――シンライカンケイ論――
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第二部 シンライカンケイについて――風の理論――
(2005-04-22 - caguirofie050422よりのつづきです。)
第四十七章 ガリ勉資本主義としての好悪原則
(1994.12.11)
《貨幣》の問題を考えておきたい。
出発点の《わたし》ないしその生活実践に 貨幣形式または経済活動がどのようにかかわるか これが あとまわしとなっていた。
- 次の著書に触れての課題であった。
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- 人間は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在であると思う。
- 出発点のあり方で 人はその知性真実(X−Y−Zi)が 非経験(X)の領域に開かれているという点で 自由である。
- 人間は 経験思考の知性真実によっては 絶対的・決定的な判断が下せないのだから・むしろそれゆえ 時間過程的に 自に由るしかない。自とは 各自の・そして互いの 主観真実のことである。
- このことが むしろ 信仰原理にかかわる。先行領域として 信教の自由 良心の自由。
- 時間過程に従わざるをえない経験思考とその表現としての知性真実が 有限・相対的で可謬性のもとにある。このかたちで むしろその表現は 自由である。これが 思想原則一般にかかわり そのときには 自らの表現内容に妥当性を求め それが意思表示されたことについて自ら答責性を持つことになる。このようにして 自由を自由とする。
- この自由は 出発点の主観真実の中でひとつの焦点としては 意志の問題だと捉えられる。答責性も そして妥当性はその妥当性をつねに問い求めるという意味で答責性にかかわるゆえその妥当性も ひとつの焦点としては 自由意志にかかわるものと思われる。もちろんこの自由意志は 相対的である。
- とくにこの意志自由を内容として 人は 社会的な独立存在である。その意味で――存在・生が善だとすれば―― 独善である。しかもこの自由が誰もにあてはまるからには この自由関係は 平等である。このとき――同時に――人は 社会的な関係存在である。
- 人は 法の前に平等である以前に 平等である。この自由と平等を侵す人は 人間以前の状態にある人間である。
- とくには関係存在性の側面にちなんで その出発点の人間存在のあり方を 《愛》とよぶ。
- 自由を愛し重んじること それも《愛》である。またこれを《信頼》とよんでいた。
- 神(X)の絶対的な愛を立てるというときにも それは この人間関係の愛が 非経験(X)に開かれているということを 経験知性にとっては常に 但し書きするにすぎない。ということは 信仰現実(X−Zi)が まったく一般的にそれじたいとして 自由に成り立つことを やはり例外なく認めなければならない。
- この愛が互いに確立すること これが《シンライカンケイ》である。出発点において信仰原理が先行しているとすれば そこでの《無力の有効》が この信頼関係にもあてはまるということでなければならない。しかも信仰は 経験存在たる《わたし》の経験現実であると考えた。この観点に立って 愛の《確立》とは何をもって言うかといえば――知性真実が相対的なものでしかないからには―― そのおのおのの主観の確信ということになる。
- この独立主観は そもそも存在の関係性の上に立っているという前提が伴なわれている。その確信は――または それに立つ自らの意思は―― 言葉で表現されつつ その内容の妥当性にもとづこうとする。時間的な試行錯誤の過程を経ることになる。妥当性に異議を唱えられたなら これに応じるという答責性をもって 人間の経験合理性の上で最も妥当な表現内容を得て これにもとづき行動をおこすその過程 この過程じたいが 愛の動態として シンライカンケイであるということになる。出発点はこの実践に踏み出していく。つねに踏み出している。
- 人間は この世で生活しており そこには経済活動が伴なう。経済活動は 一般にモノをめぐって 定量的な基準をもつ。知性真実の表現たる内容が 信頼関係をかたちづくろうとして踏み出しているとき この信頼一般も そこに人格関係として価値を 定性的に 作っているかも知れない。出発点のあり方の 愛ないし信頼関係は それを愛すべきとか愛する必要はないとか 信頼の成立・未成立などとかの評価を持つようになる。これは 言うとすれば定性的な価値関係である。定性的な価値とは 価値判断や取捨選択であり――その意味での批判であり―― この批判は 意志の自由な選択にもとづく。ところが 経済活動〔における表現〕に限るなら モノを通してそれは――つまり信頼関係一般は―― 数量的な価値関係をもそこに捉えるようになっている。この限り――それは あくまで人格関係または信頼一般のもとにであるが―― 《信用関係》として生じることになる。モノの交換をめぐる債権債務の関係を突出させた信用である。
- 細かくいえば 贈与や援助によって成り立つ人びとの間の《負い目・恩義》の関係 これが 片や先行する人格一般の信頼関係と 片や後行する経済的な信用関係との間に それら両義・両面に同時にかかわりつつ 生じていると見られるのかもしれない。いづれにしても 《信用関係》が 信頼関係とはある程度 別様に取り出されうる。ちなみに 上のような先行・後行というのは 時間的な前後のことではなく 考え方の上での後先である。
- 出発点における存在関係・またその評価・価値判断のありさま
- 人格関係・・・・信頼・愛
- 贈与・援助・・・負い目・恩義
- 経済生活・・・・信用
- 整理すれば 人間は出発点の動態として 愛を持ち これを信頼としてきづこうとし その中から経済の側面では 定量的に測られる価値関係としての信用をも成り立たせていることになる。
- ここで 負の信頼関係として評価される場合が出てくる。《うそ・いつわり》――そしてとくには 自己背反・自己矛盾のそれ――から 始まると思われる。それと同じように 人格の信頼関係の伴なう経済的な信用についても そこに歪みが 時として現われる。これはまた一般に 欲望の好悪原則にからんだことだと思われる。これは 必ずしも強欲からだけではなく 主観真実に必然的に伴なう評価の差とその対立からも 生じるはずだ。しかも 人格的な信頼関係の評価(定性的な価値判断)とはちがって 経済的な信用の評価は モノをめぐって 数量の世界――論理的な数学の問題――として 差異の対立が生じる。このとき数学の世界は それ自体が半ば独立してのように現われると見られる。つまりそれは 逆に数量論理の問題として 互いの主観の共同が可能であり したがって 確かにひとつの世界として独立が可能であるように思われる。
- つまり信用は あくまで信頼関係の全体の中に位置しつつ 経済的・数量的な価値の問題としては 自らが半ば一人歩きしがちである。そこに欲望をも携えながら 信用は 信頼や愛から独自の世界を形作るかに見える。
- 愛も信頼も そうとすれば人間の欲望であり 願望であるかも知れない。そしてあやまちが生じうる。《自由に》故意のうそや偽りも ありうる。しかもそれに対して 信用なる数学的世界には 逆に 不合理なあやまちは 生じないか または生じても すぐにわかると考えられる。こうして ここで 出発点の人格関係から 人間の経済生活にかんする一側面が 独立するかに現われる。信用の価値関係が モノだけではなく 一定の社会全体にわたる貨幣の関係ともなれば この貨幣価値(その所有関係)が 初めの人間価値(信頼)から独立し始める。
- 独立した貨幣価値〔の所有関係〕が さらに出発点の愛や信頼関係を凌駕し始めるなら 貨幣価値主義となり 初めの人格関係は わざわざそれに対して 人間主義とも呼ばれるようになる。かんたんな考え方として 貨幣価値主義は その社会全体をおおうなら 資本主義である。分業=協業の社会的な密度が高まり 機械産業の興るにつれて 近代にも入る。
- あるいは 一たんひるがえって捉えるなら 一般的に言う資本主義は 貨幣価値主義なる信用が なお基本的に人間の全体にかかわる信頼関係のもとにとどまっていて それに従属して経済活動に励むようになるだけだとすれば それは 《勤勉》思想である。信頼からの信用の単独分立が まだ半ばの独立という情況が考えられるとすれば その信用思想は 勤勉原則であると言えるかもしれない。
- いくらか抽象的に言って――ということは むしろ個人個人の思想(生活態度)の観点から言ってということだが―― 社会一般的にいわゆる共同体の中にでも信頼関係がおこなわれている段階 それのもとに信用が重視されるようになったというまでの段階 そのような情況は勤勉思想だと言うことができる。
- したがって ここで 信用主義がまったく信頼関係一般から独立しそれを凌駕する動きを見せるようになった場合 これは 《〈資本主義〉主義》である。先の勤勉に対しては 《ガリ勉》ということになる。信用じたいのために信用を得ようとするガリ勉思想 またはすでに経済的な信用を得ていないことには 社会的に自らの勤勉もその努力が報われない情況 これとしてのガリ勉資本主義である。
- 勤勉資本主義は まだ出発点のあり方にとどまろうとし それに対して ガリ勉資本主義は もはや何ものにも優勢なそれ独自の運動を持つに到るかに思われる。出発点の愛は 二の次になる。信用の貨幣価値は 数量的に明確で論理的に共通の了解に立ちやすいとすれば これにもとづくほうが むしろ人格の信頼関係にもとづくよりも 自由で平等だと考える方向も持ちえた。実際 出発点の信頼関係は 近代以前の身分関係社会の中で それが 無効だと言わずとも ともかく手っ取り早く社会的な有力を手に入れたというその身分関係によって 覆われていたであろうし 曲げられ歪められてもいたと思われる。
- 出発点は 《自由》であり 《無力の有効》である。うそをつく自由さえを含み その自由じたいの背反をも許しうる自由として その意志自由において原理的に有効でありつつ 背反の結果の無原則的な放任自由とその社会的な有力の前に 譲歩せざるを得ないという無力である。勤勉資本主義は この背反とその自由放任を出していても なお大勢として信頼関係一般の上に 成り立つと思われる。成り立とうとする。またそう考えられた歴史があると思われる。
- つまり 好悪原則なる無原則も 自由放任と自然成長性の上に 出発点にもとづこうとしており そこではなお《信頼感覚》としては目指されていると思われる。この感覚が 信仰原理への無関心の上に つねに幻想でありうるとしても 理論的には 出発点の人格形成を容れる余地があると考えられたかもしれない。
- ガリ勉資本主義は もはや背反ないし離脱を《自由に・完全に》おこなったあと したがってそれは愛や信頼の自由としてではなく もっぱら経済的な信用みづからの自由として 独立して支配力を持つかに見える。あるいはもし その出発点の自由の背反やその人格の放棄がいわゆる原罪として人間につきものだとするならば このガリ勉資本主義は ひとつの思想原則として 潜在可能性のもとに 人類の歴史とともに古くからあったと言わなければならないかも知れない。また――そうとしてもやはり基本的には――出発点は それが無力の有効として つねに想定されるであろうし 交通整理の手段とされうる。
- 信用関係が人格関係から独立し 一定の社会の中で貨幣が貨幣として存在するようになることは 貨幣価値関係がそこで完結した循環過程を成立させたことと考えられる。経済信用の世界が 出発点の主体関係の大きな世界から独立してあたかも別個に存在することであり このことが 貨幣の《命がけの跳躍》と呼ばれたりするものと思われる。それは《貨幣の側からすれば》の話である。ちょうど《仏(X)の側からすれば》 親鸞ないし人間は 《如来等同〔真理X(先行)を人間存在Zi(後行)が分有する〕》と表記されうるかに思われたことと同じように 《貨幣の側からすれば》 信用関係主義が人格の信頼関係から分立したそのことを 貨幣じたいが命がけの跳躍をしたと表現する。それを《奇蹟》と表現するようにもなる。
- 貨幣信用の世界は それじたいとして完結して 絶対的な自由の世界であるかに見えてくる。ちょうど如来等同の境位が ひとつの奇蹟であると思われるのと同じように。自由信用の世界で成功した人は あたかも神か仏であるかのように見なされることもある。
- ところで 貨幣の独立世界の成立――信用じたいとしての自由主義 ないしガリ勉資本主義―― これは 自らじたいによって均衡したり安定した発展をとげたりすることは 難しいとされる。経済外の政治力による管理ないしは 意識的な管理によってではなく意図せざる必然的なもろもろの社会的(および自然現象の)力によってかき乱された結果としての運営 これが 不可避であるとされる。数学的論理の世界は それじたい独立・完結したもののように見えて まだ自己のみによってその自己の運動を制御・調節することはできないようである。(一切の経済活動において 利潤が無である情況に行き着くか あるいは経済信用の第一人者が 経済的な独裁体制を敷くに到るか しかないと考えられるだろうか。)
- だとすれば もはや人間の意識的な信頼関係のもとでのいわゆる自力の 科学的な管理・運営によっても不可能だとしても そうではあっても 大きくは人間と人間との信頼関係一般が なおその大きな世界を包んでいるとも考えられる。これは 人間社会にとって当然のことなのだろうか。これは 出発点の個人としての無力の有効が――有効だと考えられるからには ひとつの経験現実として――社会的にその余韻を発揮していると言うべきであろうか。おそらく 大雑把には このように見られる情況の中で もともと大きくは人間の知性真実によって自らの出発点を背反し離脱した経済信用主義 これを調整しうるかどうかは ガリ勉資本主義の《ガリ勉》という別種の・仮想の出発点のあり方を そのように捉え どのように調整しうるかにかかっているように思われる。調整しうるかどうかも わからないと言わなければならないかも知れない。
- ただ単純には それは 信頼と信用との先行・後行を逆転させたものであるとは思われる。これを再逆転させうるかどうかにかかるとさえ言ってよいようには思われる。そのほかの場合と問題とは ガリ勉資本主義じたいの中で どうにかその破綻を免れるために施すいくつかの施策にとどまるであろうと思われるから。すなわち 人間が出発点に立ち戻れるか それとも そこから離脱したままのかたちで経済運営をどうにか進めていくかに分かれると言えるかもしれない。
- 信用主義の半ば独立した世界の有力に対して 出発点のわたしたちは 有効だが無力の内に生きている。信用主義を 必ずしもその対抗概念としての人間主義に改めるのではなく 初めの愛と信頼関係のもとに従属させ得て その過程的な解決をはかりつづけて行く以外にないであろう。勤勉資本主義〔としての出発点のあり方〕に変えていくことが 当面の課題であるだろう。もっともそのためには 基本出発点のあり方が やはり先に問われるわけで その限り 人間が変わる を経ての新たな社会形成の問題となっていくものと思われる。考え方の上での先行・後行なわけである。ガリ勉資本主義の状態を一遍に変えることは出来ないであろうから その意味で目標を見出すなら 勤勉資本主義の情況だということになるかもしれない。社会じたいについては 目標・展望をかかげることもありうるかと思われる。
次章に継ぎたい。
(つづく→2005-04-24 - caguirofie050424)