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哲学いろいろ

――シンライカンケイ論――

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第三部 風の歌を聞いた――よしもとばななをめぐって――

2005-04-27 - caguirofie050427よりのつづきです。)

第五十三章 あらゆる原則から自由であろうとするたましい

白河夜船 (角川文庫)

白河夜船 (角川文庫)

(O−1)ある閉塞した状態 時間の流れが停止した期間にいる人達の 《夜》を描いた。
白河夜船 (角川文庫)〈あとがき〉)

そのうちの一作品《白河夜船》(1989)を読み終えた。
これも 当然の如く 《克服と成長》なる共通課題のもとにある。この主題に《演技》説をかぶせることは なおまだわたしの勝手な・不当な理解であるかもしれないと断わりつつ すすめたい。作品をひとつでも多く読むことは たしかにその主題および作者の趣向が わかってくる。
同じ《あとがき》の中から 次の部分をも引用しておこう。

(O−2) 皆様がふつうに楽しんで読んで下されば幸いです。そしてもし この本に出てくる人々のような気分でいる誰かが 読んで安心してくれたら最高です。(同上)

思想の問題として受け取ってよいということである。まずそう捉えられる。
人間原則の問題と言ってよい。つまり 生活態度である。これまでの三冊の限りで ばなな氏の小説には 《あとがき》で自らおこなった解説と批評が添えられていて これらと小説じたいとを合わせて 一定の思想がむしろ実際にははっきりと主張されているとさえ考えられる。上の引用文(O−1)や(O−2)は その思想理解にとってさらに かなり重要な内容を示していると思われた。
引用文(O−1)の中の《〈夜〉を描いた》というのは やはり《たったひとつのこと》である主題にかかわっている。たとえば《向こう側》問題が 特に人がそれに直面して《閉塞状態に投げ込まれた一期間》ということに焦点をあてて 描かれている。ちなみに《白河夜船》というのは 《京を見たふりをする者が 京の白河のことを問われて 川の名と思って 夜船で通ったから知らぬと答えたという》話から 《熟睡して前後を知らぬこと》(広辞苑)という。ここで具体的にはやはり 身近な者の死に出会って 《時間の流れが停止した》体験の中から たとえば〔こだわるなら〕人生演技説という一出発点を見出してのように 生の流れに立ち戻るところ これが ていねいに展開されていると言えよう。
これに接し これを《読んで安心してくれたら最高です》(O−2)という一つの大きな表現行為となっている。言いかえるなら このような虚構の世界をもってする何らかの自己の思想原則の表明なのだと考えても まちがいではないと思う。《安心》が問題となるならば 大きく信頼関係が目指されている。人間関係としての信頼など問うものではないということが 積極的に打ち出されていると もしするのならば それでも 《安心》は 信頼の《感覚》にかかわるということであろう。
初め 途中まで読んでいるときには この《白河夜船》という作品にかんしては 《日常を戦いながら良くなってゆき続ける》姿勢が見当たらないから どうしたことかと思っていたのが 全体を読み終わると その姿勢を回復するまでの経過が そのこと自体に焦点をあてて 追求され描かれたものだとわかる。

  • 細かいことを述べておくとすれば ただその新しい決意に抜け出たときにも ここでの主人公で語り手である寺子は 《愛人》の状態にいるということで そうとすればその限りで 出発点の《わたし》の開けとみづみづしさは見られず それこそ単なる好悪原則の世界におさまっていると思える。その好悪自然の無原則を なお 堂々とさまよっていると思える。このことだけで評価をくださないとすれば もう少し考えを前へすすめよう。

それにしても まずは感覚的なことを問題にしてよいとすれば 全面的な《ある閉塞状態》の継続に接することになる《皆様がふつうに楽しんで読んで下されば》というのは 大変な構想にもとづいており その構想としての出発点は わたしには理解を超えたところにあるように思われる。つまり印象批評のまま継ぐとして やや飛躍してでも考えられることは 単純に言って次のようである。
一方で 《時間の流れの停止した〈夜〉》じたいを扱い やがてこの夜が昼へと転換されることをもって締めくくるということであり そうではなく他方で すでに《夜》から抜け出た《朝》の時間過程の中で・つまりその全体的な経験現実の中で そこにも見られる部分的な《夜》を扱い もはやハッピー・エンドをも付け加えないという行き方が考えられる。後者のほうが 《楽しみ》をもたらし読んで《安心》を覚えさせるものではないかと思う。ここで《昼》と《夜》とのちがいは むしろ意識的に用いた。すなわち 夜から真昼への転換を描くことと そして すでに薄明の中での部分的な夜を執拗に描くこととの対比である。作者は《あとがき》の最後にその執筆の期日を記して こう表現している。

(O−3) 平成元年6月のある日の真昼
(同上)

すなわち 向こう側問題を 閉塞状態の夜として捉え描き 幸福な結末としての真昼で締めくくるという一つの考え方が ここに見て取れるように思われる。これはまだ やはり印象批評である。そして 何がしか 情況証拠のようなものとしては 大きくそういう一つの演技であるように受け取れることがらの一環のごとくにもうかがわれて来る。

  • あとがきを書く作者の姿勢が ばなな氏本人とはまた違って 作品に相い対する側面では そういった何らかの趣きを一貫させるようにして 表わされているかにわたしには受け止められて仕方が無い。
  • さらに同じく《あとがき》から 次のような作者自らによる解説がうかがえるのであるが その中の《感動》という表現が何故かくせもののように思えて 仕様がありません。。

(O−4)〔《白河夜船》の寺子の話は〕 ある意味で私の体験に基づいています。私がこの期間に体験した うなぎや 花火や 眠りすぎや 酒や 人と会ったこと その他いろいろの様々なことから得た感動が 形を変えてこういう話になります。そして私は今日も又 そういう感動を求めて 必死で日夜さすらっているのです。
(同上)

つまりわたしが今 不用意なまま言おうとしていることは 上の印象批評が一点と そして ほかにあとに述べるもう一点とであるが この第一点を――つねに想像裡での話であるから いささか心苦しくなってきているが――  繰り返しつつ すすめたい。
《閉塞状態》を 全体的なふつうの生の時間の中にすでにあってとらえているか それとも 《時間停止の状態》そのものとして扱うか これを重視したい。《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》や《キッチン (角川文庫)》は 前者である。つまりふつうの日常生活の中に展開する。《白河夜船》はそうでないのだが そしてそれはむしろ小説作品として快い挑戦であり作家の腕の試されるところでもあるのであろうが 問題は ただ一つの主題のもとに書く作品にやはり共通して展開されるハッピー・エンド形式にあるのではないかと思われる。これでは 夜と昼とがあたかも截然と区別された二つの時間域であると考えている節が ありはしないか。ふつうの日常において夜から朝へそしてやがて夕となりまた次の朝へと流れる時間を 結果的に自らがあたかもすべて拒否するという意味での《閉塞状態》しか扱えなくなるのではないか。
その状態を抜け出た《真昼》も もう一つの閉塞状態であると 結果的にとらえていることになりはしないか。このことと 寺子が愛人生活を送っていることと かんれんしているのかどうか それはいま どうしても判断して決めようとは思わない。要するに 人生の一時期において 時には陥る閉塞状態 これとは別の 今ひとつ何か人為的に想像しその想像の中に見ようとしているような閉塞状態 こちらの領域が どうしようもなく横たわっていて その世界の中で 《いろいろの様々なことから・・・感動》を得るという体験を語ることに終わりはしないか。
第二点として。作者自身の《体験に基づいている》ことに問題はない。わたしに引っかかることは その体験が 殊に《感動》の問題としてとらえられれていることである。
すなわち 上の第一点にかんれんして 全体としてふつうに昼と夜との時間の流れる日常にあるなら 《克服と成長》の主題は 必ずしも《感動》の問題のみとしては 扱われないであろうと思われることである。言いかえると この感動体験は 昼夜の時間の流れる社会生活全体の中で受け止められ 特にはその日常全体から見た部分的な《夜》をとらえた時にはこれを全体の内にほかの時間と突き合わせつつ 思想なり生活経験が形成され これが 小説としても展開されて来るはずである。当たり前だと思うのだが。
もちろん感動体験じたいがおかしいとか それを拒むとか言うのではない。感動を基軸として自己の考えを表現していくこと その成果内容にかんして 議論している。もっぱら感動体験の話であるとするなら それこそ――感動じたいは貴重だと思われつつ―― 好悪自然の正直原則にすぎないと言って おしまいである。読者として《この本に出てくる人々のような〔閉塞状態の〕気分でいる誰か》が 《読んで安心する》というその構想と構造に 作者の思想のあり方がとらえられるであろうから その観点で これを問題としうる。


ここまで書いてきて 残念ながらわたしの批判は 依然として 外から その思想を演技原則であると見立てこれをかぶせ あれこれ言っているものに終わりそうである。いまは保留しなければならない。
ひとつ明らかになったと思われることは この閉塞状態を扱って 個人の魂の記録としたということは 出発点(一般的にもの)を目指しつつその克服と成長が 段階として いわゆる助走の過程にあるということであろう。この助走をさらに抜け出たあと ひとつの思想原則にたどりつけるか これは この作品では扱われていないということである。人生演技説という原則であるにせよ そうでなく別の原則であるにせよ それらのことは ここでは 書かれていないということである。

  • ならば 批評は 保留せねばならない。あるいは むしろ控えねばならない。

ハッピー・エンド形式がなお引っかかっているが むしろ積極的にもっぱら《停滞》を取り上げこれに挑んだ。その成果であるこの作品を助走とするなら たとえば《キッチン (角川文庫)》や《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》が本走として用意されていると考えればよい。

  • そうは言っても――しつこく食い下がるのならば―― 《助走》も大事なのであって それは 寺子の友人であるしおりが 生前に言っていたような《添い寝》が 時間停滞のときには必要なのだと言おうとしていたことの問題であるかもしれない。
  • ただし わたしたちの感覚では 昼夜の中に夜があると つまり 本走の課題の中に助走もあるという見方に立つから ところがこの作品での《閉塞状態》は そうではないようだと見えたということである。あたかもそれが独立した一つの世界となっていると映る。

未解決のまま 次の作品へ進む。おゆるしあれ。

第五十四章  演技原則に対抗する《少年》原則=非演技説(?)

(1995・1・10)
ビートたけし氏の小説

少年 (新潮文庫)

少年 (新潮文庫)

この作品は 短編三作――〈ドテラのチャンピオン / 星の巣 / おかめさん〉――からなる。《あとがきに代えて》の中で 短く簡単に語られた話が 一定の主張を含んで 思想の問題にむすびついている。その鍵は題名どおり《少年》である。小説のほうを ほっぽり出すかたちになるが これまでの議論とつながった話が出来ると思う。

  • なお 三つの作品は 微笑ましい体験談を語るようなかたちで描かれており それらの少年時代のエピソードをなすような内容は 《〈少年〉の思想》と言うべき議論を 例示として補強している如くなっている。

ここで作者にとっての少年は 結局 大人の世界・大人の問題と裏腹である。しかも両者は 互いに対照をなすというよりは けっきょく少年時代が成人の世界の開始される時点として捉えられている。これは 少年が成人していくという当たり前のようにではなく 思想としての出発点だという意味である。
つまり 少年原則とよぶべき一つの思想内容をなす。
たとえば やがて少年は 青年や壮年の時代へと吸収されてしまうとか あるいは 単純に良く発展していくとか そのようにではない。少年がつねに わたしたちの出発点として――あたかも人格の原形としてのように―― 大事だという議論のようである。
あらかじめの結論としては 惜しみつつそれは 好悪原則に傾くであろうと思われたこと そしてもう少し具体的には 次のようである。《大人》の世の中――要するに 経験事実の領域――において そこではやはり好悪原則が優勢であり それとしての個人主義や利己主義が支配的だと映るが しかるべき出発点は 《テクニックにも知識にも 物を言わせる》というのではない《少年》のあり方 これだというものである。この限りで 知識やテクニックを駆使する《人生演技説》をしりぞけようとするものである。わたしの見るところ そのようにしりぞけた結果の少年原則が 好悪原則を超えているものかどうか ここに焦点がある。
結論から入れば 実際には次に述べられるところが 少年原則なのであるから その結果 決して無原則=すなわち原則への無関心から来る好悪自然の感情原則を超え出るものであるとは 捉え難いというものである。

(S) 何しろ 《見るまえに跳べ》と生きてきたのだから〔・・・〕
少年 (新潮文庫)〈あとがきに代えて〉p.150)

これが 細工や演技を排する少年原則である。
《ある雑誌のインタヴューを受けた》とき その中に 《弱肉強食の世界の生き抜き方》について述べよという質問があったと言う。ビートたけし氏の答えは次であった。

(T) 《死ぬことが食われることっていうのは 相手の中に生きるってことだ。人食い人種が食べたヤツのガイコツを首にぶら下げて 食べられたヤツの魂を自分のモノにするようにね。だから弱肉強食のピラミッドの頂上に立った者はみんなの代表者なんだ。》
(同上 pp.145−146)

生命原則を 経験思想としてだけではなく 普遍的な信仰原理として捉えると言ってきていながら このような・それに反する言論を取り上げるのかと叱られるかもしれないが ひととおり考えておこうと思った。
この引用文(T)の内容を たけし氏がそのまま肯定して言っているのかどうか 必ずしも定かではないのいうのが ひとつの理由である。あるいはまた 経験事実としては これが現状だと見ているのであろう。そしてその時には まずは《見るまえに跳べ》ということが ともかくこのように反応しているといった彼の側の現状なのだと思われる。そのような反応を導くいまの少年原則 これをひととおり捉えておこうというのが いまひとつの理由である。
たけし氏は 《こんな質問に答えられるほど知恵のついた四〇歳という年が少し重ったるく感じられる》(p.146)と語っているのだが――そしてこのように言い添えた言葉の中にも もう一つはっきりしない思想内容が感じられるのだが―― 必ずしもそのまま《人食い人種》もしくは《弱肉強食》の思想を肯定しているのではないと捉えて 話をすすめよう。
言わんとするところは 要するに 人生は闘いであり 食うか食われるかを覚悟しなければならないことが実際に見られる。ただしそのような経験事実を好ましくも思っていないという意味に解そう。もっと言うならば 《弱肉強食のピラミッドの頂上に立った者は――生命原理に反する無効の思想が 社会習慣上 実効性を持って有力となっている限り――みんなの代表者なんだ》と受け止められている一面がある。と語っていると解そう。

(U) 少年に憧れ 自分の心の中の少年が命じるまま 毎日を生きている。
少年 (新潮文庫) p.150)

こう語るとおりである。
それでは この《少年》とはどういうことか。長くなるが ひとまとまりの文章を引用する。

(V) 少年の時代は 小さな自由を手に入れた瞬間から始まるとオレは思う。自由というのが大袈裟なら 簡単なことなら自分の望みが自分一人の力で手に入れられるという自信だ。
今まで親の腕に懐かれ コントロール下にあったのが 自分自身の選択で少しずつそこからはみ出した世界を創っていく。友だちを選ぶ。遊びを選ぶ。行動を選ぶ。自分が何をしたいか 何を望んでいるかが世界を創っていく力になることを知るのだ。
もちろん 望みといったって小さくてシンプルなものだ。しかし 少年にとってはそれが全てだ。オール・オア・ナッシングだ。オレにとっての高尾山の蝶〔を採りに行った時のこと〕のように。
その望みに少年は全身でぶつかっていく。余分な知識やテクニックはない。だからこそ ぶつかってはね返った衝撃の大きさも全身で知る。勝ちも負けも快感も大きい。間違いも思い込みだって大きい。そしてオレは四〇歳になってもそんな少年に憧れている。
少年 (新潮文庫) p.147)

これで一通りの議論が出来るかたちとなったのではないか。たけし氏にとっての出発点としての少年原則である。

  • なお このように取り出したたけし氏の思想原則は 文章じたいが余りにも短いものであるし それとしても ただ《少年》という話題で 何かまとまったことを話したという程度のものであるかも知れないしするから その点 注意が必要であろう。このように取り出した限りで 何が言えるか 考えておきたい。

〓 《小さな自由を手に入れた瞬間から始まる少年時代》 そしてその少年でありつづけること これは 取り立てて どうということはない。ひとこと添えれば ふつうの好悪原則である。ただ この少年に《自由》を見るとすれば おそらく《大人》には もうそれが少なくなっているといったことを言おうとしているかもしれない。そこで これら少年と大人とで 二重構造を形作っているとも見えるかもしれない。特徴は 次の点である。
〓 《見るまえに跳ぶ》のだから 《自分の望みに全身でぶつかっていく》のだから 《余分な知識やテクニック》としての細工や演技は 必要でないし 実際 はっきりそうだと言おうとしていると思われること。
〓 《自分で何をしたいか 何を望んでいるかが世界を創っていく力になることを知るのだ》というのは わたしたちの出発点における 一方での 自由意志の問題と通じ合う。他方での 基本(信仰原理)での 《無力の有効》とは どうであるか。こちらは いまの資料だけでは分からない。もし言うとすれば 《間違いや思い込みの大きいこと》は 人の常であるので さして問題にならない。と同時に 《勝ちも負けも快感も大きい》として捉えられた限りでの出発点またはそこからの踏み出しによって 《創られてゆく世界》 これは どんなものであるのか ここには 議論の余地があろう。いまは 《無力の有効》か それとも《社会経験上の有力》かをめぐって 疑問が生じていると思われる。
〓 《自分の望みが自分一人の力で手に入れられるという自信》 これとしての《有力》 それは 《弱肉強食のピラミッド》を登っていくという経験事態に通じていくわけだから 少年原則は この方面と いかに切り結びするのか。
〓 《親の〔世代の〕コントロール下にあった情況から はみ出した世界を 自分自身の選択で 少しずつ創っていく》という場合には 《弱肉強食のピラミッド》とは異なった別の社会のあり方を 志向しているのだろうか。その《頂上に立った者がみんなの代表者なんだ》という経験事態を 少しずつ突き崩していくということなのであろうか。あるいは そのような過去からの既成事実については ただ突き崩せばよいなんてものではないと 語ろうとしているのか。この問題に対して 《心の中の〈少年〉は どのように命じる》と語ったことになるのか。
〓 仮りに人生演技説=《死の消極的な仕事人》説に立つなら 極端に言って 結果的には 死んだ者が一たんは《相手の中に生きるってこと》が起きるとしても(つまり 遺された者が その死者たちの《代表者》になるということが 一たん 起きるとしても) その相手(遺された者)は 演技よろしく哀悼の歌をうたう そしてそれによって 真っ暗な《夜》から《真昼》へと抜け出ていく そうして事実問題としては ピラミッドを登りつづける・・・このようなことになるだろうか。皮肉って言っているけれども そして演技原則にとっては不本意であろうけれども それは たしかに経験事態としての世の中であるかもしれない。 
〓 このような《大人》の世界の中に確かにあって しかも《少年》は その《テクニック》を嫌うわけである。出発点は演技とは別のところにあるであろうという。このように推測した限りでは 演技を超える・また演技を必要としない人間の自然の本性が――大人の世界の中にありつつ―― 《少年》には生きており また自らはこの《少年》として生きつづけていると 主張していると言うべきだろうか。結果は問うていないと言うべきだろうか。従って その結果として形成されてくる思想原則の内容も 一定のかたちでは 予め立てないし 持たないと言うことなのだろうか。


以上のような内容が 自らの生にもとづき骨格として 宣言されているだろうか。――かなり好意的に表現したと思っているが 結論としては批判的に捉えているとも言わなければならない。
骨格の肉付けは けっきょく 成るように成るとすでに言っているかも知れないということ この理由で 実際には多神教の好悪原則であるように思う。この《少年〔原則〕》までをも演技しているとは言わずとも それは 大きく世間の本覚思想のあるがまま原則の中に 結果として おさまるようにしか思われない。その批判のこころは 一方での演技原則と そして他方でこの非演技説の少年原則とが 広く全体の無原則社会のなかで 互いに対抗しつつも均衡していくというように思われることである。調和の取れたもの 《克服と成長 希望と可能性》の世界であるならば その均衡でよいとしなければならないのだが・・・。
ただし書きは すでに書いたと思うので ひとつの疑問形のかたちで 終えたいと思うのだが いかがであろうか。

第五十五章 好悪自然の演技原則は 蒟蒻と鰻の問答である。

(1)FRUITS BASKET―対談集 (福武文庫)

対談集である。思想原則の議論としては とりあげやすい。
ばなな氏も 対談の相手として 島田雅彦氏や高橋源一郎氏も 人間関係論にかかわる文学の話として かなり突っ込んでやり取りをしている。これらは だが 演技としてというよりは 礼儀として そのものずばりの言葉では語っていない。
小説の方法や作法 あるいは 作家としてと同時に人間として その人となり(つまり思想)のことなどを ずいぶんと――そして他人ごとみたいに――深く掘り下げていると思われる。と同時に 面と向かっての対話では どういうわけか 批判ということが ぼかされている。《他人事みたいに》は これほど直截に突っ込んでいいのかという思いでの褒め言葉なのであるが 肝心なところに来ると いまひとつ話の焦点を 別の方へ振り向けていると考えられた。わたしが 読み取っていないのかも分からないが この対談としておさめられた表現からは 議論を進めるわけにいかない。
一点だけ付け加えよう。ばなな氏は 対談もうまいし 受け答えも 決して自分を隠さずに また浮いたことを話すほうへも流されずに よくこなしている。それは 小説作品の構成や筋道が きわめてしっかりしていることとつながっているのかも知れない。これを逆に言えば その先の段階から本走へ移るところでは 必ずしも自らの思想原則を明らかにしないようにも思われる。それなしで話を済ませうるように 成り立たせてしまっている。
だが あるいはそうではなく この助走の段階こそが むしろ本番であり 肝心の話なのだと ばなな氏自身は考えているのだろうか。
かも知れない。見解の相違ということで 話は一たん妥結することになる。
わたしの仮説的に捉えた演技原則をめぐって どうであるかは まだ進展はない。推測によって批判を推し進めることが難しくなったようだ。

(2)《うたかた》

うたかた/サンクチュアリ

うたかた/サンクチュアリ

《うたかた》のほうであるが この作品は きわめてふつうの内容を扱い 普通に物語った小説だと考えられる。
特別きわだった作品の質であるとか(芥川賞候補作だということではあるが) または問題作というような内容とかも 感じられない。
例によって 時間停止の状態であるとか あるいは この作品では人が死ぬことはないけれども やはりその閉塞状態から死に接するというような体験であるとか これらの情況としての主題が扱われている。その《夜》は 昼夜の流れる日常時間の全域からは必ずしもとらえられず 従って《白河夜船 (新潮文庫)》の如く分割され独立したような《夜》の問題として描かれている。この特殊性を除けば 作品全体としてきわめて普通の人の普通の生活感覚において展開されたという受け取りである。
ただし 昼と夜 光と闇が二分された如くであるのと同じように 普通の日常生活の中でも その人間関係は これも二つの世界に割り切られている。《克服と成長》という主題をめぐって それにかかわる人間関係の一群と そうではなく 人間関係が世間の社交辞令に終わる一群とに 割り振られている。これがすでに 登場人物にかかわって物語の以前に 設定されているとすら思われてくる。その上で ごく平凡な生活の成り立ちと成り行きとが繰り広げられる。
これが 主人公をめぐる《克服と成長》の仲間においては その一人ひとりが《良くなってゆき続ける》こととともに 幸福な結末にいたれば 読者は みずからもその仲間に入って そこでの《注げども尽きない愛情》関係に包まれ 素直に暖かい気分をかもし出され 小説の世界・いやあたかも現実の世界を 楽しむということなのだろうか。もしこうだとすれば まずこれは 思想の妥当性を問う以前の《助走》の段階だと言うことが出来る。もしそうだとすれば 《希望と可能性のすべて》は どこに見出すべきと考えられるだろうか。
助走の世界と現実の世界 あるいは 自分たちの仲間の内と外 これらが それぞれ えもいわれぬ如く均衡を保って 現実の社会人としての一つの思想を形成しているということなのだろうか。この成り立ちこそが 現代人の現実だということであろうか。それとも 仲間内の・わたしたちには助走と見える生活領域における《個人個人の魂の記録》こそが 現代人にとってほんとうの思想でありほんとうの世界だということだろうか。助走と本走などと言う見方も事態もないのであって 少なくともそのように考え生きている仲間どうしが 互いの信頼感覚のもとにある世界こそが すでに世界の全体だということであろうか。その《信頼感覚》も決して感覚だけの問題ではなく 《正確な相互理解》にもとづく人間関係であるという思想であり 主張であるということだろうか。
わたしたちはすでに仮想として これらが好悪原則よび演技原則によっていると考えているが ここでも結論は保留しなければならない。また その閉塞状態を抜け出そうとする助走の仲間たちに 一つの演技同盟が結ばれているとしても そこまでは自由である。
一点だけ繰り返しておくとすれば その閉塞状態は それじたいが一つの夜の世界を作って もっぱらそれ自体として扱われている嫌いがある。つまり そのような一つの物語であるのなら 二分されたもう一つの世界・つまり昼の世界へ ハッピー・エンドとして 転換させないのがよいと思われる。いや 二分法のもとに一方から他方へと 百八十度転換するというのは 生活時間の一面的な見方であり むしろ文学としてありえないと思われる。
一つの時点でつねに 昼と夜の両方の世界を同時にとらえ 扱っているのでなければならないと思う。

(3)《サンクチュアリ

(1995.1・14)

うたかた/サンクチュアリ (新潮文庫)

うたかた/サンクチュアリ (新潮文庫)

例によって《時間の停止した状態》である。
それが この作品でも 身近な人の死(もしくは 死の問題)を通してやってくる。閉塞情況の中で主人公たちは ある種絶望のうちにさまよいながら その中から 同じ体験(擬似体験を含めて)を持った人どうしとして 互いが互いを理解しあえるようだと気づいていくことになる。
この場合 演技同盟だというのは 極端であるが 例によって《仲間》の問題である。世の中からはある種隔絶した自分たちだけの世界を見出したととらえ ここに 慰めと新たな希望を同じくとらえる。このような筋となっている。
もしこのあと かれらが必ずしも社会の現実に帰って来るという感覚を与えないとすれば やはり《助走》なのだと思う。つまり仲間どうしでは 闇が晴れたというかたちである。読者には このような仲間を持つように努力しなさいということなのだろうか。
自分の人間関係が 《うたかた》でのように仲間か否かで二分されているというわけではないと思うが ここでは その閉塞情況の中で必ずしも身近な人と相談したり話し合ったりすることもない。慰めと希望とは まだ知らない人と ある日ある時 出会うということを通じてもたらされる。日常のつきあいに対しては 平凡な社交関係にありつづける。新らしく出会った人とこそ 理解しあい仲間どうしとなっていく。そこで互いに閉塞情況を抜け出ようとすることになる。閉塞をいわば互いに飼い慣らしていくといったことになる。
このまま・つまり世界が仲間の内と外という互いに別個の二つの領域に分かれてしまったまま 互いに慰められ希望を見出し元気を取り戻すという幸福な結末に導かれていくことは わたしにはどうも 不健全に思われる。つまり これは助走の部分であるから 論理的に批判することではなく 感覚と思いとして不健全だと考える。
ということは ここでも思想をめぐって仮想した演技原則批判は 話の始めを見出さない。(そのゆえにも 物語の内容をすべて省略している。)

(4) パイナツプリン (角川文庫)

(1995・1・15)

パイナツプリン (角川文庫)

パイナツプリン (角川文庫)

エッセー集である。
このエッセーの文章の特徴を本人は《褒めまくる》ことだと言っている。これが 小説の作法につながっているのかどうか。読書の楽しさと魂の記録としての希望 そして夢を与えつつ その夢で人を一杯に満たすというのが 姿勢であり 思想であるということだろうか。この文章では それ以上のことは分からない。

(5) N・P

N・P (角川文庫)

N・P (角川文庫)

長編小説である。よくわからない。
読後の時点でいえば ともかく物語の空間から抜け出てきたという感覚のみが強い。広くて大きな幻想の世界の中に誘われて行って 本を閉じた時には たとえば映画館もしくは劇場から出てきたといった思いを残す。死のこと そして それを身近に体験した人びとが どこからともなく互いに引き寄せあって その体験を克服していくといった筋書きは 他の作品と同じである。
いったい何故このような展開がくりかえされるのか この点はもはや 触れずにおこう。
いま一つの問題点は 互いに互いを呼び寄せあうことになったその仲間たちが 自分たちのあいだで 互いをどうとらえ どう思っているのか こういったことの観点にではなく そうではなく その仲間たちの物語と その物語を聞いた読者たちとの間に 何が生じ それがどのような影響を持つことになるか こちらのほうにある。
だが 思想内容を 《原則》をめぐっては 依然として特定できない。《無原則 / 原則自由》の問題をもはやここで あらためて取り上げるつもりはない。
そしてそのような思想内容であるとしたなら 読者の受ける影響は 単なる心理の問題である。社会関係として外からもやって来る好悪自然の心理であるにすぎない。その読者は 自らの人生がその本によって決まったと もし言うのならば それは 本の内容によるよりも その人(読者)自身の考え方によって生き方がすでに形作られていたといった側面が 強いと思われる。
(つづく→2005-04-29 - caguirofie050429)