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哲学いろいろ

                   第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録三 夢の展開と主観形成

27 キリスト・イエスという夢

共同主観(常識)の形成にとって 夢がどのように捉えられるか。
いま一度 吉本隆明の《原夢・固有夢・一般夢》等の概念を整理しつつ 先へ進めよう。

原夢・固有夢そして一般夢

胎児にとっていかなる幻想上あるいは現実上の行為も ただ〈胎内に・そこに在ること>を意味しており 〈行為〉はただ〈そこに存在すること〉以外の意味をもちえない・・・。
人間の個体にとって 〈そこに存在すること〉自体は どんな関係の空間性も了解の時間性ももたないが ひとたび〈そこに存在すること〉が対自化しうるようになれば(幼児) そこには自己内の関係の空間性と了解の時間性をもたざるを得ない。これを心的な原関係と原了解と呼ぶことができ この条件のもとでは〈夢〉は行為そのものを指している。
吉本隆明全著作集 (1)《心的現象論序説》p.246)

これが 原主観とも呼びうる原夢である。さらには 主観に無縁ではない無意識だと考える。変な言い方だが 意識されうる・対自化されうる無意識のことだと考える。
この説明の中では 《心的な原関係と原了解》というときの《心的な》とは 精神の・つまり 身体を基体とした精神のあるいは主観のと解すればよい。《汝自身を知れ》というときには ほぼこのことに帰着すると思われる。共同主観は この原主観をもとにして 共同観念に囲まれて それとの齟齬・くいちがいを体験しつつ この異和とその解消の過程として 形成されてゆく。

  • 異和の解消とは 共同観念が異和を観念的になだめるその解消が幻想であると理解することから始まる。
  • それだけではなく 広く根を張り大きく枝葉を伸ばす可能性があることを 原夢が示していると考えられる。単純な存在のことゆえに 主観の共同化の中核となりうるのである。
  • 善悪の倫理や男女の性関係にからまれた人間関係やを超えうるところを指し示そうとしている。そのように意識されえ対自化されうる無意識の問題だとも言いうる。

吉本の見るところでは 《人間が〈そこに存在すること〉とこれの対自化から始まり 〈じぶんの心的な領域のじぶんの身体にたいする心的関係と了解〉をへて 〈じぶんと他者(他の事象)とのあいだの関係と了解〉にいたる過程 そしてそれらには 質的な差異が存在する》(cf.p.247)というのが 《心的現象》もしくは単純に人間存在の一般形式だということである。《じぶんがじぶんにかかわる関係と了解》は固有関係および固有了解(すなわち固有夢)であり 《じぶんと他者とのあいだの関係と了解》は 一般夢の内容であった。
われわれの考えでは 主観の存在形式として このように固有関係(了解)と一般関係(了解)とに分けるのではなく 視点もしくは座標を変えて この世に生きるときの《異和関係》と《同和(ないし観念和)関係》とに分けようということであった。たとえばそれは 吉本が 《じぶんの心的な領域とじぶんの身体にたいする心的関係と了解》を 固有関係と固有了解とするとき われわれの考えでは これはすでに 原夢・原主観に含まれている なぜなら この原夢・原主観を 現実の主観が想定するとき すでに この固有関係と固有了解とが把握されてくるものであると考えるからであると言った。さらにややこしい議論をするならば 人が 原夢・原主観を発見するとき・つまり自己に到来するとき この原夢そのものにおいて この固有関係と固有了解が意味する偶有的・可変的・時間的な過程存在であること・およびそのゆえの互いの行き違い これらは 同時に発見しているからである。

  • そしてさらにややこしく神学的に言うとすれば 最初の人間 アダムとエヴァとの結局のところの時間的存在としての誕生に この固有関係と固有了解とは 含み込まれている。そもそも記憶と知解と意志とのあいだに時間的な行為のひらきを余儀なくされており とくには自由意志にもとづき考えおこなうというところに有限性の問題があった。
  • 記憶も知解も意志も有限であることは かえって想像力を発揮する機会を与えられていることだと考えられ 時間的な行き違いは すべてこの想像力をたくましくして 知恵を発揮し知識をたくわえ 善悪の基準をも手に入れるに到った。時間的な喰い違いが そもそも罪であるが(罪をつくるきっかけであるが) 喰い違いが大きくなればなるほど 想像をもたくましくして 一般にこの罪の共同自治を獲得するようになる。
  • 罪は 世代から世代へと伝わって 継承されていると見なければならない。

この共同自治の基礎としての共同観念の世界のなかで 固有関係(了解)と一般関係(了解)とに分けるよりは 共同観念の自治方式(罪の処罰あるいは 異和のなだめとしての)に対して 主観はどうあるか これを基準として設定し この基準にしたがって 夢(あるいは主観の思惟・内省の形式)を区分するとよいと考えられる。
ここで 正夢の問題が想起されねばならない。異和の解消 もしくは 異和を観念的になだめる幻想の和解を明らかにしつつ解消させること 要するに共同観念夢からの自由 これは 原夢や原主観の実現として 正夢ととらえられる出来事である。経験思考の上で表現したところのわれわれの究極の目標である。
われわれのどうしても言いたいことがらは 共同観念の世界にあっては その共同観念夢の主体となっては 生きていられないということである。共同観念夢は 人間にとって ついに生きた時間的な過程としては成り立っていない。
上のふたつの段落は われわれの結論を述べている。
そして 実に われわれは これらの結論を すでに正夢の過程にあるゆえに その究極の地点からこちらへ戻って来て得たものだということになる。つねに終えられたところから 始めるという命題も然ることながら すでに終わりからさかのぼりこちらへやって来て 議論をしているというのも 共同主観の現実であり 課題である。
言いかえると ひとつの結論であった 正夢としての主観形成は この結論の地点からふたたび始めなければ何にもならない。

共同観念夢からの自由

善悪の倫理からの自由 性関係からの自由 これらの自由のほかに たとえば 生死の問題がある。未体験の象徴たる死のそれである。おそらく これは 宗教者の空想による死の封じ込めといった方向ではなく 生死を超えるというかたちが想起されなければならないであろう。言いかえると 誕生と死去とのあいだの生を やはりそれが共同観念によってすっかり覆われ色濃く染められている状態からの自由という方向だと考えられる。単純な言い方では 死の克服である。
生は われわれにとって 既体験であるが 将来の未体験の部分もある。特に 死は 未体験としてある。誕生は既体験であるが その記憶は 曖昧であるか ほとんどよくわからない。むしろ未体験に近い。
ここでは 既体験であっても その記憶がそして知解も 完全ではないという意味で その体験についての主観真実を――ここでは――仮りに夢ともよぶことにしよう。だから 共同主観も 共同主観夢とよぶのが ふさわしい場合があるということである。共同観念は 共同観念夢あるいは 共同幻想などとよぶほうが むしろ普通であるとも言える。さらに 繰り返しになるが 共同観念も そこに生じる異和をなだめ 時間的な齟齬からくる罪を共同自治するといったその営為は もともと 主観ないし共同主観夢から発するというものである。幻想によって死を封じ込めるというのであっても ただ存在するという善としての原夢から由来していると考えられる。それでも 一般的に言って 共同観念夢は 胡散臭い。
さて 死の克服の方向についてである。
まず それが 何でないかをさらに確認しておこう。たとえば 人間が神のように不死になるというものではない。未知の世界をある種の仕方で 既知に変え また 未体験を その不安から来る恐れを封じ込めようとして 宗教者の空想によってのように 観念を駆使し想像の翼を拡げ なんとか既体験として想い描いてみせるところの安心の世界に変えようとする方法 これも われわれは 採らない。これについても 不安を安心に変えようとする人間の努力が 不可避のことであるとしても その努力の性格と内容を 明確に見究めるということが必要である。

  • というよりも そもそも かねてから既に獲得されたと言われる宗教からの自由 これが 悲しいかな なかなか 実現して来ない。共同観念からの自由と 込みになっているのであろうか。

そこで いくらか神秘の領域に入る。宗教者の空想をしりぞけていた者が 口裏を返すように神秘を語るとの批判は覚悟の上である。主観形成の成果を 互いに披露することは 表現の自由以上に われわれにとって 切実なことであると思う。未体験について語るからには 神秘を帯びざるを得ない。夢という言い方を用いる所以でもあるが 神秘といっても 未体験を 既体験の想像世界で塗りつぶそうとするわけではない。神秘は神秘であって つねになお――未体験が未体験である限り――神秘でありつづける。言いかえると 未体験の不安の克服は 神秘を帯びた主観夢とともに 将来すべきこととして臨むのである。たとえば復活は 当然 将来すべきこととしてわれわれは臨むのでなければいけない。
原夢が誕生に対応し 生の原形を担うと思われるのに対するかたちでは 共同主観夢は 生の終わりつまり死にかかわっても これを討議するというまでに到った。人類は この種の議論をも持つに到った。宗教に陥る危険を避けつつ その思索と表現の自由は確保されている。
人間が未体験の死を克服するという場合 あらためて共同観念夢による死の封じ込めという幻想の方式にからまった事例があることを確認しつつ進めよう。共同観念夢は ムライズムの和を死守するくせがあるから ひとたび国是が定められると その方向へ大きく揺れる。だから歴史的な踏み絵に際して 共同主観の義に殉じるという仕方での死の克服もありえた。喩えとしての踏み絵は 到るところに繰り広げられ 喩えとしての死の克服に直面せざるを得なかった事例も 多かろう。あるいは お国のため・滅私奉公のもとに撃ちてし止まんという未体験の乗り越えがあった。民族の永続性 これも 死の克服のために用意された。メニューは豊富である。

  • 滅私奉公が 滅公奉私に揺れ返したのだから ムライズムの和も その後の一定期間 共同観念は 冬の時期を送ることは 止むを得ないなどと 共同観念夢を夢見る人は考えるのだろうか。
  • 滅公奉私というのなら もはや共同観念の倫理基準による罪の共同自治はあってもなきがごとしであって 人と人との異和は 当然のことだと捉えられ だから その異和の補償力もはたらく余地がなくなったとさえ見なければならないのだろうか。
  • 私という主観しか 社会の中にはないのだから わざわざこの主観ということさえ言う必要もなくなったのであろうか。観念のものとしてさえ 共同性は もはや 死語となったというべきか。

そこでいま唐突に言うとすれば イエス・キリストその人の死といわゆる犠牲は この共同観念夢によるある種不可避の犠牲を 終焉させるためであった。共同観念夢に対抗しての踏み絵による犠牲も 共同観念夢からの滅私奉公によるそうとすれば犠牲も 終焉しうるという表現行為であったと考えられる。敢えて言うなら これも 単純に死の克服として捉える人がいるかと思われる。その見方としては キリスト・イエスは そのように人類に対して お節介を焼いたのである。要らぬお世話と反撥する人がいることは 普通のことと捉えられる。
お節介を強要するような犠牲を終わらせるための犠牲の死 これは 原夢そのものではなく 原夢をとおして望み見られる主観の原理(はじめ) 共同主観の推進力なのだと捉えられる。光とも いのちとも 恵みとも まこととも 喩えられている。もし 共同観念夢が 結局のところ 人間の生はこの身体の枯れ果てることですべての終わりと見て 幻想を心理の共同のうちに描くことでその死を封じ込め克服するとすれば その死の概念を制作するものを悪魔だという立ち場がある。悪魔が死の制作者として 人に未体験の不安を押し付け それと同時に この不安をなだめにかかるという話となる。この政策のもとに集う人びとは 共同観念夢の布教・宣伝・強化に努める。というわけである。イエスがわざわざ十字架の上にまで登らなくてもよかったとつぶやく人びとも どちらの夢が現実であるか 見究める必要があると言わねばならないのではないか。
神秘としては 神を信じ キリスト・イエスも いのちの制作者として 人であると同時に神であったと表現する。モーセは律法を捉えたが また 人は 共同観念夢によって平和と繁栄の国を築き その栄光を見たが いのちの真理を指し示したのは ナザレのイエスであったから。

  • 未体験(死 だから 生)についての人間の真の科学は これからも問い求められていくであろう。
  • 共同観念夢は ムライズムやナショナリズムとして展開していくとすれば 国家の問題とつながっている。方向として 国境を低くするかたちで 国家の問題も その解決が模索されていくであろう。
  • キリスト史観は 経験科学のための試行錯誤の過程である。
  • 共同主観夢が このように不遜であるとしたら それは 共同観念夢のほう あるいは これをも崩壊させようとする力の動きが それほどの不遜の高みにアマガケッテ行ったからだと考える。

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これで 第一部の《第三の種類の誤謬について》は ひととおりのことを述べたと思う。以下の付録および第二部以降は 或る意味ですでに信じる人びととともに このキリスト史観をさらに問い求めていきたいと思う。
(つづく)