caguirofie

哲学いろいろ

                第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第三考

7 関係とは何か・人と人との交通とは

私は書物を書くことよりは 読むことに専念したいということを どうか信じてください。しかし このことを信じようとしないで 験(た)めし得るし またそうしようとする人はこの書物を読んで 私の探求に対して または他の人の質問に対して 答えられるようにして欲しい。――これらの問題はキリストの僕(しもべ)として担う私の責務のために また私たちの信仰の肉的にして非理性的な人間の誤謬から守ろうと燃え上がる熱心のために 引き受けざるを得ないものである。
アウグスティヌス三位一体論 3:序〔1〕)

この――アウグスティヌスの文章を借りつつの――意味で 吉本隆明氏への批判は あるいは尾を引くと言わざるを得ないかも知れない。

人間はこの意味では不快な存在であり 存在の梯子のどこかの段にとどまっていて この鉄格子の世界は必要だから作りだしたのだとか 役立つから現に残されているのだとか云いふらしている。だが 人間は鉄板の下敷きになって自ら圧死することはあっても 《関係》から圧しつぶされるために《関係》を拵えあげることなどありえない。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.81。cf.§4)

ふたたび この一節の文章について考えてみたい。
最後の一文の中の《〈関係〉から圧しつぶされるために 〈関係〉を拵えあげることなどありえない》という認識(命題)は 言内か言外か知らず われわれの存在と信仰のはじめ(原理)である人間キリスト・イエスを――不当にも――批判したものであると 読み替えうるし また そのままでも 曲解を許容するものだからである。
つまり吉本氏は――この曲解の線で 議論をつづけるなら――この文章で 《十字架上に死に追いやられるために 永遠の神・〈関係〉の原理を拵えあげようと(この誤解から 人びとは 遠ざかれ) ナザレの人・イエスは行動したようだが そんなことなどありえない=ありえないことを夢見ていたのではないか》と 高らかに宣言したようなのだ。ところが 《〈関係〉から圧しつぶされるために》という認識は 単なる肉の眼で見られた(たとえば 十字架を背負って歩くイエスの動きといったことの)情況説明のひとつにすぎない。

  • しかし この認識もわれわれは否定しているのではないことを どうか信じてください。

しかるに 《〈関係〉を拵えあげることをイエスは行なったのだということを 聖書記者や聖徒たちとともに 吉本氏じしん ともあれ一度は みづからの観想の中に 通過させているのだ》と言いうる。これを 《人間は鉄板の下敷きになって自ら圧死することはあっても 〈関係〉から圧しつぶされるために・・・》という条件を付けて そのもとに何の根拠もなしに 否定して見せたにすぎない。そう考えうることを また人びとにそう表現してみせうることを われわれは確かに 否定しようとは思わないし 否定すべくもないが 批判の自由はこれも われわれから奪い去られることにもならない。このようにもまず 踏ん張らなくてはいけない。
事は二点に絞られる。その一は キリスト・イエスは何ゆえ 十字架上の死へとみちびかれたのであるか。その二は かれは 《〈関係〉(《聖徒たちの真なる交わりと都》)を拵えあげること》を その刑死とそして復活によって 計画(はかりごと)したのであるか否か。
ここでは 第一の点は 措くことにする。(人は 聖書とともに たとえばアウグスティヌスアウグスティヌス三位一体論》をひもとけ。)第二の点は この問いに対して単純に ウィともノンとも答えるべき問題であるが ここで考えてみたいと思う点である。

関係を拵え上げるために 関係から圧しつぶされたのか

課題は こうである。イエス・キリストは 鉄格子の世界から圧しつぶされることによって その鉄格子という意味での絶対の網の目を・つまり人と人との交通関係を 愛と信頼の関係へと拵えあげようと企てたのか。
すでに(第二考で)論じた点であるが この《〈関係〉を拵えあげることなどありえない》をまず 《存在するように自分自身を生むものは決して存在しない》というように読んだ。その場合には その通りだとするとともに ここからは 《関係の絶対性の世界 の中でも その関係の梯子段を構成しなおすことは可能だ》ということを含ませていた。言いかえると 《このときの〈絶対性〉とは 有限・相対の世界なるがゆえの絶対性〔の想定〕である》ということ そしてさらに 《無限・絶対はこの有限・相対の世界を通らずしては観想しえないという意味での絶対性であったからには それが内部動態的であることを一向に排除しない》という反面での認識を持つということであった。
キリスト・イエスは 原理的に《〈関係〉を拵えあげること》のために 神の言葉が肉となったものなのか。しかし このことはありえない。神〔の言葉〕は 時間的に ある一点より以前には 拵えあげようとしていず また その一時点では そうしようとしたと言おうとするなら それは 人間の意志においてのみ 神を見ようとしていることになる。しかし このことは ありうる。つまり《〈関係〉を拵えあげること》は 人間キリスト・イエスにおいて その神の貌(かたち)によれば かれの存在そのものと同じだからである。
《神は霊である》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 4:24)から この存在は――霊=現実として また勿論のごとく物質の運動をとおさせることによっても―― 言葉であり知恵であり計画(はかりごと)である。だから 《初めに〈ことば〉があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。このことばは 初めに神とともにあった。すべてはことばによって成った。成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:1−3)と言われることは はじめの《〈関係〉を拵えあげること》として かれは存在したということと同じことである。だから 《ことばは 肉となって わたしたちの間に宿った》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1:14)とき この見える貌(かたち)・しもべの貌では 《〈関係〉に圧しつぶされるために》何の罪もないまま 十字架上に――しかもかれは このことを欲して――のぼった。これ以上に 人間の理性にとって明確なことがらはないと思われる。
《すべては ことばによって成った(神は このことばによって万物を造った)》と言われることは 《〈関係〉を拵えあげること》とともに またそれを 初めに予定して 万物を造ったということでないなら 《成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった》とは言われえないであろう。《ことばは 神であった》から。
《関係を拵え上げること》は 《ことば》の存在じたいであって 神は 時間的な存在ではなくして 永遠であるなら いまこのこと(関係を拵え上げること)の直視が適わないとしても われわれ人間の《関係の絶対性の世界=鉄格子の世界》という鏡をとおして 謎(十字架の船)において おぼろげながらわれわれは これを見ていると言おうと思う。クリスティアニスムの正当の信仰によって こう言うべきである。吉本氏は 鏡を見て その鏡の形状を叙述している。その結果は 人びとはその中に閉ざされていると言おうとしている。いわば諦めさせようとしている。その諦観こそが 正解であるという可能性は排除されないであろうが。
そして 交通とその関係の問題として 《永遠の生命とは かれらが一つの真の神でいますあなたと あなたが遣わしたイエス・キリストを知ることであります》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 17・3)。《キリストのなかに 知恵と知識のすべての宝が隠されている》(コロサイ人への手紙 (コンパクト聖書注解) 2:3)。もしその存在そのものが《関係を拵え上げること》である存在であるなら 《かくて 父は私たちが存在し得るように私たちを愛するお方として愛してくださるであろう。父は私たちが存在するゆえに 私たちを憎み 私たちが常に存在することを欲しないように勧め 手助けするお方ではない》(アウグスティヌス三位一体論 1:10〔21〕)。

  • いまの課題は むしろここまでで 一区切りを打ったほうがよいと考える。鏡を見ているか それとも鏡をとおして見るかにおさまるというかたちで ひとまずの結論である。
  • いまの課題は すでに信仰にかんするテーマとしても その核心であり言ってみればドグマにかかわるところである。さまざまな視点から 時間をかけて論じたほうがよい。
  • 論証しがたいドグマにかかわるような主題にかんして 神学ようの議論をつらねると かえって理解の筋道を乱すかもしれないが このあと参考資料として 聖書などから引用しておくこととする。
参考資料

〔成ったもので ことばによらずに成ったものは何一つなかった。〕ことばの内にいのちがあった。いのちは人を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
・・・
その光は まことの光で 世に来てすべての人を照らすのである。ことばは世にあった。世はことばによって成ったが 世はことばを認めなかった。ことばは 自分の民のところへ来たが 民は受け容れなかった。しかし ことばは 自分を受け容れた人 その名を信じる人びとには神の子となる資格を与えた。この人びとは 血筋によってではなく 肉の意志によってではなく 人間の意志によってでもなく 神によって生まれたのである。
ことばは肉となって わたしたちの間に宿った。わたしたちは その栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって 恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 (福音書のイエス・キリスト) 1・4−14)

われわれが今おこなっていることは 次のことである。つまり 

《すでに私が受け取ったとか 完全である》(《ピリピ書》3:12。ピリピ書・コロサイ書・テサロニケ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教))というのではない。しかし私は自分の分限によって 後にあるものを忘れ 前にあるものに向かって手を差し伸ばしつつ 上なる召しの棕櫚の枝を目指して走る(ピリピ 3:13−14)なら 私がこの道をどれほど歩いたか どこまで到達したか――そこから目標までの道程が私に残されている――を 明らかにするように要求されている。
アウグスティヌス三位一体論 1:5[8])

これである。

このゆえに 世あるいは世の部分を支配するあの権能によって神を問い求める人びとは 神から引き離され遠く散らされる。しかしこれは場所の離隔によるのではなく 情念の多様性による。かれらは外に行こうと努めて 自分の内面を見棄てるのであるが 実に神はこの内面にこそいましたまうのである。
それゆえに かれらは聖なる天的な権能について語るのを聞き あるいはそれをあれこれと思っても 人間の弱さを驚嘆させるかれらの業(わざ)*1を願望するが それによって神の憩いが与えられる敬虔を倣おうとしない。かれらは敬虔によって天使の存在を欲するよりも 高慢によって天使の能力を欲する*2
しかし いかなる聖徒も自分の権能を喜ばず 自分がふさわしく持ち得る能力を与えたまうお方の権能を喜ぶのである。すなわちかれは自分の固有の権能や意志によってこのようなことを為し得ない人びとが戦慄することを為し得るよりは 敬虔な意志によって全能者に結合されるほうが一層 力強いことを知っているのである。そこで 主イエス・キリストご自身がこのような不思議な業をなしたまうのは それを驚嘆する人びとに一層 偉大なものを教え そして時間的な奇蹟によって心奪われた者 また不安な状態におかれている者を永遠的なもの 内的なものへ向き変えるためである。そこで主は語りたまう 《労苦する者 重荷を負う者 我に来たれ 我 汝らを休ません。わが軛(くびき)を汝らの上に取れ》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書11:28)。しかし 主は 四日もの間 死んでいた者をよみがえらせし我に学べ と言われず 《我に学べ。我は柔和にして心低き者なればなり》と言いたまうのである。
・・・
もし私たちが神の御許(みもと)にあることを欲するなら 自分たちのもとに居られるお方を問い求める私たちが どうして天の高みと地の低きへ走り行くであろうか。
アウグスティヌス三位一体論 8:7〔11〕)

天の高みへ走り行くとは スサノヲ市民が もっぱらアマテラス能力を追求し(天使の能力を欲し) あたかもこれを分立させ それによって自らが独立したと思い為し 時に逆立ちすることである。
上の引用文での中略の箇所は こうである。

それは この上なく堅固な謙虚(低み)は この上なく空しい高ぶり(高み)よりも力あり安全であるから。それゆえ 主はつづいて 《されば汝らの魂に憩いを見出さん》と言いたまう。なぜなら 《愛は驕らず》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 13:4) 《神は愛である》(ヨハネの手紙1、2、3 (インタープリテイション・シリーズ) そのⅠ・4:8) そして外にある喧噪から静かなる歓喜へとよび戻されている 《信ずる人びとは愛によってかれと共に憩う》(知恵の書 3:9)からである。視よ 《神は愛である》。
アウグスティヌス三位一体論 8:7〔11〕)

誤解を恐れずにいえば 愛として 《関係を拵え上げること》である。
だから それらの文章につづけて

誰も 私は何を愛するのか知らない と言ってはならない。兄弟(隣人)を愛させよ。そうすればこの同じ愛をかれは愛するのである。というのは かれは愛する兄弟よりも かれにそのように愛させる愛のほうをよく知っているからである。
視よ かれは兄弟(他者)よりもよく知られている神を持ち得る。
アウグスティヌス三位一体論 8:8〔12〕)

と述べている。
《怒り狼狽して去っていく》人に対して われわれは このような祈りをつづけることのほかに 何をなすであろうか。《視よ かれは兄弟よりもよく知られている神を持ち得る》。ことばが肉に造られた・つまり人となったゆえに 正当な信仰によって われわれはこれらのことを語り得る。語り合っていく。誰も 《関係から圧しつぶされるために 関係を拵えあげることなどありえない》と中途半端な 空中に浮かぶような言葉を それへと渡されるがごとく 見つめてはならない。《兄弟を愛させよ。そうすればこの同じ愛をかれは愛する》。これが われわれの書物の解体学である。
信仰次元の議論が ほとんどいきなり 現われているけれど どうかその点は くれぐれも許されたしと 信仰を広い観点から捉えられたしと 願いつつ。
(つづく)

*1:人を驚嘆させるわざ:二十世紀の世界の発展は 驚異である。

*2:天使の能力を欲するとは もっぱら――もっぱらである――アマテラスなる分限を追い求めることである。スサノヲは 天使の存在を欲する。自らの存在のもとに自らの能力の中に アマテラスの能力の存在を欲する。