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ヤシロロジ(市民社会学)と時間

34 やしろの形態と時間の意識

《古代日本〔人〕の時間意識》をかんたんに見てみたい。
次の書物の第二章にあたる。

時間の比較社会学

時間の比較社会学

  • 次の新版もあり。

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

時間の比較社会学 (岩波現代文庫)

この項目が 書評の眼目になるかもしれない。ただ ここで古代日本について 広く議論することは適わないので かんたんにとなる。

  • ポール・ヴァレリーの方法への序説》《人間(現実)が変わる――キリスト史観への序説――》で その輪郭を素描できたかと思う。ここでは別の角度から捉えて この今の書評全体を締めくくりたいと考える。

すでにわれわれは 現代日本人の時間意識のなかには 著者の言う基本的な四つの時間形態(反復的 / 円環的 / 線分的 / 直線的)をそれぞれ適当に――文字通り適当に――取り込んで いわば現代世界の時間観が 不思議にも綜合されて――雑種混合的にも全体として おぼろげながら綜合されて――現われているのではないかと考えた。したがって この考えに対する一つの傍証になればよいとも思う。

  • もっとも論証的な精神は このような一般論・原理論たる時間にかんする議論には 最後のところではあまりなじまないと思われる。ここでは より多く観想的な精神によってわれわれが かくも熱心に見まつろうとしているあの永遠をかいま見たいと かいま見うるように努めたいと考える。
  • 永遠 もしくは真理は 時間(時間行為)の自由を意味する。
神話の時間と歴史の時間

著者・真木悠介は この《第二章》のはじめの節では 《神話の時間と歴史の時間》をとらえるべく まず 古代日本人の時間観には 当然のごとく あの《反復的》な原始共同体の時間意識が存在し これがやはり一つの基調であったことの把握から 論を進める。

時間についての原初の表象が一般に不可逆の直線ではなく 循環する円ですらなく たんに反復する対極性(たとえば 過去と現在との対極性。しかもそれが 互いに反復する)であったということとその意味を われわれは前章(=第一章)においてみてきた。エドマンド・リーチを引いて平野仁啓がすでにのべている(《続  古代日本人の精神構造》1976*1また永藤靖《古代日本文学と時間意識》1979*2)ように 上代の日本人の時間意識もまた同様であった。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) p.94)

この前書きは ただちに 次の導入部に移る。

古事記 (岩波文庫)》のなかで イザナギがたくさんの子を生んだあとで 最後に三柱の貴い子を得る。アマテラスとツクヨミとスサノヲである。イザナギはアマテラスに高天の原を ツクヨミに夜の食(おす=治める)国を スサノヲに海原をそれぞれ統治するように命ずる。よく知られているこの神話のなかの世界の三つの領国 すなわち天と夜と海とは かんがえてみれば奇妙な非対称 あるいは非斉同性である。《夜》という時間のカテゴリーが天や海とならんで ひとつの空間的な領国として表象されている。もっともアマテラスはその異称をオオヒルメノムチとよばれるように 昼の神とかんがえることができる。すると昼‐夜は対称となるが 海との非斉同性は残る。そして昼‐夜は やはり 二つの《領国》として空間的に表象される。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) p.94)

うんぬん。そこで われわれは すでに時間(つまり人間の存在)の領域として その第一次・具象・質的・この意味で歴史実存的なそれを 《スサノヲ者(市民)領域》とし また同じく 第二次(なぜならそれは 《スサノヲ者領域(わたくし)》のみから成るヤシロの時間を嫌うかのごとく その上部にスーパーヤシロを見出すがごとくこれを建てるようにして 第二次的に発進される)・抽象・数量的・この意味で歴史普遍的なそれ これを《アマテラス者(公民)領域》として 定義し措定してきたのであるから
この前提で議論してきたのであるから もはやわれわれは ただちに この著者の第二章 導入部である上の設定から これを次のように解きほぐして再構成することができる。
すなわち いまはまだこの段階では 社会形態的に 《ヤシロ‐スーパーヤシロ》の二階建て分離連関体制つまり国家が成立しているのではないが 時間の原初的な形態(つまりそのような人間存在)のうちに すでに 《スサノヲ語 / 概念 / 実体》と《アマテラス語 / 概念 / 実体》とのふたつの基本領域(《貴い子》)が 見出されつつあり 人びとはこの二領域を意識しつつあった。
同じことで言いかえると 人間社会=《やしろ》は 第一次的な手放しの《わたくし》にとっての《まつり》と一体である《ヤシロ》と ここから或る意味で上昇するかのごとく 人びとに抽象共同的な第二次・《おほやけ》の《まつりごと》を見出し これを尊ぶべきとする《スーパーヤシロ》とに 時間形態の上で 分かれ行きつつあったと言うことができる。しかもこれは 一般にはじめの《スサノヲ》としての人間が 実はその自己のうちに――どれだけの時間的経過がかかったであろう―― まったくの《非スサノヲ》たるあの永遠をかいまみるがごとく あるいはむしろそれを何ものかから突きつけられてのごとく そのような否定的な主観を 与えられ見出すことである。

  • 要するに 《反省》という精神の作業のことである。

この否定的な主観の手段・その象徴としてのかたちが 《アマテラス領域(ないしアマテラシテ)》なのである。

  • さらに付け加えるならば このアマテラス領域は ここでは 社会形態的にまだアマテラス圏(=第二階・スーパーヤシロ)では基本的にはないことによって むしろはじめのスサノヲの有(もの)であって そうでしかないことをも物語る。
  • それは 永遠なる否定的主観(否定的な主とでも 表現として 言えるかもしれない)を得たスサノヲが アマテラス概念たる天使に仕えるのでは必ずしもなくて むしろ この天使こそが 永遠の主のもとに その神または人間にこそ仕えるという方程式がここからも導き出されることを意味する。スサノヲイズムというとき このことを意味する。

さてそれでは  《夜の食す国》を統治するツクヨミとは いったい何か。また スサノヲが《海原》を統治するとは 何のことか。天使たる普遍概念アマテラスが 《高天の原》を統治するというとき それは何を物語るのか。
まず アマテラス(天=海・照らす)が オホヒルメノムチ(大・日・る〔連体助詞〕・女・の・貴)でもあって これが時間的存在にとっては――肉なる眼でよるのではなく 内なる眼によるとすれば―― 光の天使=普遍概念たる思念を指し示していることは 明瞭であろう。空間的に《タカ〔ア〕マノハラ》というときには 《トヨアシハラ》なるやしろつまり第一次のヤシロを去るがごとく 人間(つまりスサノヲ)が 社会的・政治的・経済的にもっぱら他者に対してアマテラス者であろうとするとき そのかれらが築くアマテラス圏(つまり第二次ヤシロ)のことを より色濃く表象しようとするときの概念であるとなる。

  • つまり 《ヤシロ=葦原》と《スーパーヤシロ=高天の原》 これら両圏の全体として いま《やしろ》を考えている。

このとき スサノヲは おそらく あるいは当然のことのように 《アシハラ=ヤシロ》に取り残されるがごとく しかし ある意味で 自己の同一性を保ってのごとく(従って もっぱらのアマテラス者は むしろかれらがこのアシハラから追放されてのごとく) 生活の拠点を 同じところに あらためて見出し しかしながら同時に その自己の内なるアマテラス領域 これは必ずしもタカマノハラに見出すというのではなく しかし《非アシハラ圏》の中に つまりその意味で 《海ないし海原ないしそのかなたの祖国(それは 初めの日本人がそもそも海を渡って ここにきたからであろう)》のなかに これを捉えることを指し示している。
これは 一言付け加えるなら 専従アマテラス者(つまり 政治的支配者である)のスーパーヤシロが 抽象そして時に幻想的であるのと同じ程度で 抽象ないし幻想的な《祖国としてのやしろ》の設定である。
大雑把に このような時間観の内部的および外部的な発展(その見いだし)の中に 二階建てのイエ=国家が 社会形態の一つの普遍的なかたちとなって行くことを見る。
ところが ツクヨミないし夜の食す国とは 光の天使の堕落した結果の一領域を意味していると思われる。それは アマテラス者(その圏)から墜落した者(没落貴族)を含むとともに 一般には スサノヲ者(その圏)の中のアマテラシテ=光の天使の喪失という時間的な経験を言うとするのがよい。これは 時間――当然に過程であったものだが――における罪の問題でもある。したがって ひとつには スサノヲ者が アシハラ市民社会の中にあって タカマノハラとある意味で或る時 対立するようになり しかもこの対立(それは 個人的にではない)の解決を見いだそうとするとき 或る意味で失敗し しかるに ウナハラの祖国というアマテラシテ概念によっても あの永遠観に導かれて行かず このようにして 自己の内なる何らかの《スサノヲ‐アマテラス》連関的存在の形式を確立しえなかった場合 ツクヨミの領域へとゆく。つまり それは 罪としての時間形態であり(または スサノヲ者から これを離れもっぱらのアマテラス者となることが 基本的な罪の形態だとするなら このツクヨミ者は この罪に悩み その罪の形態を アマテラス者となることによっても またスサノヲ者にとどまることによっても いづれのかたちにおいても 自力では揚棄しようとしなかったという罪なる時間形態であり) またその限りで この《夜の食す国》領域の設定とそこにおけるものとしての・また全体との兼ね合いにおけるものとしての 罪の共同自治の形態を明らかにしている。
だから もう一つには 専従アマテラス者(政治家)は――タカマノハラへとむしろかれらが追いやられ逃れてのように そこにたどり着いたアマテラス者は―― スサノヲ者=アシハラ領域を直接 統治しようとするのではなく この《ツクヨミ=夜の食す国》領域の管理にあたることを 自己のアマテラス圏の保守の最上の手段と考え これに行き着く。言いかえると 罪の共同自治の形態を 天使=アマテラス語の思念共同による統治の様式の中に取り込む。また このアマテラス者によるアマテラス語の観念共同による自治様式は はじめのスサノヲ者の自己の内なるアマテラス語による自治の行為形式の写しである。かくて 時間形態=歴史過程は 社会形態として《スサノヲ圏‐アマテラス圏》なる分離連関体制となって 推移することを一つの基調とした。ツクヨミは 必ずしも自己だけで独立の圏を作ることなく アマテラス圏に摂取されるようにして アマテラス語の思念体系である律法ないし法律(成文・不文を問わず)による統治様式の中で――そのとき統治者に仕える者としてのツクヨミを考えるなら かれは――アマテラス圏(それは タカマノハラというイエ(家)でもある)の住人となって つまりイエイスト(官僚)となって 律法作成とその遵守体制にもっぱらあたることになる。
ここで 時間論を 生きた動態にしようという方向には もはや明らかにこのような時間形態の中で スサノヲイズムの樹立という宣言がなされてしかるべきであろうが ここでは書物に沿って理論展開をまず追うことにしよう。
われわれはまず もはや自己を誇る者の如く言えば ここに提出した時間論においては たとえばすでに《〈神話の時間〉と〈歴史の時間〉》とが 互いに決して別のものではなくて あの永遠(無限)と時間(有限)とが正しく結ばれるべきであったように 重なって一つになっているのを見いだすと言わなければならない。これは無論 はじめの出発においてそうであったものであり また《終えたときから 人は始める》というごとく ここから理論展開はなされていかなければならない原点でもあった。

時間観の変革とヤシロ形態の移行

なおちなみに 著者がこの導入部の議論で次のように続けて述べていることは われわれの議論と通底するものであるとともに また 国家形態すなわち《アマテラス(A)圏‐スサノヲ(S)圏》連関体制の 社会形態としての未来への移行をも暗に示唆しえていると思われるものである。

・・・永藤がのべているように

神話においては 少なくとも昼と夜という異質な二つの世界を括って《一日》とする観念はあり得なかった。
(《古代日本文学と時間意識》)

それはこの《二つの世界(昼としてのアマテラス領域と夜としてのツクヨミ領域)》をつらぬいて流れてゆく共通の《時間》という観念が なかったからである。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) pp.95−96)

《神話においては》という条件は 微妙である。つまり 《古事記 (岩波文庫)日本書紀〈1〉 (岩波文庫)》体系という神話では すなわちそのように文章化された神話の時点では むしろ《A圏》がツクヨミ領域を自己の中に摂取して重なるような国家(イエである)という社会形態が実際であろうが これに対して その神話がそもそも初めにうたわれた時代(時間)そのものにおいては(国家成立以前では) そうでなかったということであろう。

  • 繰り返し述べるなら 昼(アマテラス)と夜(ツクヨミ)とは はじめから互いに共通項とするような一定の時間観を持ったのではない だから両者は互いにともに括られて《一日》とされたのでは はじめには なかった。

だから 《ツクヨミ領域 / 官僚圏 / ないしすでに提出した概念としてアマテラス予備軍》の去就については つまり言いかえると やしろ全体としての罪の共同自治(つまり生産)の様式については つまりさらにふたたび元に戻って《ツクヨミ》を やしろのどこに・どのように摂取して自治共同するようになったかについては 国家形態は その制作ないし責任において 最終絶対的なものではないであろう。A圏とS圏との互いに分離して 持ちつ持たれつの連関体系は 一個のスサノヲ者の内なる構造においてそうであったごとく 原理に近いと言うべきではあっても A圏がそこで《ツクヨミ》を独占・支配的に取り込む・そのようなA圏優位の共同自治の様式 つまり国家形態は 時間的つまり歴史有限的であるだろう。
はじめに 《一日》は 昼と夜との合同つまり アマテラスとツクヨミとの癒着から成っていたのではなかった。死(たとえばイザナミの死。そしてそのあと これら三貴子がイザナキに生まれる)の制作者が入り込んで 罪という時間(あるいは 時間脱出)が生まれたのだから 第二のアダム(キリスト)によってこの死が征服された――つまり死の制作者=悪魔は この第二のアダムに征服されるべく かれを一切の罪から離れていたと言われるかれを 十字架上に追いやって死なせた だから その悪魔に捕獲されていた人びと(その長子がキリストである)を 放免せざるを得なくなった(なぜなら 捕獲の原理が崩れたのだから)――としたら(《死よ おまえの勝利はどこにあるのか。死よ おまえのとげはどこにあるのか》) 《一日》という時間の構成は 別のものとなるであろう*3)。
いま大胆にものを言うことが許されるとするなら ツクヨミは むしろS圏へと移行を開始して しかもこのS圏のスサノヲ者らを放免するかのように動きつつ かれらにむしろ従い そこで 別の意味の・別の形態の官僚(事務的な社会科学主体)となる。なぜなら 《一日》は スサノヲ者のうちにおいてこそ たしかに要素としては昼と夜とから成り立っているものであり そのようにして初めて 具象・実質的な時間を あの永遠に照らされてのごとく 構成するからだ。官僚・公務員は スサノヲ市民に仕えてこそ やしろは健全であると断言してよい。われわれは 後にあるものから去って 前にあるものへと 心を傾注して 手を指し伸ばしつつ 時間を 自分のものとするがごとく 牽き行き歩まねばならないとは正当にも言いうる。この自由は 国家論におけるものである。
だから ヘーゲルは その時代の中で 人は国家の中でのみ自由となると断言(あやまち)したのだ。しかし このあやまちは正当にであった。われわれは ヘーゲルを継承しつつ乗り越え いまかれとともに――かれとともに つまり逆の方向で―― 《あやまつならば われあり》と宣言しうる。これも・あれも 死者(ヘーゲルは死んでいる)の復活がないとすれば すべてむなしい議論となる。

イザナギ イザナミの神話にみるように死とはヨミの国 またはその他のさまざまな名前でよばれる他界へと去ることであり そうであればこそ《よみがえり》とは このヨミの国から帰り来ることに他ならなかった。それは空間的移動(だから 時間的移動――引用者)としての生死のイメージをよくつたえる。
時間の比較社会学 (岩波現代文庫) p.96)

ところが 《ヨミ(夜見)――ちなみにツクヨミのヨミは 読み(=月日を数える)――の国》の王とは ほかならぬスサノヲその人であった。それは 《〈夜見(動詞)の王》と呼ぶほうがふさわしく 《ヤミ(闇)》に対して ツクヨミとともに つまり ツキ(月)を見て《まつり(または まつりごと)》の日をヨムようにして スサノヲは つまりツクヨミはアマテラスとともにではなく このスサノヲとともにあってそのとき スサノヲは その孤独と愛欲から そして所有・協働関係において 日から日へ 前史から本史へと つまり栄光から栄光へと あたかも《主の霊によってのように 変えられ》 自立するのである。スサノヲイズムは この意味で つまりこの自立の意味として 《アマアガリ》ないし《スサノヲの――あくまで 自己のもとにおける――アマテラス化 amaterasization of Susanowos》の時間過程として 措定することができる。それは あの永遠の観想へ――《鏡をとおして謎において》から 《顔と顔を合わせての直視》へと――導かれゆくためである。十字架上の死からよみがえったキリスト・イエスが そのための《聖霊を受けよ》と呼びかけたがゆえにである。 

  • ここでは 社会形態としての国家の歴史的な移行を 主観の運動として語った。追って この内容を展開してゆきたい。
補注 《一日》は 昼と夜とから成るものか

付録一の21節(2005-05-25 - caguirofie050525)で論じたが アウグスティヌスからの引用をより詳しくしつつ 再考しておこう。

たしかにわたしたちが知っているように わたしたちの経験する《一日》というものは 太陽が沈むのでなければ《夕》とはならず 太陽が出るのでなければ《朝》とはならないのである。ところが聖書の言う最初の三日(《旧約聖書 創世記 (岩波文庫)》)は太陽なしに過ぎ行き その太陽は四日目に造られたとされているのである。すなわち まず最初に神の言葉によって《光》が造られ 次に神は《光》と《闇》とを分け その光を《昼》と呼び 闇を《夜》と呼んだということが告げられている。・・・
ところで 被造物(時間的存在)の持つ知識は 創造者(永遠)の持つ知識とくらべていわば《薄暮》のようであるが それが創造者への讃美と愛に向けられるなら 光を増して 《朝》となるのである。そして被造物への愛のために創造者が見捨てられないかぎり それは《夜》に変わることはないであろう。それゆえ 聖書はそれらの《日々》を順に数えあげた際に 決して 《夜》という語を挿入しなかったのである。《夜があった》とはどこにも言われず むしろ《夕があり朝があった。第一日》と言われている。第二日もそのあとの日も同様である。たしかに 被造物の持つ知識は自己の中にあるかぎりでは 創造者の知恵(子なる神 人間キリスト・イエス)――それを造った術知(父なる神)と同じもの――の中にあって知られていると言うべきである。このようなわけで 《夕》というほうが《夜》というよりも一層ふさわしい一表現である。しかし今言ったように 被造物の持つ認識〔の《夕》〕は それが創造者への讃美と愛に関係づけられるとき 《朝》へと向かって急ぎ行くのである。
そして被造物がこのことを自己自身の認識においてなすとき そこに《一日》がある。
(《神の国について》11:7.アウグスティヌス著作集 第13巻 神の国 3

ここでは 真木悠介氏の認識すなわち《昼と夜とは はじめから一緒に括られて 〈一日〉を構成していたわけではなかった》という認識とは 必ずしも同じではない観想的な見解が見られる。はじめに《光》が造られ この光は 《光と闇》とに分けられ 前者を昼 後者を夜と呼んだという認識が それである。
思うに このあとのほうの見解は 自然界の昼(アマテラス)と夜(ツクヨミ)といったふうな 人間たる時間的存在を超越したもの(ただし 時間的存在の構造にも 類比的に あてはめうると思われるもの)とはちがって 被造物ではあるが 人間という時間的存在とは異なる天使の存在の次元で語られているとは思われる。
そして問題は ここに掲げた文章のなかで 人間が その薄暮の知恵においても 朝から昼 昼から夕へ そしてこの夕から 必ずしも夜へは渡されずに 次の朝を迎えるということ そして夜は このスサノヲ者の一連の過程の中で ある種 避けるべき異質なものとしてであるが 捉えられるということ これである。
ツクヨミは もしそれが夜を表わすとするなら アマテラス圏の中へ組み込まれるというよりは スサノヲ圏の中で 自治されるもの そしてまた アマテラス者のアマテラス圏は それが独立して存在するのではなく 一般スサノヲ者に与えられた広義の光のなかで スサノヲ者の内にはたらくものであること このように考えられることが それである。《そして被造物がこのことを自己自身の認識においてなすとき そこに〈一日〉がある》と言われること これである。

  • 三貴子の構成する《一日》が 比喩的に《やしろ》またその形態としても 捉えられるということを――まだなお概括的にながら―― 議論した。

なおちなみに それら六日のあいだに神が宇宙を造ったという《これらの日がどのような意味を持つかを考えることはわたしたちにはまったく困難であり 不可能ですらある。ましてそれを語ることはそうである》(神の国 3 (岩波文庫 青 805-5) 11:6)と聞くとき たとえば ただ単に時間の単位による一日目・二日目などといった時の変化のなかで それらを理解することは避けるべきである。かと言って 宇宙の歴史にかんする科学的な知解が われわれの知解の全体として これに代わって 迎え入れられてしまうべきということにはならない。観想(=テオーリア=理論)の性質がちがうと言われるべきである。だから 《旧約聖書 創世記 (岩波文庫)》の記述を信ぜよということではなく その有効の可能性は残されたと思われることである。それは たとえば《古事記―付現代語訳・語句索引・歌謡各句索引 (角川ソフィア文庫 (SP1))》のなおそれとして有効であることと同じようにというほどにである。またそれは ことさら神秘主義を言うためではなく それらによって知解され得たところを 述べ伝えるべきだと言うにすぎない。つまりなんなら われわれは それらの神秘をも通過しうると思われることである。鏡をとおして なぞにおいて・・・。
(つづく)

*1:平野仁啓:《古代日本人の精神構造》《古代日本人の精神構造 続

*2:永藤靖:《中世日本文学と時間意識

*3:《一日》の構成については この節末の引用文を参照せよ。