caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

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付録五 それでは共同観念夢は どこから来て何故あるのか

42 不正を愛する人は自己の魂を憎む

前節より直接つづく。
《可視的でない構造的な心的な現象》をとらえた吉本隆明は しかし この《心的》という概念を 今度は 通俗的(観念共同夢的)な次元に 引き降ろす。これが 現実的でないことは そこに《自由の源》が観想されなくなるからという理由による。

ここでいう《心的》という概念が《意識》にたいしてもっている位相は あたかも《思想》という概念が《理念》にたいしてもっている位相のようなものである。
〔思想という言葉が包括するものは 確定した抽象的な層まで抽出すると 理念にまで結晶しうるが また日常の生活の水準では たとえば魚屋が魚をよりおおい儲けで販るにはどうすればよいかというようなことをかんがえたすえ 体験的に蓄積した判断のひろがりのようなものをふくんでいる。それは いわば魚屋の内部で《思想》を形成する。
おなじように わたしが〕《心的》というとき上層では《意識》そのものを意味するが 下層では情動やまつわりつく心的雰囲気をもふくんでいる。
(心的現象論序説吉本隆明全著作集 10 思想論 1pp.12−13。途中で括弧=〔 〕をつけたのは 引用者。)

われわれは はじめに《思想・科学と 人間》とは 別のものであると論じたが ここでは《思想》は――《魚屋の判断のひろがり》が出てきたから 通俗的と言うのでは とうてい なく―― その上層の結晶領域と下層の具体領域とを含めて言うものであるとすれば いづれもこの範疇に属するものは 観念共同夢の要素であるからだ。
それらは 共同主観夢の――動態そのものではなく――抽象化された概念・理念(それは抽象化されたかたちの・人間の有である)か それとも 単に観念共同夢のなかの思念とその結果(成果)を言っているということからである。思想は その停滞領域において そうであるしかないと言わざるをえない。言わざるをえないが このままを 《心的世界》ととらえるというのは そこに《上層と下層》の範囲が示されるとは言え まったく《構造的》ではありえない。また このような類型で考えられる《意識(上層)と情動など(下層)》とから成る《心的現象》は 肉の眼で見られないからと言って 内なる眼で(すなわち こころで)充分に《可視的》である。これは 《身体》に対して独立して構造的に存在する《こころ・心的現象》を語るものではない。共同主観夢としての《心》は――ある種の予感によって捉え得るも―― ただちに人間の内なる眼によっても見られない領域(存在)をも宿している。しかし 《意識と情動など》の心は むしろこれらが身体や自然行為と一体となったもの(あるいはそれに対応するもの)であって 観念=身体の共同夢に属し われわれの共同主観夢は この《意識と情動などにまつわりつく心的雰囲気》をとおして 精神の秘所なる《こころ》をとらえているというようにして構造的でなければならなかった。そこに 《自由の源》なる存在が 宿ると信じたがゆえに。
また このとき 身体の運動は《結果的解釈としか考えられない》という心的現象が生じるのであると。われわれは 共同主観夢とその前進する道において 上のような経験的なるものから成る場合の心的現象を超えて行かねばならないと思う。はじめに《主に属(つ)く人は 主と一つの霊である》と 共同主観夢において受け取ったがゆえに この共同主観夢における経験的なものを超えて(天の高みに走りゆくことなく 出立して) かの《自由》なる愛を 前進させていきたいとあえぎ求める。

神秘にかかわってこそ 構造的である。

もちろん 吉本はこう言う。

もちろん ここで心的な現象のもんだいを解こうとしているわたしにとって 《心的》とはなにかを定義することは そのまま心的な現象を解明するという目的ときり離すことができない。定義することは 終りまでたどることである。・・・さしあたって 《心的》という概念が けっして《意識》そのものを意味するものではないことを はっきりさせておけばいいとかんがえる。
(心的現象論序説吉本隆明全著作集 10 思想論 1 p.13)

われわれは この《〈意識〉そのものを意味するものではない》ということを 《上層では〈意識〉そのものを意味するが 下層では情動やまつわりつく心的雰囲気をも含んでいる》という意味で主張するものではない このことを述べたことになる。

  • やや詳しくさらに述べるならば。われわれが 《意識や情動》をもとおして 心的現象ないし共同主観夢を捉えるというとき こんどは逆に その対象ないし捉える主体の動きは 《意識》であるではないかと問い返されるであろう。それ以外の《無意識》だなどと 必ずしも 逃げるわけではないからである。
  • ただ言えることは この共同主観夢なる意識と言うならば意識は あの暗きにあるものを明るみに出すとされる聖霊なる知恵と愛に導かれるものであり もちろん 聖霊がわれわれのからだに宿るとは言え ただちに聖霊なる真理それじたいであるものではなく さりとてこの真理なる力のはたらきに俟つ以外のものではなく この真理の光にわれわれが照らされてのごとく 与えられるあの三つの能力の総合的なはたらきなのである。
  • それは 観想において瞬時に見られ 実際にはつねに時間的な過程の中で もしくは それとして 現われる。
  • これを人間の言葉で表現し解釈し説明することは 《預言》とよばれる行為*1である。

しばらく われわれの導き手の文章を掲げる。

精神は不在なものとして自己を認めようと問い求めないで 自己を現在するものとして認めるように心を配れ。また あたかも まだ知らないように自己を認識しないで 知っている他のものから自己を区別して知らなければならない。
アウグスティヌス三位一体論 10:9〔2〕)

このゆえに 世あるいは世の部分を支配するあの権能によって神を問い求める人びとは神から引き離され遠く散らされる。しかしこれは場所の離隔によるのではなく 情念の多様性による。かれらは外に行こうと努めて 自分の内面を見棄てるのであるが 実に神はこの内面にこそいましたまうのである。
(同上8:7〔11〕)

  • 思想や意識は 内面のものでおおいにありうるが すでに外面となったもの・あるいはただ外面をのみ意識したもの これらでも同じくおおいにありうる。

さていかなる人も 少なくとも私じしんは思惟するままに決して語りえない事柄を語り始めているのであるから――私たちの思惟そのものも 三位一体なる神について思惟するとき 思惟するお方に全く似ていないことを知り またそのお方を在るがままに理解しないのである。しかし聖書に記されているように使徒パウロのような偉大な人でさえ そのお方を《鏡をとおして謎において》見るのである――・・・。
・・・思惟されるとおりに語られえず また存在するとおりに思惟されなかったりするもの・・・。
(同上5:1−2〔1〕および〔3〕)

これらの文章を引いたのは 人間の《心》が むしろ吉本の他の箇所で言う《心的現象を解明する過程において〈心的〉とはなにを意味するかが どこまでも明晰にとらえられなければならないはずである》(p.13)という言葉の存在によって たんなる観念の世界へ拉し去られていかないであろうと踏んだためである。差し詰めわれわれは 《人間と真理》もしくは同じことで《共同主観夢(人間)とその原理》ということの内に 《心的現象》(その場)を問い求めるということとしたい。

不正を愛する人は自己の魂を憎む

ここまでは 第1節〈心的現象は自体としてあつかいうるか〉の範囲である。次に 第2節〈心的な内容〉の展開に移る。
しかし その展開については 基本的にすでに たどり批判したと言ってもよいことを すでに吉本の書物の読者は 知られるであろうと思う。フロイト(これは 第3節以降に触れられている)もしくはここではクレッチマー精神分析学への言及をなさなかったという違いのみであろうと。だが クレッチマーの理論とその吉本による援用の部分は ここで割愛したいと思う。われわれは ここで ただちに吉本の次の結論的な文章を引いて これにわれわれの見解を与えるべきである。

わたしたちが 《心》と《身体》とを対応によって関係させようとする記述を不当なものとかんがえる理由のひとつは わたしたちの《心》にたいして 《身体》という外界と《外的現実》という環界は かならずしも同一の根拠をあたえないということにある。
(心的現象論序説p.20)

このすぐあとに やはり吉本は 

しかし わたしがいま述べてきたようなことは あまり完璧な事例でないことはすぐに了解される。それは 身心相関の医学にたいして完璧でないのではなく 〈心的内容〉が〈心的内容〉として扱いうるという徹底した立場にたいして完璧ではないのである。
(同上p.20)

と述べて あの《思惟されるとおりに語られえず また存在するとおりに思惟されなかったりするもの》の正体を わかってかどうかは別として 捉えた文章をも示している。このことは すでに措くとしたなら 上の引用節について われわれの見解を示すべきである。
この一節の文章は たしかに 独立する心的現象について語ったものであると思う。ただし その中で 《〈外的現実〉という環界》という概念はすなわち そのような共同観念夢のたとえば経済行為事実の世界ということを表わし そのまま われわれの概念をも構成するが それに対して 《〈身体〉という外界》という規定には いささか物言いがつく。まず この点を明らかにしよう。
《心(あるいは魂)》と《身体》とは別のものである。たしかに そうであるが これは心をとおして身体の運動が捉えられるというとき 身体は《外界》を意味することにはならないであろう。もし他者の身体だと言うのであれば それは 《外界は 外界である》と言うに等しい。が これは あたらない。だから 自己の 共同主観夢において 身体は――内界と言わずとも―― 自己の側にあって その外にあるのではない。つまり 主観夢は《身体》を包摂するのであって 《〈身体〉という外界》といった分析論理的な規定は その包摂の中の区別であるとしても あまり意味をなさないと一言 ことわっておきたい。
そこで 吉本はまず 《身体という・心の基体と 外的現実という共同観念夢の世界は 心に対して かならずしも同一の根拠をあたえない》と言う。そしてだから 《心と身体とを或る異常の状態の把握をつうじて それらの対応によって関係させようとする記述は 不当であると考える》と言う。心身相関・その物質的な対応説に根ざす見解――これは 共同主観夢のひとつの実践の方向としてある試み―― これに関しては すでにわれわれの取り上げ しりぞけたところである。この根拠を吉本は上の第一の文章の意味するところによって求めるというのである。
《身体と外的現実は 心に対して 必ずしも同一の根拠を与えない》 これである。それではこれは それじたい何を意味し またこれを根拠として 心身相関・物質論による心身対応説をしりぞけるとは どういうことを意味するか。
《身体と外的現実は 心に対して かならずしも同一の根拠を与えない》。これは このとおりであろう。身体が 心との関係において 必ずしも一義的に対応するものではなく 身体の運動の根拠が 心にその同一の根拠を与えないということは 真理だ。同じように 共同観念夢の外的現実が その根拠とされるもの(たとえば 経済行為関係)を 心にその同一の根拠を 必ずしも一義的に(無時間・無条件に)与えるものではないことも すでにわれわれは折りに触れてみてきたとおりである。しかし ひるがえって おそらくこれによって 吉本が 心身対応説をしりぞけるというのは これも 《心は 身体でないから 身体ではない》と言うに等しい議論になるとの見方を消すまでには到らない。もしそうであるなら したがって ここで この文章を問題にする意味は ほかにあるということになろう。

  • このことの追求は 次の問題の考察のあとになすであろう。

そこで この引用節の直前の文章に この問題のありかが求められる。次の一節である。

つぎに わたしの《心》はすべての空想と想像において自在であることをのぞんでいる。そしてこの自在さを大脳皮質のある部位につたえて 現実の場で行為の構造で表出しようとする。しかし 外界の現実は 種々の障害をもうけて いいかえれば障害としてわたしの幻想を疎外することによって わたしに行為の表出をゆるさない。このときわたしの《心》は わたしの《身体》と《外界の現実》とのふたつから疎外された錯合した幻想領域をもっているということができる。
(心的現象論序説 p.20)

ここでわれわれは われわれの結論に達したということができる。すなわち 表題の《観念共同夢は どこからやって来て どのようにあるか》に答えるためにである。上の文章は 共同主観夢にとって 同時に正しく かつ まちがっていると言うことができるであろう。こうである。
《すべての空想と想像において自在であることを望んでいる〈心〉》は 端的に言って 共同主観夢である。

  • 正確には 《自在》である存在への信仰によって 共同主観夢は 《自由に》前進すると 試行錯誤の過程の中から 観想しようとしていると表現しうる。

それは 《自由の源》なる存在の似像であるということに尽きる。しかし これに対して 《外的現実がもうける種々の障害にぶつかって わたしがその行為の表出をゆるされない》というとき もしそれが 《わたしの幻想を疎外する(=言葉などに出して自己のもとから切り離す)》というのなら わたしの共同主観夢は そのようにしてなお異和を保存して(幻想共同和に連れ去られずに) もとの心の場を見つめているのではないか。
しかるに 同じそのとき《わたしの心は 身体と外界の現実から疎外された錯合した幻想領域をもっている》というのは 共同主観夢が その自己の中から 不要なもの(自己でないもの・自己のものでないもの)として 疎外した幻想をふたたび持っていると言っていることになる。
おそらく吉本が言いたいのは そのようにしても 外界の現実(その根拠)とは 時間過程的にまた原理的に別の・自己の心的現象が存在するのだということに尽きるのであろう。ただそうは言っていない表現をとっている。
《心が持つ錯合した幻想領域》とは おそらくいまわれわれの問い求める心的現象とはちがって むしろ外界の現実(共同観念夢)から疎外されない心的現象のことである。つまり外界の現実と通底するそれである。つまり さらにいいかえると 観念共同夢から《疎外=表現》されてきて 自己の中に入ろうとして入った心的な現象のことである。

  • これは 《どうでもよい夢》の系列に入る。外から入って来たものは ふたたび出ていく。

アウグスティヌスが 《精神は 知っている他のもの(外的現実)から自己を区別して知らなければならない》というとき 上の事情をとらえた共同主観夢の動態を語っていることになる。
しかし われわれの共同主観夢は 実は 《身体の肉的な物理的な限界》からも疎外されることなく 上の外的現実からの出立と同じように 出立するはずである。共同主観夢がもしこのことを表わさなかったとすれば あの永遠が肉と造られたということは 空しいものとなるであろう。《真理がわれわれを自由にする》ということを問い求めても 空しいであろう。
だから使徒は 《この世はわたしにとって わたしはこの世にとって はりつけにされているのです。》と語る。これが 共同主観夢の出立のすがたであろう。そうでなかったなら 共同主観夢をわざわざ 吉本のおこなうようにしろ いづれにしろ 分析し考察しても より一層むなしいであろうし われわれは こぞって《飲めや歌えや 明日をも知れぬわが身》とうたって 共同観念夢のはかなさとその限りでの栄光に甘んじなければならない。また 共同観念夢の世界の外的現実からは 一向に 主観夢の障害となるもの(異和)が やって来るということもなく(そのように意識する必要がまったくなくなり) 心的現象を問い求めることは あたかも墓場の景観を設計しようとするようなものとなる。
だから われわれは 心的現象の《幻想》はこれを 共同観念夢の世界に返し そうして外に出てゆかず 自己を――まだ知らないように認識しないで 不在なるものとして認めようとも問い求めないで 現在するものとして すでに自己は自己を愛さなかったことはないと知るというようにして――認め さらに問い求めてゆかなければならない。

  • 信という思念は 内なる眼によって 可視的であり この信の対象は 不可視的であり なおかつ 《鏡をとおして謎において見る》というように 鏡は その自由の源である存在の証言となる。

主観夢の動態 共同主観夢の前進は ここにあって この過程的時間の外にはないというのが 永遠のいのちである。時間的に有限な・だから永遠ではないわれわれの存在の 永遠のいのちは その異和の生きた保持は このすがたの中にしかないであろう。《キリスト・イエスのものとなった人たちは 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです》(ガラテア書 5:24)。また 《生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが しかもその欲望は意のままにならない運動を持っている》(アウグスティヌス三位一体論 13:18〔23〕)が この文章はそのまま 次のように言いかえて 共同主観夢の内容とすることができる。すなわち 《身体に内在する肉の欲望(リビドー)は 心の意のままにならない運動(その根拠つまりその素材=質料)を持っているが これを婚姻の純潔は善く用いるのである》と。婚姻の純潔が  《主観夢》の原理的な共同性 言いかえると 男女一対の関係としての主観夢のことである。
《婚姻》は――《男と女の身体によって一つの精神の職務(つまり やしろにかかわるそれである)の配分が象徴されている》(アウグスティヌス三位一体論12:8〔13〕)と言われるごとく 婚姻は―― 共同主観夢の出立したすがたを象徴しうるのであって 《しかし 霊に導かれているならば あなたたちは 律法(共同観念夢)に支配されていません》(ガラテア書5:18)と正当にも 宣言すべきであるのだから。これは 《霊の人》として一つのものとなったすがたをも象徴しえているのではないかと考えられる。
参考資料としてアウグスティヌスの文章を掲げる。

さて生殖器に内在する肉の欲望を婚姻の純潔は善く用いるのであるが しかもその欲望は意のままにならない運動を持っている。その運動は 堕罪以前の楽園(原主観夢)において欲望が皆無でありえたか あるいはたとい存在していても 時には意志(愛)に抵抗することがないように存在していたことを私たちに示す。しかし堕罪後の今は 欲望は 精神の法に反しつつ 生むべき原因が全くないときにも 性交すべき刺激を与えるようなものであると私たちは考える。もしそれに人が屈服するなら 罪を犯しつつ満たされる。

  • 異和がなだめられ 観念共同和へ連れ去られるなら 罪を犯しつつ満たされる。

もし屈服しないなら 同意しないで 制御される。この二つのことは堕罪以前の楽園においては無縁なものであったことを誰が疑いえようか。なぜなら あの貞潔は恥ずべきことをなさず あの祝福はいかなる不安も覚えなかったからである。
したがって 処女の子が懐胎されたとき そこにはこの肉的な欲望は全く存在する筈がなかったのである。処女の子において死の制作者(共同観念夢への誘惑者)は死に値する何ものも見出さなかったにも拘らず 生命の制作者(処女の子つまり人間キリスト・イエス)の死によって征服されるためにかれを勝利者(悪魔つまり死の制作者)は 人類を拘束していたのであるが 第二のアダム(つまりキリスト)によって征服されて キリストに属(つ)ける者たちを放免する。このキリストに属ける者たちは 人間の輩(ともがら)であるが 咎の中に居られなかったお方をとおして 人間の咎から解放された人間の輩である。したがって あの欺瞞者は自分が咎によって征服した人間の輩によって征服されるのである。
このことは 人間が高められることなく 《誇る者は主において誇る》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 10:7)ためになされたのである。征服されたのはただ人間だけであった。人間は傲慢によって〔禁じられつつも提示されたりんごの木という有限なる時間共同知を摂ることによって〕神であろうとしたゆえにこそ征服されたのだ。
しかし征服したまうたお方は人間にして神であった。神は謙虚に 他の聖徒らの中になされたのとは異なって(同じキリストの奴隷となると言っても これら聖徒たちには 同じように十字架の上に至るまでに 従順であることを課されたが これとは異なって) 人間を支配されず むしろ人間を担いたまうたゆえに 処女から生まれて征服されたのである。
アウグスティヌス三位一体論 13:18〔23〕)

鏡をとおして謎において共同主観夢を見る

さて 《すべての空想と想像(つまり精神の思念)において自在であることを望んでいるわれわれの心》は 共同観念夢の外的現実に 障害を見出しつつ(だから この障害による異和 または異和をもとにしての障害はむしろ 常態である) しかし異和を持続させようとして 自己の・幻想的な思念(自己ではないもの)を 疎外する。共同観念夢へと返す。つまり棄てる。
しかしなおここに この《心的現象》に 《身体と外的現実のふたつから疎外された錯合した幻想領域》を――《不正(罪)を愛する人は自己の魂を憎む》といわれるようにして―― 錯覚された故国であるかのように 見出しつつ憩おうとする者 これは 共同主観夢の停滞領域を示し 観念(身体)共同和によって満たされようとする共同観念夢の実態を表わす。
しかるに 《心と身体とを その一義的な対応によって関係させようとする見解をしりぞける》場合 言いかえれば 《心に対して 身体と外的現実は 必ずしも同一の根拠を与えない》として 共同主観夢としての心的現象の実在を見出すことを問い求め これを擁護するばあい これは 共同主観夢の滞留常態を表わす。《心は身体とはちがうから 身体の運動と同一ではない》ないし《外的現実は そのまま・つまり共同観念夢として 同一の根拠において 主観夢を形成・構成するわけではない》と言って 循環論法ながら 異和の保持(ないし揚棄)につとめつつ 生きた精神(身体とともに)の運動によって あの帰郷の道を歩むとき 時間的存在の時間的な齟齬(ゆきちがい)を伴なった三一性主体(人間)であるゆえに それは 《滞留》することを つねとする。この滞留が 異和の場である共同観念夢の誘いに屈服しつつ 《停滞性》へと転換させられるとき 心的現象は 地上の身体共同夢へ引き渡される。夜に入る。つまり 眠る。ここに示された《道》が――つまり 夜に対して昼(律法)がではなく 夜へ渡されない新しい一日の形成へみちびく道が―― 永遠のいのちであると宣言する以外にわれわれは 言葉を持たない。

  • 《思想・科学と人間》というとき 一般に《昼(経験科学)と夜とから成る古い構成の一日》を扱っている。心・精神・霊(――唯物論を述べるときの人間のでもある――)というとき 《真理と人間》という観点に対応して 夜(共同観念夢)から自由な独立した三一性主体つまり人間を主張する。
  • だから ただし 人間は共同観念夢に寄留し 歴史を夜から始めると言われる。

現在して その精神の本性に属しているゆえに 決して忘れないように知られているもの 例えば 私たちが生きていることを知っていること

  • この知は 精神が滞留しているかぎり滞留している。そして精神はつねに滞留するゆえに この知もつねに滞留している。

また そこで神の似像がより深く凝視されるべきである他の類似のものは たといつねに知られているとはいえ しかもつねには思惟されないゆえに 私たちの言葉は私たちの思惟によって語られるとき どのようにこれらについて永遠の言葉が語られるのか 見出すことは困難である。
アウグスティヌス三位一体論 15:15〔25〕)

精神にとって生きるということ(共同主観夢)は 持続的なことであり 精神が生きていることを知ることは持続的なことである。しかも自己の生〔の異和〕を思惟し あるいは自己の生の知を思惟することは持続的なことではない。それは 精神は知っていることを中止しないが何か他のことを思惟し始めるとき このことを思惟しなくなるからである。(アウグスティヌス三位一体論承前)

だから われわれは このような常には持続的でない思惟によって成った《思想・科学》とそして《人間》とは 別のものであるとした。共同主観夢の原理は このように――その場がつねにこの生きた人間の側にあると同時に これを超えて―― 《思惟されたとおりに語られえず また存在するとおりに思惟されえないもの》だとこそ 見なければならない。ところが 他方で 《真理》と《人間》とは 別のものではないのであった。 《永遠なる真理》と《そうでない時間的存在たる人間》とは はなはだしく遠く離れて不類似であるが そこに《三位一体》の類似が存するのである。その場が 生きて 共同主観夢であるとわれわれは――かくも大いなる神の賜物に涙して――断言しなければならない。
聖三位一体が 共同主観夢の原理(すべてのもののはじめ)なのであり 共同主観夢は アブラハムにおいて イサクにおいて またヤコブにおいて 生きた身体の運動とともに動く時間的過程なるその似像 つまり 三一性主体(その夢)なのである。この理論(観想)から出発することは われわれにとって より一層ふさわしく現実的であり しかも有益である。
このキリスト史観が われわれ罪の器である人間にとって 永遠のいのちの信仰と観想の場であることを 誰が疑い得ようか。または逆に しっかり疑うべきである。
だからわれわれはそのこころが 清められねばならなかった。《こころの清い人は幸いである。かれらは神を見るであろうから》と言われるゆえに。この直視の栄光へ牽きゆかれることは この共同主観夢の歴史的な前進として われわれが呻きつつあえぎ求める祈りにほかならない。これは われわれ《人間が高められることなく 〈誇る者は主において誇る〉ために》なされることがらである。
われわれは 副題の《それでは観念共同夢はどこからやって来て どのように何故あるか》に対して答えることを問い求め 付録の全体として 《共同主観者にとっての夢》について考察をなした。くどいように言えば その問い求めは 必ずしもその解答を見出したというのではなく あるいはただその問い求めの場を見出したと言うにすぎないかもしれない。またむしろ言葉によってなされるべき表現は このこと以外に ありえないと言ったほうがよいかもしれない。しかし そのことのすべてを――あらゆる一つひとつのすべてをではなく 全体としてすべてを――語りえたと思う。
さらに欲することは すでに問い求めの場を見出した者のごとく キリスト史観として 言いかえると人間的な次元で人間の言葉として 何が言えるか 前提的に基本的な事柄があるとすれば それを考察することである。
まず第一には すでにいくらか触れていた唯物史観への批判という観点からこれらを明らかにしていくことである。これを第二部として さらにわれわれは そのあと キリスト史観とよぶものを つまり 主観夢を史観として 扱いうる範囲とその内容を考えることとした。この第三部のあと 第四部は ここでの典拠として アウグスティヌスの著述を示しつつ それまでの考察の再確認をなす予定である。
この第一部は 《第三の種類の誤謬について》考察した。すなわち 《こころ》を 一方で身体・質料・外的現実と同一の根拠によって把握するのではなく 他方で 単に観念的にないし心情的に これら身体や外的現実から独立して存在するものなのだというのでもなく したがって これら両者を ともに観念(身体)共同夢と捉えつつ しかもなお第三の仕方としてのように別のところに――あの天使のいと高きかつ中間の状態に――自己じしんを置くことによって 《真理と人間》ではなく 《思想・科学(真実)と人間》とを同一のものとしてのように 〔こころを〕捉えるという第三の種類の主観夢とその病いについて 把握しようとした。そしてその虚偽を――《こころ》の問題であるなら 自己の内なる場において――棄てようと言おうとしたことになる。これらが 《真理と人間》 またその場としては人間の共同主観夢の問題であると考えられたのである。これを 史観として考察しうるものなら 問い求めようというのが 第二部以降である。
(第一部 おわり)