caguirofie

哲学いろいろ

愛の原則は 独善か

信頼原則を 自然本性のままの善およびその感情にもとづく好悪原則(第一種)と人為的な建て前としての善を立てる偽善原則(第二種)とのほかに これらを超えて 第三種の思想原則として 打ち出した:《風の歌を聞いた――シンライカンケイ論――》その第二部 〈シンライカンケイについて――風の理論――〉→もくじ=2005-04-07 - caguirofie050407。
ただ 読み返してみて つくづく これは 独善であるわいと感じる。
実際 自らも 好悪原則や偽善原則と比べたら 独善主義だと言っている(§34→2005-04-11 - caguirofie050411)のだが そういう認識の問題としてではなく わたしの書く文章じたいが どうも その口調から言って 独善的に映るようだと 今更ながら気づいた。
とにかく 他人(ひと)の思想について ほとんど頭から けなしている。まっすぐ正面から堂々と議論しているのだが なにか勝負のために勝負をしていると見える。まさか闇夜に弓を射るようなことはありえないが――ありえないし していないが―― 隠し球を用意していてそれを出してくるかのごとき感じを与える。初めから名指しで いわばがっぷり四つに組んで論議しているにもかかわらず 印象はよくない。

  • きちんと 順序立てて 理解と批評を展開しているはずだが 《あたかも頭から批判している》と映るのは その言説を始めているときには ひととおり全部理解し終えて 批評も結論に達しているという状態にあるからであろう。筋道をたどっているにもかかわらず 初めから すでに持っている結論の内容が その過程にどうしようもなく滲んで出てきているのではないかと思う。

どうしたらよいか。ここまで文体が固まってきていると 簡単には軌道修正ができないと思われる。
いまとしては 文意をはっきりと伝えること こちらに重点をおくしかないと考えている。あとは 我が徳の問題 不徳のいたすところの問題かと 情けなくなる以外にない。だって 結果が不徳であると同時に 自分の中のこととしては 不徳であるとは思っていないのだから。不徳と思っていないことを捨てたり 修正したりするわけにはいかない。

  • 独善は 善なのだ(!??)。偽善は 善ではない。(一生貫くなら 悪でもないというべきか どうだろうか。)
  • 好悪自然の正直は 善悪の彼岸ではなく 善悪の認識を拒み続け その認識以前の状態にあって そこに閉じ籠ろうというものであり ひいては他者を拒否することをみづからの主義とすることでありうる。〔その《悪》の場合ではなく 《好》の場合には 門戸を開放するかもしれない。〕)

どんなものだろう。

  • 《なにさまだ!》という投書を受けて タモリは 落ち込んだよと言うとともに 《お互い様だよ》とも言っていた。
  • ソクラテスは 自分がしびれ鰻だと言われた。