caguirofie

哲学いろいろ

第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

付録二 夢と無意識を見直そう

23 異和という補償力

夢は ちなみに それを分析することによって ある病的な症状・症候にかんれんさせて捉えられることがある。精神分析の方法の一つ あるいは 治療の手段として。これは しかし いまとなっては 新しい時代を迎えるにあたっては 実は ゆゆしき問題を含む。
すなわち これまでの考察からかんがえて この病的な症状を訴えるような夢も あるいはそれらこそ 健康な状態の補償力を宿している こう言わねばならないからである。
眠りにおいて夢のかたちで現われる(訪れる)現実に対する異和 その異和という補償力 これが 人間の健康かつ正常な状態なのであって もし反対に この補償力が この異和をなだめようと考え それによって眠りの世界へ誘うというのであれば これが あの夜と昼との一対からなる共同観念世界への停滞を意味することになる。
そのとき人は あたかも衣服を裏表反対に着てのように その巡礼(人生)の道・帰郷への旅をつとめて走っていることになるという大問題である。
このときわれわれは むしろ正常なる異和を 押しつぶすか 魔術で寝かしつけるかした病的な症候を示しているということになり あるいはあの幻想となった共同観念によって 蜃気楼の外套のなかに包まれてのように 病的症状の無意識化・日常化を行なっている。精神異常とかいったことがらについて おそらくわれわれは その視点のコペルニクス的な転換をはからなければならないのではあるまいか。

吉本隆明《心的現象論》の読み直し

吉本隆明の《心的現象論序説 改訂新版》は これが 文学ないし文芸批評の固有の領域から行なわれたものであれ いわゆる精神分析学ないし精神医学の領野に旅立ち そこから いくつかの基本的な概念を点検しつつ もし上に述べたような基本的な前提をそのまま踏襲していたとするなら この角度からいま一度 検討を加えることが必要である。しかし この著作は その精神分析学上の諸概念を点検していると言ったように たしかに新しい視点を模索していると思われたのである。
むろん この付録の第二考がその意味でかれの思索の焼き直しであるとするなら 何の価値もないことになるが あらためてこの《心的現象論》をまず踏まえることは 重要であると思われ 《共同主観者にとっての夢》の主題にそって考察をつづけることは ゆえのないことではないと考えられた。次がそれである。

無意識をめぐって

まずはじめに 基本的な概念の一つとして《無意識》を取り上げ これの概念転換をはかる必要がある。
はじめにすでに明らかなことは 無意識が 意識と 揃いの概念を構成し これがあたかも 夜と昼との対のような関係にも比せられるとするなら 検討を要する。
ちょうど人間の無意識――たとえば 異和のなだめ・蜃気楼による包み込み――の内にいる間にも 《無意識》という概念が設定されてしまったとするなら だから これによってさらに この無意識の領域から 一般に性欲(リビドー)に関係づけられるような人間の衝動・願望の現われといったこととして 《病的な症候・症状ないし異常》がはけ口を求めるかのように 発生・発覚するという理論が生じているとするなら これは 逆立ちした議論であるとまず思われる。
たしかにすべてが転倒している。
むろん一つの前提として 次のことが言われるべきである。共同観念は そこに律法を持って 人間の社会の一つの共同自治の方式であり 人間の知恵によってきづき上げられたとするなら それは 人間の栄光 doxa(共同主観も doxaとしてこれに・つまり共同観念の律法の部分に関与したと思われる)である。だから 共同観念として 昼と夜 覚醒言語と入眠言語 意識と無意識を 分けて・またそれらの一対として とらえることは 一つの人間の栄光としての 人間の自治の科学である。
栄光(共同観念の倫理)から栄光(共同主観の主導するそれとしての倫理)へと変えられると ちょうど史観の方程式としてのように 言われる視点から見るとき それらは 転倒している がこの転倒も 一つの人間の・社会の自治の様式であったと言わねばならないかもしれない。したがって 問題ははじめの栄光が それにつづく新しい栄光の生起することを 阻み それを何らかの強力によっても抑えるとき その転倒した様式の保守にある。
あとの栄光が 信仰であり 先の栄光は その宗教〔宗教化した形態〕である。後者が 意識であり 前者が無意識であると ほんとうはその逆であるのに もしくは両者全体が意識であって 無意識はこれらをも超えた世界であるのに 倒立してとらえられたのである。
信仰が 経済学〔の方法論〕であるのに これが 宗教とされ 現実一般の宗教(共同観念)のなかのたとえば経済活動の領域を 人間(倫理次元)の科学として扱うのが 経済学とされるのである。だからこれらは たしかに分析学である。
信仰が 性欲等の人間の自然本性を善く用いようとするとき 宗教的な倫理あるいは心理学・経済学・政治学ないし自然科学等が それ(欲望)を人間的に 自治すると考えられたのである。
この倒立への異和の補償力を保持する人びと――つまりわれわれ共同主観者――は 倒立の世界の側からは その異和= 実は補償力が《無意識》の力となって そのもとに性欲等の自然本性が 衝動的・野性的にまた異常として 現われると分析されたのである。しかし――わたしは言うが―― 異和がなだめられ 実は信仰という《意識》が 宗教という側の《意識》にとっては《無意識》の領域へと押しとどめられた結果がそれである。宗教(共同観念)の側にあっては すでにその自分たちの信仰(共同主観)はなだめられ寝かしつけられているので 共同観念〔の倫理〕が意識であって 自己の自己たることなどを問う信仰は 病的な無意識となる。
けれども 宗教倫理的に 異和をなだめ 押しとどめる人びとも 異和の信仰が自然本性を善く用いて そこにいわゆる人間の愛が 倒立を倒立させたものとして 形づくられるということを知っていて そうするのでないなら 病的な症状という規定や異常としての摘発をなすことはなかったであろう。
むろん これによって いわゆる倫理に反せよとか 律法を犯せとかいうものではない。しかし 病いとか異常とかは 人間の全体的な現実 現実的な現実から見て 正しく位置づけられる必要がある。だから これらは 心的現象論の問題であり。 たしかになおも倫理というほどに 人間の愛の問題である。共同主観者は その夢の補償力に支えられてのように ただしい科学の目を向けるべきであろう。

だから 《わたしたちは変えられる》とかれ(パウロ)は言うが それは かたちからかたちへ変えられることであり また暗いかたちから明るいかたちへわたしたちが移り行くことである。
なぜなら 暗いかたちもすでに神(真の現実)の似像であり もし似像であるなら たしかに栄光であり わたしたちは人間としてその栄光において造られ 他の動物に優っているからである。
たしかに 人間の本性について 《男は神の似像であり 栄光であるから 頭を〔蜃気楼で〕覆ってはならない》と語られている。この本性は創造されたものの中でもっとも卓越し そしてその創造主によって不敬虔から義とされるとき 醜いかたちから美しいかたちへ変えられるのである。なぜなら不敬虔のただ中においてさえ 罰せられるべき悪徳が大きければ大きいほど賞讃されるべき本性は一層 確かである。このゆえに 《栄光から栄光へ》 つまり創造の栄光から義認の栄光へ という言葉が付加されるのである。・・・
また わたしたちを神の子とならしめる栄光からわたしたちをかれに似させるであろう栄光へ――わたしたちは神の真の御姿を見るであろうから(ヨハネⅠ 3:2)――と知解され得る。しかし 《いわば主の霊によって》と使徒が付加したことは わたしたちにかくも希求すべき変化の善が与えられるのは神の恩恵に拠ることを示すのである。
アウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論 15:8〔14〕)

だからこの文章は 使徒パウロ

わたしたちは 顔蔽い(律法の網の目・科学のみによる知識体系)なくして 主の栄光を鏡に映すようにして見つつ 栄光から栄光へ 主と同じ似像において いわば主の霊によって変えられるのである。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:18)

への註解である。むろん ここでは信仰告白が問題なのではなかった。《意識・無意識》という概念が いわゆる分析学的に 共同観念世界たる《鏡》のなかに ともに押し込められてのように捉えられることへの異議を提出することが それであった。

記憶という組織秩序

吉本隆明は 第Ⅵ章〈心的現象としての夢〉の中の 第五節で〈夢の解釈〉という表題のもとに まずフロイト理論にたてついて 《無意識》概念の再検討を迫り 次のことを語っている。異和としての夢 共同主観者にとっての正常な夢作用を把握してのように かつ自己の体験をとおして(つまりは 正当にも 主観形成の問題として) だからかれの主観を ありのままに 語ろうとしている。これは これまでにも 言外に見られたかれのいま一つ別の主調ともいったものであり それが ここで純粋に 言葉にして語られたもののように受け止められるであろう。
ここでは この第五節の全文を引いて掲げたいところであるが だから できるだけ原文を載せるかたちで すでに読者であった人たちにはいくらか冗長になるかも知れないことを怖れつつも 次のように紹介・批判しておきたいと思う。

わたしたちは 《幼児記憶》が《無意識》のなかにしまい込まれていて 何十年もたったあとで夢のなかに」あらわれるといった心的な系統発生論(これがフロイトのものである)をそのまま認めがたい。幼児の体験が 心的な現実性としてあらわれるとすれば かならず《現実》の心的なパターンとしてだけ意義をもっている。それは《記憶》ではなく心的なパターンというべきである。
吉本隆明全著作集 10 思想論 1《心的現象論序説》p.230)

まずこのようにフロイト理論に異が唱えられる。われわれはこの場合 《記憶》という概念・言葉はそのまま使ってもよいと思うし またここでの《心的なパターン》とは そのまま〔吉本の言うように 《現在》の〕《主観の形成》の問題であるにほかならない――したがって むろんわれわれは 《記憶》もこの《主観形成》につながると言っていることになる――と考えられる。さらにまたこの前提でのみ 考えたいということになるのだが このように反論を立てたのちかれは 自己の人となりを披瀝するかのごとく この一節全体を使って かれ自身の主観形成を余すところなく語っている。この主観形成は むしろあの異和をなだめること・なだめられることを 拒む姿勢にある。
次に引用するのであるが その前に 前節22《三位一体》の註解で この三位一体が人間のとくには精神のありかたにとって どのような意味を持ちうるかということにまだ触れていなかったので それを述べておきたい。《記憶》の問題が出たところで ちょうどよいと思われる。

註解:人間における三行為能力の一体性について。

《記憶》は 《知解》を生む。内的な記憶された視像(概念像)が 思惟の視像(概念)を生むのである。精神的な思惟という概念の形成・言葉による表現 これが 眼によってものを見るという外的な行為(その事象)の《記憶》にもとづいて 上のように《視像》というような言葉で捉えられ 定義づけられ 知解が運ばれるというように。
このように 《内的な視像》と《その視像からの視像(概念)》とをつなぐ人間の第三の行為能力は 《意志》である。記憶と知解とをつなぐものである。
たとえば夢の或る視像と これの理性的な知解とを結ぶものは 意志である。それはまた そのような夢を見た自己を愛し 夢をとおして関係づけられる他の人物を その関係をとおして 愛するという《愛》でもある。意志が愛でもある。
精神は これら三つの行為能力から成る。
いま簡単に 人間の第一の行為能力である《記憶》は 聖三位一体との似像関係においては 父なる神に 第二の《知解》なる行為能力は 子なる神に そして第三の行為能力である《意志・愛》は 聖霊なる神に それぞれ喩えられる。
むろん神にあっては 三位格が一体であり 個は各個と 全体は各個と 各個は全体と 一体であった。

  • 子や聖霊が 記憶しなかったり 父や聖霊が知解しなかったり 父や子が愛さないということは いづれも ないことである。あるいは 父や子も 聖霊とまったく同じく 霊である。子は かれのみ 肉に造られた。その存在は 目に見える。子は派遣された。聖霊もこの経験世界に派遣されることになる。

いま 人間が神の似像であると言うのは これら三行為能力が その能力行為として それぞれ互いに時間の間隔をともない過程的にして あたかも精神において同時一体のかたちにあることが 神の三位一体に――はなはだしく遠くかけ離れつつ―― 類似しているという点に問い求められた。
さらに 人間の個体に即して 記憶は精神(かつ身体)の秩序に 知解は生産・労働行為に 意志・愛は自治(家族の経営から始まっての)につながっている。社会的にはそれぞれ 社会組織と法秩序 経済活動 政治(共同自治)にである。これらは 同じく順に 司法 立法 行政の三つの権能に当てはめられる。分立して綜合されるということだ。それぞれ互いに時間的な間隔をもって行為されるが そして互いに拮抗するかたちでもあるが あたかも全体として一体性を発揮しうるかに捉えられると考えられる。
第二の領域に 経済と立法とが対応するというのは 立法行為はむろんそれじたいが経済活動ではないが その規則の形成であり この規範の自生じたいとしてのように交通整理を 知解しつつおこなうことは 経済活動であると思われる。労働も生産も 知解行為に対応するものと思われる。別の視点から交通整理するほうの経営・行政は 意志・愛の行為に応じているように考えられる。
キリスト・イエスは たとえとしていわば知解・経済行為・立法であるとすれば 自分が去って 弁護者であってあたかも愛・政治行為・行政であるかのような聖霊を遣わすと言った。ここで父なる神が もしたとえとして記憶・社会組織・司法であるとすれば およそ同時にはたらいていないとは言えない。
この聖三位一体に不類似の類似であるわれわれ人間は この鏡(記憶‐知解‐愛 // 社会組織‐経済‐政治》をとおして いま部分的に その不可変的な存在を見ていると言われた。鏡そのもを見ている人たちは この自由の共同主観を ただの異和として 単なる夢として あるいは無意識として またさらに精神異常として つまりいづれの場合も 愚かとして 扱い 鏡つまりあの律法と倫理の鉄格子の世界のなかに押しとどめようとした。
これも 共同観念として ひとつの人間の栄光であり かつそれとして 暗いかたちであると見られた。その保守の動きは 完全に倒立のかたちとしての栄光である。
われわれは今 単に個体的にそれぞれ神に愛されるというだけではなく 社会的にも 栄光から栄光へ 暗いかたちから明るいかたちへ 人間の歴史的に 変えられつつあると宣言していることになる。夜と昼との一対からなる一日という姿から 夕が去り朝があったの一日へ。

  • さて 吉本が 無意識にかんして独自の考えを述べて みづからの人となりを明かす主観形成を語る文章であるが 長くなるので ここで一たん節を改めるにしくはない。

 (つづく)