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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-05-03 - caguirofie050503よりのつづきです。)

第六十一章 出発点が動態である日常性へ・・・

〓 国境の南 太陽の西

国境の南、太陽の西

国境の南、太陽の西

(66) わたしは この作品で作者は 主人公なる語り手をして ほとんど作者自身が現実に語るのと同じように 語らしめるようになったとまず思った。
《現実に語る》というのは たとえば作者が 対談者を前にして会談で自らの考えを述べる如くという意味あいである。ただし 《作者》といっても 人間としての村上春樹と作家としてのかれとが考えられるから ここではなお 後者なのだとは思われる。
ここでは このように見たかたちに沿って議論していきたいと感じている。いづれにしても 主人公の系譜は続いている。すでに予告していたように この作品では 主人公の巡礼の旅が ある種の仕方で 落ち着きを見出した。すでに以前の作品で主人公は 部分的には シンライ原則に立とうとするかに思われたが 《国境の南 太陽の西》なる霊場(?)(どこだ?)に来て その姿は ほとんど一つの作品の全体にわたって 拡がりをも持ちつつ 安定した様子を見せた。
予めながら そんなシンライ関係の具体的な相手は やはりとりわけ妻の有紀子である。
(67) もしそうではなく 単純に 風の歌をめぐる旅に出て シンライ原則の問題で発展途上にありつづけたという見方に限定しつづけるなら この作品では 一つの到着点に大きく近づいたのだととらえられる。けれども 出発点が 時間過程にあって常なる動態であるなら 主人公は 〔あらためて〕自らの出発点に立ったと言ってよいと思うし 基本的なかたちで 言うべきだと思う。
(68) 既に結婚して仕事をこなし家庭を持っている主人公にとって 幼馴染みの島本さんに出会うことは 確かになお 触れて来たような精神分析のことがらにからんだ問題が 残っていたことを物語る。この島本さんとのかかわりで 自己に重大な欠落感が残っていたとするなら それは 相手のたとえばキキやあるいは五反田君のほうにという例とは違って むしろ全く逆に自らのほうにである。
ただし この島本さんと主人公との関係で 一方的に主人公のほうに欠落感があり これに促され 促されるままに ついにその関係へと走った とは思わない。それは 二人の間の問題だと言ったほうが 妥当であろう。だが 作者はここで主人公を すでに基本的に 動態としてのシンライ関係を妻との間にきづいて来ている情況に置いている。その夫婦としても家族や身内としても 《幸せである》と繰り返し語っている。ということは 主人公じしんの《欠落感》やあるいは一般に人間そのもののたとえば《無意識》や《井戸=イド》などという問題が どこまでもわれわれの生についてまわるという現実の一環であることを 示唆しているように思われてくる。
いや ひょっとすると 作者は そのように無意識問題の重要さを主張したいと思っているのかもしれない。実際にそのような主題を追究しているのだとは推し測られる。そのためにも 少年時代に遡って 島本さん以外の女性との関係も 筋の展開にとっては克明にもと言えるほどに 報告したりしている。まさにシンライ関係を結果的には明らかに裏切ったことになるその相手であるイズミにかんしては 決して脇役とは思えないほどの位置が与えられているようである。このイズミ問題のほうが むしろ主人公やその夫婦にとって ついに埋めることの難しい深い《井戸》となっているとさえ考えられてくる。
主人公は このような経験現実に立ち会っているのであり そこに風の問題が展開されている。だから 逆にいえば ここでは 段階と情況とが かなり新しい確かな基盤の上に立っていると言ってもいい。それは 《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》の結末で ユミヨシさんと現実の共同生活を始めようとするに到ったことが 基礎となっているであろう。そしてそうとすれば 詰まるところ この作品ではやはり主人公の人間関係における出発点は 妻・有紀子とのシンライカンケイ〔の動態〕にあると見てよいであろう。もしくは そう見なければならないであろう。
(69) リビドー(性の衝動もしくは 生の衝動?)にかかわる欠落感にかんしては まず図式的な理解として 別種の精神分析学によるとらえ方が 参照される。フランソワーズ・ドルトが

風は 絶対的な欠如(la manque)であり 人間にとって具体的に欲望(le desir)である。だがこれは――つまり言いかえると――この欲望が むしろそれに従ってすすむなら その人をして 風の歌の地点に到らしめる。

といった意味あいのことを言っているそれである。

  • わたしが 意訳したものである。Francoise DOLTO《La foi au risque de la psychanalyse》《l'Evangile au risque de la psychanalyse》〓・〓 Ed.du Seuil
  • はまぞうによる検索では 原著のフランス語ではなく スペイン語やドイツ語の翻訳本が多く並んでいる。わたしは読んだことがないが たとえば次のような本である。また 幼児心理学に詳しい人である。ラカンとともに フロイトの系統である。

Selbstportraet einer Psychoanalytikerin.

Selbstportraet einer Psychoanalytikerin.

La difficulte de vivre

La difficulte de vivre

この図式に関する限り その方程式が 島本さん事件にも イズミ問題にも――そしてこちらのほうは直接には イズミの従姉との事件にであるが―― 一定の説明を与えうるように思われる。
(70) だが このような図解は採らないとすれば ここでも単純な解釈になるが 次のように捉えられる。
類型的にすでにユミヨシさんとのシンライ原則の関係を確立し始めたその過程で出会うことになる試練 これとして捉える見方である。すでに一定の出発点を確立したところへ そのあと・あくまでそのあと 一つひとつの試練を――風の物語としては――迎えるという見方。
島本さんをめぐる関係とそこに起きる出来事を これまでの作品の一系譜ではあるが いまだにその発展途上にあるとは もはや見ないということである。ある種の・しかし確実な転換が その間に起こっている。主人公は――ユミヨシさんを介して―― 妻・有紀子とともに 一たん新しい人となっている。従って その一つの転回を経た新たな出発点に立っては 現在や将来のことだけでなく 過去のことも 回想の中にではあるが 自らの経験現実として――主観真実の限りで―― 再形成されていくのである。取り返しのつかない不信の関係がその過去に見出されたとしても 語り手は・もしくは作者は もはや無力感のもとにでも 自らの物語(歴史)を再形成していく。これが 風の歌の問題であるだろう。
言いかえると なおも執拗に発現する欠落感とその欲望は すでにここでは風の歌を聞いているかに思われる自らの新しい経験現実の中の一部分なのである。依然として発展途上であるかもしれないが 単なる途中であることは卒えて じゅうぶんに主観真実の中には自己経営の主体である《わたし》が控えており 試練がいとなまれ それらがおさめられていく。
風の歌は じっさい 一個人の主観真実の域を出ないといえる。それは大きく虚構をとおしてしか 表現されえない。あるいは まぼろしであるかもしれない。よくも悪くも そう言えるはずである。
問題と課題とは このように新たな局面を迎えている。問題とは 初めからの風の主題であり 課題というのは 人間関係をめぐって 死者との直面 取り返しのつかない過去との直面をその内容とする。後者は 五反田君や永沢らとの問題でもある〔(64)など〕。
あらかじめながら繰り返し言って ここでは 無力感を持ちつつも――それが 出発点の無力の有効に立つことかどうか これも主題である―― 主人公の主観真実として 基本的な物語(生の歴史)が 基調において 欠落感やそれに促されて仕出かすことに 勝ったということである。後者から前者への方向で なおこれまでと同じように確信のないまま 発展へと導かれるしかないという段階と情況とが 転換されていると思われることである。
(71) 有紀子(主人公の妻)は 島本さん事件のあと 主人公にこう問いかけている。

《そしてあなたは何も尋ねようとしないのよ。》
国境の南、太陽の西 (講談社文庫)p.289)
有紀子はしばらく僕の顔をじっと見ていた。《私は思うんだけれど》と彼女は言った。《あなたは私に向かってまだ何も尋ねていない。》
(p.291)

風の歌の問題は もしシンライ関係にかかわるのならば それは 関係であって その過程なのだと思われる。話し合い 尋ねあわなければいけないというわけである。上の問いかけを承けて

《明日からもう一度新しい生活を始めたいと僕は思うんだけれど 君はそれについてどう思う?》と僕は尋ねた。
《それがいいと思う》と有紀子はそっと微笑んで言った。
(同上・承前)

ユミヨシさんと生活を共にしていくといった経験現実の過程が 類型的に同じ形態として 島本さん事件を経つつ ここで有紀子との家庭生活となって 落ち着きを取り戻すと言ってよい。そのような再形成が描かれる。ただ《現実だ。ここにとどまる。》と宣言するだけの踏み出しが 存在〔関係過程〕としての出発点いっぱいに ひろがろうとしている。風の主題は それが 有効であるのならば ことは このように全く単純である。
(72) 物語は最後ではなおも不安が 顔をのぞかせている。

僕はその暗闇の中で 海に降る雨のことを思った。広大な海に 誰に知られることもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き それは魚たちにさえ知られることはなかった。
誰かがやってきて 背中にそっと手を置くまで 僕はずっとそんな海のことを考えていた。
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) p.294)

だが この 涙を思わせるような雨もそして海も 必ずしも 不安を表わすというのではないであろう。と思う。むしろ 落ち着きをみた出発点の再確立と従って確信とが これによって 深められていく方向にあるかとさえ思われる。空虚や欠落感としてではなく いまは 人間の・自己の無力として とらえるようになっているからである。直接そのように書いたら 小説にはならない。けれども 欠落感の優位のもとにありつづけるのではなく 無力の出発点が 風の有効についての確信へと導く方向にある。言いかえると その時には その確信の方向を――この場合には――自らも選択するのである。これは 通俗的に言って 賭けである。
風の問題であるのだから 無意識やイドへの信仰ではなく つまり経験現実としての対象に向けての偶像崇拝ではなく 単純に非現実にかかわる賭けである。
いや実際には確かに 暗闇の中で思い浮かべる雨や海のことは 不安なのであるが それでもその反面で たとえば単純に 物語を紡ぐというその力からの要求を受けていて 不安や不信にとどまるか・それとも非対象への確信にさらに踏み出すか いづれかの選択が 迫られている。主観真実としての物語の再形成であるから むしろその虚構であることのゆえに 時間は前へ進めざるをえない。その結果そこに必然的に要請されて進行する表現は 完璧な文章など存在しないというのであれば 無力の有効を信じざるをえない。逆に言って 完璧な文章としての如く 実体をなぞるようには描きたくないということであろう。ゆえに 不安の情況を持ってきた。
もう一つには ひとつの試練が去ってもさらに起こりうるかに感じられる新たな試練のことにも かかわっていると言うべきかもしれない。これは ある意味で一言でいえば この語り手の頑固さである。(多くの読者たちに成り代わっての物語の進展と言ってもよい。)出発点の確立にかんして むしろ確信を持ちたくない・つまり 出発点そしてシンライ関係が自由のもとに成り立つというならば その主観的な確信〔として固まること〕から自由でいたいという頑固さである。
要するに 過去〔のあやまち〕にかんする《赦し》もしくは《救い》としては 出発点の無力かつ有効のもとに 小説のちからと運動とが なおも引き続き うごめいていると語ろうとしている。この点では この作品が これだけの長編になったことは うなづける。
筋の展開としてなら別だろうけれど イズミ問題や 不安と確信との揺れの問題を加味するなら 島本さん事件を介する主人公夫婦の物語として 決して冗長ではないと考えられる。
(73) だからここで ちなみに 《資格》問題は 微妙に 別だと考える。語り手が有紀子に向かって自らの考え(反省)を述べるとき 上に触れた頑固さをめぐるかたちでありながら 資格の問題に触れるその内容は 別としてよいように思われる。風の主題にとっては 筋違いであり 後退していると思う。先に有紀子のほうの言い分を取り上げるなら こちらのほうも それは違うと思われる。二人のあいだの対話の最後に

《資格というのは あなたがこれから作っていくものよ》と有紀子は言った。《あるいは私たちが。私たちにはそういうものが足りなかったのかもしれない。私たちはこれまでに一緒にいろんなものを作ってきたようで 本当は何も作ってはこなかったのかもしれない。きっといろんなことがうまく運びすぎていたのね。たぶん私たちは幸せすぎたのよ。そう思わない?》
僕は頷いた。
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) p.289)

《不安》や《頑固さ》をめぐる問題でありつつ この説明表現は 内容が後退している。最も突き放したかたちで言って 生は生であり 死は――そして取り返しのつかない過去も―― 別のことだからである。キキや五反田君のことにしても 悲しく哀しいとどれだけ言っても言い足りないであろうが もし自分〔たち〕に《資格》があるのかどうかなどとあげつらっていても 物語は進まないのである。自分たちの存在やシンライ関係に不安を持ち 一部では欠落感を引きずるようにして頑固であることは 風の問題に直結していると思われるが 資格をうんぬんし出したなら それは むしろ 空虚でもなければ無力でもなくなり 過去や死に対して 取り返しがつくとでも言うとすれば 《幸せすぎ》てよいのである。通俗的には 《気分が良くて何が悪い?》(《風の歌を聴け (講談社文庫)》のハートフィールドの文章題名)と言って 必ずしも不都合ではない。そうでなければ 不安の問題を資格ありやなしやと言って 形而上学の問題に持っていくのは 謙虚であるというよりは 卑屈となって自らを閉ざし隠す方向に進みかねない。
上に引用した有紀子のまとめは それは普通の反省であるから そのぶんでは 一般に妥当だと思われる。実際それとして 謙虚である。だがわれわれは 風の物語に向かって歩む。《これまでに何も作ってこなかった》のではなく 《作って来なかったから これから資格を作っていく》のではなく むしろ《資格など要らない つまり資格を考える問題からも自由となる》 これが 出発点のあり方であったはずだから。《自由》にこだわるなら 不安や不信とそして確信とのあいだに揺れつつ頑固になるのではなく この無力・無資格に頑ななまで こだわりつづけるべきである。
小説の叙述としては いま言っていることは 別の話になるのかもしれない。だが さらに言えば もし何も作って来なかったにせよ 仮にこのとき何かを作り上げて来ていたにせよ――この後者の場合にしても こんな何ものからもすべて自由であるというのが 出発点の内容(形式)であるのだから―― いづれにしても 一切かまわないわけである。
だから 資格うんぬんは 考えすぎである。そしてただし 小説の成り立ちの上からは 主人公の頑固さが 物語を進める上で一つのきっかけとなっているのだと思われる。それに わたしのように 死は死の風すら吹くと言って その一つの生の完結を持って シンライ関係問題が 解決したと受け取られかねないような表現を与えるのは 風の物語にとって小説の叙述の上では 台無しである。
(74) その意味では 念のため こんどは主人公のほうが《ゆっくりと時間をかけて》説明するところの資格の問題を確認して 次の作品へ進むことにしよう。ところどころ 途中でわれわれの注釈をさしはさむ。

僕はゆっくりと時間をかけて 言葉を探した。《僕はこれまでの人生で いつもなんとか別な人間になろうとしていたような気がする。僕はいつでもどこか新しい場所に行って 新しい生活を手に入れて そこで新しい人格を身に付けようとしていたように思う。僕は今までに何度もそれを繰り返してきた。それはある意味では成長だったし ある意味ではペルソナの交換のようなものだった。でもいずれにせよ 僕は違う自分になることによって それまでの自分が抱えていた何かから解放されたいと思っていたんだ。僕は本当に 真剣に それを求めていたし 努力さえすればそれはいつか可能になるはずだと信じていた。でも結局のところ 僕はどこまでいっても僕でしかなかった。僕が抱えていた欠落は どこまでいっても あいかわらず同じ欠落でしかなかった。どれだけまわりの風景が変化しても 人々の語りかける声の響きがどれだけ変化しても 僕はひとりの不完全な人間にしか過ぎなかった。

  • と言ったところで これが まず 出発点だ。恰好をつけても 始まらない。

僕の中にはどこまでも同じ致命的な欠落があって その欠落は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ。

  • ドルトの《欠如⇒欲求》〔→風?〕の理論?

僕はずっとその飢えと渇きに苛まれてきたし おそらくこれからも同じように苛まれていくだろうと思う。ある意味においては その欠落そのものが僕自身だからだよ。

  • これは 謙虚ではなく 不遜だ。志の空虚なることを初めに知っていたのだから それ以上に 自分自身を欠落だの虚無だのと見立てるのは おこがましい行き過ぎだ。ということを 《世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド》の実験に学んだ。

僕にはそれがわかるんだ。

  • 頑固である。

僕は今や 君のためにできれば新しい自分になりたいと思っている。そしてたぶん僕にはそれができるだろう。

  • しかし このことを 具体的に相手たる有紀子に・有紀子の出発点に 尋ねてみなければならない という事情のもとにある。自分だけの決意と確信は――そしてそれだけを述べることは―― シンライ関係を保とうとすることに似ていても 観念の王国に終わりかねない という問題が一貫して追究されて来た。

簡単なことではないにしても 僕は努力して なんとか新しい自分を獲得することができるだろう。でも正直に言って 同じようなことがもう一度起こったら 僕はまたもう一度同じようなことをするかもしれない。

  • 同じようなことは むろん 試練であるが。

僕には君に 何も約束することができないんだ。僕の言う資格とはそういうことだ。僕はその力に打ち勝てるという自身がどうしても持てないんだ。》
国境の南、太陽の西 (講談社文庫) pp.286−287)

注釈の内容は 必ずしも批判的な見方に立っているわけではない。有紀子のまとめの言葉〔(73)〕と同じように それじたいとしては 無理のない反省や自己認識である。ただし 一面では その頑固さが内容として なお初めに戻って 鼠の問題であり その影を引きずっているようにも受け取れる。そして実際には すでに解きえてきていると思われる。
つねに――試練を避けずに それに向き合いつつ――解き進んでいく方向にある。それは 無資格・無力の地点に立つことだから 実際じょうの解決は何もないとすら言ってよいものである。しかも 物語は進む。これを進める意志(お望みなら 無意識のきっかけ?)があると語ろうとしている。
だからここでは 悪口を言えば 頑固さにかんする説明を いわゆる世間の論理に沿って くどくどと連ねているようにも受け取れる。言いかえると だから 有紀子に向かってではなく ごく一般的な読者を前提して話をしているようにも受け取れる。
すなわち――いま述べている物言いは 作品の読後に・そして一連の長編小説の読後に立ってのものであるが―― たとえば今の資格問題にかんする説明は 建て前の哲学もしくは公共的な発言としては偽善〔としての善〕を原則とする思想にもよらず あるいは単純に 好悪自然の感情にもとづかざるを得ず時にはこれを自らの演技で切り抜けるという思想にも流されることなく しかもそれらの考え方から見てもわかるように 表現しているように思われる。言いかえると そのような資格問題は もう有紀子には わかっていたとも思われる。そのぶん 冗長になったと言ってよいようだが 問題は このような頑固さが 世間の論理の世界に降りていってしまうかどうかであり 降り切っていないのだから そのような資格論としての説明をも 初めからの基本主題にからみ合わせて 物語をすすめていくか であろう。全体として そうなっていると見たわけである。風の主題に変わりない。
ということは――だとすれば もはやわれわれは 次の作品に移ってよいことになるが―― ここで新たに 《日常性》という一つの主題が登場してきたようにも思われる。
世間の論理に入っていくことじたいは 実際 重要だから。そうでなければ 風の物語はどこかあらぬ所に 浮き上がってしまうから。不安や不信そしてそれらをめぐる頑固さは 日常性の問題へ橋をかけたととらえておこう。実際これが 次の作品で 実現したと思われる。現在の時点(1995年)で最後・最新の長編小説になる。
(つづく→2005-05-05 - caguirofie050505)