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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第三部 風の歌を聞いた   ――よしもとばななをめぐって――

2005-04-25050425よりのつづきです。)

第五十章 人生演技説としての好悪原則

(1994・12・26)
よしもとばなな氏の小説

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)

を読んだ。
どう思ったか今日 古本屋で手に入れてきた。どう思ったかというのは 現代小説をわたしは読まないからである。また ばなな氏の作品については これまでに読んだいくらかの書評から わたしの関心のありかとは別だと思っていたからである。それを今日は ほかに ビートたけし氏の小説まで買ってきた。(その芸風も考え方も わたしは 好まない。)

(A) 《TUGUMI(つぐみ)》を読んだ。これはなかなかすごい。一見 少女小説風 あるいは少女まんが風だけれど けっこう奥が深いのだ。〔・・・〕すごく甘っちょろいみたいだけれど どうしてどうして 油断すると つぐみにしてやられたチンピラみたいに 半殺しにされてしまいそうだ。〔・・・〕
末木文美士〈超えつつ そして結びあうこと〉季刊《仏教》#25――1993・10。p.64)

たとえばこのような第一声で始められる批評の中の《なかなかすごい / けっこう奥がふかい》という言葉にも これまで触手を動かそうとはしなかった。もっとも ありていに言って 〔予断として持っていた〕評価が変わったというわけではない。不明を詫びるということにはなっていない。
わたしの中に引っかかった問題点があって これを整理しておきたいと思った。その必要のある文章表現であると考えざるを得ないのだ。
小説作品としてよく出来ていて面白いと思った。これを告白した上で 思想の問題として考えてみたい。小説を思想として取り扱うことは そのままでは筋違いであるという見解を認めた上でのことでなければならないだろう。

上の末木氏の批評では その作品で描かれた世界が閉ざされているのではないかというのが 基本の結論だと思う。まずたとえば 一考としては 《つまり ここではすべて裏側の現実が見えないように 周到に隠されているのだ》(末木・前掲稿・同箇所)というように。ただしその末木氏も 作者のばなな氏は《文庫版あとがき》で自評を述べていて この問題点を補っていると見ている。実際 《現実がうまくいかないこと》にも注意が払われていて 作品の外で 穴埋めがされているようだと。したがって 再考としては 《世界が閉ざされている》その内容は 次のようになる。

(B) だけど もし《幸せごっこ》の底が割れて 否応なく《向こう側》の世界に直面することになったら どうなるのだろう。この小説でそこまで考えることはないのだろうけれど でもひねくれた(くたびれた?)中年のボクはそんなことをふと思うのだ。
(末木:同上=(A))

《向こう側》とは 単純に 死――それゆえ つまり この死に向かい合うゆえ 生――の問題だという。
わたしの問題点は この末木氏の批評内容と重なりあうようにして 少しその観点がちがう。その別個の観点からわたしなりに掘り下げていければと考えた。これが きっかけとなった。
さらに末木氏の批評をまとまったかたちで紹介しつつ 議論をすすめよう。

(C) しかも ラストがまたきわめつけだ。病院で今度こそ死ぬかと思ったつぐみはまた元気になる。その後になって 彼女が死ぬつもりで書いた遺書が〔語り手の〕まりあに届く。つぐみを死なせてしまえば それはそれで一編の小説だ。でも そうしないところに作者の深謀遠慮がある。《向こう側》の世界に超えてしまってはならないのだ。超えられないのだ。〔このあと 引用文(B)に続く。〕
(末木:同上=(A・B))

わたしはここで別の考えを持った。《〔身体の弱い〕つぐみを死なせ》なかったことは 作品としても・そして言うならば思想としても 成功だと思う。この《作者の深謀遠慮》は しかもその時・そのことによって 《〈向こう側〉の世界に超えてしまって》いる一面を持ちえたとさえ思われる。事実経過そのものとしては確かに《超えられない》のだが それこそ虚構としてであれ生死の境に立たせたあと 元気を回復するという結果で描いたことは 《〈向こう側〉の世界と直面することになった》と言ってよいのだと思う。それだけの印象と影響とは持つのであって 感覚的な体験は 中途半端のものではないと考える。文脈の力を借りるかたちでにせよ その《直面》は 現実性を帯びて その真実であることを伝えて余りあると思う。
けれどもそれと同時に――それと同時にである――ここでは 世界が閉ざされていると思った。
《文庫版あとがき》での作者自身による補いを含めた上でも そうなると思う。
問題は 《現実の裏側が 直接にはほとんど 触れられていない》こととは別である。また その《幸せごっこ》の世界なる《こちら側》にのみ話が限られていることとも 別だと考える。《向こう側》の世界の問題は じゅうぶん捉えられ描き出されたと思うから。
つぐみが身体の危険を承知の上で ひとつの重大な事にあたるというのは ひとつの確かな意思決定に属し そこでは 人間出発点の過程が進められていくと言えると思うから。たとえ些細なことでも 《病院で今度は死ぬかと思った》ほどになるはずのことをやってのけたとするならば――そのやったことの内容じたいは じつは決して褒めたことではないのだが―― 向こう側との直面が 事後的にでも あったと思うし 《幸せごっこ》にとどまることではないとも言えるはずだ。あるいは《現実の裏側》にしても 語り手のまりあがその父の婚外の子であるとか その父はやがて前妻となる妻と離婚へ向けて闘い疲れはてたであろうし そのまりあ一家は慰謝料の支払いでその後の生活が苦しいであろうし つぐみの家の山本屋旅館も経営が苦しいかも知れず その地に新しくホテルを建てるつぐみの恋人の恭一の側はその交渉の過程で裏工作をおこなっているかも知れないといったことなどなど 推測できないわけでない。
それでは何故 その世界は閉ざされていると考えるのか。
ここでは やはり好悪原則の問題が出てくるのだと思う。たとえば まりあはこう語っている。

(D) あんまり妙な状況にいたので かえって私たち〔親子〕3人は《典型的な幸福な家族》というシナリオの中の人々のように優しくなってしまった。誰ひとり 本当は心の底に眠るはずのどろどろした感情を見せないように無意識に努力している。人生は演技だ と私は思った。意味は全く同じでも 幻想という言葉より私にとって近い感じがした。
TUGUMI(つぐみ)〔=単行本〕p.46−47)

まりあたち親子三人は 父にとって前妻との離婚が成り 共に暮らすようになるのだが その以前には 父がまりあとその母のもとへ通って来ていたという《あんまり妙な状況にいた》。ここで 《人生は 幻想だ。いや 演技だ》という思想が 好悪原則の問題だと思う。この問題にからんで――作品の中からの例示は あとに回すとすれば―― 《この〔〈人生は演技だ〉という〕さめた認識 やっぱりすごいではないか》と末木氏に言わしめている。

(E) でも その幸せはすごく危ない薄氷の上にある。このことは小説の中にもちゃんと書いてある。
・・・・・引用文(D)・・・・・
これがこの小説の鍵だ。〔・・・〕
この親子だけではない。〔つぐみの家族である〕山本屋旅館一家だってそうだ。
(末木・同上 p.66)

たとえば――まりあとつぐみは 従姉妹どうしで いま山本屋旅館に同居しているが―― まりあが つぐみの恋人となるべき恭一を家に連れてきたとき つぐみは だれにも わからない所に身を隠すという演技をしている。結果的にせよ 演技となる。あるいは その恭一との初めての出会いで 《咄嗟に人格のチャンネルを変え》 やはり演技する。のちには この《人格のチャンネル変え》はしないままで 友人そして恋人となったのだが そのふつうの状態じたいが じつはすでに人生演技説での演技となっている。もう少し詳しくは つぐみは身体虚弱という実情とその一種の社会的な立ち場とから わがままに育てられ 演技を伴なったさまざまないたづらをする少女となっている。
しかもこの人生演技説は 《本当は心の底に眠るはずのどろどろした感情を見せないように無意識に努力》(D)するかどうかといった・その方面での《現実の裏側》の問題として 取り上げるのではない。――いや待てよ 《心の底の感情をみせないように努力している》のなら 自然正直の感情にもとづこうとする好悪原則とは 別ではないか?――別ではないと考える。なぜなら 自然の感情をあらわにしない演技は 好悪原則を実現させるための一手段だと考えざるを得ない部分があると思われるからである。意図せざる演技 意図せざる意図としてである。好悪自然の正直は 皆に自然にわかる感情なのである。意図や善しとしなければならないのかも分からないのだが・・・。
繰り返そう。この演技は たとえ崇高なものであっても 遅かれ早かれ 多かれ少なかれ 誰にでも それとして知られるようになる定めになっている。(知られないままに終わってしまうのなら そのことが たいしたことではなかったというものである。)この演技が もし習慣化するようなら特に 何か別の目的のためにする手練手管となるまでに到る。あるいは 同じく習慣化するようであるなら もはや必ずしも意識すらしないかたちで 演技は日常化するものと捉えられる。
いま まりあや つぐみの姉の陽子やその他の人びとは措くとしても つぐみ自身にかんしては たとえばすべて演技によって恋人を獲得したことになっているし 実際そのように生活のすべてを生きている。もしくは人びとに虚構の世界を提示することになるさまざまな振る舞いを生きている。皆が寝静まった頃 毎晩 虚弱な身体で 庭に大きな穴を掘るという《生死の問題にかかわっての一つの意思決定とその実行》は 従って そのこと自体が 結果的にせよ この演技(方便)としてなされていることにもなる。

  • ただし 死なせられず こちら側の生に戻ってきたと描くことは 向こう側との関係を むしろよく捉えたとも思われる。

少なくとも言葉の表現で 自然の感情をあらわにしないことによって 結果は自らの好悪の内容をそのまま実現させているか 実現させようとしている。恋人の恭一の飼っていた犬を殺したチンピラの一人をおびき寄せて その庭の落とし穴に閉じ込める そうして復讐を果たそうとする。迂回路をとおしての・または高等手段を使っての やはり好悪原則が現われている。無原則なのである。
繰り返しになるのを恐れずにすすめよう。まず現実の裏側の問題に直接触れられていないことは それだけでは 自分の世界を閉ざしたことにはならない。

  • 末木さん こんなことは当たり前ですよ。――こう言わなければ 末木稿を引用したわたしが 咎められねばならない。

推測がつねに成り立つ。判じ物は 我が日本人の得意の巻きである。あるいは しかしながら もう一面での裏側の問題――つまり つぐみの身体虚弱のことでありそれによって苦悩して生きており その苦しみの感情のことを引き受けようとする母や姉らにも苦労があり そしてその事情にからむまりあの思いであるとかなどなど―― それらの裏側を見せないように努力するという演技 これは 非常な努力であり献身的なおこないであり友情でもあると思われる。と同時に すべては とどのつまり それぞれの好悪原則の手段をなしていて 好悪原則じたいであると考えられてくる。いや 母や姉の献身ぶりにしても まりあの友情の行為にしても 誰が見ても それらを尊いと言わねばならない にもかかわらず そのことが その信頼関係を演技しているということになるとも見える。
もちろん 皆 善意である。好悪原則は正直であり 自然の感情である。逆に 意地悪く見るなら 好悪原則からの好悪原則による行為(つまり演技)であることを 知らないでいるかとも思われる。人生は演技だという表明のようなもの これについては 確かにはっきりと 自分のおこなうことが演技であり 演技がなにものであるかも分かっている。けれども それが 日本人の社会に《伝統的な》無原則自然の好悪原則による演技であるとは 知らないのではないか。傷つけないようにと善意でおこなっているとまでは わかっているはずだ。そのとき 人は それが 信頼関係の演技だと分かっているであろうか。
果たせるかな のちに まりあは この振る舞い一般を自ら知るようになり 自覚的・意識的となる(D)。つまり その意味で 悪意となる。《知らずに=善意》ではないということになる。それが ひとつの思想原則であるということになるのであろう。 
但し書きを怠らずにすすめよう。この《演技》は 欺いたり傷つけたりするためではなく その意味で 嘘ではなく 正直原則にのっとるものである。基本的に このようだとわたしも考える。この意味は そのようにしている時には 信頼が自然成長してくるであろうと期待しているということである。その期待が 互いに分かり合えば その現在においても 信頼の感覚が――感覚のほうが――じゅうぶん成り立って これが 展開されているというものであろうと思われる。
要するに 献身的な努力にせよ 善意の演技にせよ 言ってみればすべては 成るように成ると語っているとも見られる事態なのである。そして なるようになるのは 一人ひとりそれぞれの好悪原則なのである。運がよいかどうか なのかもしれない。信頼関係は 永遠に先送りされる。そして この好悪原則を 各自がそれぞれ吟味するというところまでには到っていない。
この《演技》を 建て前と本音の問題としてみれば いくぶん偽善原則に似ている。ただこの場合の偽善の善は 自然の感情を見せないでおこうという内容までであり 建て前としての一定の思想の表現なのではなく――そうであれば よいとも言えないが―― この思想や建て前などが〔少なくとも まだ〕何もないとした上での 感情を抑える演技ということになっている。言いかえると 自然の感情が 《好悪》と《好悪を包み込み抑える演技》との二重構造となっている。なぜなら 逆に言って 献身的な努力や友情の行為なども それぞれが自らの感情をあらわにした上でも じゅうぶん人間として成り立つし 成り立たせなければいけないというものだからである。
感情を表わすか隠すか これには関係なく 出発点の信頼関係が人びとに成り立つとするならば 隠す演技は 必要ないであろう。演技を必要とするぶんだけ 信頼関係以前の好悪自然を 人が互いを傷つけあう悪と見立て しかもその悪の回避じたいによって じつは もとからの好悪原則を実現させようとしていると思われることになる。好悪原則の内容が 複雑に洗練されている というだけの状態だと わたしには思われる。
もし目的が決して好悪原則ではないとすれば たとえ自然の感情を妥当性の原則のもとに表現し伝え合い さらにたとえそこでけんか(口論)が始まったとしても 一向にかまわないと言うべきはずだからである。演技の必要を認められない。波風を立たせず傷つけないようにして実現する信頼感覚とその和は けんかをしあっても自由であろうとする人間関係やその信頼関係とは 別であろうと思われてくる。前者が後者のための一手段となることもないであろう。その演技という方便に終わるならば いづれはご破算にしてしまうことになるだろうから。

  • 演技を内容とするこの方便が 人の生涯をつうじて 身についたかたちであたかもその人の人格となっているという事態については どう考えるか。ほんとうは望んでいる互いの信頼の樹立を 永遠に 先送りしていることに甘んじているとわたしは 解釈する。その甘んじる必要はない。なにを遠慮しているのだろうと思う。
  • それにまた もし正直自然という政策によって信頼の自然成長を期待し 現時点ではその信頼感覚の醸成で満足するという場合についてなら もしそうであるなら 一般にも言われているように それは 性善説に立っている。ということは なんのことはない 裏側の自然の感情をふつうに顕わにしたとしても この性善説に立って じゅうぶん けんか(口論)を交えつつも 人格関係は 愛のもとに確立していけるものと言うべきである。人はいったい何を恐れ 何に遠慮しているのだろう。

これによってわたしは 《TUGUMI(つぐみ)》の世界は閉ざされていると考える。
単なる信頼感覚では すべてが成り行き任せの問題であり 結局 好悪原則にもとづいているとともに それに行き着き そこでは 人間出発点が経験事実の世界の中に閉じこもっていると結論づける。

小説に登場する人物たち


   ______
   |    |
前妻=父=母  叔母=おじさん
     |     (山本屋旅館)  新しく建つホテルの支配人
     |      __|____       |
     |      |     |       |
    私(まりあ)  陽子   つぐみ=============恭一 
    (x−1歳)  (x 歳) (x−2歳)
     東京。    海辺の町(西伊豆

  • まりあと母は まりあの高校時代まで山本屋旅館の離れに生活していた。

補論

いま少しを補っておこう。
まりあとその従姉妹たち(つぐみとその姉の陽子)そして両方の家族 あるいはつぐみの恋人 これらの人びとの間では その《幸せな》信頼感覚が 明らかな信頼関係として成立していると仮りにするならば そこでは この一群の人びとの内と外とで 好悪原則の使い分けがおこなわれている。仮定として内々では信頼関係が成り立っている。これが 外の好悪原則に対してはそのまま対立し――なぜなら特に つぐみの体質および性格をめぐって差別的な扱いを受けがちである―― そこではもはや実際問題として 演技すらどうでもよいものとし 騙しあいや いじめ関係が現実となってしまう。つまり実際 もとから世の中では 対立しあう好悪原則が現実なのであると見るゆえ 人生演技説が掲げられているのだという場合になる。結局 全体の状況としては信頼感覚〔の関係をかもし出す〕という演技を 人間の出発点の中核にすえて話し合いと社会生活をいとなんでいこうという思想だということではある。
これは 好悪原則一般に対抗して やはり好悪原則をいくらか洗練させた特殊なかたちで提示しているのだと思われる。このソフィスティケートされた好悪原則も その世界を閉じている。経験事実の領域の中でのみ 好悪自然の玉突きがおこなわれているだけとなる。うまく泳ぎきった者が勝ちという。
要するにこの開けではなく閉じを それに靄や霞やをかけて まぎれさせ(つまりこれが演技である) あわよくば出発点の開けとしての人格を実現させようと望むひとつの思想である。
この信頼感覚の理論は 一般的にも このような形態と内容とで 説かれたり 無意識に・《自然》に・また《正直》に すでに持たれ生きられているものと考えられる。人生は演技だと悟ったというわけである。これをみずからの出発点とする。これは 似非仏教の本覚思想だと言ってよいようである。あざむいたとしても みな残らず 仏性なのであるから 腹の奥のその腹の奥では 分かり合える。望むべき信頼関係も 究極のところでは 成り立っているのではないか その期待だけで 満足すればよいのではないか。
もし一面での悪口を言うとすれば 世に言う《共生》の思想も それほど違っていない側面がある。ただしこの共生の思想のばあいには 《自然》に対してむしろ 靄や霞をいっさいかけないで 大いに目を開き近づいていこうという別方向の一内容を持つ。人間の弱さや傷に対しては 薄膜をかけ(それが必ずしも悪いとは言わずとも) 自然環界に対しては直接にさえつながろうとし これら両面を合わせることによって なんとかして人間出発点の真理=非経験なる愛の領域へ 自らを開こうとする一思想形態なのであろう。
なお 虚構作品にかんしては 作品と思想と作者とは それぞれ別であるから――あるいはまた作者も 作家としてのばなな氏とばなな氏本人とは 別であるから―― その点 注意しなければならない。ここでは 作品の内容について わざわざそこから自由に思想を取り出し これを論じた。

補論2 演技は それが人格を二重構造にするなら その限りで 信頼の原則からは遠い。

私はダンテがウェルギリウスベアトリーチェによって母親の違った面を書きわけ しかも両者を統一したことを大変意味深長なことに思う。
というのはどのような子供にとっても 母親はある時はやさしく ある時は恐い。どちらに偏してもよくないが またこの二つがばらばらであってもいけない。やさしい母親も恐い母親も同一の人格であることが子供に感得されるのでなければならない。
しかしそのためには母親自身 子供にやさしく接する時も 厳しく接する時も 自分が同一の人格であることが実感されていなければならない。そのどちらか一方は本当の自分だが 他方は嘘で 単なるパフォーマンスであるというのでは駄目である。そんなことでは子供自身 統一した人格に成長できない。
現代は 精神的障害を持つ子供が非常にふえているが これは畢竟するに 上述したごとき意味で母子関係に歪みを来たしているためと言って過言ではないのである。
土居健郎「甘え」の思想 pp.40−41)

《パフォーマンス》なる演技をしりぞけたい。そもそも必要がない。欺こうとする場合にのみ 芝居が必要であろう。

第五十二章 通常ではない洗練された演技も 好悪原則のうちである。

物語の具体的な展開を交えて補足する必要を感じた。議論じたいに訂正はないけれども 作品を単なる形式論理であたかも不当に切ってしまったかに映る。作家吉本ばななをめぐって議論しなければならない。
あらためて整理しつつ すすめよう。

  1. まず初めに 末木文美士氏が《向こう側》と言っているのは 直接に《死》のことだが 向こう側へ《超えつつ 結びあうこと》は どう生きるかの問題にほかならない。そして 主人公つぐみの場合も この死(ないし死の問題)と直面するということは 確かに出発点のあり方として 同じく生の問題にほかならない。こう考えられるゆえ 実際にはこの小説の到達した地点は その意義いっぱいにおいて 現実という問題をとらえ扱おうとしている。しかもこの《向こう側問題》から帰ってきたところでは その思想の基本的な成り立ちが やはり人生演技説のもとに 好悪原則に行き着くと考える。
  2. やはりこのような総論を初めに提出したが この仮説を具体的に検証していかなければならない。
  3. きっかけとして まだ取り上げていなかった末木氏の《つぐみ=ピエロ》説を見てみよう。
    • (F) すべてが《演技》されているような幸せの中で つぐみだけが特別な位置にいる。だって つぐみは身体虚弱で 《幸せごっこ》からのけものにされていたし それにいつも《死》という薄氷の下をのぞきこまなければならなかったのだから。けれど つぐみも結局演技の世界から出ることはできない。つぐみはピエロだ。少しはずれたことをして 少し薄氷の下の世界を意識させてくれて でもやはりそこから出ない。出られない。だからまた つぐみはいらだつ。(末木文美士:〈超えつつ 結びあうこと〉季刊《仏教》#25)
  4. ここで一方で つぐみは《いつも〈死〉という薄氷の下をのぞきこまなければならなかったのだから》 一たんは 《演技の世界》から・という意味はこちら側の世界一般から出たのだと わたしは思う。ただこの時にも その向こう側から帰ってきた時には つねに 演技の世界にいるのだと考える。または 世の中をまず一般的に幻想であり演技の世界なのだと見ざるを得ないと考え その世界に自らも 洗練された別種の・そして極端な演技をもって 抵抗し対抗する。――もう一方で このように こちら側の世界で《演技》――それは確かにひじょうに複雑なものである――をし続けているのだから すなわち感情を直接に表わすのではない高等手段なる自らの演技をとおして実際は その好悪感情を結局は世間一般と同じように生きていることになるのだから これは決して《ピエロ》を演じていることとは 同じだとは考えられない。言いかえるなら 中でもとりわけ つぐみの演技は 一つひとつが 自らの意思決定(ある種の確信犯)のもとに判然と そしてあたかもピエロに見えるかのように決然と おこなわれているという内容が伴なわれている。ちなみに 《彼女は 子供の頃から全く変わらずに ひとりきりの思考の中で生きていたのだ》(TUGUMI(つぐみ)p.194)とも 了解される。このような《特別な位置にいる》ということであって ピエロ問題とは微妙にちがうということではあるまいか。
  5. だが つぐみは それにしても とんでもない《演技》を仕出かす。そして こっけいでもある。その点で つぐみ=ピエロ説をもう少し取り上げつづけよう。
    • (G) まりあをだますためだけに 一所懸命に〔まりあの〕おじいさんの筆跡をまねしたり 〔恋人の恭一が飼っていて チンピラどもに葬られてしまった〕犬の復讐のために自分の身体を犠牲にしてまでチンピラをやっつけようとしたり。それはすごくばかなことだ。無意味なことだ。でも ばかなことだから つぐみはそれに命をかける。命がけのピエロ 命がけの演技。それがつぐみの最大限の抵抗だ。(末木:前掲稿=(A))
  6. 最後にある《最大限の抵抗》というのは その根っこにあるものとしては 虚弱な身体に生まれてそのめぐり合わせへの あるいはそれをつぐみ自身の感情と思いとに即して捉えようとはしない世の中一般への であろう。そしてその行動はピエロのようであることにまちがいないわけだが わたしはその《命がけのピエロ》説をとらない。かんたんに言えば 見せ物としてそういう行動をとったのではないと思われるからである。逆に言って 演技というものはすべて見せ物でもあるとするなら ここでは誰もがピエロなのである。程度の差ということになる。
  7. したがって むしろその――その限りでのつぐみの――真剣さは 人生演技説のさいこうの俳優であると 小説全体の中で とらえられていることを意味するかもしれない。つまり だとすれば 世の中一般の演技とつぐみ自身の別種の演技との対抗という構図がとらえられるにしても ピエロであるか否かは 二の次だとしてよいのではないか。演技と演技との対抗の構図の中で いづれか一方の位置から見れば つぐみだけは特別なピエロであるかも知れないが その構図全体から見れば ピエロ問題は 問題の中心に来ない。
  8. つぐみの取る行動は 《ばかなこと》であるかどうか知らないが たとえ《無意味なこと》であったとしても すべては今の限り なんらかの目的をもって はっきりした意志の決断のもとにおこなわれている。そしてその彼女の演技の目的というのは ここに見る限り 好悪自然の欲求の洗練された姿を実現し それによって好悪原則一般の正直で無理のない自然な実現をはかるということだ。これをピエロだと見る人は いまのような目的にかんする思想の内容をとらえつつ  それを批判することのできる自らの新しい思想を提示していなければならない。この限りでは 無意味なピエロと見ることは 現実一般が無意味だと言うに等しい。
  9. 《おじいさんの筆跡をまねした》のは 《まりあをだますため》だとしても それ《だけ》ではなく 別に明らかな目的があったろう。まりあと友達になり互いに理解しあおうという――その意図じたいとしては 信頼関係に導かれたいという――目的もあったろう。少し茶化して言えば ここでは《人生演技》教の一使徒として たとえばまりあとの間に友情をきづき あたかもその二人の間の核融合を通じて ひいては世の中を明るく灯し 社会を住みよいものにしようと考えているのであろう。ドンキホーテともピエロとも見えると同時に 問題はそこにはないであろう。――ただし その思想内容(生活態度)もしくはその思想の実行の結果は わたしの見解では 大きくはなおいまだに好悪原則の世界に閉ざされているのではないか。末木氏がこれと同じ見解であるとするなら 少し舌足らずが残ったのだと思う。その文章全体が示唆的に書かれており その意味でも 問題提起に終わっているように思われる。
  10. ところで つぐみは あまりにも身体を駆使し入院しなければならなくなった。医者からも危ないと診られ そのことが東京にいるまりあにも連絡されていた。その病院での危機の夜を過ごしたつぐみは あくる朝 予想(?)を裏切って(?)元気を回復し まりあのところへ電話をかけてきた。まりあは見舞いに出かけるところだったのだが ひととおりの話を終えると つぐみは 病院に来ていた恭一にも電話に出るように促し さらに姉の陽子にもその電話を引き継がせた。そのとき 電話の向こう側でまりあは 次のようであったと語られている。
    • (H) 私(まりあ)は家のいすに腰かけて 窓の外の空を見つめながら陽子ちゃんと話をした。降り注ぐ午後の光が四角いかたちで部屋を照らしていて 私は自分の中に静かな決意がやはりわけもなく はっきりした形もないままに満ちて来るのを感じていた。私はこれから ここで 生きてゆく。(TUGUMI(つぐみ) pp.228−229)
  11. このようにして 人生演技説――《唯幻想論》?――が 現実に生きたかたちで 人間の関係となって実現し 社会の関係過程の中に根を張ったと言おうとしている。この引用文(H)のあと つぐみがそれまでの入院中に死を覚悟した床の上でひとり遺書として書いたというまりあへの手紙が紹介されて 物語は終えられる。この手紙=遺書の中で次のように語っていることが 人生演技説の実現を言おうとしている。つぐみとまりあ二人の間において人生演技論が現実となったと主張されているかに見える。
    • (I) ここのところ ずいぶんおまえに手紙を書いた。〔・・・〕どうしておまえなんだろう?しかしなぜか私の周りでおまえだけが 私の言葉を正確に判断し 理解することができるように思えてなりません。(TUGUMI(つぐみ) p.229)
  12. そして もはや結論として語らなければならないことには・あるいは語ってもよいと思われることには もしこのように 自然の感情をも決して排除せず自らの主観真実を妥当性をもって表現することとそれの相互理解が問題であるのならば 《演技》は 方便としても 基本的に必要ないであろうと思われることである。演技を方便に使ってこそ相互理解なる信頼関係にたどりついたというのであれば 人生演技説は成り立たない。《人生は演技だ》ということにはならず 《人生は信頼関係だ》と自ら語っている。そしてもし方便がつねに不可欠だという意味で言っているというのであれば その信頼の成立じたいが なおどこまでも演技であることになる。
  13. 一般的に言って 相互理解――とくに互いの差異にかんしての――が絶対的にはただちに現実とならないとしても その時にも 信頼関係の原則からすれば 譲歩し俟つことになるのであって(――つまり おのれの主観真実は 出発点のあり方として 相対的かつ可変的でさえあるから 関係過程的に 無力の有効なのであって――) そこで 相手に八つ当たりすることもないであろうし 洗練された演技の限りを尽くして 世の中一般の演技に対抗することもないと考えられるのである。
  14. さきほど触れた電話中のまりあが 《自分の中に満ちて来るのを感じていた静かな決意》は 《わけもなく はっきりした形もないままに》(H)であって一向にかまわないと思われるが その結果 《私はこれからここで 生きてゆく》(H)という決意の言葉を持ったその言葉を もし仮りに作者は読者をして同じように語らしめようと願っているのだとすれば やはりまずは問題が 次のことにあると思われる。その行為じたいは命がけのピエロとも見えるような演技――実際には 世の中の慣習やしきたりとしての演技一般に対抗する演技―― これを人生の出発点に見出し 《わたし》は悟ったとすることが ここでの結論であるのか それとも 《〈私〉の言葉を正確に判断し理解することができる》というように信頼関係を見すえようとする思想上の原則が大事なのか 二つのうちいづれか一つを選択する問題なのであると。
  15. 虚構作品としてはその選択があいまいであった場合 それは 可能性を残したかたちで小説じたいは成功だと思われるから いまは この小説の世界をすでに超えて思想の問題として論じたその一結論となる。
  16. 蛇足として 物語の最初の部分から引用することができる。深追いになるかもしれないが その限りでなら むしろ小説じたいの思想内容に分け入って 批判することができるかも知れない。
    • (J) 確かに つぐみは いやな女の子だった。〔・・・〕
    • 人はだれも 1日1回くらいはむかっ腹立つことがある。そんな時私(まりあ)はいつも いつの間にか心の奥底で《つぐみに比べたらこのくらい》とまるで念仏のように唱えていることに気づいた。別に怒っても その果てに何かあるわけではないし みたいなことを私はつぐみといるうちに実感として悟ってしまったらしいのだった。それに とオレンジに光って暮れてゆく空を見つめたまま私はちょっと泣きたくなった。
    • 愛情はいくらだって注げる まるで日本国の水道のように いくら出しっ放しにしてもきっとつきない そんな気がするものね。と何でだかふと思ってしまったのだ。(TUGUMI(つぐみ) 冒頭pp.7−8)
  17. ここでは語り手は 回想している。つぐみの入院と遺書と回復の事件からすでに時が経っている。そこで語られたこの内容にかんして たとえば このような《愛情》をどのように捉えているかが 問題となる。この愛情は 自己の意思表示として表現されつつ信頼関係へと導こうとすることなのか それとも一般理論としての好悪原則の世界に対するその潤滑油なる役割を果たそうとするものなのか つまりこの後者は そのような方便としての演技であるしかなく そうであってこそよいとするものであるのか ここに大きな分かれ目があると考えられる。つまりこれは 上の(14)節の選択の問題である。
  18. しかも極限すれば 前者の見解をえらんだとき 意思表示としてなら 逆に 《怒ってこそ その果てに何かがあるわけだ》と考えるのが わたしの立ち場である。そこに付随する部分でありながら重要だと思われるのは その信頼原則の立ち場には 《誰か自分より苦しみが大きくそれに耐えるための演技の努力も大きい人のことを思って 〈つぐみに比べたらこのくらい〔何でもない〕〉との考えを持つことは ありえない》というものである。出発点の《無力の有効》には――それとしての自由・愛には―― 比べるものは 何もない。たとえば自分自身の過去の情況 そこでの一時点における到達度合いとしての境位 これと現時点との比較はありえても 基本的にいって 比べることはない。それでこそ信頼原則を唱えうる。そうでなければ おのれの好悪の内容や度合いが 測られたり 他と比べられたりしつづけるよりほかない。好悪原則の各自における実現の度合い(その意味での自由度)が 経験事実に即してむしろ量的に・または権利義務の基準においてのみ測られつつ やはりその事実(Y)上の自由度が 各自の演技の努力や成功の度合いと 比例するといった理論に行きつくしかないであろう。そこでは 出発点(X−Y−Zi)における表現と信頼の問題が 経験事実(Y−Z)上の弁論とその論証の問題に 縮められていくはずだ。またその弁論さえ 演技の上手下手が決めるということになろう。《つきない愛情》が そのような演技の問題に還元されていきかねない。
  19. もしつぐみが信頼原則に立っているとすれば 《つぐみに比べたらこのくらい〔我慢しよう〕》という行き方を他の人が採用することを望んでいないはずだ。その行き方は つぐみの思想と似ても似つかないものとなろう。その時こそ《ピエロ》で終わるしかない。つまり 見せ物であってよいと 自らが自らを特殊な存在(たとえば トリックスター)に位置づける場合である。まりあへの最後の手紙のつもりで書いた文章の中で つぐみはこう語る。
    • (K) どうも本格的に死にのぞんでいるらしい今 おまえ(まりあ)に手紙を遺すという考えだけが 私の心の中で希望となっています。他の誰もが いたずらに多く泣いたり 本当は私という人間はこうだった と自分なりに善く解釈したりする様を思い浮かべると 虫酸が走ります。恭一はちょっと見どころがありますが 恋愛はバトルですから 最後まで弱みを見せてはなりません。
    • おまえは本当に どうしてそんなにマヌケなのに きちんとした大きさでものごとを測れるのでしょう。不思議でなりません。(TUGUMI(つぐみ) pp.229−230)
  20. さすがに《向こう側》体験を持ったつぐみは 出発点の《わたし》に立ったかに思われる。(ただし 《向こう側》が ただちに非経験(X)であるとは限らない。)経験事実上の・そしてそれとしての主観真実の中における 人と人との比較が問題なのではないと語ろうとしているのである。泣いてもらっても困るし 死後に美辞を贈ってもらっても困るという。――そうでありつつ そのつぐみも 他面では 《恋愛はバトルですうんぬん》の部分で 残念ながら好悪原則の人であると見なければなるまい。恭一の恋人として 自分を他の女たちと比較する考え方の上に立っている。
  21. ちなみに 恭一と相互理解ができるのは 恭一自身も かつて身体が弱かったという事情から入っている部分が大きい。ただし今は 彼は手術をして普通の健康体となっている。これも 比較ないし同一視という自然感情がはたらいている。自分と同じだとか違うとかという好悪正直に発している。この限り つぐみの身体虚弱から出てくる〔世間一般への対抗意識とそれにもとづく〕演技のことを 恭一は理解できるというのが 《きちんとした大きさでものごとを測れる》ことの内容となっている。そのような《信頼の感覚》――この場合は どういうわけか この場合に限ってというように 演技の問題ではなく 知性真実の問題となっている――なのだと思われる。
  22. 残念ながら つぐみも好悪原則の人だと見なければなるまい。つぐみとまりあの場合も 乱暴に言うとすれば 好悪原則の世界に即して《きちんとした大きさでものごとを測れる》人どうしとして そのような信頼感覚までとしての同盟を結んだということになる。この同盟の世界は 開かれているか?《私の悲惨を思って おまえも元気を出せ》と もし つぐみが語りたいのであるとすれば その世界情況は いじめ感覚の裏返しとしての秩序と均衡との感覚であって これは 閉じられている。社会的なイジメ循環の 裏と表とから成る世界である。同盟軍二人は どちらかといえば 裏の世界におかれていて しかも 飛び切りの演技戦略によって 表にも飛び出していこうという態勢にある。広くは 全体としての秩序と均衡の問題におさまっている。コップの中での嵐という意味である。
  23. (1994・12・28) 少々蛇足が過ぎるとも思われるが こういうことではないだろうか。信頼関係の原則は 無力の有効であり それは 出発点〔の《わたし》〕じたいが時間的な動態であることを物語る。(実際には その逆だ。)信頼関係が成立したということは おのおのの主観真実としての相対的・可変的(試行錯誤的)な人間関係の時間過程としてその成立を見続けていくことでしかない。そこでは 主観真実としての信頼成立を確信させた一定の出来事が介在するとしても その出来事の定形的な内容やそれについての感覚じたいが 《出発点》であるのでもない。その出来事の定性的な概念化やその理念も それではない。《私はこれからここで 生きてゆく》という決意表明じたいが 出発点であるのでもない。(意思表示にかかわって 自らの確信が生じていることはありうる。)言いかえると 信頼の感覚やそれにもとづく同盟関係(同志の存在) これらが 出発点なのでもない。
  24. 信頼関係の成立の可能性そしてその有効性を信じている場合にも 出発点において これらの成立すべき内容は 経験事実上 無力なのである。だからこそ 人生演技説が現われる余地がある。おおいに人間原則は さまざまに争われる余地がある。だが 《〈わたし〉が根拠なのではない》ということでなければならない。演技を方便とすることは 出発点において《わたし》を根拠にしようとしている。有効性の無力を その演技によって 経験事実として 有力にしようとしている嫌いがある。手段を選ばずにというよりは 世間の用いるその同じ手段(つまり演技)を誰にも負けない優れた武器に仕上げた上で用いて 社会的に有力になろうとしている。演技の知恵と努力とその理解と測定と そしてそれによる同盟としての仲間 このような中味をもった思想の世界となっているとは考えられる。
  25. こうなると 今度は ちがう見方も成り立つ。演技によって《出発点》じたいを何とか実現させようとしているようにも見られるからである。けれども 出発点の想定は 交通整理の手段であった。知性真実にとっては 経験的な認識と表現の領域に属す。しかも信頼関係としての出発点〔の《わたし》〕が想定されるとすれば それは 直接 目に見える形では 知性真実の経験的な営為とは無縁であり 演技とも無縁である。ならばその演技の洗練された第一人者どうしにおいて 出発点の信頼関係が成立すると見ることも ありえない。少なくとも 一人ひとりの確信にとどめるべきである。この確信――そして思想として信頼原則―― これは 話し合いにおける自己表現の過程に従い そこに自由に積極的に自らの展開を見出していく。
  26. 似た者どうしが 友を呼び 相互理解に立ち そこに信頼の感覚が現われるのは ふつうの出来事である。そして信頼の基礎としての愛は 《いくら注いでも尽きることのない演技としての〈愛情〉》のことではなく 人間が人間であるという最小限の存在〔関係〕じたいであった。この《無力の有効なる出発点の〈わたし〉》は そのように《無力の有効》と表現しつづけうる動態であるならば その表現行為の関係過程において 人間の経験合理性にもとづく論法からいって 経験現実に対しても その余韻のちからを発揮することが 時として実現すると考えられる。出発点における信仰原理としての《無力の有効》の満ち足りてあふれ来る余りが 妥当性および答責性を内容とする思想原則として 経験現実の上で しかるべき何がしかの有力と実効性を発揮すると考えてよいかもしれない。これが 信頼原則である。そしてここでも これにあやかって好悪原則が 洗練された知恵と知識によって演技説に取り入れる余地があるということなのかもしれない。
  27. けれども 信頼原則のほかの思想原則は 信仰原理として無効であるのなら 確かに経験現実においても 無であり幻想であり演技であるしかない。わづかに経験事実上の実際において その無効が のっぴきならぬ《ただ今》の情況から実効性を持つことがあり その結果 時に 社会慣習の姿として一般的にも有力になっているという状態である。この部分は 大きい。義理とか しがらみと言っている。義理とは 過去のことにまつわるものであるのだろう。それとして 実効性があり 有力である。ただ 《義理》というのなら 一方で演技はもはや方便としても必要ないであろうし 他方で基本的に 無力のうちに有効な出発点の義であり理であることをいうとも考えられる。
  28. だけれど ソフィスティケーテッド演技説というのは ひとたびその原則に立つなら すでに出発点において無効から一歩を踏み出しつつも その同じ無効の世界で 事実上の有力と有力とが 対立し対抗する情況の中に勇んで踏み込むことである。わたしたちは これにも譲歩する。確かにこの譲歩の中にも あたかも同じように勇んで飛び込むことも 可能性として含まれているが それは 譲歩というかたち(つまり しりぞき 接点がなくなるかたち)によって 相手の存在じたいを無視することになるのを恐れる故に已む無くとる行動である。相手と同じ場・同じ位置にひとまず身を置くという待ったなしの場合の緊急措置である。基本は 譲歩である。この譲歩が 無力の有効なる出発点に 経験現実上 どこからともなく その余韻のちからを与えるかもしれない。どこからともなくというのは わたしたちに測りえないし 直接には 主観真実の確信以外では 知りえないということである。だから確かに その余韻のはたらきや結果を たがいに議論することはかなわないようである。

次の読書は 《キッチン》である。
(つづく→2005-04-27050427)