――シンライカンケイ論――
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第三部 風の歌を聞いた ――よしもとばななをめぐって――
(2005-04-28 - caguirofieよりのつづきです。)
第五十六章 なぜ?何故?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?
(1995・1・16)
- 作者: 吉本ばなな
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 1991/09/25
- メディア: 文庫
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できるだけ小説そのものに就き読む。そのような批評を いま一度おこなっておこう。
主人公の弥生については 幼いときの悲しい出来事によって それまでの幼年時代の記憶を失っている。この記憶を取り戻すことをめぐって物語がすすめられ 作品は現実感をかたちづくり その筋も呼んで面白く 成功だと思われる。そして閉塞状態は 弥生が記憶を取り戻すとともに(取り戻しかけるとともに) やって来るのだが それは――弥生が両親をその幼い時に事故で亡くしているというのであるから その――肉親の喪失感・欠如感として 訪れるかと思われる。
このような主題にかんする限り これは 弥生の物語として成り立ったのだと考えられる。
ところが 弥生にとって おばと名のる実の姉――先の交通事故で生き残った二人の姉妹どうしであるが 今はおばと姪の関係にある――ゆきのにかんしては たとえばその同じ喪失感が 人生の全体にわたって時間停止の状態となって現われ 現われつづけているというのだが これは 納得しがたい。
ゆきのは 自分と姪(妹)の弥生がそのとき同乗していた自動車の事故で両親を失った時から もう十数年も経っている。現在 三十歳である。記憶喪失でもない。もしこのゆきのに 閉塞状態が起こるとすれば それを十分意識していた両親の事故死のあと いわゆる社会人として自活するまでの期間においてであるか それとも いますでにそうである高校の音楽教師として生活している期間においては あくまでその就職活動と新しい仕事が一たん落ち着いたあとのことであるか どちらかだと思われる。
その心は 社会人として生活しているぶんには 否が応でも その外からでも 時間は 何らかのかたちで 自分にとって流れることになると思われるからである。殊に その踏み出しの時 つまりたとえば就職活動を通じて教師に採用されようとする時など ここでは じゅうぶん どんな場合にも 時間は 停止していることなく 流れるものと思われる。逆に閉塞状態の長くつづくことが彼女にとってほんとうであるならば 社会に出ようとする時 自分の仕事をどうするか このような問題に際しても その時間停止の中にありつづけるというものではないだろうか。これを ともかく乗りこえて来ているのならば 現在三十歳になっても 事故の時からずっと この世の人ではないかの如くであるというのは よくわからない。
さらに細かく考えてみる。仮りにこういう場合があるのかも知れない。学生を卒えて社会人になるとき 自分はもはや生計を立てる仕事だけはしつづけていくが それまでと同じように 親しかった故人の欠如感の世界にこそ閉じこもって 生きるしかない こう考えた場合である。しかも こうであるなら かんたんに反論できる。そのような自分自身の社会生活にかんする限りでも 一定の決意を持ったのだから これは じゅうぶんに時間の行為なのである。
世を捨てて生きようというのも 《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》でまりあが《私はこれからここで 生きてゆく》(H)*1と決意表明するのと全く同じように 自由意志の選択にかかわる。その表明があれば 時間過程は始まる。意思表示に始まれば 間接的にでも社会との対話を始めるであろう。これが ほかならぬ《出発点》の問題であった。
決意を持って実行しているなら 一種の自己愛が生じている。そうだとすると この人間としての自己は どうまちがっても 時間的な存在でしかない。このゆきのは 《変人》のようだと描かれているが そのように普通一般の生活をしないことと 時間がなお停止していることとは 全く別のことだ。
だから 弥生の物語に登場する姉・ゆきのは その人となりが 時間停止の問題をめぐって 腑に落ちないものを感じさせる。弥生の記憶喪失とそれの回復の物語に 一種不自然に そこに添えられ ただ話の都合上 からませてあるという感じを否めない。
いづれにしても もし ゆきのの方が主人公であり 彼女の持つ問題こそが 主題なのだという場合には 彼女にかんして現在にまで至る過程を なお説明する必要があろう。
哲生について
養女となった弥生の弟 哲生。すなわち 血のつながっていない一歳下の男。
これも 先に結論づけるなら 弥生じしんの物語に 取ってつけたかたちである。
彼には 閉塞状態は起こらない。
彼にかんして 一方で
(W) もしも人に もともとの魂が美しいということがあるなら 人としての品格が高いということがあるなら それは哲生だね
(哀しい予感 (角川文庫) pp.25−26)
と紹介され 他方で 哲生自身は次のように語っている。
(X) 俺の今までのいろんなことをやってきた歴史のもともとは 全部おまえ(弥生)に対する煩悩を追い払う手段だった。まあ そのうちにやってることの方が面白くなっちゃって もともとの理由なんて 忘れてた時が多いけどな。〔・・・〕
(同上 p.138)
これら(W)と(X)の二つの内容が 同一人物に当てはまるとは 到底考えられない。
引用文(X)には 《煩悩》があるから (W)の内容の《魂の美しさ / 品格の高さ》に反するというのではない。《煩悩を追い払う手段》というように 自分の問題をそらすことが 問題である。止むを得ず そらさなければならないことがあるとしても 《手段》と知っていて それをし続けることが 問題である。魂の美しく品格の高い人は 《そのうちにやってることの方が面白くなっちゃ》うことは なかろう。打ち明けるか 遠くへ去るか どちらかを選ぶことになるだろう。
(Y) 彼は生まれつき 自分の内面の弱さを人にさらさないだけの強さや明るさを持っていて 何にでも怖れを知らずにまっすぐぶつかってゆくことができた。
(同上 p.25)
というのが 哲生なのだから。《まっすぐぶつかっていく》はずであり 《煩悩を追い払う》つまり《問題をそらす》ことはしないものだということ。魂が美しければ 煩悩も美しかろう。
この時 《自分の内面の弱さを人にさらさないだけの強さや明るさを持っていて》 なおかつ 弥生に対する関係に限っては その事態には《まっすぐぶつかってゆくこと》はしなかったのだと 解釈してみよう。弥生じしんが〔まだ〕出生の真相を知らないでいるとの理由からである。弥生は 自分が養女であることを知らず 哲生が自分の実の弟であると思っているという事情を 理由とする場合である。けれども だから煩悩を追い払う手段を ほかに見つけ それに対して――《もともとの理由なんて忘れてた時が多い》ほど――熱中することもなかろう。その煩悩のことじたいを責めるのではありえず そうではなく 《手段》であることがら(つまり 他の女性とつきあうこと)を 何の苦もなく堂々とおこなえるというのは 《品格が高い》とは思えないということである。
いまの批判の場合でも 手段にのめり込むこと自体を責めるよりは 俺はいま手段としてこれこれのように振る舞っているという意識と自覚があってなお つづけるということ そしてつまり 他の人を手段視する結果になっていることを何の葛藤もなくおこなっているとすれば そのこととが 魂の美しさの問題に抵触しよう。
《魂 / 品格》とは何を言うか わたしは この議論では 何も説明していないが 引用文に現われた限りで その言葉を使って 論じた。もともとこのような魂の美などを内容とする説明(W)が 哲生に与えられていなかったなら 話はまた別であったかもしれない。
そのような人となり(???)の哲生が 弥生のそばにいる。同じ屋根の下に生活している。(姉のゆきのは 弥生に対して おばと名のって 独りで別のところに暮らしている。)だが 弥生の物語にとって――弥生の記憶回復とそれに伴なう苦悩を克服していく過程の物語にとって―― いってみれば 哲生は わるい付け足しであるように思われる。あるいは言いかえるなら 弥生の物語が進展するためには どんな人となりかが分からない哲生が登場し その限りで 展開が成り立っていく。姉のゆきのの場合には ゆきの自身にかんして 別の主題・別の物語が編まれうるかもしれない。弟つまりゆくゆくは恋人になるであろう哲生にかんしては ゆきののような《閉塞状態》に陥らない一人の男としてのみ 登場している感が強い。
ゆきのに関して。
ゆきのにかんしては ゆきの自身の願いで 彼女ら姉妹が孤児になったとき 哲生の両親の家に世話になるにあたって ゆきのと弥生とは おばと姪の関係にしてもらっている。このような意思表示と同時に その反面で 喪失感に浸り孤りでいることを求めたというのだろうか。
弥生の記憶回復のあと おばと姪は 姉妹として 互いに認め合うことができた。実際の肉親の感情を抱くようになった。この筋も 基本的に弥生の物語であって 弥生にとってこそ重要となっていると思われるから あとは 姉ゆきのの歴史を 別個に描くことが必要ではあるまいか。
あらためて 弥生と哲生との関係について。
哲生は その場その場では 強く明るく品性高く振る舞う男であるのかも知れない。ということは 全体の人となりとしては 必ずしもまとまっていないということであるが それならそれで よいということかも知れない。だとすれば 弥生は 相手の哲生がそのような・ある種いい加減のところを持つ人物であると認めた上で 生きている(つきあう)ということでなければならない。そうでなければ 弥生の物語も 大きな傷がついていることになる。そうであれば それとして 現実性がある。
同じくもう一点。哲生自身が弥生に語るところ すなわち引用文(X)の続きで
(Z)昔から おまえは姉なんかじゃなかった。家の中をうろつく憧れのお姉さん というのに近い。ずっと そうだった それ以外の目で見たことがない。もともと〔ほんとうの姉弟ではないことを〕知ってたんだからな こっちは。おまえが一生気づかなければ多分 弟としてやっていけただろう。そんな話はいくらでもあるからな。でも おまえは何だか知らないが思い出してしまった。〔・・・〕
(哀しい予感 (角川文庫) p.138)
という件りがある。ここにも矛盾がある。十八歳の高校性が 異性である人生の連れ合いの問題として小さい頃からこのように考えこのように決めていたとは あまり思えないが そのことは別である。けれども 《憧れのお姉さん》が人生を共にすべき対象のことであるとするなら 弥生が《気づかなければ多分 弟としてやっていけただろう》というのは 疑問である。この疑問は大きい。
《やっていけた》かどうかの問題ではなく 何も打ち明けずに姉弟のままでやっていくべきかどうか ここに疑問がある。たとえ秘密をあばき弥生を当惑させることになったとしても 大人になっている時には 自分の意思表示をもって《まっすぐぶつかってゆく》ものと思われるからである。
- ビートたけし氏の《〈少年〉原則》? いや そうではない。少年原則*2としての正直原則は 結果を問わない(《見るまえに跳ぶ》) / 結果についての責任を考慮に入れようとしないという側面があるから そのぶん 《品格の高い まっすぐさ》は 一味ちがうはずである。
もし意思表示を一切しないというのなら――連れ合いを意味する《憧れのお姉さん》でありながら その意思表示をしないと決めたというのなら―― 《弟としてやっていけるだろう》とか大丈夫だとか あるいは大丈夫かなとか そんな好悪原則に金魚の糞の如くくっつく心理の問題なぞ 現われない。現われずに ふつうの人間関係にある者どうしとして 姉となっている弥生を単純に思いやりを持って見つめていくであろう。
そして人生の連れ合いの問題として(または そうでないなら そうでないとして)考えているのでなければ その哲生は 引用文(X)や(Z)のようなことを語って まったくチャランポランである。
くどくなろう。この時 煩悩のことは 別問題である。ちゃらんぽらんの場合には言うまでもなく 煩悩が自由正直にからんでいるのであろうが 人生の連れ合いとして見る場合もそうは見ないと決める場合も いづれの場合にも 煩悩はからむであろう。その煩悩は そのからみは 煩悩じたいの問題であって 別である。心理は心理で動いている。
すなわち 自分の気持ちをはっきり打ち明ける場合には 一般の人間関係としてと同時に連れ合い〔となるべき対象〕として 煩悩がからんでくるであろうし 現在の姉弟の関係のままですすむ場合には 一般の人間関係としてのみ(つまり 兄弟姉妹のあいだの愛情を別とすれば 一般的な人と人との関係としてのみ)煩悩のこともからむということであるだろう。そして それだけのことである。煩悩じたいを主題とするなら 話が別のストーリとなるということである。
だから 弥生の物語という一主題にとって 哲生は その主題の展開に合わせつつだが 矛盾した姿をとって現われてくる。矛盾した姿で弥生の物語に介在しようとしている。このままなら 弥生じしんの物語も破綻しかねない。異性の相手がひとり当然のこと 必要である。その相手が どういう人であるかは 物語にとって 考慮に入れられていない。
幼時の記憶を喪失した十九歳の弥生 かのじょが その記憶を回復し あらためて姉と互いに姉妹として認め合うことになるというひとつの物語 これが 取り出しうる筋である。その意味で――つまり 姉ゆきのの物語は別の話としてとらえ 哲生は《閉塞状態》とは無縁の男だとすれば の意味で―― ここでは必ずしも《閉塞状態》の問題が 主題となっているのではない。弥生に時間停止の時間が訪れたとしても それは その《夜》じたいとして切り離されたひとつの世界ではなく また そう捉える必要もなく 大きな問題としなくてよい。――このように見た弥生の物語 としての《哀しい予感 (角川文庫)》 この小説は 他の作品といくぶん趣きを異にしている。主題が 時間停滞とは別だと思われる。それゆえ 小説の内容じたいに分け入った。
むすび
(1995・5・25)
その後 ばなな論としてのいくつかの評論とともに さらに本人の作品を読み継いでいったが 覚え書きを残していない。《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》と《キッチン (角川文庫)》にかんする場合を別にすれば 次の二点を整理しておかねばならない。
① ばなな氏の小説が 思想として演技原則にもとづいて書かれているというわたしの仮想は 検証できなかった。
② 演技原則があるとも ほかの原則があるとも また 無原則自由が一定の原則として自覚的にあるとも いづれとも 決められない。この意味で《助走》の世界が扱われているのではないかという仮想は 持ちこたえるかも知れない。
このあと 村上春樹にすすんだ。
(つづく→2005-04-30 - caguirofie050430)
*1:まりあの決意表明:第五十二章(10)項→2005-04-26 - caguirofie050426
*2:ビートたけし氏の少年原則:→2005-04-28 - caguirofie050428.次の《見るまえに跳ぶ》は同箇所で引用文(S)