第二部 歴史の誕生
もくじ→2005-06-20 - caguirofie050620
第二十八章 ことば(ウタ)の表現としての《イリ》動態――歴史の誕生としてのオホタタネコ原点――
やまとは くにのまほろば 夜麻登波 久邇能麻本呂婆
たたなづく 青垣 多多那豆久 阿袁加岐
山ごもれる 夜麻碁母礼流
やまとし うるはし 夜麻登志 宇流波斯
(古事記歌謡・31番)
このうたは ヤマトタケルノミコトが 遠征の途上で国をしのんで うたったとされているが もちろん古事記作者が そうしたのである。
言いかえると おそらく歌は ヤマトタケルと何ら関係なく受け継がれていたものであり かつ ヤマトタケルじたいの伝承はもちろん それとして別に存在したというふたつのことが 両立するはずである。古事記作者がはじめて この物語につなげたのか それは定かではない。
上つ巻・神代の記事で オホクニヌシが詠んだうたの中に
山処(やまと)の ひともとすすき(一本薄)
(記歌謡・5)
という句があるように 《やまと》は まず普通名詞である。むろん 上のヤマトタケルの物語では うたの中で 特定の地の固有名詞となった語である。また けれども 郷里――それは 山あいの地でなければいけないが――への想いをうたったものとして 一般的にも聞いて受け取ることができる。つまり それが 最初の成立であるだろう。
いわば この《国しのひ》のうたは 人間関係へのではなく ふるさとへと《イリ》を表現したものである。単純に まずそう言っていいだろう。また 土地・自然を表現しつつ 広く むらのイロセ・イロモたる人びとへの《郷愁》――つまり人間関係――にほかならない。
ノスタルジアが ここでは昇華されているのを見る。アルジア(アルゴス)つまり心のやまいをうたって それから解放されている。ウタだけを取ってみても 文脈の中で眺めてみても そう解釈される。これは 《イリ》――その表現または発語――の原型的な行為に比定されて 差し支えないであろう。
- いわゆるウタ(歌謡)の発生という主題で論じることも出来るように思われる。ここでの行き方は 必ずしもそうではない。
アマガケル場合の確認
いま くどいように確認しておくとするなら 次のようである。
うたの詠み手だけでなく これを聞いた人びとは このように表現されたうたをとおして 郷里の人びとの懐かしさとともに愛を だから むしろ目に見えずこの世を超越するところの愛を 感じたかも知れない。それは つまり まつり・すなわち神との共食のことである。こころの向きだけとしてでも そういうことであるだろう。
ところが このいまの構図 神とのまつりの場面 これを 想像において 模像を描くということが起こる。その意味するところは 目に見えないオホモノヌシが その想像裡に 偶像となって現われるというものである。《愛》が 高く掲げられたあの旗に宿ったというお告げなるウタである。《愛》が この世に現出したというウタである。その旗手こそが 統一第一日子その人ということになる。だって 日子の能力は そこまで翼をつけそれを広げ翔け登ったという主張である。だって わたしは 見たのだもの わたしは そのオホモノヌシの霊を呼び寄せたのだものと。
このウタが 社会秩序のメロディにまで 成り上がった。ワケタラシ日子のウタである。だから やまとは国のまほろば・・・という同じウタが そのまま別の一面を持たせられうる。幻想が 現実となりえた。
イリヒコ歴史知性が ことばで表現するとは どういうことか
さらにまた はじめに掲げたうたは ノスタルジアでも何でもなく その地を指して 自然を形容したにすぎないかも知れない。もちろん形容するには ある種の感動がともなっているはずである。環境についての感性的な受容があり 感性の惹起がある。
おそらく ワーヲ!!と または 静かにウームといって感嘆したあと ことばを表出し ことばに表現していったものと思われる。
やまと
くに
ほ(穂・秀)
たたね(畳)‐つく(付・突・築)
あを‐かき
山 こもり‐有り
やまと‐し(其)
うる(裏・心)‐は(愛)‐し
やまと‐しの し は 其れを意味するシであろう。指示し強調している。は(愛)‐しの し も 同じようであろう。この場合 指定し肯定し 用言(はし)としては 断定法・存続法を形成している。状態用言(=形容詞)である。
この活用のあり方に 歴史知性の意思内容が表わされる。話者の意思表示である。
- 強いて分ければ 個々の語の記憶にもとづくその語の認識と使用とは 知解内容に対応する。
- これを 意志にもとづき 具体的な意思のありか・またあり方を表わすため それに応じた形態に活用させるのが 意思表示である。
- 体言については 格に活用させる。たとえば ヤマトなる語を ヤマト-ハという如く 主題提示の格に活用させる。
- 用言については 法活用という。法 mood とは だから 意思のあり方のことだが 欧文のごとく 気分・気持ちでもよい。
- 存続法(入ル)とは 用言(一般に動詞)が 存続の状態にあると判断し これを 存続の状態を表わす形態に置くということを意味する。一般には 終止形という。
- 概念法(入リ)とは――動詞の活用として 連用形のことであるが―― 用言の意味内容を 概念を表わすかたちに置きたいという判断のもとに その活用形に定めるものである。
- 不定法とは 動態用言(つまり動詞)の意味内容を そのまま何の判断をも施さずに 提示する形態である。言いかえると 意味内容を裸のままで提示すると判断した結果の活用形である。
- 前章で 不定法・イルと言っていたのは いまの活用形として定まった不定法の以前の不定形のことをいう。入リの不定法は イラツコの入ラである。
- 不定法①は 一般に活用内容から言って 概念法②あるいは存続法③が 代理することも出来る。大雑把に英語でそれぞれ ①to enter と ②entering と③ I enter. である。不定法( to enter )と概念法( entering )とが使われる。
- 日本語では 《入ること》を表わすものとして 入リ(概念法)も入ル(存続法)も使える。英語では 存続法( I enter. / You enter.・・・)は 《入ること》を表わし難い。
- 一方 日本語では 別様に 不定法が 用いられる。意思法(または推量法)の補充用言(助動詞)-ムや ある意味でそれとは逆の否定法の -ズとも連絡しうるのが 不定法の活用形態である。入ラ(不定法)-ム / 入ラ‐ズ。
- まさに 不定法は 話者の判断が不定の状態にとどめられたという判断を表わす形態である。意思のあり方は それにつづく補充用言のほうが 入るの意思を提示します(意思法)とかあるいは 入るに関して否定として提示します(否定法)と言っての如く 担っている。
このうたでは ほかに たたね(畳)・付く・籠もり・有りの用言に 法活用が展開する。そして やまとや くにの体言に 形態として明示的に 格活用がつく。
いま その前に たとえば ほ にその相(意味内容)の詳しい確定がほどこされる。ほ(穂・秀・帆)は 突出したもの・秀でた(←ほ‐出づ*1)ものを言うが これに 証言するかのように確言の名辞 ま(目・真)がつき 親愛称の名辞 ろ rö(また る・ら・れ)を添えた。
ま‐ほ‐ろ
バがさらに添えられるのは 接頭辞のマ(真)の転か あるいは 主題提示の格であるハからの転であろうか。マホロバとして語がさだまったところで 提示された主題であるヤマトと 格の連絡関係が 同じく定まった。
話者: 名辞 名辞 発語(表出): やまと まほろば 問い+答え: 主題の提示 論述の表明 文の成立: やまと‐は まほろば。 (話者格): 主題格 論述格 :主題提示層① 文の分析: 〔やまと‐が まほろば‐なり。〕 論理的な格の関係: 定義主格(S) 定義述格(V) :論述への収斂層②
- S Vというのは 英文法の S(主語)−V(述語)−O(目的語) また C(補語) のそれを用いた。
ここでは まだ用言の法活用については 説明していない。
体言の格活用から広がって 文の成分どうしの格関係 これが ふたつの層から成るというのが みそである。① 話者格(〔我レハ言ウ〕格)によって統括された 主題格と論述格との問いと答えとの関係としての主題提示層 そして② 論述の述格へすべて収斂していく文の成分どうしの論理的な格関係としての論述収斂層と。だから やまと‐は のハは 提題格(ハ格)と主格(これはむしろ ガ格)との二層から成り 二重の格活用を担っている。これらは 追って明らかにしていきたい。(あるいは この《古事記・その史観》の中心的な主題ではないと言わねばならないかも知れない。)
- また 全体として 主題格(やまとは)+論述格(まほろば)=文なる表現と 話者格(〔我レハ言ウ〕)とが あたかも格関係(統括関係)として拮抗している。
ヤマ‐ト(山‐処)や アヲ‐カキ(青‐垣)のように 体言ないし名辞が 互いに直接つながる形式のほかに 用法としては同じ属格の活用として クニとホとの間で クニ‐ノ‐ホ(マホロバ)というノ格が用いられる。
親愛称の名辞 ロ・ル・ラ・レ rö が クニ‐ロ‐でもなく クニ‐ナ‐でも クニ‐ツ‐でもなく クニ‐ノ‐として現われた。
いまひとつ別の属格 ガ格(たとえば 我‐が‐国)については あとで追求してみたい。
《やまとは くにの真秀ろば》なる一文をうけて その同格ともいうべき内容が 次に表出される。《青垣》と さらにその同格としての 《山ごもれる》と。
《青垣》に対して 用言が 属格と同じ用法を持つためには 連体法という活用が用いられた。
たたね+つく+青垣→たたな(*不定法)‐づく(連体法)‐青垣
山+こもり+有り→山‐ごもれる(連体法)‐〔さま 或いは 青垣〕
最後の
うる‐は‐し
これについては 中心主題の提示に用いられるハに 注目しうるかも知れない。こころ(うる)‐ハ 其れ(し)と言って こころの思い・情感の動きを指し示そうとしているのだろうか。あるいは 中心主題に対する反対の極のハ(端)のことなのかも知れない。心の端が其れと言って 気持ちとして接する心の部分が暖かくなるかに感じると言おうとしていると。うる‐さ‐し というのは 心(うる)の其れ(さ)が其れ(し) と言っているのかも分らない。煩い・五月蝿いというのだという。一般に うる(心)‐さ(狭)‐し だと説かれる。
やまとは くにの真秀ろば
たたなづく 青垣
山ごもれるやまとし うるはし
さらに イリ日子歴史知性のことばによる表現動態をさぐっていこう。
(つづく)
*1:ほ(秀)‐出づ hö-idu> hö-y-idu >höy-idu >hï-idu >hiiduひいづ。-y- は発音補助。