第一部 第三の種類の誤謬について
もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
付録三 夢の展開と主観形成
25 主観形成と夢
われわれは吉本隆明の理論展開そのものにつきあうわけではない。しかし われわれの言う主観形成――新たな《一日》の形成――の問題を 考え しかもその結果を 書物に著わして公表している人は そうざらにはいない。基本的に言って かれの方法は ここでの視点からいって 共同主観の・共同観念流の自治への寄留とその新展開を 正面から追求するものではなく むしろ次のように規定するとき 事の実態をよく表わすものだと思われるが それはまず 主観と一般観念(幻想)との二段階構成になっていると考えられる。
その意味で 主観は ここにあって ここに寄留していると捉えるよりも ここからアマガケルかのごとく いと高き天使たちの中間状態(これは 思想的な営為の次元と言えなくはない)へと走りゆくすがたを採っている もしくは それを捉えようとしている。
だから 実際は人間は 天の高みへも地の低きへも 走りゆかず 死ぬまで時間的(肉的)存在なのであるから 欠点があるとするなら この中間状態という視点にあると 繰り返し言わなければならない。中間状態にあることはやはり それが独立したかたちで設定されると 幻想的で蜃気楼のごとくなると言わなければならない。
この吉本の理論を出汁にして 議論を進めることは 可能で有益であろうし またそれは ここで恩着せがましく言うとすれば――ここまで議論してきて ある程度言えると思うが―― 徹底的な批判をなすものであっても 吉本の成果の発展的な継承であるということにもなるということだ。はじめの方法において異なる理論への批判が その理論の継承だというのは 強弁だが それは 吉本が継承したことがらの継承ではあるのだ。この理屈は何度も言うものではなかろうが いまそう考える。
われわれの主観形成と夢
さて吉本は《心的現象論序説 改訂新版》〈?? 心的現象としての夢〉第5節〈夢の解釈〉で――それまでの第1ないし第4節までの論旨から表面的には 一変するかのごとく―― われわれの言う《共同主観者にとっての夢》の視点へと近づくかに見えた。この第一部の本論に取り上げた《書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》でも その後半になって まともになったように こちらでも まともであるように考えられる。
- まともであるとわれわれが明言するのは 次のような経緯からである。
- 一般に 主観は・もしくは精神は 自己を・もしくは主観を つねに全体として了解する。全体をことごとく知るという意味ではなく ある時点で――それまでの思念の 一定の蓄積(記憶)が 当然あってそれに拠るのであろうけれど しかもこの記憶をも その時点・時点で 一変させるごとく 思念の一定の持続の結果 むしろその瞬時にしてのように―― 自己を 全体として 知るものだ。これは ここで詳しく論証しないけれど たとえば精神は 自己をそれまですでに実は愛していなかった時期はなかったと突然気づくというかのようにして この自己じしんを知解する。この知解が いま 自己の記憶とともに 愛を形成することも確かであり ただ誰もがこの主観の了解を・したがってその形成を 講演や文章にしてなすというわけではないと言うにすぎない。
- いま上の愛とは 自己の身の振り方としての社会的な位置づけを言う。職業としてにしろ 単なる人間関係のなかの心理的のみのことにしろ 自己自身の配置。それは当然 他者に対しての配置を意味し 他者の尊重(愛)がたとえそのときネガティヴに現われるものであったとしても とにかく人間の身の処し方としてのその決断としての愛。第三の行為能力として むろん 意志のことでもある。
- ちなみに いまの事態は 長期的・総合的な視点に立っての 三行為能力の一体性を示している。神における三位格の一体には はなはだ遠いけれども おおきくは一体性でもある。
- この意味で 主観形成は――当然 変化するものであり かつ―― 自己の時間的存在として 非連続ながらも記憶のもとに連続的にして 個体としてながら普遍的でありうると思われる。そうでないほどには 人間は偶有的・可変的な存在ではないと言ってよいであろう。
- だからほんとうは 誰もが まともである。ただ文章をものする人にとっては この条件が当然のごとく一層きびしいものとならざるを得ない。したがって 批判ということがありうるし また むしろこれを積極的に行なっていくべきだと考えられる。
- むしろ人間の歴史が――それはいま個人にとってでよいが――主観形成の道そのものであるとしたなら この批判ということ・つまりそれをつうじての主観形成は その全部であるといっても 過言ではない。夢の問題も・つまりは主観的な異和をめぐる問題も ここに おおきくかかわってくるものと思われる。
しかるに吉本は この第5節で まともである。それ以前では 誤謬がかかっているとわれわれは判断した。そして――驚くなかれ――次につづく第6節から10節までにおいて まともを通している。もっともそれは 第5節にいくらか見られた 主観形成の動態ということの知解また表現の作業においてではなく その動態の中の個々の要素の 概念的な分類・規定ということにおいてではあるのだが。
心的現象論序説 改訂新版
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?? 心的現象としての夢
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5 夢の解釈
6 夢を覚えているとはなにか
7 夢の時間化度と空間化度の質
8 一般夢の問題
9 一般夢の解釈
10 類型夢の問題
6節から10節までの五節をまとめて その中から必要な概念についてのみ 触れておきたいと考える。
吉本は われわれの言うような共同主観者にとっての夢という全体の主題に 中味としても 接近しつつ なおもその点にかんして これまでに流通してきた個々の概念の吟味に向かう。これをここで取り上げる価値があると思える理由は かれは ほかの誰のでもなく自己じしんの概念を――いわば主観形成の道具揃えのために――提出していることにある。
ただちにここで重要と思われるかれの概念規定を取り上げよう。
夢を 原夢 固有夢 一般夢といった三つの範疇に分類することが関心を引く。
付録を始めるにあたって20節で確認したことは 次のことだった。 眠りにおいては 対象にたいする感覚的な受容と 心的な了解の構造とが 覚醒時におけるそれらから 変容する場合があるということ。ここで 受容とは 対象との関係づけであり 了解とは そのまま自己を含めた対象の了解を言う。上に取り上げた三つのカテゴリの夢は この関係付けと了解とのあり方の三つのかたちであるということができる。
- 吉本は 関係については その空間性を そして了解についてはその時間性を言う。ここではいづれも 大きく時間性と捉えてよいと思われる。あるいは 人間の主観にとっての時間性というものは いわば大前提であるので 特にそのように言わなくてもよいと考える。
そこで 第一のカテゴリである原夢では 関係と了解とが いまだ現われない時期が それとして規定される。言いかえると 生命の誕生直後のその限りでの存在による関係(受容)と了解があったであろうと考えられる時期が この原夢に対応する。
具体的には 原幼児ないし胎児の時期にあてて その主観(原主観?)を 原関係および原了解ととらえ そのときの夢を この原夢と規定する。
- 原関係ないし原了解としての夢とは その動き・振る舞い・現実の状態そのものを言うと思われる。
- わたしは このカテゴリは――カテゴリとしては――まず要らないと思う。次の固有夢に含まれていくもののように思われる。
この原夢ないし 原関係と原了解とが 時間的になんらかの意識をもって現われるようになれば 主観に固有の関係と了解とを持つようになるという。ここで見られる夢が 固有夢であろうと説く。さらに かれの言う正夢は 一人ひとりそれぞれのかたちで この固有夢と現実上の体験とが 接触し結節して形成されるものであろうと説く。
- 原夢から固有夢へと移行するとき 吉本自身は それがすでに 《対自化しうるようになれば》といった情況をとらえていて 共同主観を築いていく基本主観そのものを言おうとしていると言ったほうがよい。次の事項も関連する。
- 正夢とは その枠組みにおいて すでに 共同観念世界との異和にかかわる共同主観者にとっての夢そのものにつながる。しかも 固有夢もしくは固有時と言う場合には それこそが 異和をめぐる主観の試行錯誤の過程なのだから 枠組みだけではなく 中味も 同じ思惟の軌跡を 正夢は 共同主観と共通のものとするはずである。
第三のカテゴリである一般夢とは これまでの類型からいけば 一般(いわゆる社会一般の)関係と一般了解が 主観に存在するような夢ということになる。事実そうである。これと 固有夢とのちがいは――当然 人間の成長の時期としては重なるものであって しかもその違いは 吉本によれば―― 固有関係と固有了解が 《自己》じしんとの関係とその了解に 枠組みづけられるのに対して 一般関係と一般了解は 《他者(他の事象)》との関係とその了解に 限られてくることになる。どちらかというと 固有夢は 自己の内面ということに限定しようということかと思われる。
われわれにとって この固有夢と一般夢との区分も――区分としては――必要ないものと思われる。
- むしろ固有夢はこれを 主観が外へ開かれ共同主観へといわば根を張り延びてゆくように 自己の内面に限定しないでよいと考えられる。
- もし吉本に好意的に見るとするなら こうなる。みづからの原夢が 社会において流通する一般夢を受容し了解し その取捨選択をなす過程において 主観は 固有夢を形成する。固有夢はさらに この一般夢との緊張関係を伴ないつつ 互いの位置づけをおこない 自己を社会のなかに配置させていく。正夢もあれば 逆夢もある。このように描ける。
- ただ 固有夢が つまり要するに主観が 共同観念なる一般夢との受容や反撥の関係を経て――そして特には そこでの異和を補償力としてのように――自己を形成していく過程を中核とするならば 自己と固有夢と他者および社会といった概念をそろえれば 充分のように思われる。
異和のない夢はあるか
つぎに見ておきたいことは このカテゴリ分類や個々の概念が それとしてさらに示唆しうると思われるもの これについてである。
原夢は すなわち これを正夢(共同主観の形成の問題)の一つとして取り上げているわけであるから むしろ覚醒時の心的な原関係と原了解ととらえて どういうことが言えるか。つまりこの単純に言って 《主観以前》は 少し飛躍するなら 次のようにも捉えうる。原罪 この概念にからませるのだが 単純に 原罪以前の主観にたとえうる。もう少し精確には 自身が原罪を持っていると或る日自覚した主観が その原罪を帯びる状態の以前には自分はどのような状態であったか これを想像し何らかのかたちに想定する場合 この想定内容は 原夢と呼べるかもしれない。
- このことに 他意はない。つまり われわれが 主観に 原主観があって 固有主観と一般主観があるなどと説くものではない。
- ただし仮りに 主観に あたかも原夢のごとく 原主観があるとするなら これは 使えるかもしれない。原主観を宿した主観は 共同性を原理的に持った主観として あたらしい概念としての《無意識》と呼びうるかもしれないと。
- 正夢というからといって のちに起こることがらが夢のなかで予言されていたという問題ではない。予言が的中するしないの問題ではない。主観の問題であり その形成としては共同主観の問題でもあるが それは 予言が的中しようがしまいが ある種の予見としてその夢が 主観形成にどのようにかかわるかが問題である。補償力を有する異和が夢において一層明確に現われるとするなら 予言といった要素も 排除されえないであろうということを言おうと思う。人間と社会の科学としてである。だから 無意識の概念のあたらしい想定などが 重要だと思われる。
固有夢と一般夢については たとえばまず 固有夢の持つ心的な固有関係と固有了解とが そのままわれわれの各自の主観であると言うこともできるかもしれない。あるいは逆に 心的な一般関係と一般了解とが つまり一般夢こそが 各自の現実の生きた主観であると見なければならないかもしれない。ということは これらの用語を勝手に取り上げて何を言うかと言われかねないけれど 要するにわれわれの主観は 固有夢をおそらく基礎としつつ 一般夢をも多かれ少なかれ摂り入れているであろうという――推論として詰まらない――結論に達する。言いかえれば 固有夢と一般夢との接触関係 主観と共同観念との相互影響の関係 そこにおける異和そしてその補償力という問題が 重要であると繰り返し言うことができる。
異和と観念(幻想)共同による和との――そして空想によるとすれば 原夢=原和を入れての――社会関係の問題だということになる。ちなみに そのときの心理が共同となった観念和を 正夢と見る人もいれば 逆夢としか見られない人もいるということであろう。
これら吉本の提示する概念の吟味をとおして 何が言えたであろうか。それは 次には 夢の解釈例をつうじて 論議すべきもののように思われる。
- くどいように 正夢の問題について念には念を押しておきたい。夢が将来のことを伝えていたという場合 重要なのは 《ああ たしかにわたしは こう思っていた》と言えるような主観のありかたの問題である。
- 共同観念に対して異和を覚え 別の主観を形作ろうとしていたが 実際あとで分かったことは そのわたしの主観のほうが現実であったというような事例のことである。仮にこの主観がまちがっていた場合 つまり逆夢であったとしても なるほどわたしの異和は補償された異和ではなかったと分かることが 夢の予言性について重要なことである。主観形成に夢が いづれかのかたちで かかわるという事態のことである。共同主観に対応するものは 基本的に 正夢のほうだとは思われるが。
(つづく)