそうとするところの《一つの歴史的状況が提示するもろもろの可能性》としてのカードを提供しうる思想であったとさえ。
ボルケナウは パスカルをのりこえてこのデカルト(カード)を利用するときの具体的な思想・理論を出していないが その主体・その主観の態度のありかたは こうだと 自分はつかんだのだと 言ったかのごとくである。ホッブズにあって《国家理論に還元される》のが《全人間学》であったというのであれば ホッブズの学説を体得したパスカル・いやボルケナウは 《〔 a 〕:生活を解釈しなおし 生活そのものを変更する》のなら 国家をも 思考によって理論的に 変更し 社会生活の場がもし 国家とつながっているのなら 人は孤独(というより孤立といったほうがよい)に終わらないで 自己の人間学を・つまり主観を 社会共同の主観としても 実践していくことができる。と かれは はっきり言いたかった。はっきりとは言わなかったゆえ 長い議論をついやす形を 採った。
これは――想像ではなく 字面のうしろについているものだと考えられ―― 経済史に言及せずに そして或る種の仕方で 思想史一般の方法一般(つまり 経験科学のそういう正統の行き方)に依拠せずに 語ろうとした態度であり 一つの主張である。
わたくしはと言えばわたくしは ずるいから ここでボルケナウ・カードを利用している。でもこれは 基本的に言って かれボルケナウとの対話だと 強弁することができると思う。ここでは ボルケナウの議論が・その仕方が 暗い時代を反映していると言っても 環境決定論におちいりはしないであろう。ただし 反映したままのかたちを取っていてよいかどうかは べつの問題である。内容としては たとえ暗い時代――ボルケナウにとっては ナチスの台頭してくる頃――を反映していても その環境に決定されてはいない。
ボルケナウの書物があんまり長いから まず取っかかりとして このように。
(つづく→2005-10-13 - caguirofie051013)

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