caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録五 それでは共同観念夢は どこから来て何故あるのか

41 主観夢は《いま・ここ》なる動態である。

心的現象の存在を論証することが われわれの課題である。

主観夢は 構造的である。

吉本隆明《心的現象論序説》とともに すすもう。

心的な現象が 現実的な現象であることをもっともよく象徴するのは それが《病的》あるいは《異常な》行動となってあらわれるときである。しかし 心的な現象が その内部でたんなる現実的な現象 たとえば樹木が風に揺らいでいるとか 人が都市のビルディングのあいだを歩み去っていくとかいう現象とちがうのは それが同時に可視的でない《構造的》な現象でありうるという点にある。
(心的現象論序説p.11)

だから このかぎりで これを裏返せば 上に取り上げた《唯物論》による心的現象の把握は 将来の時間とともに〔のみ〕実に可視的であろうとする・そして《構造的》でないものだということにある。それは 端的に言って マルクス自身もそうは言っていないあやまりなのである。マルクスの言うところは この今の(当時の《いま》の)共同主観夢の原理への(そしてそれはむしろマルクスその人の《心的》な)思念と理論がすべてであるということであって これが 《構造的》な唯物論でないわけではなく 心身相関説にもとづいて 精神および身体の《異常》(そのいくらか)が 《可視的》にもなって捉えられるかもしれないと言うときには このときにも このいまの共同主観夢の将来へ向けての歴史的な前進を その内容とすることはあっても それが観念ないしは身体(物質)共同夢へと 一元的・一義的なかたちで 変えられてゆくものではないと 断言していると言ってよい。物質一元論にもとづく非構造的なこの身体共同夢〔という観念を共同化する主観夢〕は お化けであるとしか言いようがない。
キリスト・イエスが 

わたしたち(神なる三つのペルソナの一つの本質)が一つのものであるように 
かれら(それぞれ三つの行為能力を持つ一つのペルソナの人間たち)も 
一つのものでありますように。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 17:11)

と祈ったことは もし共同観念夢の中の時間的存在・すなわち肉を伴なったわれわれ人間が 天の高みへ走りゆかない――この地上の国のように 天上の国でも物質の共産が行なわれるようにと祈る一元的・非構造的なむしろ《心》の高みへ走りゆかない――ようにというみこころ(原理)を示すものでないなら われわれは何と言おうか。また だから 使徒パウロは 

主に属(つ)く人は 主と一つの霊である。
コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 6:17)

と言って 共同観念夢のなかの・この地上における主観夢の霊的な共同性を指し示しているのである。この場合 異和において一つのものになることと言ってもよいかもしれない。
さらにキリスト・イエスは この同じ箇所の祈りの中で

私は かれら(使徒たち)のためだけではなく かれらの言葉をとおして私を信じるようになる人びとのためにも懇願します。
それは 父よ あなたが私のうちに居られ 私があなたのうちに居りますように かれらはみな一つであり また私たち(共同主観夢の原理)において一つであるためです。
それはさらに あなたが私を遣わされたことを 世が信じるためでもあります。私はあなたが私にくださった栄光をかれらに与えました。それは 私たちが一つであるように かれらも一つであるためであります。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 17:20−22)

と述べて 《真理(聖三位一体)と人間(時間的な三一性の主体)》との正しい健康的な一致関係を 示したのである。

  • この原理じたいは 《可視的》ではない。

ここに 身体もしくは物質が 人間の存在そのものの中において・もしくは人間の有として省みられておらず どこかに追い遣られ捨て去られたと 誰が厚かましくも言うであろうか。将来において(時間的存在の未実現として) 身体もしくはその物質のすべてが 可視的にして理解可能となるであろうと この現在の共同主観夢を 別の視点・別の場所に移して――ということは 《可視的》でない原理を見ようとしているその《心》を その基体的な要因の分析という視点に移しきってしまい―― 信仰ともするのは 逆に このいまの身体の運動を なおざりにした議論である。そのとき かれらは 《父(マルクス)よ あなたが私たちのうちに居り 私たちがあなたのうちに居りますように 私たちは このような身体(物質)共同夢〔という実は観念共同夢〕の中に この地上から あなたのいま憩う霊〔物質〕なる祖国に 信仰と実践によって 天翔りゆきます》という祈りをもって このいまの身体を いともたやすくむしろ放棄し 離れ去るのである。マルクスがこれを用意しなかったとは言えない。かれにも責任の一端があると見なければならない。
しかしそれにも増して 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であった聖三位一体は その被造物の一人であるマルクスの神でなかったとは言えない。もしそのような唯物論が 無神論であるというときには それは キリスト神学という有神論の中の・ただちに神の国にこの地上の国のまま走りゆきたいというあやまった願望によって逸脱した無神論 もしくは より正確に 有神論なのである。
《私がかれらに居り(――ことばは肉に造られた――) あなたが私に居られるのは かれらが〔主観夢の現実なる共同性によって〕ひとつのものに完成されるためです。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書17:23)とさらに祈りをつづけたのは 観念共同夢によって(罪の共同自治の様式そのものによって) みだらなかたちで一つのものになるということのためでもなく また 肉を離れ去るがごとく しかも主観夢(こころ)を 身体夢にのみ還元する観念(共産主義社会という天の国=身体)共同夢を排除・抹殺するがごとくして 《一つのもの》になるためでもないと言うのでないなら 肉に造られたことばは 何のために遣わされ いったい人間の誰に遣わされたというのであろうか。
魂(霊・主観夢・こころ)と身体とは たしかに一つのものではない。だから 同じく使徒は 《遊女に属(つ)く人は 一つの身体である》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 6:16)と言って かれらは 一つのものとか 一つのものであると言わなかったのである。ちょうど男と女という二つの異なる身体が結合して一つの身体がつくられたように 《身体》という語を付加したのである(アウグスティヌス三位一体論 6:3〔4〕)。これらの身体共同夢ないし みだらな観念共同夢は 肉のもの 地上の国のものである。これを そのまま統治するのが 昼と夜とが対になった世界すなわち 共同観念夢である。
しかし われわれ人間は この共同観念夢の世界の子でもある。われわれのうちの誰が厚かましくも イエス・キリストのように マリアなる処女から生まれたと言うだろうか。また マルクスその人が いつ・どこで このようなことを 自身について語ったであろうか。かれは この共同観念夢の世界を 経済学的に(それは 質料関係・身体の運動関係的にということだが) その歴史的な動態を明らかにすることに努めたのではなかったか。かれは 共同主観夢の前進の方向を示したのである。誰か高慢にも この共同主観夢の歴史的な前進を あたかも自分は この地上の共同観念夢の世界の子ではないかのように(自己の身体を不可思議にも いともたやすいようにして 離れ去るがごとく 自分はすでに天の国の住人であると言ってのように) 歴史的な昇華(天がけり)の信仰へと 渡すであろうか。
だれも このようには存在していないはずである。それは あの異和ないし寄留の形態の一つでもないだろう。これは 心的現象のお化けなる形態なのである。正しい健康な共同主観夢は このお化けを お化けであると 指摘することでなければならない。また 逆に そのうちの誰が このお化けに対して あのみだらな共同観念夢のほうがよいと 愚かにも 言ってその停滞領域へ戻るであろうか。
われわれは 遊女に属く身体共同夢なる観念共同和を避けよ。しかし ゆえなくアマガケリゆくいまだ実体なき天国なる聖き身体共同夢(それは物質共産夢からの)へと 走りゆく者に対しては 自己の共同主観夢を からだごと示さねばならない。《それは あなた(父)がわたし(キリスト・イエス)を愛してくださったその愛(聖霊)が かれらのうちにあり またわたしもかれらのうちに居るためです。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書17:26)というのが 生きた共同主観夢 すなわち 手放すことのできないわれらがいのちであるとさえ言っていることである。
《自由》は ただちにアマガケリゆく物質=観念による天国なる身体共同夢になく また 異和をなだめる観念共同和なるこの世の遊女に属く身体共同夢にもないと知ったからには。
節をあらためよう。
(つづく)