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哲学いろいろ

               ――シンライカンケイ論――

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第二部 シンライカンケイについて         ――風の理論――

2005-04-18 - caguirofie050418よりのつづきです。)

第四十一章 イジメ循環をめぐる《さいごの人》

(O−1)
誰が我々の聞いたことを信じえたか。
主( X )の腕は 彼に現われたか。
彼は主の前に若木のように
乾いた土から出る根のように育った。
彼には我々の見るべき姿がなく威厳もなく
我々の慕うべき美しさもない。
彼はあなどられて人に捨てられ
悲しみの人で 病を知っていた。
また顔をおおって忌み嫌われる者のように
彼は侮られた。我々も彼を尊ばなかった。
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った。
しかるに 我々は思った。
彼は打たれ 神にたたかれ 苦しめられたのだと。
しかし彼は我々の咎のために傷つけられ
我々の不義のために砕かれたのだ。
彼はみづから懲らしめを受けて
我々に平安を与え
その打たれた傷によって
我々は癒されたのだ。
我々はみな羊のように道に迷って
おのおの自分の道に向かって行った。
主は我々すべての者の不義を
彼の上に置かれた。
彼は虐げられ苦しめられたけれども
口を開かなかった。
屠り場に曳かれて行く小羊のように
また毛を切る者の前に黙っている羊のように
口を開かなかった。
・・・
(《旧約聖書〈7〉イザヤ書》53:1−7)

紀元より数百年まえ 国際関係ともからんでイスラエル民族がたどった国内の政治状況 その中でこの《彼》と《我々》とが 当然の如くそれぞれ信仰原理に発して 思想(社会的な生活および行動)上の原則をめぐって対立していたのだと思われる。
じつはその歴史的な情況はよくわからない。ここでは必ずしも問題とはしない。またこの詩形式の文章は 《彼》の活動についてその後の一時点から 彼に対立していた《我々》の側の者が 振り返りつつ 新たな考えを持って述べている。その反省は正直であるし それだけではなく正直自然に則ったというにとどまらず 自らの思想原則の転換を決意し これをも交えて訴えようとしている。ただ そこには 一面においては 後悔の念が先に来ていて その基調の限りでは 思想転換のあとの自らの新しい立ち場のことが 必ずしも明らかにされていないようにも思われる。
それ自身の前章である《イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))》五十二章の十三節から十五節の部分と この五十三章(全十二節)とを合わせて たとえば《主の僕の苦難と死》と題されているところであるが その新しい立ち場に立った主張は その一結論として 次の如くである。

(O−2)
:見よ 我がしもべは栄える。
はるかに高く挙げられ あがめられる。
我々:かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように
――彼(しもべ)の姿は損なわれ 人とは見えず もはや人の子の面影はない――
それほどに 彼は多くの民を驚かせる。
彼を見て 王たちも口を閉ざす。
誰も物語らなかったことを見
一度も聞かなかったことを悟るから。
イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))52:13−15)
〔このあと (O−1)の引用文につづく。〕

この五十二章の三つの節は ヤハウェの預言・予言としてとらえた。また 最後の一行も 《悟ったから》を《悟るから》とした。この部分では 《我がしもべ=彼》はまだ現われていない段階とし 五十三章〔(O−1)〕からはその《彼》が現われた事後的な段階にあると仮りに捉えた。言いかえると 作者は 事後的な段階から遡って 事前の段階〔(O−2)〕を捉え返し これを一つの結論の如く配置したと考えてみた。
この《主の僕の苦難と死》のことが さらに時を下って キリスト・イエスにあてはめられるかどうかを今 別とするならば 要するにいま《我々》を自称する記者は 自らの思想転換の事件を 実際に現われた一人の《彼》についてその彼が《非経験 X(主=ヤハウェ)》につながるというかたちで 説明しようとしている。だとすれば その非対象 X=ここで《主=ヤハウェ》 の言葉にある《我がしもべ》〔(O−2)〕は 詰まるところ 自らのことでなければならず 個人個人として《我々》やすべての人びとのことでなければならない。主( X )が語る《彼=我がしもべ》は 信仰原理ないし思想原則において 結局のところ それを記した記者本人であると捉えるべきである。その《記者》は わたしたちの一人ひとりであると捉えられるという一つの――飛躍した――議論をしようとしている。

  • 歌としては キリスト・イエスの出現において そうなったと言えるかもしれない。つまり 信仰原理としての一形態の問題である。

このような留保条件もしくは事情の読みが (O−1)の文章にはある。そのような留保条件があるけれども この文章(O−1)を わたしは アダルト・チャイルド・シンドロームという病に罹ったと言われる先の(第三十九章での)晴美さん以外の人びとに 献げたいと思う。イジメの連関とそれが循環しつつ均衡を保つとも言う社会の中にも いわば最後の人がいると思われる。その人だけは イジメラレ役ではあっても 自らはもはや誰に対してもイジメ役に回らないというそんな存在がいるはずである。その存在は いわば非経験 Xの腕であると表現しても それは 突飛でも 不合理なほど神秘的でもないであろう。その腕は 《乾いた土の中にも 根を張る》というのは 稀なことではあるが そうだとしても すでにここに取り上げた晴美さんは それを生きている。そしてその限りで彼女は いまのイザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))の一節を必要としない。
そう言った上では 彼女以外の人びとも このイザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))の一節から自由になって欲しいと思う。
ちなみに 今村仁司氏に《第三項排除》の議論がある*1
すなわちいまの引用文(O−1・2)に直接かかわるような《いけにえの小羊》の議論 これは 人間社会では好悪原則のイジメ連関がなくならないであろうということを まず明らかにしたものである。そして 一方で《晴美さん》に対しては むしろわたしと同じように《わたしのように強くなりなさい》(または 《人は弱い時にこそ強い》)と言おうとしている。とともに他方ではむしろ 組織集団ないし社会関係一般の宗教を 批判的に問題としている。そこでは したがって 信仰は――つまり 今村氏の言葉では 《ユートピア的契機 / 異者受容の論理》として表現されている この意味での信仰は―― また明らかに 自らのもとに保持されており 話が別だと言っていると考えられる。
今村氏がこの宗教を問題にするその仕方は こうである。
《排除された第三項》すなわち《イジメ連関における最後の存在》を 実際に拒否し排除し しかもその上で・そのあとで あたかも真理 Xの如く神聖なものとして認め直し こぞって彼(彼女)を自らの頭の上に戴くということ これは じつはイジメ連関なる第三項排除を自己正当化しようとし それによる社会の均衡と秩序とをあらためて強化するため ただそのことに開き直ったにすぎない。従って――今村氏の当然の主張は―― この社会的にして歴史的な 永遠に続くかに見える悪循環を断とう と言うためである。
ちなみに いまこのように主張することは――すなわち アダルト・チャイルド症候群なりイジメ循環なりまた第三項排除なりにかんして その解決を いまのような考えと表現で主張することは―― 人間やその社会にとって実際上は 無力である。そして無力ではあるが 原理上 有効である。と考えている。のちに引き継ごう。
今村氏の言説にかんしてもう一点 それは 新しい著書《貨幣とは何だろうか (ちくま新書)》(1994・9)で 人間関係にとっての《媒介形式の必要性・不可欠性》を説いていることである。人間が人間という自然であって その好悪自然の原則を消滅させないものである限り イジメラレ役たる第三項の形成とその排除もなくならず 従ってそこにこの第三項としての媒介形式が伴なわれてくると考えられる時 そうだとしても その第三項をたとえば晴美さんなりあるいは仮りにイエス・キリストなりの人間の中にとらえ それを媒介形式として仕立てあげるのではなく そうではなく つまり人間を持って来ずに 貨幣なり言語表現なりそういった意味と形態での媒介形式を あたかも信頼原則の中においての如く自覚的に 保持し活用していくのが 一つの筋道であるだろうと説く。
かんたんには 岩井克人氏らが コミュニケーション論において 《絶対他者なる神》というよりはむしろ《言語》に この媒介形式を見ようとするようにである。
今村氏も 《媒介形式の超越論性(非経験 Xであること )》(p.202)と言ったりする。これは 信頼原則ないし思想原則一般〔さえも〕が ある種 超越論的に信仰原理にかかわっているということと呼応する。要は そこで この信仰原理が 経験的な思想原則に先行していることにあり 《信頼原則》は――無神論としても有神論としても その信仰にもとづき―― 自らの主観真実の限りで 自らがそうであるところの思想原則を 信仰原理ないし非経験 Xにつなげているということである。開いているということである。
これは 自由である。自由なのであるが 非経験 Xとのかかわりを言わなければならない以上 それは 経験領域で一般に《無力》である。言いかえると 想定された信仰原理――その普遍性――にかかわる限りで 自らの主観真実において 《有効》であると言うしかない。
社会的な人間にとっての信頼関係は 従って具体的な個人にとっての一定の思想原則は この《無力の有効》という存在関係のあり方をめぐって さらに追究されていく。その媒介形式は とくに現実生活においては 《貨幣(貨幣形式)》であるかも知れない。一般的には 《言語表現》であるだろう。要するにこれまでも述べてきたように 個人個人の意思表示 それにもとづく話し合いということになる。
貨幣の問題 つまり経済活動を基礎とした社会生活における人間関係としての表現の問題 これは 力あるならば のちに延ばそう。
この章ではあと 一般的な表現の問題にかんして 軽い議論をしておきたい。
まず 上のイザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))の一節(O−1)を 乱暴に別様に訳してみておきたい。愛嬌ととって欲しい。

(O−3)
誰が信じたか 我々の耳に届いたことを
誰に現わされたか ヤハウェの腕は
   けれども彼はヤハウェの前に
若芽のように伸びた
水のない土に自らを張る根のように
彼には形がない
飾りもないのに我々は彼を見ている
見えてもいないのに我々は彼を慕っている

蔑むべきであって 人びとの忌み嫌う者
痛みの人であって 病いと知られる
我々が顔を覆う時のように さげすまれており
我々は彼のことを思わなかった
   けれども我々の病いは彼が担った
われわれの苦しみは彼が担いだ

我々は彼のことをこう思った
神に打たれ 傷つけられ 懲らしめられていると
   そして彼は我々の咎によって身を刺し貫かれ
我々の過ちによって砕かれた

その懲らしめは 我々の健やかさであって
彼の上にある
彼の傷の上にあって それは我々の救いである
   ただ我々は皆 羊のように道に迷い
一人ひとりおのが道に突き進んだ
ヤハウェは彼の中に我々の過ちを見させた
彼は虐げられ 苦しめられたが
口を開かなかったから
屠り場に牽かれていく小羊のように
毛を切る者の前に黙っている羊のように
口を開かなかった
・・・
イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))53:1−7=(O−1)〕

けれども さらにご愛嬌として この同じ文章を 好悪原則の立ち場から読むと こうなる。《第三項排除》主義の主張である。

(O−4)
誰が信じたというのか この我々の聞いたことを
誰の上に現われたというのか ヤハウェの腕が
彼はヤハウェの前で若芽のように伸びたなどということを
それはまるで水のない土の中の根のようではないか
彼には形などない
飾りもないのに我々は彼を見たというのか
見えてもいないのに我々は彼を慕うのか
蔑むべきである 人びとの忌み嫌う者である
痛みの人である 病気と知られる
我々は顔をおおうべく蔑むべきものを
我々は彼のことなど気にかけていない
まったく我らの病いを彼は運んでいる
我らの苦しみを彼は身に帯びている
我らが思うには
彼は神に打たれ傷つけられ懲らしめを受けているにすぎぬ
彼は我々にもある咎のために身を刺し貫かれ
我々にもある過ちのために砕かれたと言っても
その懲らしめは 我々の健やかさであって
彼の上にある
彼の傷の上にあって それは我々の救いである
我々は皆羊のように道を迷うにしても
一人ひとりおのが道に向かってすすむ
ヤハウェこそが彼の中に我々の過ちを捉えさせた
彼は虐げられ 苦しめられたが
口を開かなかったではないか
・・・
(O−1/3)と同じ箇所)

このような――(O−3)と(O−4)との両文章の――対照は 広く表現の問題であると思う。表現の問題であると言った上で それらの思想原則を(または それらを思想原則として) 互いに理解しあい と同時に互いに批判しあっていける。交通整理しなければならないこととしては 信仰 X−Z(ほとんど 議論不可能)とその説明表現 〈X−Z〉−Z(ある程度 議論可能)と そして経験的な思想(Y−Z / 〈Y−Z〉−Z)ないしその各自の原則 これらの間の区別である。一般に基本的に さいごの思想にかんしてわたしたちは 話し合いを進めていく。ちなみに さらに念のため注意すべきこととしては 思想原則それぞれの間に解けない対立があり それは 信仰原理の違いにまで遡るというときには どう考えるべきかである。
一つには その信仰説明 〈X−Z〉−Zを互いに明らかにして これについて自由に議論しあっていくことができる。とくに 擬制的な信仰 pseudoX−Zにかんしては 論外とすることができるであろう。それでも 自由(自由原理)ないし生命原理に就かねばならない場合がある。つねに ある。話し合う姿勢を崩すわけに行かない場合がある。待つしかない。話し合いの席に就きつつ 話し合いの用意をつねに持ちつつ 待つ。はっきりしていることは たとえ自らが《第三項》であるといっても 社会の中の《第一項や第二項》の人びとを 拒否し排除することはできない。その意味では 思想原則の表現内容の如何もさることながら その表現の場を成立させることも・つまりその表現の関係過程じたいを維持していくことも 重要な問題だと思われる。
わたしたちはようやく 常識の一端にたどり着いたようである。

第四十二章 いけにえ(イジメ・排除)の問題にも触れて

(1994・11・26)
前章の引用文(O−3)につづくイザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14))53章8−12節を読んでおきたいと思う。

(P−3)
彼は捕らえられ裁かれ去らせられた
彼はどうなったか 誰の知ったことなのか
   彼はこの人の世から去らせられた
我が民の咎のゆえにその民のために打たれて


彼の墓は悪しき者たちの横に設けられ
その塚は金持ちたちの間におかれた
   彼のおこなった暴虐の無のゆえに
彼の口の偽りの無のゆえに


ヤハウェが彼を病いに陥らせて
――ヤハウェよ もしあなたが
彼の魂をいけにえに献げさせたのなら
彼はその子孫を見るであろう
彼はその日々を永くするであろう
ヤハウェの意志は彼の手の中に生きる
彼は自らの魂のおこないの中に見て 満たされる
 
――我がしもべ(《彼》)はその知るところによって
多くの人びとに対して 正しさを正しさとするであろう
彼らの過ちは彼が負った
私(ヤハウェ)はだから 彼が
多くの人びとと共に 物を分かち取るようにさせ
力強き者たちと共に 獲物を分かち取るようにさせた
彼は自らの魂を死に至るまで剥ぎ尽くしたのだから
過つ人びとの間に数えられる
彼は多くの人びとの罪を負い
過つ人びとのために とりなしをした
イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14)) 53:8−12)

後半に 記者(第二イザヤと呼ばれる)とヤハウェとの問答が出てくるが 特にその部分など わたしにはよく分からない。何が言われているのか 理解を超えているところである。ちなみに 日本聖書協会訳では こうなっている。必ずしも問答の形になっていない。

(P−1)
彼が自分を とがの供え物となすとき
その子孫を見ることができ
その命をながくすることができる。
かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
義なるわがしもべはその知識によって
多くの人を義とし また彼らの不義を負う。
それゆえ わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで 自分の魂をそそぎだし
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い
とがある者のためにとりなしをした。
イザヤ書 (新聖書講解シリーズ (旧約 14)) 53:10−12)

ひとつ言えることは こうである。人がこの《彼》のことを 聖なる者と見なすことは 人間の論法で 自由であろうが 《第三項排除》論の説いて批判する内容そのものとしてのように ただこの世の者ではない者として我々のために犠牲になったのだと唱えるのは 思想としても信仰としても まちがいであろう。《彼はとがある者と共に数えられた》(53:12)と言っているのだから。または パウロの表現では 《キリストは わたしたちのために呪われた者となって わたしたちを律法の呪いからあがない出してくださいました――〈木(=十字架)に懸けられた者は皆のろわれている〉(申命記 21:23)と聖書に書いてあるのです》(ガラテア人への手紙 3:13)というのだから。旧約聖書での《彼》が新約での《キリスト・イエス》のことを述べていると解した上でに限るわけだが。
すなわち 犠牲なる《排除された第三項》としてただ去っていったとして そこにおのが信仰をとらえるのは 非経験・非対象 Xの内容に 自分の経験思考によって 概念や理念(《身代わりの小羊》やその《聖性》など)を立てていることだと思われる。それは 信仰 X−Zではない。一つの信仰説明 〈X−Z〉−Zではあるとしても そのこと――たとえば 《贖い主》なる概念〔での説明表現〕――をわたしちは信じるのではないと言うことができるから。
《我々の罪のとりなしと贖いとをおこなった〈彼〉のことを 思考によっても理解した》ゆえ その主観真実(一般的に X−Y−Z)の内容によって 《信仰 X−Z》が生起したとは 言えない。つまり その主観真実 X−Y−Zないし信仰 X−Zによって 《非経験=真理 X》が存在するようになったと言えないことは 明らかである。《彼》の受け容れと理解としての主観真実(X−Y−Z)は その彼が《ヤハウェ( X )の腕》であるとする説明にかかわって その点にのみ 微妙に 肯定されうべき内容がある。そして いけにえとしての第三項は イジメの社会的な循環として経験上のことがらであるだろうし また同じくいけにえとしての《彼》は 一人の実在の人物としてやはり経験上の存在なのであるから 上に捉えられた肯定されるべき信仰原理に立つなら その主観真実ないし思想原則では わたしたち一人ひとりが その《彼》ないし彼女であるのでなければならない。それが 普遍的な原理としての信仰 X−Zなのだから。イジメ循環の社会関係の中で 自らがどこに位置し そのイジメ‐イジメラレの程度はどのようであるか これはいま 別問題とすることができる。
要は 経験的な第三項たるいけにえをそのまま 贖い主なる概念のもとに捉え さらにこれをそのまま 非経験 Xとすることはできない。つまり 信仰 X−Zそのものとしては 無理である。《彼》についての反省とそして聖化とは それだけなら 単なる一つの思想であるにすぎない。しかもその思想は いけにえを生み出す第三項排除ないしイジメ循環に対して 経験思想として反省するに過ぎず むしろ反省のほかに逆に その神聖視された《彼》を自らに覆いかぶせることによって 実際のイジメ循環なる社会関係を正当化しようとしている。もはや禊は終わったと言って うそぶくことになる。そのような社会慣習としての宗教が実際には大きな力を持っている。これは信仰ではありえない。むしろ好悪原則の正直自然に立って 《いけにえとされるほど〈彼〉が 懲らしめられたのは 我々の健やかさである》〔(O−4)〕と言っているほうが まだ より少なく陰険である。禊は終わったと見ているところは 両者に共通であろうが。
わたしたちはここに立って――世間の中にあって―― 《無力の有効》の道を歩んで行かなければならない。
(つづく→2005-04-20 - caguirofie050420)

*1:今村仁司の《第三項排除》論についてはわたしは 次で論じている。→[えんけいりぢおん](第二十一章−排除された第三項) - caguirofie041206.その目次→2004-11-28 - caguirofie041128.また 今村仁司排除の構造―力の一般経済序説