caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

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付録四 共同主観夢

37 共同主観夢の眠り

この章では 信仰次元の議論をゆるされたい。前章では 夢の議論を中断して 時間観として 史観を取り扱い 時間意識の観点から ある程度 歴史を俯瞰しえたかとも思う。おおづかみながら 日本の社会についても その歴史と現代の情況を概観できたかと考える。
ここでは 再び付録三を承け そこでの《死の克服》という問題にかんれんして 議論を継いでいきたい。具体的には 死のとげとしての罪をどのように捉えるかについて 共同主観夢の観点から 有益と思われる事柄を取り上げていこうと思う。

異和の補償力をふたたび顕彰したい。

死が《夜》であるとすれば 罪は《眠り》である。眠りがすべて罪であるわけにはならないが 悪魔にかかわっての議論としてなら どちらも 悪魔の残像の誘いによって 現実世界で経験されるあの異和が――だから原夢が――なだめられて生じるたぐいのこととしては そうであろう。思念が光り輝くとき それは 天使だと言いうる。悪魔も この光りの天使に変身しうる。いわゆる情実の世界で いづれの内実の光であるにせよ 天使の思念によって 異和がなだめられ 癒される。丸め込まれるといった表現を使う場合もあるわけである。要するに そこに 観念和がきづかれる。和を以って貴しと為すのだから。
しかるに むしろ異和とは ひとりの人の主観とほかの人びととの《相異》であると同時に おのおの原主観どうしの共同性なる《和》であると考えられる。《異と和》とである。これによって むしろ 難なく 互いに《共同主観(common sennse=常識)》をかたちづくる。
共同観念による和は しばしば 主観どうしの《相異》をも 情実と必然の力とで うまく角をけづってのように 宥め透かし その主観の自覚を寝かしつかせるように はたらいている。角は 骨であって 主観の自覚は いのちである。日本のやしろが やまと=大和という国家なる二階建てのイエとなったとき スサノヲ市民の《異と和》との共同主観は アマテラスなる光の天使を自らの顔蔽いとして その観念共同の大いなる和を着た。アマテラスは アマテラス概念としてアマテラス語として 抽象されたものながら それとして普遍的な思念を表わした。そのぶん スサノヲ市民は この《アマテラス‐スサノヲ》重層分離連関の体制に従わなければならなかった。この《A−S》連関体制は 国家形態として けっこう世界史のなかでも 普遍的な類型を示していると考えられる。Aは 公民であり Sは市民である。もしくはAは もっぱらの公民であり 公民性としてのAは 市民Sが 自らの内にも 本来 有している能力である。
人が 死を死として認識してからは――時間的存在が時間的存在となったあとでは―― それ以前の人生と世界とは 今日は昨日の 明日は今日の 明年は今年のそれぞれ繰り返しであった。反復的な時間のなかに人はあった。あたかも動物のごとく 要するに 自然を生きた。
ところが 死という区切りに直面して 人は 時間を自覚し この自覚をとおして 人との相異および共通性を知るなら 自己が自己であると思う。わたしがわたしであると考える。わたしがわたしすると捉えるようになる。社会のなかで 思うようにいかないという異和は これもまた 自らの主観を鍛え その共同主観の形成に力添えをすることになる。この生身のからだで生きている限り 時間的なくい違いが人びとのあいだに避けられないと知れば やはり異と和とで 共同主観夢をなおかたちづくっていくであろう。
誕生と死去とのあいだの生が 一人ひとりにとって 円環となってのように そしてそこでは学習を一から始めてのように 繰り広げられるとすれば たしかに 以前の反復的な時間は 円環的な時間の意識へと変化したと考えられる。
ただし この円環のごとき時間観は 空間的にも あてはまるかに思われる。もし国家というやしろの形態が 観念共同和といういわば大きな球形の顔蔽いであると感じられるとすれば これも 時空間が円環的だと言えるはずである。主観の意識は 第二階の天井ないし屋根ないし雲によって 蔽いをかけられ いつの日か 抑えられているかに感じるかもしれない。もしそうだとしたら これも 円環だと考えられる。
けれども 主観は その意識や思念が社会的に有限だと感じても そして人が死を免れない有限の生き物であると認識しても みづからの主観夢において 言ってみれば限界を知らない。幼少年の頃から進めてきた共同主観の確立への夢は とどまるところを知らない。人が・つまり先人が終えたところから 始めればよいのであるから 学習は進む。人の歴史が共同主観の形成史であるとすれば これは 時間観として 線分としての内容を持っている。線分だから やはりむろん有限であるが いわば人類共同の共同主観夢は どこまでも伸びる。円環を超えて 伸びる。
このとき もし――つまり繰り返すなら 国家における時間観としての円環意識をさらに超えて 主観が伸びようとするとき もし―― けっきょく例のアマテラス語によって もっぱら抽象普遍の概念=観念で 円環を突き抜けようとするなら おそらくは A語客観科学が そこでは 支配的な通行手形となるはずである。これは 説明を要しないと思われるごとく 近代社会の直線的な時間観をもたらしたものと推察される。
このいまの議論について結論を急ぐなら 直線的な時間意識も 円環的な有限の――ときに窮屈で行き詰まるような――時間意識を 突き抜けたと同時に いまだそれとしては光の天使に見えるアマテラス語の優位な世界を抜け出してはいなかった。それは 頭で立っている。だから アマテラス‐スサノヲのむしろ逆立ちの連関体制を解決するまでには到っていなかった。ここで われらが共同主観夢は さらに 伸びていかざるを得ない。
それも これも――飛躍しすぎと見えるであろうけれど―― けっきょく死の取り扱いにおいて しっかりした解決をまだ人は得ていないということに 一つの主題としては 帰結するものと考えられるのである。
《死よ おまえの勝利はどこにあるのか。死よ おまえのとげはどこにあるのか》と だれも問わなくなった。悪魔は 死の制作者だと言われている。とどのつまりでは 国家形態という円屋根なる限界も 死という限界と絡められている。科学が いまとなっては この死という限界に それこそ限りなく挑戦していくであろうが その到達度合いに応じて 死の克服を 時間観において おこない 獲得していくという性質の問題でもないように考えられる。その問題に限定されるものではないように捉えられる。――主観こそが 原点であり 問われており これを問うていかなければならないと考える。 
この節では 死のとげとよばれる罪の問題を扱う。

共同主観夢は 意志の目的であり休息である

さて

視像は 意志の目的であり 休息である。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 11:6〔10〕)

視像とは 共同主観夢の見る対象である。あるいは その対象は 非形像の思念じたいでもある。意志とは 愛となった異和である。異和からの愛である。異であり和であるから 個人個人の社会的な配置関係としてのような愛(愛はつながりだから)である。これが おのおの主観における原動力だと言ってもよい。また意志ないし愛の過程が 日から日への生きる動態である。
すなわち 記憶における対象と それを知解した対象との間を関係づける第三の行為能力としての意志 / 愛でもある。なんらかの視像(つまり記憶)と その視像の認識としての視像(つまり知解)とに対して 意志が統一され 主観が形成されていく。この意志 / 愛が 共同主観をかたちづくる。現実に 自治・自己経営・共同自治(政治)である。記憶は 経営・政治行為にともなう経営や社会の組織行為でありその秩序である。動態としての秩序つまり記憶行為を考えたほうがよい。知解は 経営・政治行為の土台としての労働・生産協働・経済行為にあたる。
視像が意志の目的であり 休息であるというとき それは 昼から夕へ そして朝へと到るの一日の構成を語る。また 目的が 共同主観夢の昼もしくは覚醒時を示すとするなら 休息は 夕となり朝となるというその間の時間もしくは睡眠時を指し示す。この睡眠時が 精神=身体の休息を表わし また ここで見る夢は その休息そのものである。異和から来る主観夢として 必ずしも取り上げなくてもよい普通の夢見だと考えられる。
次に共同主観夢は 弱い。そもそもわれわれ人間における記憶と知解と意志との三行為能力の一体性は 時間の間隔をともなった一体性である。記憶秩序と知解活動とを意志が綜合し統一すると言っても それは 時間的なくい違いのもとにおこなわれる。つねに あやまつならば わたしはわたしに還帰し その意志を自己として確認するといった情況と動態とにある。
そこで主観夢は その意志の目的である視像の中の異和が 主観関係において文字通り違和感を覚え いつかどこかで光の天使を装った悪魔の思念に遭い この違和感に悩むところをなだめられるようになる。これが 一般の場合だと考えられる。もしこの光の天使なる思念あるいは情実の説得する内容に同意しつつ やがて原主観夢が寝かしつけられるとすれば その擬装天使の観念を自らが帯び さらには自らの主観を変身させつつ共同観念夢の世界へのデビューを果たす。
もしこの天使が悪魔の擬装でなく 真正の天使の思念であるならば 原主観の異和は そのままであり 健在である。社会を表わす一形態としての共同観念なる鏡をそのまま鏡として捉えつづけており 依然としてその鏡をとおして 自らの共同主観夢の形成に向かう。
この主観が 一時的にでも宥められ寝かしつけられたなら 元の異和も この観念和に包まれ一時的には 安定を保つかもしれない。と同時に この異和は どうしようもなくと言うほど 泉の絶えずあふれ出るがごとく その補償力を発揮することになる。言いかえると 人は 症状を示すようになり 病気にもなるかもしれない。つまり おまえは病気だと 共同観念夢の世界の側から指摘され この観念共同和による共同自治の海の中では その病気だと決められていく。むろん これの回復・治癒は 一般には 原主観の異和を自らがなだめ自らを観念夢の世界へ連れ去っていくことにあると 考えられている。そして それでもおそらく 異和の補償力は ほんとうは寝かしつけられずにいて 不死身であろう。
むろん この共同観念夢へと連れ去られることが いまの主題のもとでは 《眠り》であり 一般に《夜》の世界のことである。死としての夜であり この死のとげとしての罪にあたると思われる眠りである。視像が意志の休息をもたらすその休息とちがって この場合の眠りは むしろ夜のとげである。夕から夜へは渡されずそのまま朝となって主観夢の探求を展開するときの夢ではなくなりまたその眠りでもなくなり 夜に陥ったところの主観の眠りである。とうぜん 異和の補償力は この眠りの深さに応じて 夜の闇の濃さに応じて その主観の覚醒を だからさまざまなかたちを採って 促すであろう。罪と死の問題は いま こういう情況のもとにある。
ここでは 罪の問題に限定するはずである。
けれどもここで もはや原罪から説き起こすことはしない。
原罪はいま別として 異和が寝かしつけられたとき 一般に罪が発生するというのは こうである。
記憶が 否というとき 知解は なお自らの知解行為を推し進めたい。知解が止めとこうというとき 意志は これを振り切り 突き進む。これらの間に くい違いが生じる。おそらく 自らの部分意志あるいは中間意志によって 行動を起こすとき これは そうすれば明るい世界が開けると思っておこなうのだと思われる。あるいは単純に 自己の欲求が満たされるであろうと考えてのことである。これは 光の天使を装った悪魔の誘いのことではないだろうか。
三つの行為能力の間に 統一がとれていない。この時間的な行為と行為との間に生じるくい違いからは おそらく よいと よくないとの 両様の判断がもたらされているであろう。ここからは 人は 善悪を知ったことになる。つまり罪 つまり罪の共同自治が始まる。主観夢の追求・探求としての共同主観による共同自治か それとも 善悪・その認識としての倫理・そしてまた律法 このような観念を道具として このアマテラス語の主導する自治様式か この問題に携わっていく。
善悪を知る木から採ってその実を食べたときより 人は アマテラス語の知解体系をあくなき追求において模索するとともに 同じアマテラス語による異和のなだめとしての子守唄の製造が 大々的に始まった。もちろん 夜と眠り 死と罪との自治=意志=愛の問題なのである。 

共同主観夢は 共同観念夢の世界にあって 寄留している。

共同主観夢は 共同観念夢の世界のなかにあって そこに寄留しつつ生きると言われる。いま神の国は 地上の国と なんらかの一定の国境線によって区切られたものではないと言う*1。罪は 共同主観夢にとっても 免れない。罪のない人はいない。しかし 

すべての犯罪は罪であるが すべての罪が犯罪ではない。
アウグスティヌス:信仰・希望・愛(エンキリディオン)4:1:1〔17:64〕アウグスティヌス著作集 第4巻 神学論集

このように言われるのが 共同主観夢にとっては ふさわしいと考えられる。甘いであろうか。

  • いま 共同主観夢と言って 共同主観と言わないのは ただ 夢(正夢)と言って 時間的な経過やその動態を含ませようとしてのことである。

共同主観夢は 律法(つまり共同観念夢の共同知の範型・掟)の命じるところに従いつつ 隣人を自分と同じように〔という程度において〕愛していくとき なすべきようになさなくとも この罪は 姦淫とは見做されず 容易にゆるされるであろう*2と聞かれた。共同観念夢に従いつつ 眠りにあって夢を夢見る 言いかえれば 夜の世界において 共同観念夢の取り繕いをなす者は その身体が姦淫をおこないつつ この律法(罪の共同自治)の一方の領域である昼の世界での遵守にのみ 自己の善をおくこと(それが取り繕いである)によって かれは 何をなしても恥ずべき行ないをなしている*3と聞かれる。
また

すべて市場で売られている物は いちいち良心に問うことをしないで 食べるがよい。
パウロコリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 10:25)

これが 共同主観夢のこの世への寄留の形態であってよいと考えられる。共同主観夢にとっての罪の情況だと考えられる。物・商品は 時間的な共同知によって その価値関係が配置される。それが 律法の共同自治にもとづくなら 昼の取り繕いの下では・裏では 姦淫がおこなわれるという罪が入りうる。一般に 異和も この情況に寄留している。

  • この議論は われわれは しかるべきところで さらに展開しうると考える。
軽いと思われながら 重い罪がある。

さて ここで罪の問題で一点にしぼって論じたいという事柄は 次である。

軽いと思われながら 実は重い罪がある。
・・・
重い罪も 習慣化すると 軽いものと思われる。
(《信仰・希望・愛》4:3:2−3)

習慣化するとは 共同観念夢として 広くはびこってしまうということである。つまり 共同観念の罪(すなわち犯罪)を構成するが 共同観念夢のなだめになだめられたかたちで広くこれがおこなわれていると ここに寄留する共同主観夢は どうしてもこれを免れない場面に直面するが そのとき 異和を感じつつも 日常習慣的になさざるを得ないように 同意しつつ これをおこなっていると 軽い罪だと思ってしまう。容易にゆるされる罪の類いとあやまって見做してしまう。これである。この一点にしぼって考える。
アウグスティヌスはまず 《しかし 一般に考えられているよりも重いということが 聖書(共同主観の原理)の中で証明されなかったならば 非常に軽いと思われるかもしれないある種の罪がある》(信仰・希望・愛 4:3:2)と説き起こす。この種の罪に 二つの例を示す。
第一に取り上げるのは 《マタイによる福音》の次の箇所の示す原主観である。

《昔の人びとに〈殺すな。殺す者は裁きを受けねばならない〉と言われていたことは あなたがたの聞いているところである。しかし わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は 誰でも裁きを受けねばならない。兄弟に向かって愚か者と言う者は 議会に引き渡されるであろう。また ばか者と言う者は 地獄の火に投げ込まれるであろう。だから 祭壇に供え物をささげようとするばあい 兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを そこで思い出したなら その供え物を祭壇の前に残しておき まず行ってその兄弟と和解し それから帰って来て 供え物をささげることにしなさい。》
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 5:21−24)

アウグスティヌスの言うところは こうである。

事実 真理である方が語らなかったなら だれが 自分の兄弟に向かって 《愚か者》と言う者が地獄に投げ込まれるほど罪深いと考えるだろうか。しかしかれは 兄弟との和解の戒めを付け加えて この傷にただちに薬をぬっておられる。すなわち ただちに《だから 祭壇に供え物をささげようとするばあい 兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを そこで思い出したなら・・・》と言っておられるのである。
(信仰・希望・愛 4:1:2)

ここで 兄弟とは 隣人もしくは他者ということである。祭壇に供え物をささげるという行為は 共同主観夢の 反省・自己確認・自己還帰のときである。

  • ちなみに 吉本隆明が言っていた固有夢(固有関係と固有了解)や固有時という時間も この過程行為に当てはまると思う。

だから このとき 主観の共同性において《他者が自分に対して何か恨みを抱いていることを そこで思い出したなら》ということであり そのときには 《原主観の原理つまり神をほっぽり出してでも まず 隣人のところへ行って 和解すべきである》というのだと思う。これが 共同主観夢の過程にあって 異和のはたらく具体的な動態なのだと思う。

  • 一般に恨みは そしてけっきょくのところ恨みも何もかもが 原主観どうしの関係が 異和関係から成り立っていることから来ると思われる。
  • 詰まり 異和の問題である。異和の自己回復力のなせるわざだと考えられる。経済問題が 差し迫った問題であることに変わりないが。

いま日本社会において――少なくとも 現代日本において―― このような状況では 他者を《愚か者》呼ばわりすることは さして問題ではないように思われる。それは 国民性であるとか時代や情況のちがいだと思われる。というのは われわれの場合は 心にほんとうに他者のことを愚か者・ばか者と呼ばわっているのなら むしろ 口にはこれを出さないのが普通だからである。
もっとも問題は 逆にこのとき 心の中で他者を愚か者呼ばわりすることが 実は深い罪を構成するのではないかというのが ここでの主旨であろう。
これは 共同主観夢の中の異和が 結局 昼と夜とに分解し つまり善悪を知ったあと これを上手に賢く昼と夜とで使い分けするようになり そこで夜の顔においては 他者をばか者扱いするというようにして その限りで何ものか別の存在によってなだめられてしまったことを意味するからである。ほんとうの異和は眠ってしまった。これが 罪なのである。そもそもとしては 犯罪を構成すると考えられる。

  • 言いかえると それによって宥められるべきでない何ものか(一般に幻想夢)によって宥められているとき 人は 人をばか者あつかいするようである。
  • 共同観念夢の世界にあるとき その観念和が 人びとのあいだに一定の順序関係をつくりこれを固定させるようにはたらき その幻想和による秩序の中で秩序に従う限りでは ばか者あつかいしても ゆるされると夢見られている。
  • つまり 皆から蔑まれている者をばかにしても許されるし それどころか ばかにしなければ 自分がばかにされるものと思っている。そういう思考の回路が 共同観念夢のなかに埋め込まれているし 人の心に刷り込まれていくようにはたらいている。
  • そういう悪魔の力も然ることながら これを仕掛ける人間もいると言わなければならないであろう。

共同主観夢の・つまり異和の 言われもなき抹殺は 存在を殺してしまうという罪と同じように その罪は 重いとここでおしえられる。これに対してはわれわれは もしそれが共同主観夢の原理であるのならば 《然り》とか《否》とかの選択はない。然りという答えが やはり然り さらに然りとつづくほかはない。異和の言われもなき抹殺に対しては 否であり どこまでも 否である。おそらくわれわれは このために主観夢の原理に寄り縋らなければならない。そのために 心が清められなければならなかった。

重い罪も 慣習化すると 軽いと見られるようになる。それどころか それをなさないと なさないことが罪だという心理共同がはたらいている。

アウグスティヌスは この種の罪の第二の例として 次のものを挙げる。

それからまた 特定の日や月や年に或ることを始めようとしたり あるいは始めることを嫌がったりする。しかし そのように日や月や年や時を守ることがどんなに重い罪であるかということは わたしたちがこの悪の深さを 次のようなことを言った使徒の心づかいから測るのでなければ だれが正しく評価するであろうか。すなわち そのような人びとに向かって使徒は言っている。

わたしは あなたがたの間で努力してきたことが あるいは 無駄になったのではないかと あなたがたのことが心配でならない。
パウロ:ガラテア書4:11)

(信仰・希望・愛 4:3:2)

これはおそらく――いや当然のごとく―― 上の第一例と 共同主観夢の内的な動態の形式としては 同じことを言っているのであろう。このようにいわゆる縁起を担ぐという行為(それは たしかに共同観念夢の発明にかかるものである)に対して それじたいはむしろ日常茶飯事であるので その現象じたいというよりはわれわれの心的現象のほうの問題であるということであろう。むろん内的な異和の生きた動態 このあり方として 問われている。むげに この縁起かつぎに加担する必要も理由もないが これに参加しなければならないときには 原主観を保存しつつ ということは 他者を自己と同じように愛しつつ(自己と同じように社会のなかに配置させつつ) 共同観念夢に寄留し また遵(したが)うということを省みるとしても ゆるされないまちがいではないと考える。これにも われわれは 他者の愛とは比較にならないほど 共同主観夢の原理なる存在に寄り縋りつつ かれを愛さなければならない。かれ自体が愛であるから この愛への固着がよい。

  • どうすれば 固着しうるか。その力も その意欲の始めも 与えられるというのが 正解だと思う。

以上のことに加えて もろもろの罪は たとえそれらが重く また恐るべきであるとしても 慣習化すると 軽いもの もしくは罪ではないと思われるということがある。・・・
(信仰・希望・愛 4:3:3)

と言って アウグスティヌスは その原理的な了解を さらに明解にしてゆく。ここで《慣習化》とはもちろん 観念共同夢化のことである。だから 上の二例の実質的な発生のあり方を さらに次のように考察する。

この理由で 

罪人はその魂の願いによってほめられ 不義をする者は祝福される。
詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 9:24〔10:3〕)

と書いてあるように そのような罪はただ単に隠すべきでないだけではなく むしろ言いひろめなければならないものとさえ思われるのである。
このような不義は 聖書では《叫び》と呼ばれている。例えば 悪いぶどう畑について 預言者イザヤは言っている。

わたしは 〔ユダの人びとが〕公平を行なうことを期待したのに かれらは不義を行なった。正義を行なわずに 叫びを行なった。
旧約聖書〈7〉イザヤ書 5:7)

また この理由で創世記に 

ソドムとゴモラとの叫びは何倍にも大きくなった。
旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 18:20)

と書いてある。それは これらの町では このような罪悪がただ単に罰せられなかったばかりではなく あたかも法律(共同観念夢の掟)で認められたかのように 公然と重ねられたからである。
(信仰・希望・愛 4:3:3)

共同観念による社会の統治形態は 罪の共同自治であるとわれわれは言った。このとき しかしその法律の網を潜り抜けて 裏側の夜の世界で罪が 慣習化すると それらが 重くまた恐るべきであるとしても 軽いもの・罪ではないものと思われるということがある。この罪を 叫びだと言うのである。
おそらく 共同観念夢の中にあっても あの異和の補償力・愛の保証金が この叫びを叫ばせるものと考えられる。叫びと呼ぶところの視点は 共同主観夢の視点であろう。聖書(共同主観の原理)がこれを指摘しなければ 非常に軽いと思われたかもしれないとすれば われわれに原主観への帰還を促す。

現代(五世紀初め) これと同じではないが 多くの罪がすでに公然と慣習化しているのに わたしたちはそれらの罪のゆえに一部の信者をあえて放逐しようとしないだけでなく 聖職者をやめさせることさえもしようとしない。この理由で わたしは何年か前に 《〈ガラテア人への手紙〉の講解》を書いたとき 使徒が 《わたしは あなたがたの間で 努力してきたことが あるいは無駄になったのではないかと あなたがたのことが心配でならない》(ガラテア書4:11)と言っている箇所で 次のように叫ばざるを得なかった。

わざわいなるかな 人間の罪よ。わたしたちはそれらに慣れていないという理由のみで それらの罪におののくが 慣れてしまうと たとえそれらの罪が それを犯す者が神の国から完全に閉め出されることになるほど 重いものであっても――たしかにそれらの罪のためにも神の子の血は流されたのであるが―― わたしたちはしばしばそれらを見ることによって すべての罪を許容し またしばしば許容することによっていくつかの罪を自ら犯さざるを得ないようになるのである。おお主よ 願わくは わたしたちが防ぐことのできないすべての罪を わたしたちが犯すことのないようにしたまえ。
(《講解》35)

だがわたしは〔いつの日か〕自分が悲しみを抑え切れないために 〔ここで〕不用意なことを言わざるを得なかったか否かをさとることになるであろう。
(信仰・希望・愛 4:3:3)

アウグスティヌスの――かれの――叫びには はっきり言ってそこには みづからがこの罪にどこかでつらなる異和とその共同主観夢が 見られないかのごとく 清い。もしくは そのように原理的である。

  • かれは 当時において キリストに召されてのち 聖職者であった。このことも 関係しているものと思われる。というのも われわれは現代において 聖職者・非聖職者の区別は もはや無意識であり むしろ共同主観夢はいわゆる平信徒の間で担われるべきだと考えられる。共同観念夢の中にそのまま生きる人びとによって 担われるべきと考える。
  • 日本においては これを 内村鑑三矢内原忠雄ら無教会主義がそれとして唱えたことがある。この見解の論証は もしそうでなかったなら 共同主観夢という概念=現実じたいが意味をなさなくなることにある。
  • つまり平たく言うと 聖職者(ないし教会制度)と一般市民との二段階構成と 共同主観がなるということ。主観が外に分かれて二重構造になるというのは わからない。
  • 聖職者の存在を否定することではない。共同主観者として 一般市民と まったく同じ地点に立ち 同じ一つの原主観において それぞれの個性(固有夢)とともに 一つのものへと手を差し伸ばす人であることに変わりはない。

だから 五世紀のローマ帝国下のアウグスティヌスは かれの魂の異和は ここで 保存されつつ 現代のわれわれの主観において棄てられると思われる。だからかれの叫びは 現代のわれわれのものでもある。また そうでなければならない。《いつの日か 自分が悲しみを抑え切れないために ここで不用意なことを言わざるをえなかったか否かをさとることになろう》というかれの述懐は このようにかれの指摘して内省(異和の問い求め)を促す《罪の問題》を 保存していまに伝えることはあっても その指摘が消えることがないことを物語る。

重い罪の状態の中からなお湧き出る異和は 叫びとなって叫びを叫ぶ。

しかしながら こんにち われわれは叫びが必要だとしても このようなかたち(表現)では叫ばない。《わざわいなるかな 人間の罪よ。・・・おお主よ 願わくは わたしたちが防ぐことのできないすべての罪を わたしたちが犯すことのないようにしたまえ》とは まず表現しない。
このような表現形式は たとえ宗教的なそれでなくとも 似かよったものは いくつもあるではないかと言われるなら それに対しては 今日もしそのような形式が残っているとしても それはちょうど千六百年前のアウグスティヌスも その形式について 《不用意なこと》といって その叫びに留保を着けているという例を引き合いに出すなら 問題とはならない。だから アウグスティヌスのこのような指摘・それの意味表示する内容が いまに伝えられているというのは 叫び・もしくは叫びという形式が同じように 全く元の木阿弥のまま 残っているということを意味しないであろう。
《おお主よ 願わくは・・・》とは いますでに人は その悲しみを抑えきれないためにせよ 何にせよ 叫ばなくなった しかも罪の問題がむろん当然のごとく論議され そのなかに叫びそのものは存続しているとしたら まさにあるいはニーチェの言うごとく 《神は死んだ》という形式的な変化のなかに いわゆる心的現象の構造は 継承されている まずこう問い求めなければならないのではないか。
いま われわれも 不用意に発言するとすれば その意味で《神は生きている》としか考えられないとも言いうる。またそれは むろん信教の自由という 自由の問題でもあるのだろう。さらにまた このような信仰じたいの領域とそこでの議論は やはりあの精神分析学の言う無意識の領域へと閉じ込められたのかもしれない。その考え方でいけば この無意識領域が 殊に 性的なものにからめられて 把握・分析され この分析の視点から 病的症状ないし異常と規定される当のものが やはり――実に――あの《叫び》として いまに叫ばれている こうも考えられる。
何が問題か。
神の問題が 問題である。しかも その正しい信仰が 問題である。正しい信仰それじたいを われわれは 説き明かすことができないが 誤謬とその根拠については 論議しうるとしたのであった。しかも この同じ問題が 叫びとしては 精神分析学によって 無意識の問題として取り上げられたと 結局 見る事にわれわれはなるのではないだろうか。あるいは 社会科学的に 自由人の連帯から成る社会といった形相において たしかにあの自由の問題も ある種の仕方で 叫びとして 取り上げられたと言って まちがいではないであろう。

  • われわれの第二部が この唯物史観への批判を 用意しようとしている。

われわれは 神を信ぜよと言っているのではない。一つの具体的なはたらきかけ・その主張としては 方法論の問題として いわゆる科学のあたらしいかたちを模索している。叫びが 形式的に 変わったように キリスト史観も かたちを変えるであろう。また このキリスト史観は そのものとして 説かれてくることは つまりその理論体系といったようなかたちで問い求められ提出されることは 先のことはわからないが ないであろう。
しかし 神の永遠の生命=自由への保証金なる聖霊が 夢の・異和の補償力として 考えられるというように 叫びが 形式的に 変わってのように 精神分析学の説く無意識や 唯物史観の説く自由人の社会に関連して 《何は キリスト史観でないか》が それらに応じて 人びとのあいだで 論議されてゆくであろうと考えられた。

世界の共同主観者(インタスサノヲイスト) 異和を保ち 自らが寄留するところの共同観念夢をよく用いよ。

共同観念夢の提出するナショナリズム観念和による自由が 実は蜃気楼である部分が濃厚だと言ったのは キリスト史観を持ち出すまでもなく かつ キリスト・イエスがこの共同観念夢の観念和による犠牲(自由の欺瞞)に終止符を打つ原理を告知したからにはやはり持ち出すべくしてだが むろんそのことは 唯物史観が 理論づけたのである。専売特許ではないだろうが それは 唯物史観の功績である。しかもわれわれは なおかつ それによって われわれ自身の精神の秘所なる信仰をおしえられたのである。これらは 両立しないものではない。

  • ただし 人は その折衷主義を避けよ。

これらはまた むろん どこかで触れたように 国家という社会形態――つまり共同観念夢が このような社会形態を もちろん 経済関係を土台として 要請するのである――の歴史的な移行の問題でもあった。あるいは 《栄光から栄光へ》も 《前史から本史へ》の移行の問題として 提出済みのそれである。いやこの場合は特に マルクス本人の主観形成がどうであったかは知らないが 《共同観念夢の栄光から 共同主観夢の栄光へ》の命題が 当然 史観として 先にすでに提出されていたものであったと言っても ことの後先の問題にかまけることにはならないであろう。
歴史的なひとつの共同主観(communism)として マルクスが 《万国の労働者よ 団結せよ》と言ったとしたなら 先にこの命題も提出済みであったともはや言うことなく さらに新しい史観として  《世界の共同主観者よ 異和を保ちつづけ 主観を共同化し 共同観念夢を互いによく用いよ》と言って言えなくはない。共同主観者とは 原主観においても 社会形態的にも インタスサノヲイスト(市民の自由な連帯)とわれわれが言う存在であるが もしそれがプロレタリア・労働者の概念・存在に対して 具体的でないとしたなら われわれは 次のように言うであろう。労働は 人間の知解行為に発し 精神の秩序たる記憶行為とそして自己ないし家族の自治たる愛の行為と それぞれあいまって 現実具体的である したがって 記憶・知解・愛の三つの行為において 一人の人間という現存在を形成する つまり プロレタリア労働者と 共同主観者インタスサノヲイストとは まったく別の概念ではないが ちがうところは 後者が 原主観において 精神‐労働‐自治の三領域一体は 記憶‐知解‐愛という人間の三行為能力において在るものであり それらが行為能力であるということは 人間が これらを用いるということ それらは人間のものであると見ているというところにある。
この原理的な出発点の――もしそれがあるとしたなら――有無にある。記憶が記憶するのではなく 知解(労働)が知解(労働)するのではなく 愛が愛するのではなく 人間が 記憶し知解し愛し 協働するのである。唯物史観が 理論し 労働するのではなく 人間が 唯物史観したのである。しかし共同観念夢は その蜃気楼のなかで 観念共同夢が 記憶し仕事をはたらき愛を振りまき 時に 法律に遵いつつ(つまりムライズムの和をよく保ちつつ) 人間がますます人間的となったところで その虚偽によって欺かれ より悲惨にされたのである。唯物史観が その共同主観夢において もし国家の歴史的移行にかんして 二段階・三段階等の構成を見て 理論し愛する(実践する)なら この段階的構成とその過程の大前提じたいにおいて 共同観念夢へと連れ去られる欠陥がないとはしない。経済と政治 宗教と科学などの二段発進だとしたら。
万国の労働者の団結は その主観における段階的な分解そのものによって 共同観念夢と歩をひとつのものにしている。自由人の連帯は このいま現在にしかないのである。海を越えて存在する祖国を 遠くから望み見ないことが どうして不都合なのであろうか。また そのとき 唯物史観は 一つの理論として 祖国に到るための一つの里程標を考え合わせるための有益な具体的な共同主観となる。だから 共同主観者と言ったのである。
しかし インタスサノヲイスト(なんならプロレタリア)のわたしが 時に唯物史観し 理論し 生きるのであって 唯物史観ないしプロレタリアなる概念が 生き 理論し実践するのではなかった。わたしが いま生き 理論し実践するとき 主観は 運動として共同主観を構成し 史観として共同主観夢を形成するであろう。このわたしが そしてそれと同時に 《唯物史観が理論し実践する》という主観(ないし思想科学)を持つとき 史観ないし共同主観夢は 二段階・三段階・・・の構成となって 原夢・原主観は その同一・その全体にとどまらないであろう。
それは あたかも 存在し生きること(これが 原夢・原主観だ)が 現実構造的に・もしくは時間(時代)過程的にいくつかに分割されるようなものだ。ちょうど 《一日》を 昼と夜とに分けた一日を たとえば二十四時間に分割するといったように。だからたとえば 人間が 労働し休息するのではなくなり 一日八時間労働が労働し 八時間の睡眠が睡眠し 八時間の余暇が遊ぶというようになる。
だから八時間なら八時間の労働行為価値を 共同主観において活かすのは 労働行為・経済活動関係の社会的なそして歴史過程的な・だから段階構成的な推移の展望(そのように 海を超えて存在する祖国を遠くから見ること)によってではなく いまの主観が その原主観の同一とその全体にとどまって かつ時間的な幅としては共同主観夢において つねに主観共同化の実践をおこなうこと そしてこのとき 原夢の同一にとどまる生きた主観は 社会という実態(社会的諸関係の総体)のいわばこの上なく安全な望楼に立つであろうが この望楼から展望するのではなく いま――この今――この望楼から その鏡をとおして(また 夢というからには謎〔不明瞭な寓喩〕において) 現実を・人間の配置関係なる愛を見ることによってである。
労働行為価値を伴なってその価値・価格が決定される商品関係についても同じようであり この人間の社会的な関係配置なる愛に 現実的な矛盾と動態を見ない人はいないであろう。だからこの主観共同化は 運動であり実践であると考える。異和の補償力にわれわれの進む方向が見出されよう。
以上が 人間の社会的な罪の問題についての一考察である。後半の主題は また適当な場所で議論しなおすであろう。   

(つづく) 

*1:神の国と地上の国との間の国境線は定かではないアウグスティヌス神の国について 11:1アウグスティヌス著作集 第13巻 神の国 3

*2:《時間的なものの無知によって ある点で誤り そして為すべきように為さなくとも それは人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがって容易に許されるのである。》(アウグスティヌス三位一体論12:10〔15〕)

*3:《しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。》(アウグスティヌス三位一体論 承前)