――シンライカンケイ論――
もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407
第二部 シンライカンケイについて ――風の理論――
(2005-04-24 - caguirofie050424よりのつづきです。)
第四十九章 減らず口をたたきつつ
前章で第二部にひと区切りを打ちたいと思う。
いま個人的に勉強しているイザヤ書のひとつの章とかんれんして 随想をつけ加えておきたい。好悪原則の多神教という性格にかかわり つまりは擬似的な真理(pseudoX)を立てる広義の偶像崇拝(pseudoX−Z)をめぐってであるとか 信用資本主義のガリ勉原則をめぐってであるとか 論点は大きいのだが かんたんな随想である。
話は飛ぶけれども その昔 バビロニアの神は 主神がマルドゥクと言い 《主》を意味するベルとも呼ばれた。その息子はネボ(《預言・予知》にかかわる意とも)と言い 知恵と学問の神であった。
紀元前六世紀 バビロニアはペルシャ王キュロスによって滅ぼされる。その時までにはすでに五十年ほどユダヤ人は 新バビロニア王ネブカドネザルによってバビロンに捕囚の身となっていた。だからキュロスの出現は ユダヤ人にとって解放となるのだが その時の様子を描いたと思われる文章が それである。ただしその中からごく断片的に バビロンが侵略を受けたときの模様を伝えた部分――。
(y)
ベルはかがみ込む ネボは倒れ伏す。
彼らの像は獣や家畜に負わされ
お前たちの担いでいたものは重荷となって
疲れた動物たちに負われる。
彼らも共にかがみ込み 倒れ伏す。
その重荷を救い出すことはできず
彼ら自身も捕らわれて行く。
(イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14)) 46:1−2)
襲撃を受けたさ中にバビロンの人びとが逃げ惑いつつ 神像を大事に運び出そうとするときの模様である。ここは 表現として いろんなふうに捉えられると思われた。
なお 三行目の《お前たち》は バビロニア人たちのことで そこでは突然 直接に記者(第二イザヤ)またはヤハウェ神が語りかける形式になっている。《彼ら》は 二行目と最後の行とでは 《ベルとネボ》のこと。五行目のは 《動物たち》のことだと思われる。
みっつの《彼ら》をすべて《バビロニア人たち》と解することもできるかもしれない。ただ ほんとうなら救い主であるべき両神が その信徒たる人びとを救うことができず 自らの像も倒され ついには自らも捕らわれてしまうと読めるかもしれない。
こういった表現をめぐって 別様に いま 読んで見る。
(y−1)〔主なる神〕ベルは膝まづき 〔その息子で文学と知恵の神〕ネボも腰をかがめた。
彼らの神像は 〔宗教儀式としての行列では厳かに〕お前たちが担ぎ出したものが 獣や家畜の担ぐものとなった。
動物たちにも重荷となって疲れさせる。
動物たちも共に腰をかがめ 膝まづく。
この荷物を救い出すことが出来ない。かれら自身 捕らわれてしまった。
そしてもっと皮肉を込めたかたちでは 次のごとく――。
(y−2) バビロンの神々 ベルよ ネボよ お前たちは 自らがその民を救わなければならないのに 倒れてしまった。その像を民が救おうとして 牛やろばに載せた。だが 牛もその重荷で疲れ 脚を止める。民も共にうづくまり 救い出せない。どうやらお前たちと共に民も捕らわれの身となった。
あるいは比喩として つぎのごとく――。
(y−3)
ベル神は膝まづき
ネボは腰を折った
神々が牛やろばの厄介になる
民が神輿に担いでいたものを
牛も疲れて 厄介払いをしたい
民も腰を折り 膝まづいてしまった
お荷物にまでなった神々を民は救い出せぬ
民も牛も神々も〔自らの宗教真実の中で〕
捕らえられてしまった
しかるに 経済信用主義のガリ勉原則は 実際 努力の人であって この好悪原則の多神教(無原則)なる捕らわれの網を突き破り 自らの思想のもとには 自ら脱出している。ただし 脱出したあとの世界では どこまでも いつまでも 自ら走り続けなければならない。さもなければ 経済信用の自由が続かず 元の故郷である好悪自然の自由放任へ戻り 同じようにうづくまってしまうしかない。自由よ お前はいづこに?!というわけである。
このとき――人間的偽善の知性原則は 脇から 経済信用の自由主義がいかなる論理によって成り立ち いかなる結果をもたらすか そのような必要で有益な学問研究をおこなっていると思われるが―― ここで 日本社会では ガリ勉原則と好悪原則とが 奇妙なことにというべきかどうか 互いに持ちつ持たれつのように相い携えて 営まれているように思われる。いやここでは 議論をひろげないので そのように感じられる。
社会全域にわたる共同の宗教(文明)の真実が 経験有力のかたちで 持たれているように思われる。それが 第三項もしくは《媒介形式》となっていて ひろくはたらいているのではないか。あるいは 第三項とは 排除される運命にあるとすれば いまこのような社会心理じょうの観念の共同 これとして有力な宗教真実 これらのほうではなく その共同観念(その意味でのナショナリズム)に反対するわたしのような者の存在 これだと言わなければならぬかもしれぬ。
必ずしも 貨幣信用〔の一辺倒〕でもなければ あるいは 言語表現でもないようにも 感じられる。しかも そのとき それとして類型的に(しかしやはり 擬制的にだと思うが)
愛や信頼にかんする感覚 そして幻想 こういったものが共有されているようにうかがわれる。これを基盤にして(ただし もう一度 それは 擬制的な出発点だと思われる) 自由に正直に みんな一所懸命であり そうなのだから 対立や差異をわざわざ認識しあうとか まして批判によって波風を立てるなどということは ないではないかと考えているのかも知れない。
- 幻想にせよ 社会の調和が保たれているというのは バブルの崩壊を経て 社会保障制度の問題で この調和はかなり崩壊し始めていると言う人もいる。
随想と妄想とは もはやここまでである。
このあと小説作品を読むようになっていったので その批評を 第三部以降としてまとめた。
(つづく→2005-04-26 - caguirofie050426)