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哲学いろいろ

#38

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§46b(カルヴァン / ホッブズ / パスカル のつづき)

アウグスティヌスによるスカエウォラやウァロの取り扱い方について 触れておく義務がある。
先にウァロのほう。

単に大衆にとって知らないほうが有益であるだけでなく たとえ偽りであっても 民衆が他のもの(つまり真理)と思うほうが好都合なことが たくさんある。だからギリシャ人も浄めの儀式や密儀を秘密厳守と壁とによって閉ざしたのだ。

ここで彼(ウァロ)は明らかに国と民衆とを支配しているいわゆる賢者たちの手口をすべて暴露したのである。しかし欺く者たちと欺かれる者たちとを等しく占有している悪意にみちた悪霊どもは このような欺瞞を驚くほど喜ぶのである。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)4・31) 

わたしたちは いま ボルケナウがアウグスティヌスに触れて 国家観に言及したゆえをもって この議論をしている。カルヴァン ホッブズの問題から パスカルの問題へ 移っている。

国々は神々であるものの真の像をもっていない。というのは 真の神には性別もなければ 年齢もなく また身体の区切られた四肢もないからである。

あの大神祇官(スカエウォラのことである)はこれらのことを民衆が知ることを欲していない。というのは彼は これらのことが虚偽だと考えていないからである。したがって彼は 宗教に関して国々は欺かれている方が役に立つ と思っている。ウァロでさえ 神事について書いた書物の中で このように言うのに躊躇していないのである。
実にご立派な宗教だ。弱い者で救いを求めている人は そこに逃げこむことができ また救いの真理を探し求めるときは 自分が欺かれていたほうが役に立つと信じられるとは。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3) 4・27)

こう言うよりほかないではないか。こうして 《わたしたちが言葉を交わしているときに ほんとうはたがいの身体の全体が感応し合っているのだ》(見田氏の見解)ろうか。《言葉は気の波がしらであ》って 《この波頭には 気が凝縮してこめられている》のだろうか。
もちろんわたしたちは 国家観として 議論しているのである。つまり《社会をつくる》にかんしてである。パスカルは どのあたりに いるのであろうか。

***

一九八五年十月の見田宗介氏による《論断時評》は きょう(二十九日)の夕刊に そのつづきがあって 今度は 《〈私〉はいつ死ぬのか》がテーマである。《欲望する身体の矛盾 / 〈脳死〉と心臓移植の間》というのが 見出しである。
《心臓死よりも以前の 脳死の段階でも人間を〈死体〉として扱ってもよいかという議論・・・このような主張が積極的に出てくる背景は 心臓などの移植のために 生きている臓器を医師が早くとりだしたいからである》と指摘して 《脳死》の立法化による解決には反対している。
パスカルは パスカルなら 立法化による解決に 賛成したということになるのだろうか。あるいは すでに法律となっているものなら これに従って生きる人間こそが 《オネットム》だと言ったと ボルケナウから見れば なるのだろうか。自然法に対するぺシミスムのゆえに その消極的・付随的な一帰結として――《世界全体が悪なのであって したがって統治は専制的でしかありえない》(§46)ゆえの一帰結として――そうなのだろうか。いったい パスカルは どこにいるのか。ボルケナウが言うように 《孤独に終わった》のか。見田氏は 脳死の問題で その立法化による解決には反対する。《けれども――と議論はつづく―― 人間の九割位は 自分が実際に死にそうになれば 他人の心臓を移植してでも生きのびようと望む心を どこか一隅にはもっている》として このゆえに 《〈自己提供〉の思想》をうちだそうと言う。自然法であると言っていいような唯気論か?自然法主体の 気による自発的な(意志の自由選択による)合理必然の理論か?茶化したわけではない。

インド哲学の金岡秀友は 仏教の《供養》(自己を提して他者をう)という精神について そのいちばん大切な核心は

  • 見田氏の言う《気》ではなく あるいはそれと深く関係して

それが自由な意思によること この《自発性》がないかぎり それは悪魔の知恵となると指摘している。

  • つまり《自発性》が 《間身体の呼応》のことであるかも知れない。それなら 《気》である。

脳は死んでも 身体としてのわたしは生きている。

  • 《脳》は身体ではないのか。あるいは 生きているのは 《身体として》のみであろうか。

その生きている心臓をどうぞお使い下さいということであればこそ貴いのではないだろうか。
生命を欲望する動物が その欲望をもつままで 意識のあるうちの自由な意思

  • ちなみに 意思とは 意志の具体的・個別的な発現を言う。

による身体を提供することであればこそ 行為は生きているのではないか。
見田宗介:〈論断時評〉・下 1985年10月29日 朝日新聞夕刊)

わたしは ただちに反論しないけれど もしこう言うのであれば その《気》は 《〈精神〉こそが〈私〉であって 〈身体〉はその所有物であるという近代的な身体図式》(論断時評・上)と どうちがうのであろうか。《身体は 精神(また意志)の所有物ではあっても 互いの身体が 感応し呼応しあったところに この自己提供の行為が成立する》と言うのであろうか。これであれば 《現象のうちの 〈気〉という核に 様々な意匠の神話を分厚くまとったもの》ではないと 言えるというのであろうか。
じつにごりっぱな宗教だ。いやいや すべての議論を《気》に基づいて立てているのだから 合理必然的であって その自然法が貫徹されていると言わなければならない。偉大なおしえだ。
かくて

欲望のない存在へではなく 執着なしに欲望する存在の方へ(真木悠介気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)》)。
どのような科学・技術が発達しても 文化・文明が身体を変質しても 人間は動物である。動物としての欲望は残る。欲望の矛盾も残る。

  • ホッブズパスカルも こう言ったか。言ったとしても つまりそういう経験現実・事実に対する処し方は 二人に限らず 人によって違うかも知れない。見田氏の議論ではつづけて――

人間のわずかな理性と自由意思とができることは 欲望の矛盾を矛盾であるままで 相克性から相乗性に転回すること 生きる矛盾をみにくい連鎖から うつくしい連鎖へ転回することだけである。
見田宗介・同上)

ボルケナウなら 資本主義が このように言いうる時代へ 変わったというかも知れないが それは 余分である。《〈私〉はいつ死ぬか》がテーマであったが このような《わたし》は 死なないであろう。なぜなら 《自分が統治したいと思う世界の基礎》を 《気》の上に――つまり《間身体の全体的な呼応》であり《各自の自由な意志の自発性》をもつところの《気》のうえに――おいた というに過ぎないのだから。《気》の理論は それはそれで 論理的で必然的である。うつくしい合理必然を見ようとしている。問題だという理由は それが《社会習慣》の領域にかんする理論だからだ。
生活態度の出発点と社会習慣とのあいだで往復する理論であるから。むろん見田氏という一個の主観動態は存在するし 合理必然であれば それとして 実現するものであろう。つまり見田氏は 実践しているし 実現させていこうとつとめるであろう。と同時に 《生きる矛盾をうつくしい連鎖へ転回すること》が実現したとしても その《うつくしい連鎖》のあいだでの《みにくい矛盾》が起きるであろう。うつくしい連鎖へ転回させたいという自発的な欲求は 《つねに残存する動物としての欲望》ではなく しかも《つねに残るその欲望の矛盾》を持たないと 言わなければならない。《気》は 動物としての欲望ではなく ある意味で物質的なものではないのだと。
《身体の全体の呼応》は 人間のであるから 物質的な動物としての欲望とは違ったものだと言うであろうか。それなら デカルトの《精神・わたし》のことではないのか。しかもアウグスティヌスは  《魂全体は 身体の個々それぞれの部分に同時に存在し そしてまたそれは 身体のそれぞれの部分において同時に感覚するのである》(§45)と言っていた。この自然法主体の主観動態を みとめなければならないし 言っていかなければならない。そうでないと ボルケナウの 思想の上での資本主義論としての《無限的進行》の問題が なお首を出している。《みにくい→うつくしい→みにくい→うつくしい→・・・》。それとも唯気論の教会が この世界を制覇するなら  《うつくしい生の連鎖――つまり矛盾をもちつつも 身体どうしの社会的な呼応の合理必然またその歴史過程――》は もうそれ以上はのぞめない神の栄光を ついに この地上にあらわすというであろうか。
つまり 国家論に問題はある。

  • 一面の問題としては 見田氏の《〈私〉はどこにあるのか》の議論は 必ずしもアウグスティヌスデカルトの《わたし》と違ったものでもないと考えられるのではないかという点にある。

かんたんながら 国家論をさらに――。
ホッブズの社会秩序論は 時代が絶対主義の国家をも持っていたゆえ その自然法は 応用として 絶対主権に行き着いた。行き着き得た。唯気論なる自然法は 国家がカルヴァン主義と深くかかわる資本主義――主義のほう――の社会を実現してしまったからのように 唯気論なる自然法それ自体が 絶対理論に行き着いているのだろうか。
これは ボルケナウ流の見方であるが この見方にも欠陥が指摘されたように 自然法――人間学基礎――が 人定法(つまり領域として社会習慣)とは 別個のものだという一線に《執着》しなければならない。まず それである。けれども この《執着》には 《矛盾の相克性》も 《執着する欲望》も ないであろう。《わたしがわたしである / わたしがわたしする》というのだから。《わたしがわたしする》ことを欲するのが みにくい執着だというのなら われわれは この世から去って行かなければならないであろう。しかし この《わたし》は 死ぬ。いつか 死ぬ。つまり 死ぬまでは――少なくとも死が訪れるまでは――生きる。
《欲望のない存在へではなく 執着なしに欲望する存在の方へ》向かう気なら ――少なくともその自然法理論じたいにかんして――人は 死なないであろう。それは この世の社会習慣が存続すると言うのと 同じである。いな わたしも鬼になって言うとすれば ボルケナウの言うように《国家が悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という見方が これまでの議論においても そこに見え隠れするように 言われていなければならず そう捉えなければならない人間社会の歴史が歴史であるとするならば 確かに 社会習慣は悪である。悪に根ざす。少なくとも 社会偶然は 不合理な《矛盾》に満ちている。この《生きる矛盾を うつくしい連鎖へ転回すること》は その《人間が生きるという矛盾》が死なないことである。死なないと言ったことになる。論理としても 事実としても そうである。
だが うつくしい――たとえば 時(社会習慣)よ おまえはうつくしい――と 見田氏は言えると言っているのなら それは 人間が死ななくなる すなわち 悪たる社会習慣の中ですでに――わたしは鬼になって言うのだが――死んでいるその人間の死が 死ななくなることだ。死が 死なないようになる。
見田氏も 《供養が 自発性によらない限り それは 悪魔の知恵となる》(§46)というときの《悪魔》は ゲーテの《ファウスト〈1〉 (新潮文庫)》によって 使っているのだから すなわち

――人間はそいつを理性と呼んで どの動物よりも動物らしくするために使っています。――メフィストフェレス
ファウスト〈1〉 (新潮文庫)その悪魔の台詞:見田宗介前掲の論断時評・下に引用がある。)

との文句に対応して 使っているのだから ファウストの台詞の《時間よ おまえは じつに美しい》を ここで 持ち出しても よいであろう。ファウストは 悪魔メフィストフェレスとの賭けで 敗北を喫しながら 敗北することによって 勝利を得るのだから この《時間よ・・・》の台詞を口に出したことは そのとき かれは・あるいは見田氏のいう人間は 《どの動物よりも動物らしくするために 理性を使う》のではなく 真の人間となるために使った いな すでにそのオネットムになったことを意味するであろう。ファウストは そこでそのとき 勝利の死をむかえる。つまり死んで勝利する。つまり死を死ぬのだが この《ファウスト》の物語を ゲーテのあと ふたたび ここで見田氏が 想像の世界として・想像の世界において 使い語ったとしたなら そういうファウストの主観動態ないし生活態度・要するに一編の生涯は まだ 死んでいないことになる。
墓場から・あるいは天国から ここへ再び 連れ戻された。つまりそのときには 見田氏の議論と理論とにおいて 死が死なない。

  • 見田氏におけるこの世の生が いまファウストがいる天国へ上げられたと言ってもよい。もしくは それは 勝利する《わたし(主観動態)》のいま・ここにおける確立のことだと はっきり言って説明しなければならない理論なのだと思われる。この もしくはの部分がなければ 危険だと思われた。

自然法は――自然法主体つまり《わたし》は―― 経験的な論法で言った最終的な存在であって その意味で 生きるみなもとである。人びとは この法――理性・精神また なぞを持った信仰主体・主観動態――は 生きる つまり 死とは無縁でありうると考えてきたのだ。つまり 最終的に 死が ほろぶと。しかも この地上で人は 死ぬと。見田氏の思想は パスカルホッブズ以前に戻ったと考える。もちろん その唯気論でよいという人びとも たくさん いるわけである。欺かれてはいないと 議論することができる。社会習慣の経験現実と 見合ったものだから それは 真理であると 人びとは 考えるし 信じる。

おお 最高神祇官スカエウォラよ。もしお前にできることなら 〔想像の〕遊戯を廃止せよ。民衆が神々の犯罪を

  • 犯罪とはつまり 生きる矛盾のではあっても その美しい連鎖 の神々(ゆえに想像上の犯罪・つまり 人びとの社会習慣の擬人化)の世界での実現でもある。その犯罪を

賛嘆することを喜び できるだけその犯罪を

  • なぜなら 身体の全体が呼応しあっているのなら 神々は なにをやっても 自由であるとなる。ゼウス(ユピテル)が 父クロノス(サトゥルヌス)を殺して 神々の神となるところから 実質的に神話が始まる。気の呼応しあう自発的な供養をもって あたかも 死も美しい。ゆえ その犯罪を

真似しようときめているような場合 不死の〔《気》という〕神々にそのような栄誉を授けないよう 民衆を戒めよ。だが もし民衆があなたに対し 《あなたがた祭司たちが わたしたちにこういうものを持ち込んだのだ》と答えるのであれば  そのようなことをあなたがたが命じるようにけしかけた神々自身は こういうものを自分たちの栄誉のために演じるべく命令しないように求めなさい。

  • 《気の神よ 矛盾のままでも うつくしい連鎖ばかりでありますように 執着なしに欲望する存在の方へ われらを導きたまえ》と。あるいは これすらも 命じないでくれと。

もしそれらの行為が邪悪であり またそれゆえに神々の威厳(《間身体の呼応》)に関しては決して信じられるべきものでないならば 罰を受けずに創作された神々に対する侮辱はもっとひどい邪悪である。

  • 気の理論は 侮辱してはいないはずだが。

しかし彼ら(神々)は あなたの言うことを聞きはしない。彼らは悪霊であって 邪悪なことを教え 卑猥なことを喜んでいる。ところが彼らは単に 自分たちについてこのようなことが創作されて〔説かれて〕も侮辱とみなさないのみならず むしろ彼らの〔劇場国家なる〕祭典によって実演されないならば そのような侮辱をむしろ耐えることができないと感じている。さらに もしあなたが彼らに反対して 特にユピテルのより多くの犯罪が芝居で頻繁に演じられているという理由で ユピテルに向かうならば 人々は次のように言うであろう たといあなたがたがユピテルを全世界の支配者にして経綸者なる神だと宣言するとしても あなたがたにより最大の侮辱が彼(ユピテル=《気》または祖先)に加えられることになる。というのは あなたがたが彼をこれらの神々と共に拝むべきだと考え かつ彼らの王としているからである。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3) 4・27)

パスカルについては 間接的に議論してきたが 次の最終章へ場所を移すことにする。わたしは ここで 常軌を逸したと見られることを望む。《うつくしい》という概念は 自然法またその主体たる主観動態のことでもあり なぞの信仰の中でも形容のことばとして使われるが だとしたら 社会経験の生の矛盾をこえており だとしなかったら 確かに社会経験の生の矛盾を容れた合理必然の連鎖について言われるか もしくは  《想像の領域として 経験生活をこえた神々の世界を想定し この想像の世界において しかも経験生活の矛盾のみにくい連鎖を それを神々(祖先)のなかの神が統括するということによって その限りで うつくしい連鎖へと転回させている》ものとして 用いられるか どちらかである。
後者の《だとしなかった》場合には その第一の例のほうが それはそれであるものの限りで のぞましい。

  • また見田氏の議論は それが 中軸となっている。

その第二の例(《もしくは》以下)については 《みにくい連鎖》のままであるほうが まだましである。自然法(その動態またその連鎖)によって その《みにくい連鎖》は 解かれていくことができる。むろん 社会習慣一般の生の矛盾が なくなるとは わたしたちも 言わないかたちで。《うつくしい連鎖》の神話は 慈悲主義のあたらしい形態である。生活態度が 想像の世界で ユピテルら・いな不死の神々となった先祖たちの世界で 推移していく。見田氏が これらの場合と例とのうち どれを言おうとしたか わたしは わからない。

  • 中軸となる部分は 理解したと考えるが。

問題の国家観については すでに神々となり・その意味で死ななくなったわれわれの祖先たちの――なぜなら 歴史的な存在たる人間が 想像するとき その想像の世界は 過去の死者たちの世界と 重なりうる その――気と つながりうるような今 生きているわれわれ人間のあいだでの気をとなえることは これは 国家を今 法律をも持って 運営していく人びとが その統治に どうしても 社会習慣の歴史的な演劇をおこなうことにもなるとき この国家という舞台で演じられる気の運営劇と ふつうの生活者市民の 生の矛盾をみにくい連鎖からうつくしい連鎖へと転回していくその気の実践とが 互いに通底するかたちに なり勝ちである。どの部分がどちらの部分であるか どの要素がわれわれ市民のものであるか わからなくなるようだと思われる。だから そうでないためには さまざまな問題に対しても たしかに 立法化による解決でよしとするのではないことは のぞましいことであるが 気を唱導するだけでも 不十分であるだろう。
気は 生活態度の出発点のものだけとしても 社会習慣の領域と みっせつに関連していて 歴史のこのかた 連続してきており 日常経験だけのものでもある。だから ただちに国家にかんする具体的な政策理論をいえ ということではなくとも 抽象的な言い方だが 人間学基礎を 《気》に先行するものとして 明らかにしていなければならないし それは 具体的に このデカルトパスカルらと どうちがうのかを やはり明らかにしてからでないと 新しい生活態度の新しさは あいまいである。
パスカルらの生活態度は 生の矛盾を みにくい連鎖からうつくしい連鎖へと転回しなかったのか できなかったのなら それは どういうわけか まだ一向に 明らかではないからである。
またわれわれは これらの問題の 想像の世界における解決――つまり一般に 慈悲を立てて 解決のうつくしい連鎖を想像すること――を いましめた。なぞを言うほうが 現実であり 経験現実としても 有効なのではないか。

  • わたしがわたしでないものによって 規定されたり 同じくわたしでないものの方へ連れ去られていったりしないということ これが 大事なのだ。また なのだから 慈悲や気は 人間が考えたもの あるいは 行なうことである。わたしは 慈悲や気ではなく その人間のほうである。

問題と課題とは大きいけれど ここでは このあと パスカルについて見て 全体を終えることとしたい。
(つづく→2005-11-01 - caguirofie051101)