caguirofie

哲学いろいろ

#18

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

《封建的世界像から市民の世界像への移行》にかんするボルケナウの議論について

§16(序の一)

フランツ・ボルケナウ*1が この書物

封建的世界像から市民的世界像へ

封建的世界像から市民的世界像へ

において 議論したことがらは その副題に示すとおりに 《マニュファクチャー時代の哲学の歴史への研究》に属し まさに《世界像の哲学的な形成とその継承・発展》にかんするものである。
そしてもしそうだとすれば この書物に対するヘンリク・グロスマンの批判(これは上の訳書におさめられている)の成功にもかかわらず ボルケナウの議論はそれをすり抜けて 何がしかのことを わたしたちに語ろうとしているようである。
ボルケナウは この長い議論において 中世のトマス・アクィナスから十七世紀のデカルト ホッブズ パスカルに至るまでの哲学(あるいは 哲学者)の歴史を扱って しかも 二十世紀の一個の人間たる自己の《世界観》を 明らかにして示そうという態度をとっているように思われる。これは 言ってみれば およそ そうであることが当たり前だとも言えるし しかもそれが《研究》に属するとするなら 逆に けっしてあからさまに そうであるとは言えない。ということなのだが もしグロスマンによって 経済史にかんする基礎的な事実認識の点で ボルケナウは確実に欠けるところがあると明らかにされたあとでも かれのこの議論(そう総括的に呼ぶ)が残り それによってわれわれに語りかけるものがあるとしたなら それは ボルケナウのほかならぬ《主観》が その長い思索をとおして 表明されているという理由によるものではないだろうか。
グロスマンは その批判の中で 経済史の問題だけではなく《哲学的および精神史的な問題》についても ・つまり言いかえると 《方法》の問題についても 《わずかに》でも触れているのであって それは 中村雄二郎のボルケナウ批判(〈思想の歴史的研究について〉《パスカルとその時代》1965)とともに 成功していると考えられる。しかも これら中村およびグロスマンによる批判は 社会=歴史の中における《イデオロギー(つまり哲学・思想)》の位置づけの仕方にかんするものであって その成功にもかかわらず――もしくは それらの基礎的な批判が成功したがゆえに その成功のあとでなお 具体的な個体の社会生活の態度・つまりわたしたちがここで言う《主観》は それらをすり抜けて というか もともと そのような客観基礎だけで規定されがたいものであるからのように―― ボルケナウの思索は われわれの前に のこっている。
つまりグロスマンの批判によって明らかにされた 方法の基礎(その共通の了解)のあとに・その上に ボルケナウひとりに限られず おのおの一個の人間として 主観の態度――これも 方法である――をとることは 自由であって 一人ひとりにゆだねられている。というものである。
中村雄二郎の批判 ないしは それをとおしての主張などにあっては そこですでに この《主観》ということも 織り込み済みなのであるが わたしが言いたいのは その中村の議論も この主観を 基礎的に客観認識するという行き方に立っていて(勿論それが わるいと言っているのではない) したがって そのあとの生きた主観の取り方は 自由である。
ここで ボルケナウの議論は ともかくかれ個人の主観する考え方として 生きると思われた。この 恣意的な見解をまで許容する人間の主観ということ これのほうが 経験的な論法で言わば 生きた現実なのであって ここで ボルケナウのそれは いま――つまりかれの著作のあと――その基礎認識の欠陥を修正することによって といえるほどに まだその思索の軌跡は 過去のものとは なっていない。こう考えた。
《第八章 パスカル》の最後に すなわち書物全体の最後に ボルケナウは 述べている。

〔a〕 かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生きるとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=踏み出された?)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考によって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということである。
封建的世界像から市民的世界像へ§8・4 p.673。冒頭の符合(〔a〕)は引用者による記号づけ。)

《歴史主義が》かどうかを別にしても この書物の執筆当時すなわち一九三〇年前後の時代にあって ボルケナウはこうして 自分が パスカルをのりこえた あるいはさらに デカルト ホッブズ パスカルにいたるまでの哲学的な世界像にかんする歴史を一つの過去としえた と主張したのである。
この主張の方向は 歴史事実の認識の欠陥をすり抜けて残り そうだとしたらその限り かれのこの主観は まだ一編の真実をあらわしている。
《時代のなかで 孤独の存在に終わらず 生きると見るとを統一して 生活を解釈しなおし 生活そのものを変更する》という主観の具体的な生活態度 これは――反面で 《研究》が こんなことを述べても しかたがないといった批判の声を耳にしつつだが―― すでにたとえばマルクスが言ったものだとしても これを 自己のもとに確認するように現実に――ふたたびでも――表明することは たしかに実際 これまた 方法の基礎にかんする共通の了解の問題に属している。この点は――上に触れたように 当たり前だとも言われるであろうから―― グロスマンや中村に 異論はないであろう。つまりかれらや われらも この単純な基礎から 批判をおこない 生活――むしろ生活――を開始している。
中村やグロスマンは 方法の客観基礎 あるいは主観の動態にかんしてもその客観基礎――したがって 経験科学の出発点――を どちらかと言えば 議論の焦点にすえている。そして このときにも 方法の主観基礎(生きた主体)という当たり前の出発点(ないし原点)は 有効なのだから 客観出発点は 主観原点の上に 立っている。これが 暗黙の了解事項であることと その中の両者(原点と出発点と)を切り離すこととは 別である。
そして 暗黙の了解事項であるときにも 明言の表現事項であるかどうかは 別の問題である。明言のばあいは それこそ主観的に かつ主観基礎という原点のほうを重視して 議論し 一般に あやまちを免れない。だが こっちのほうこそ 生きた現実だと われわれは考える。
ボルケナウの議論は 《哲学の歴史への研究》であって それが持つ固有の性格として むしろその(かれの生きる)現在の主観の 哲学的な表明であり 経済史の研究とそれにもとづく方法の基礎 あるいは思想の歴史的な研究一般としての方法の基礎とならんで 生きた主観現実のやはり方法の基礎を 提供しようとしていると まず考えられる。ボルケナウのこの議論にかんして そこまで譲歩しなければならないと まず思われた。
パスカルが 或いはデカルトホッブズやが問題なのではなく まず自分 そして 封建的な世界像やそれからの市民的な世界像への移行の歴史がではなくすでにこの現在 これら(《自分》および《現在》)が 問題とされている。

  • ただし モンテーニュが《私自身が私の書物の題材なのだ》という場合には 違うはずだ。
  • かんたんに言えば モンテーニュは その書物の中に どちらかといえば とじこもりがちだ。そうして やはり あやまちなきを――懐疑の精神で 消極的に――めざす。
  • ボルケナウは 題材はむしろ外の歴史経験でもあり 書物から外へ・あるいはその先へ 向かって進みたいと言っている。

これが 経験科学の行き方からして それを逸脱していると見る考えも 出されるのかも知れないのだけれど もしそうだとしたら その逸脱という欠陥は じっさい 経済史にかんする認識や思想史の研究の方法一般やの欠陥からも 逸脱している。
《わたしはここに立つ》と言ったのは ルターであるが ボルケナウは そういう《わたし》つまり原点を思索した。《ここに立つわたし》の原点は 経験科学の方法基礎という出発点に 先行するはずである。こういう行き方もあると認めなければならない。
そして グロスマンも中村も この点を――暗黙の了解事項であるのならば――積極的にみとめたうえで 批判した こう すすんでわたしたちは 言明していっても よいのではないか。
もしこのようなかたちでボルケナウの表明した主観が すでにマルクスのものであったとしたなら 経験科学の《正統》の行き方に立つ人びとは そのときには 《正統》の議論として マルクス批判をおこなわなければならないし――そのマルクス批判をもってこそ このボルケナウへの批判を完成させておかなければならないし―― いや それは マルクスの主観なんかではないという場合には そのボルケナウ自身の現代に生きる者としての生活態度そのものを取り上げ 批評しあっていかなければならないのだと 考える。

  • ただし ボルケナウは この書物の限りで ここに言うその生活態度を 書物の最後に到達点としてのように 表明しただけでもあり そうだとしたら 経験科学の行き方としても またいわゆる実践としても ちょっと 甘えているのかも知れぬ。
  • だが 経験科学に先行する人間――《わたし》――なる原点は すでに暗黙の了解事項であり それでよいと言ってきかない人も どっちかといえば あまえている。

整理するなら 経済史(自然科学の応用・実践を含めて)は 社会生活の基礎であり この基礎にもとづく社会生活総体の研究を経験科学は 根幹とするし 思想史の研究も この経験科学一般の根幹に立ち その根幹にもとづいて自己の方法一般を立てるし しかも これら経済史・思想史などなどから成る社会生活総体にかんする経験科学の主体は 必ずしも《人間一般》なのではなく――それだけではなく―― わたし・きみ・かれ・かのじょといった具体的なそれぞれ主観の主体である。そしてこの最後のことがらも 方法の基礎の一つである。経験科学の作業そのものの外にあるかも知れないが――しかしそれは むしろ原点として先行しているのだが あるいはまた かと言って これは 主観内のだがすでに経験現象である心理のことではない。心理となると すでに後行するところの出発点の問題である のだが まさにこれらのことのゆえに―― 現実に生きる主体の主観が 社会生活の外にあるというのは おかしいのであって 主観こそが まずはじめに 方法の内なる基礎である。

  • そんなものは あいまいで不確かだというのなら それにもかかわらず そういう一つの方法基礎になっている。

経験科学が 逆に 外にあると言おうとするのではなく それ(=経験科学)は 主観という内なる方法基礎の 展開にあたっての 手続き一般である。つまり 後行する出発点である。社会生活における主観と主観との交通を 客観的な基礎認識を提供することによって よりよく促すやはりいま一つの方法基礎である。経験科学はである。
そうして ボルケナウについて言っておかなければならないことは あらかじめ 次のことがらであると考える。
まずかれは 正統の――あるいは狭義の――経験科学の行き方に ここで 立たなかった もしくは その主張のありかの問題としては 立たない別の行き方をとった。わたしたちにとっては 主観の内なる方法基礎――ボルケナウは その意味で 《人間学》と言っているように思われる――も じっさい 経験科学の対象であると考えられる。ただし 基礎ではなく 主観のすでに全体・そしてその意味での内なる方法そのもの(つまり 自然法でもよい。すなわちただし 個体の) これは やはり大きくは経験科学の対象ではあるが 客観法則――もっともこれも経験法則――を基礎として認識しようとする経験科学そのものからは 逸脱しているものであろうということ。もちろん事の真相は 経験科学のほうが 《わたし》の原点から出発して 人間一般ないし人間の社会的な関係という領域を考察の対象とし 定義・概念整理・一定の理論としての限定 これをおこなうのである。
ボルケナウは あたかも経験科学の別の一つの行き方として――もしくは広くあたらしい経験科学の行き方の端緒として―― 主観基礎・《人間学》という視点を 提出した・確認した もしくは模索した。そして かれ自身の主観そのものとしては 一つに思想史の方法一般にかんして その主観基礎だけでもって しかもこの主観基礎を 経済史じょうの具体個別の情況と 固定したようなかたちで つなげてのように 歴史=社会生活をとらえてしまった。もう一つに これによって 経済史の事実認識にかんして ここでもやはり 主観基礎だけで押し通すかのように したがってこの場合 それぞれの思想家の主観を把握しようとするときに 自分がとらえたそのかれらの主観ないし主観基礎に合致した経済史の事実――ボルケナウの把握し構想する世界像につごうのよい経済史事実――だけを取り出し 時にまちがった形で その裏づけとしてしまった。
ということは ここでの指し当たってのわたしたちのボルケナウ観としては―― 一つの妥協に見えるようなかたちながら―― かれは むしろ純然として 主観基礎を そこでの自分の基本的な視点とし この人間学の視点一本で かつその範囲内で 押しとおしていても よかった。そういう――もともと はじめの――態度で それぞれの思想家およびそのかれらの継起する一連の歴史をあつかい 議論していても よかった。この狭められた領域では 一編の真実を語ろうとしたし また実際 わたしたちに語りかけている。
なお 《主観基礎》というのは じっさい――くりかえして言えば―― ボルケナウは パスカルならパスカルと 主観基礎の視点を軸にして 対話した もしくは パスカルの主観(また主観基礎)で 自分の主観を思索した。そうしたかった。
わたしたちは こういう前提を持つが そこから どういうことが言えるか。

  • なお 中村雄二郎の行き方が 哲学としても 経験科学の方法一般に立つことに限定されるというのは 誤解が生じるかもしれない。主観の動態をも客観基礎にもとづいて把握するというだけでなく まさに主観の原点に立ち これを問題にしていると言わなければならないかも知れない。それでも わたしが ここで ボルケナウの行き方とは区別するのは 中村が ボルケナウの目指した人間学の視点を 同じくするとき そうだとしたならば 中村は その《わたし》を一つの想像の世界のうちに 言明するかたちを取ると思われるからである。
  • つまり まちがいをおかさない形だとも言えるが さらに これについて それはそれで一つの行き方だというのではなく もし ここに言うボルケナウの行き方と変わりないのだと 言う人がいたならば それに対してわれわれは まちがいを犯せと言おうとするのではなく 自分の主張を 読者に想像させるかたちで理解してもらう行き方を やめていなければならないと言う。
  • 《わたしはここに立つ》というときの《わたし / ここ》は さもなければ 主観の動態ではなく 主観の想像の世界としてのここであり 想像のうちにある主観(その限り 原点だが)としてのわたしであると思われる。

われわれが ある思想の理論的追究あるいは成果を学ぶということは 少なくとも究極的には その理論あるいは体系とわれわれが 《対話》を交わすことを通して その理論や体系を 自分の思想の全体のうちに組みこむかたちで再構成することにほかならない・・・。
中村雄二郎パスカルとその時代序論pp.3−4)

  • これに対しては 一つに 《ある思想家とわれわれが〈対話〉を交わすゆえにこそ 思想の理論的な追究が 得られる》と反論できるし もう一つに 《既存の思想を 自分のうちに再構成したものが けっして 出発点としての経験科学的な 概念を限定して整理した骨組みだけの理論ではないとしても そのときの〈血や肉のついた動態としての 自分の思想の全体〉というのは 中村にあって 想像のうちに浮き彫りにするかたちで 表明される》と考える。

しかし パスカル デカルトから離れ 時代的にも領域的にもかなり違ったところに 思想的 学問的関心が向けられていたときでも 気がついてみると パスカルデカルトがいかに自分がものを考える場合の拠点になっているか におどろかされるのであった。
(前掲書p.1)

  • これは ほかのところで(つまり本論で) 具体的に詳細に 説明しているとしても ――これがわるいとは言っていないが――すべては 想像のうちにその内容がある。パスカルデカルトが ゆうれいのように 判断の拠点となるわけではないから――また中村も そんなこと ひとことも言っていないのだが――むしろ こう述べるべきである。すなわち 

具体例を出さずに抽象的に言うばあいにおいても 《わたしたちのものの考え方は すでにデカルトパスカルと共通するものを持つ。

  • デカルトたちが むしろ それは おどろくべきである。あるいは その驚くさまを見て(架空の話だが) さもありなんと言って われわれも少々誇ったとしても よい。こう言うのは あやまちを許容するか すでにあやまちなのであるが 想像の世界ではないということだ。
  • こういう人間学の行き方が 成立するかどうか 少なくともその人間学基礎を ボルケナウは模索した。《パスカルデカルトから離れようと離れまいと わたしは ここに・いま いる》と言わなければならないし そう言っていこうと ボルケナウは 模索しつつ 語った。

(つづく→2005-10-12 - caguirofie051012)