第一部 第三の種類の誤謬について
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付録一 共同主観者にとっての夢
22 註:聖三位一体について
われらが主と仰ぐ存在(それは《自由》)は 真実で一なる神であるのに 父なる神(創造主)と子なる神(救い主キリスト・イエス)と聖霊なる神(父と子との神の愛・その保証金)という三つのペルソナ(三位格)が存在するというのは どういうことか。それについて わたしに与えられた力の範囲で(当然だ) 前節への註解として 述べておきたいと思う。
まず簡単なたとえとして 次のように考える。
光には 光源と光そのことと明るさ・暖かさとの三つがあり 三者は一体である。光源から光輝が生まれ 光線が送られる。光源からと同時に光そのことから――従って 両者のつながりから――光明が発出する。あたかも 光源は父に 光輝は子に 光明は聖霊に それぞれ喩えられる。
子の父であるぺルソナと 父の子であるペルソナと これら父と子との両者から発出される聖霊であるぺルソナとを足しても すなわち 1+1+1が――ぺルソナとしては 3であるが―― 本質(《自由》なる知恵・光の本質)としては 3にならず 1であるということがらについて。――
人は 《あなたは誰か》と訊ねられて
――わたしは アデオダトゥスです。
と答える。つまり 被造物の中の人間 人間の中のこの《わたし》 アデオダトゥスという名で呼ばれる個体としての存在であると いわば本質的に 身元を明かす。
これに対して 《あなたは どういう人か》と訊かれるならば たとえば
――わたしは アウグスティヌスの息子です。
と答えるであろう。
- あるいは 民族・国籍・出身地で答えるかもしれない。また その職業で答えるかも知れない。が今 上のように答えるとしよう。
これは アデオダトゥスが 関係として その身元を明かしたことになる。本質は いま目の前に存在する存在 アデオダトゥスその人である。かれが 《アウグスティヌスの息子である》ことは かれの存在が 関係的に つまり言いかえると そのペルソナとして・もしくはその実体として 明かされ言われたことになる。
- 人間の場合は その本質としての存在を むしろ一個のペルソナと言う場合があり むしろこのほうがふさわしいが いまこう考えて話をすすめる。
アデオダトゥスもしくは人間は 時間的な存在である。偶有的(自分で自分を生んだわけではない)・可変的(その精神は そして身体はむろん 変えられる。つまりそうでなければ 精神は 悲惨な状態から浄福の状態を求め努力してもむなしいであろう)・可死的(人間は死ぬる)である。神には いかなる時間的変化も認められず つまり神は 時間的な間隔なくして存在する存在であるが 絶対的・不可変的・不可死的な存在である。
- そうでなければ 人間は 自己を時間的・偶有的・可変的等々と把握しないであろう。むろん 人間が自己を 時間的等々と把握する必要のない場合(たとえば《エデンの園の住人》)は ことさら神を立てる必要もない。ここに 真実の一つなる神が ある。
この神の本質が ペルソナ・実体として 捉えられないというわけではない。そこで 一つの本質・三つのペルソナ(実体)と把握される。
子の父と 父の子 という二つのペルソナは 光の比喩で理解される。父は 光そのものであり 子は その光の発耀である。したがって 父なる神は 計画(はかりごと)であり 子なる神は――子とは父によって生れたものである―― この光からの光 本質からの本質 知恵からの知恵 計画からの計画とよばれるのがふさわしく また 神の言葉と捉えられる。
はじめに ことばがあった。
ことばは 神とともにあった。
ことばは 神であった。
ことばは はじめに神とともにいた。
神はことばによってすべてを造った。
造られたもので ことばによらないで造られたものは何ひとつなかった。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:1−3)
光からの光 神の子は 《はじめに神とともにいた》のであって このことばが父なる神から生まれるということに関して そこに 時間的な間隔を見出そうとして思うべきではない。光とその発耀とのようにである。また ことばは 《神のちから 神の知恵》とよばれるが 父なる神が 《ちから 知恵》でないわけではない。だから 子は 知恵からの知恵と考えられる。また
ことばはこの世にいた。
神はことばによってこの世を造ったが この世はことばを認めなかった。
ことばは 自分の民のところへ来たが その民はことばを受け入れなかった。
しかし ことばを受け入れた人 その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。
こういう人びとは 血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志にもよらず 神によって生まれたのである。
ことばは 人間となって わたしたちの間に宿った。
わたしたちは ことばの栄光を見た。
その栄光は父の独り子としての栄光であって 恵みと真理とに満ちていた。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:10−14)
のである。
神は律法をモーセをとおして与えたが 恵みと真理とはイエス・キリストを通して実現させた。
いまだかつて 神を見た人はいない。父のもとにいる独り子である神 ことばが神を示したのである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:17−18)
さて聖霊なる神が この子の父である神と父の子である神とから 時間的・空間的なへだたりをもって実存するというわけではない。肉に造られたことば すなわち人間キリスト・イエスは 人間としての死を前にして次のように言った。
わたしを愛する人は わたしの言葉を守る。
わたしの父は その人を愛し 父とわたしとは その人のところに行き いっしょに住むことになる。
わたしを愛さない者は わたしの言葉を守らない。
お前たちが聞いている言葉はわたしのものではなく わたしを遣わした父のものである。
わたしは お前たちと一緒にいたとき このように話していた。
しかし 弁護者 すなわち父がわたしの名によって遣わす聖霊が お前たちにすべてのことを教え わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくれる。
わたしは 平安をお前たちに残し わたしの平安を与える。
わたしはこれを この世が与えるようには与えない。
動揺してはいけない。おびえてはいけない。
《わたしは去っていくが また お前たちのところへ戻って来る》と言ったのをお前たちは聞いた。
わたしを愛しているのであれば わたしが父のところに行くのを喜んでくれるはずだ。
父はわたしよりも 偉大なものだからである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 14:23−28)
この人間としての・時間的な間隔を持って語った言葉 この言葉の原理(はじめ)に 父と子との二つの実体が 一つの本質として どんな時間的な隔たりもなかったように この二つの実体のいま一つ別の実体である聖霊なる神が 時と所の懸隔を置かずして 存在することを 疑ってはならない。なぜなら 《わ‐た‐し》とその音節ごとに言葉を発するときには その了解の過程を含めて 時間的な経過が 不可避的に付随しているのである。別にいいかえると 《わたしを‐愛する‐人・・・》というふうに発せられる人間の言葉には その発出と了解との時間において 人間的な過程が存する。また あたかもこれと同じように 人間キリスト・イエスは その罪とは無縁であるにもかかわらず 死に追いやられ これにおもむくようになるが その前には あたかも上の人間的な〔歴史の〕過程と同じように
イエスはまだ栄光を受けていなかったので 聖霊はまだ降っていなかった。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 7:39)
と記されている。このように時間的・歴史的な間隔をもって イエスの栄光 また 聖霊の降臨が 述べられ理解されるのである。
しかしこの言葉をとおして その言葉の原理(はじめ)に いかなる時間的な過程もなくして不可変的な実体である神の本質が のぞみ見られないというわけではない。聖霊なる神は すなわち《父なる神が 肉と造られた子なる神キリスト・イエスの名によって遣わす聖霊》は はじめに この父と子との相互の愛において 原理的に発出される。また実際に父と子とは この聖霊をわれわれに遣わす。あたかも光とその発耀は 明るさや暖かさをもたらす。
はっきり言っておきたい。子は 父のなすことを見なければ 自分からは何事もできない。父がなすことは何でも 子もそのとおりにするのである。父は子を愛して 自分のなすことをすべて子に示すからである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 5:19−20)
神は愛である。
(《ヨハネの第一の手紙》4:16。ヨハネの手紙1、2、3 (インタープリテイション・シリーズ))
父も子も聖霊も愛である。三つの実体の中では 聖霊なるペルソナが 愛とよばれるのに もっともふさわしいと言われる。両者を結ぶものが 愛とよばれるのは より理に適っている。
- けれども念のためとして 三位一体にあっては 時間・空間を隔てないことが 重要である。人間であるアウグスティヌスやアデオダトゥスは 空間的に存在しており その父子の関係また両者の父子の愛情は すべて時間的に生起するものである。
《真理はきみたちを自由にする》
共同主観の原理としては 一つなる本質である神が ペルソナの関係的に しかしそこにいかなる時間的な間隔なくして 三つの実体としてある。そして 人間の歴史的な共同主観としては 時間的な存在(肉)でもある歴史的人物としてすなわちキリスト・イエスによって 神の栄光(共同主観・現実観としても捉えられる栄光)が示され 神の貌(かたち)によって人間としても つまり身体が復活したキリスト・イエスとしてもそのかれと父なる神とが その神の国の栄光の手付けとして 聖霊を受けなさいと言って この恩恵をわれわれ人間に歴史的に与えたと考えられる。
- 《わたしはこれ(平安)を この世が与えるようには与えない》といわれていることは 十字架上の死を超えて 与えるということだと思われる。
- この保証金の証拠は 一つに夢の補償力であった。だから この異和としての不安・強迫が これを患う人のために弁護され キリスト・イエスの《平安》へと旋回すると保証された。あたかも神の不安と怖れを持つ《心の貧しい人は 幸いだ。天の国はかれらのものである。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 5:3)ことが現実であるから。
人間の歴史的な共同主観としてイエスはそれらの言葉を話したものであるように記され受け取らねばならなかったことには 四つ上の引用文の最後に《父は わたしよりも偉大な方だからである》(ヨハネ14:28)と語られていることに見出される。イエス・キリストは 神の貌として 神の子・神のことばとして 父と ペルソナの違いはあれ 本質的に一体である。しかし しもべの貌としては(かれは その独り子としてこの世に肉として派遣された) 本質的に違う実存である。しもべの貌としてのキリスト・イエスは 父なる神より そして自身(神のことば)よりも 小さい存在である。
キリストは 神の身分でありながら 神と等しい者であることに固執しようとは思わず かえって自分自身を無にして しもべの身分になり 人間と同じ者になった。
(パウロ:ピリピ書 2:7)
しかしこのとき かれは 自身の神性を むなしいものへ渡したのであると思ってはならない。聖書記者は この後で
わたしが去り行けば 聖霊をあなたがたのところに遣わそう。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 16:7)
と記して あたかも父が あるいは父とともに 遣わそうと言わず 子であるかれだけが聖霊を遣わすであろうというように言ったごとく 伝えている。これが 関係的な一つのペルソナ(それは しもべの貌ではなく神の貌としてだが)として言ったのではなく 一つなる本質の神として 言ったことの証しである。
また 別の聖書記者は次のようにも記す。
だから 言っておく。人が犯す罪や冒涜は どんなものでもゆるされるが 聖霊に対する冒涜はゆるされない。《人の子》に言い逆らう者もゆるされるが 聖霊に言い逆らう者は この世でも後の世でもゆるされることがない。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 12:32)
ここでは しもべの貌として 聖霊なる神よりも小さいものであるように イエスは語っている。しかし 神の貌としては その三つのペルソナすなわち父なる神と子なる神と聖霊なる神とは 個が各個と 全体が各個と そして各個が全体と それぞれ等しいように 一体であり一つの本質である。
だから記者ヨハネは つづけて
しかし 実を言うと わたしがこの世を去るのは お前たちのためになるのだ。わたしが去らなければ 弁護者はお前たちのところに来ないからである。しかし わたしが行けば 弁護者をお前たちのところに送る。その弁護者が来れば 罪について 正しさについて 裁きについて この世の人びとの過ちを明らかにすることになる。罪についてとは かれらがわたしを信じないからであり 正しさについてとは わたしが父のもとに行き お前たちはもうわたしを見なくなるからであり また 裁きについてとは この世の支配者である悪魔が断罪されるからである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 16:7−11)
次の話は 共同主観の原理が――それじたいは永遠であるが―― 永遠に主であるのではないと示すごとく 人間の歴史的な主観共同(その共同化の過程)こそが 神の賜物として人間の有(もの)であるというように 神の国の歴史を語る。
- この共同主観は 思想一般として 信仰の有無にかかわらず われわれ人間に認識しうるものだとすれば そのとき これは 人間に与えられたものであるということが重要だと思われる。神が永遠に王あるいは主であるのではないというとき。
言っておきたいことは まだたくさんあるが 今 お前たちには理解できない。しかし 真理の霊であるその方が来るとき お前たちを導いてあらゆる真理を悟らせる。その方は 自分勝手に語るのではなく 聞いたことを語り また これから起こることをお前たちに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて お前たちに告げるからである。父が持っているものはすべて わたしのものである。だから わたしは その方がわたしのものを受けて お前たちに告げると言ったのである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 承前16:12−15)
また そのことの中に イエス・キリストの神の貌としての言葉が 記されている。そうして ふたたび繰り返せば しもべの貌 歴史的人物としてのイエスが 去らなければ 弁護者たる聖霊は 人間のもとに来ないと言われることによって 〔主観共同化の〕過程的な人間の歴史〔の中に寄留する神の国〕が 語られたことになる。これらすべて 時間的・歴史的に 生起することがらのほうである。人間によっても実践されるのであって たとえば天使の能力を欲するかのような人間の中間状態 その意味でのある種 無時間的な(精神の)領域において保持することによってではない。また 共同観念ナショナリズムつまり 民族の永続性という意味でのナショナルなやしろの奥の院において 一民族の単独天使性(なんなら神国)といった精神の保守によってでもない。
時間的・歴史的なまた人間的な次元での神・イエスが去らなければ 聖霊の弁護し保証する共同主観は やって来ないと考えられる。これは ただちに いまある社会形態を変えよというのではなく 神の国の進展のために 人間の共同主観をつうじて 共同観念・ナショナリズム社会形態(つまり国家)が いまある現行の形態にしろ 何らかの変革・移行した将来の形態にしろ それらが用いられるということを意味していると思われたのである。
このことも あのことも 三位一体の原理が その一つのペルソナである神のことばが イエス・キリストとして 肉と造られるすなわち人間となることがなかったなら 問い求めるのにまったく空しい人間の歴史となると考えられた。
したがって いまの主題に沿って言えば 共同主観の人間的・理性的な形成が 夢にも現れうることを示し 夢すなわち 覚醒言語(昼と夕から朝へ)と入眠言語(夜)との異和が巻き起こす・しかもまたその異和を覚えさせる補償力として――覚醒言語なる主観の保証金として―― イエスの去ったのちの歴史に かれと父なる神の遣わす聖霊が 現実に現実でないのなら すべては空しい議論であると考えられた。
聖書記者ヨハネはさらに続けて記し イエスの話を締めくくっている。
そのことが起こったときに お前たちが信じるようにと 今 事の起こる前に話しておく。もはや お前たちと多くのことを語ろうとは思わない。この世の支配者である悪魔がやって来るからである。だが わたしをどうすることもできない。むしろ わたしが父を愛し 父が命じたとおりに行なっていることを この世は知るべきである。さあ立て ここから出かけよう。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 14:29−31)
《この世の支配者である悪魔がやって来る》というのは ここではイエスを捕え はりつけの刑に処すためである。しかし この悪魔は 《父を愛し 父が命じたとおりに行なっている》イエスを その共同主観の原理を 殺し得なかった。
- もちろん 肉は滅ぶ。と同時に 肉の身体が復活して永遠のいのちを受け取るというのが われわれの信仰である。なぜなら 神は永遠に主であるのではないから。信仰は 時間的に生起し 時間的に必要でなくなり消える。
だから 《だが わたしをどうすることもできない》と宣言されたことは そののちでは かれが遣わす聖霊の一つのかたちとしての夢の補償力 これをとおしてのように かれの似像としてのわれわれ人間が その永遠のいのちを保証されており受け取ることでなければならない。これが 時間的に 生起してくるのである。そうでなければ われわれ被造物も もとから永遠であったことになる。
- 永劫回帰などと言っている人びとがいる。いまある人びとの姿・その能力が互いにすりかわりつつ 永遠に生まれ変わることを繰り返すというのである。
永遠の生命とは かれらが一つの真なる神でいますあなたと あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 17:3)
とキリスト・イエスは 天を仰いで 《父よ 時が来ました。・・・》と始めて祈った祈りの中に 明かした。つまり このようにあらためて共同主観の原理のほうへ向き変えらせようとするのは 誰も《存在するようには自分自身を生む》というやり方で この《永遠の生命》なる実体を考えることのないようにとの配慮からである。
だから 《わたしの言葉に聞き従うならば きみたちは ほんとうにわたしの弟子である》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:31)と伝えつつ 《わたしは 道で〔あり 真理であり 生命であ〕る》(同 14:6)との実体を 人間(時間)的・歴史過程的なものとして示している。《キリスト・イエスの弟子 神の子 となることが 人間にとって何の役に立つのか》と人びとが問いかけることに答えてのように つねに共同主観の原理へと向きかえらせようとするごとく
きみたちは 真理を知るであろう。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:32)
と言われる。《真理を知ることが人間にとって何の役に立つのか》となお人びとが問いかけるかのように それに答えて
真理は きみたちを自由にする。
(同上・承前)
と明かしている(アウグスティヌス:アウグスティヌス三位一体論 4:18〔24〕)。
ここに 聖三位一体なる存在は 共同主観の原理として 絶対的・不可変的・不可死的な《自由》だと捉えられる。自由人の連合から成る新しいやしろが 共同主観者たる人間のともがらの 歴史的な主観共同化の過程に 必然であること(人がこれを欲し このために走ること)が 必然であると考えられ それは 思うに あの《夢》をとおして 予感しつつ受け取り 受け取りつつ予感し 日から日へ あたかも主の霊によってのように変えられるときのその原動力とその動態であると考えられた。
ユダヤ人たちは イエスを石打ちにしようとして また石を取り上げた。イエスは言った。
――わたしは 父が与えてくださった多くの善いわざをきみたちに示した。そのどれが悪いからと言って 石を投げようとするのか。
ユダヤ人たちは答えた。
――善いわざのことで 石打ちにするのではない。神を冒涜したからだ。お前は 人間のくせに 自分を神としているからだ。
イエスは言った。
――きみたちの律法(共同観念)に 《わたしは言う。あなたたちは神々である》と書いてあるではないか。《神々》と言われているのだ。そして聖書が廃れることはありえない。それなら 父から聖なる者とされてこの世に遣わされた者が 《わたしは〈神の子〉だ》と言ったからといって どうして《お前は 神を冒涜している》と責めるのか。もし わたしが父のわざを行なっていないのであれば わたしを信じなくてもよい。しかし 行なっているのであれば わたしを信じなくても そのわざを信じなさい。そうすれば 父がわたしの内におられ わたしが父の内にいることを きみたちは知りもし 悟りもするであろう。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 10:31−38)
(つづく→2005-05-28 - caguirofie050528)