caguirofie

哲学いろいろ

#7

――今村仁司論ノート――
もくじ→2006-01-31 - caguirofie060131

Ⅳ つづき

――供犠における犠牲身体という第三項について――

§16

供犠(サクリフィス)の問題は まさに信仰が直接にもかかわっている事柄として 提出されています。自由意志・愛の以前にであり かつ 供犠は そもそも儀礼として 社会的な文脈に根ざしているものであるから やはりそれとして愛(非対象化労働)にかかわる問題であるのでしょう。結論として 供犠は 信仰・愛とは 別ものであると 証明したいと思います。

§17

たとえば

サクリフィスのなかに《私(ラカン)が隠れたる神とよぶこの他者 Autre の欲望(純粋欲望)の現前の証拠を見出す》ことができる。
今村仁司:隠れたフェティシズム 岩波講座 宗教と科学〈5〉宗教と社会科学p.166)

とまず説き起こされている。この一文だけについても じつは 批判することができる。《享受不可能》な欲望の充足が すなわち少なくともその純粋欲望じたいが 《現前》し  人はその《証拠を見出す》というのは わたしたちの想定の限りでは 無理であるでしょう。

  • いくら犠牲は その神のためなのだからと言っても ただちに 経験思考そのままに 純粋欲望とこの世の経験欲望とをつなげることは 証拠に乏しい議論となります。
  • 聖書のなかに サクリフィスが神のしわざであるとして 書かれているといっても それは 無力の有効としての信仰領域における議論にとどまるべきなのです。とどまらなければいけないのです。人間のことばで・経験思考のことばとして 書かれているというのが 実態です。神のことばである啓示そのものだという議論は どこまでも 信仰の内面領域での問題です。 

ただ わたしたちも 享受不可能ながら 無力のうちに有効だと想定し そのことは その享受が ある種の予感としてもたれるのではないかと言っています(§13)。それゆえ 愛が ある種の統括者であるのだと。信仰の領域で・つまり 一切の考える経験を超えて ある種の精神・理性的な予感として 純粋欠如の欲望(はたらき)を 受容したと信じられることがあるというふうに 初めの想定を展開した。
図式的に結論を述べるなら それは 供犠という経験領域のなかに ではないだろうと考えられる。もし仮りに それは供犠の犠牲身体そのものの中にではなく それらの儀礼をとおして 非経験の純粋欠如からの欲望がはたらくのを人は自己の内に捉えるのだと反論されるならば 次のように答えることになる。経験領域のあらゆることがらを通して 愛=非対象化労働は 持続過程としてはたらいているのだから 供犠に触れるという一つの経験も 例外ではないと言うのみであると。
信仰主体の出発点は 愛の持続過程としてあり この愛は 社会経験の領域へ踏み出すかの姿勢にある。供犠を 有効または妥当だと認めるか否かにかかわらず その供犠の経験に対しても 踏み出そうとする位置にあるのだから そのとき 時に この非対象化労働がはたらくことは ありうると言わなければならない。けれども このことは 《サクリフィスのなかに》この愛の原因である純粋欲望が 《現前の証拠を見出》させているのでは 決してないだろう。《サクリフィスの中に》ではありえない。

§18

いまの議論は 次のように展開されていく。

オブジェ・ア objet a 〔非経験の《排除された第三項》〕は 主体の外部にある他者 Autre の欲望がつくりだす。それこそがサクリフィスにおけるヴィクチム〔犠牲〕の身体である。ヴィクチムは《他者=神》から人間(サクリフィスの執行者)に《到来》し また《他者=神》に《戻る》。人間の欲望のなかで大文字の他者に返さなくてはならない。それが オブジェ・エクスチムであり第三項であり つまりはヴィクチム〔の身体〕である。
(《隠れたフェティシズム岩波講座 宗教と科学〈5〉宗教と社会科学pp.168−169)

信仰の基本原則に照らして かなりの混乱があると見ざるを得ない。しかも ここでの課題は 《基本原則に照らす》ことが はたして有効なのか・妥当であるのか という内容にかかわっている。引きつづいて もう少し説明を あわせて聞くことにしよう。念のために言っておけば 今村理論じたいは この供犠 / 犠牲論そのものに自らの根拠を求めているのではなく むしろその反対なのである。

しかし人間(ヴィクチムを殺害するサクリフィス執行者のすべて つまりは社会的人間)は 欲望の分割をみとめないので 自分の欲望が由来する《純粋欠如》を否認し 彼にサクリフィスの命令を下す《掟》をそれぞれの具体的神に転移させる。《取り違え quid pro quo 》があるとすれば それは自分の欲望の原因の《取り違え》である。《宗教者は 原因の責任を神に委ねるが 彼はそこで真理への接近を切断する。したがって彼は 自分の欲望の原因を神に置き換える。これが本来の意味でサクリフィスである》〔これはラカンの文章〕。
(同上・承前)

これらの文章だけでは 文脈が明らかではないし 供犠の問題と第三項排除のそれとの関連も 必ずしもはっきりしない。けれどもここでは これらの引用文に限って 見ていこうと思う。議論は成り立つと思われる。
この供犠論は なるほど純粋欠如やそこから到来する純粋欲望に・そして信仰なり自由意志なりあるいは愛にかかわって 論じられているけれども まったく別の問題であると まず初めに結論づけることができる。
ここでは すべて 《人間が 欲望の分割(――すなわち 純粋欲望と経験欲望との分割――)をみとめない》という前提での話であることが 一つの理由である。もっとも このことは 純粋欲望(またその想定)を認めないという立ち場をも 信仰の基本原則のなかに含むとした(§5)のであるから その意味で まだ説明の必要が残る。これをあとに回すなら もう一つの理由として 供犠における犠牲身体が 非経験と経験との二つの領域にわたって 無造作に 捉えられ かつ それらが同一のものと見なしてよいという前提で語られている。
二つの理由内容は互いにそれほど違わないけれど 第二の理由の内容について先に論じていこう。逆の言い方によれば 一方で経験領域における動物や人間として犠牲とされるその経験存在物そのものが 犠牲身体であると同時に 他方で 《純粋欠如から到来する純粋欲望》つまり非経験ないし非物体も そのまま 犠牲身体であると 見なされ語られているからである。つまり 議論じたいとして 考える(経験犠牲)と信じる(あたかも非経験としての犠牲身体)とが 同一視されている。
つまり元に戻って 考察の対象としてとり上げられた例じたいが 人間の両種の欲望の分割を認めない立ち場だけのものである。これはそのまま 理由の第一点の吟味へとみちびくが なおその前に この第二点について もっとかんたんに議論しようと思えば

オブジェ・アは 主体の外部にある他者 Autre の欲望がつくりだす。

という一文に注目することができる・オブジェ・アは――隠れたる神=その限りでの《排除された第三項》であり そのときそのまま――大文字の他者のことであったはずだ。この想定を前提にしている。もしそうでなく・または それをさらに展開するかのように 上の一文のごとくにも 解されるとするならば それは 《他者が他者みづからをつくりだす》と言っているのであるから これは じっさいには 《主体の外部にある》この大文字の他者が 主体の内部で〔ではあるが〕――考えるを通して・かつ考えるじたいの問題として――そのように 観念的につくりあげられたことを意味する。
または そのような自同律のような内容(《他者が他者みづからをつくりだす》)を 主体が《考える》の領域で 観念的に確認しようとしたことを その内容とする。そしてこれは 信じるの領域が 考えるによって 侵犯されたことである。《それ(オブジェ・ア)こそが サクリフィスにおけるヴィクチムの身体である》とつづけられるのだから。
さもなければ さらに《ヴィクチムは〈他者=神〉から来て人間に到来し また〈他者=神〉に戻る》というのであるから これは 《他者=神》が 単に《ヴィクチム》という別の表現で言い換えられたにすぎないことになる。後者であれば その表現の妥当性を別として 特別あたらしいことがらではないし 前者であれば そもそも初めの前提を わけもなく崩していることになる。
純粋欲望が 純粋受容されるのではなく 考えるによって認識され そこでそのように受容され 従って初めから考えるの領域に移されてしまっており そうしてあたかも非経験の欲望(つまり信仰)の対象と見なされていくことになっている。従って この限りで ここで 《第三項》を 経験・非経験の両領域に通底するものとして 捉えてよいとは 言えないのである。供犠における犠牲身体が 通約する者として《第三項》だとされているとき これは それがあるとすれば あくまで思考(考える)の問題なのである。思考によって信仰じたいも作り出されている。

  • 経験的な犠牲身体が 第三項だというのは 次の事情のもとにある。
  • 供犠において 社会のすべての人びとから排除され かつそのことによって すべての人びとの間に通約されるという《聖性》であるとか また 愛の問題としては《共同体としての連帯性》であるとか これらを身に帯びるものと見なされるようになったところで 犠牲がつくりだされ完成されるということ。しかもそのことによって あたかも 《内なる外》が各自に 有効に はたらくことを目的とすると考えられており これがもし 無意識のうちに 人びとの間で起こるのだとすれば 信仰の領域に通じているという一つの議論である。
  • 構制が あたかもそのように《非対象化労働》として論理的に共通であるとすれば おそらくそれは 純粋欲望の擬制なのであろう。擬制形態は まさしく形態であって 経験思考が明らかにそこには介在している。それを―つまり 犠牲の宗教とよぶべきものを―― たとえ無効であるとは言えないとしても 妥当性の問題領域にすぎないのだから それを 信仰領域と同一だとすることは 無効である。

いま述べた一結論は 保留しておいた理由の第一点にかかわってくる。経験・非経験の両領域を――犠牲身体をとおして・またはそれに仮託して―― 同一視するという立ち場は 初めの想定内容に対する明らかな違反であるが しかも大きく信仰の基本原則のもとでは その違反ということも 自由に起こりうるとしなければならなかったことと関連する。
すなわちいまの問題は 人が欲望を 純粋欲望と経験欲望との二つに分割するという想定をみとめない場合であり そういう自由意志の決断としての一種の信仰の形態についても 議論しておかなければならない。
だが これは 実際には 問題がまったく別なのである。
信仰の形態には 純粋欲望やまたその想定をみとめないという場合をも含むという前提内容を言うだけで済む。つまりその場合にも 純粋欲望やその受容を否認することがあっても それも 信仰という人間内面の出発点における別種のあり方だというのみである。
詭弁を使って再反論しているように聞えるのかも知れないが いまの問題は実際には 二段階の操作(意志決定)が からんでいる。第一段階として 信仰の思考との両領域を区別するという想定があり その上で第二段階として 純粋欲望と経験欲望との分割をみとめないという一種の信仰形態があるというのが 実態だからである。もし この第一段階をも認めないというなら それは いまの議論じたいを 初めから 開かないというにすぎない。
もちろんそのことも自由であるが そうなった場合は 話がまったく別となるからである。
つまり 第一段階の想定(信仰と思考との区分)をみとめるという前提で 議論が進められてきたのなら それは 純粋欲望と経験欲望との分割は そのまま認めたということでなければ 話はつづかない。
したがってこれに対しては 初めの想定(信仰の基本原則)に立って 議論をひととおりの最後まで聞いてもらって その全体について 反論していただくという以外にないと思われる。

  • このような議論を初めから拒絶するという立ち場のばあいには 経験領域における具体的な思考形態そのものにかんして あくまで経験妥当性の範囲内で 議論を交わしていくということになります。そしてそのような社会交通の領域へと舞台が移るということも じっさいいには いまの信仰領域を想定するという立ち場の中に 含まれることになるでしょう。
  • 信仰・自由意志・その主体といった想定事項をもはや何ら扱わずに またそのような出発点からの踏み出しに大いにかかわる愛=非対象化労働といった前提事項さえ もはや背景にしりぞき 社会経験における直接の議論内容は すべて 妥当性の原則にまかせるという新しい局面としての舞台であるからです(§10・§11)。無力の有効なる持続過程としての基本原則とそして妥当性の原則とは 同じ一つのことがらであると考えます。

従って あらためて述べるなら 初めの説き起こしの一文(§17)じたいが まちがっている。すなわち もし言うとするなら 《隠れたる神とよぶ他者 Autre の欲望が 純粋欲望として われわれの内面において 考えるの以前に 不可能な享受として現前している〔と想定する〕》というのが わたしたちの前提であって これに対して この《内面=信仰領域における現前》の《証拠》を 経験領域でおこなわれる《サクリフィスのなかに見出す》というのは 明らかに 矛盾する。その違反は 認められない。純粋欲望の充足たる享受は 不可能だというのだから。

  • ラカンは 《宗教者》におけるこのような違反の例を扱っているらしい。

おそらく わづかに すでに触れたように 《考える》を介在させるならば 《第三項》は あたかも信仰領域と思考領域とに共通に同じような構制として 成り立っているかに見えるということだと思われる。あたかも いまの供犠における犠牲身体が 一方で 純粋欲望にかかわる純粋欠如(すなわち その意味での 排除された第三項)としても また他方で 経験欲望にかかわる社会的な第三の排除項としても それぞれ捉えられる。犠牲身体としての後者の第三項排除効果は 思考としての内面において あたかも《内なる外》という構制を帯びるようになると――だからそれは 信仰内面における純粋欲望の擬制だと考えられるが しかもそこで 純粋欠如なる対象の 経験物体的な代理が認識され 受容されると言ってのように―― 共同体におけるアソシアシオンとしての愛の如くして そこにあたかも 非対象化労働の信仰が 現前しているということになる。これは 錯誤だと思われる。
しかも なお 厄介なのは 次のような事情が 可能性として からむからである。もし仮りに 経験領域の或る種の対象化労働として 犠牲をささげる供犠がおこなわれているとする場合 しかも そこでも 愛=非対象化労働は この供犠の経験労働に対して ある種の統括者となって みづからをあhたらかせていることは ありうるという事情のことである。
それは 否定の立ち場であるはずだが ここで言えることは 供犠によって あるいは犠牲身体によって 純粋欲望の予感的な享受が可能となるのではなく――つまり 不可能な享受=すなわち無力の有効を 仮りにそのように言いかえたとしても しかも そうなるのではなく―― 内面出発縁において・愛をとおして またそのようにしてのみ その可能性が成立するにすぎないということである。これは 初めの想定内容の確認にすぎない。そのような《犠牲信仰》が有効であった時代があるとしても 今では古いものであり・つまり その有効性は大いに疑問だとしなければならず 実際には 仮りの話としても成り立たないとすべきであろう。つまりたかだか 反面教師となるだけである。
今村理論は この信仰の擬制としての 犠牲宗教が 一般に《第三項排除効果》として 事実問題に限るなら 歴史を通じて現代にも 実効性を持って社会経験の上で 有力となっていると捉えるところにある。これを克服していこうと言っているのではある。
したがって 供犠論は わたしたちのここでの議論に入らない。犠牲論は それを信仰領域とからめる限りで 信仰の基本原則にも愛の応用原則にも 基本的に かかわらない。経験思考の領域と範囲に限るとするなら それは 妥当性の原則で 議論の対象となる一主題である。そのような主題については これを 次章で扱いたいと思う。それは じっさいには 大まかに言って 近代という時代以降では 供犠論が 貨幣論となって わたしたちの前にあると捉えられているそのことである。《第三項》が 犠牲身体から 近代貨幣ないし資本に移り変わったという議論になる。

§19

この章で あと一つだけ論点を取り上げておきたい。
ラカンからの引用文について次のように考えておくことができる。

宗教者は 〔欲望の〕原因の責任を神に委ねるが 彼はそこで真理への接近を切断する。したがって 彼は自分の欲望の原因を神〔これはむしろ 考えるによる認識の内なる具体的な神〕に置き換える。これが 本来の意味でのサクリフィスである。

ここでの《神》は あkぅまで考えるによって認識した観念としての具体的な神だとしか考えられない。(つまり ラカンもその主旨で述べているようである。)そうでなければ 原因を置き換える以前に・原因の責任を委ねる以前に 初めから 欲望の原因としての対象として この神を――無力の有効のうちに――享受している。
《人は 純粋欲望の原因を・ということは要するに ほとんど存在の原因を 純粋欠如としての神に委ねる と想定する》というのが わたしたちの前提であった。これを 経験領域に引き寄せ すべて考えるの対象として扱ったならば そしてそのような場合として上の文章を読むならば おそらく それはそれとして・つまり別様に そのとおりなのであろう。しかも 最後の一文・《これが本来の意味でのサクリフィスである》のかどうか それは よくわからない。
たとえそうであっても それだけで済ましておくわけには いかない。たとえ《サクリフィス》でもあるとしても その内容をきちんと捉えておかなければならない。それは 宗教の生産とも言うべき対象化労働じたいの問題(そのような経験欲望の問題)になっているのえあるから しかもそれを 非対象化労働のこととして 扱う(つまり取り違えている)に至っているのであるから はっきり 愛の無効だと言っておかなければならない。愛・自由意志を損傷させてもいるのだから 《サクリフィス》なのかもわからないが あまりそのようには この犠牲ということばは 使われない。
一片の文章表現だけからは 最終的な判断をくだすことはできないが 要するに いまの問題は 信仰を導入すると 信仰ではないもの・信仰の領域ではないことを 明らかにすることができる。

  • ラカンは いわゆる宗教としての信仰一般を 上の文章などで 批判しているのだが その批判の根拠を ここで 明らかにすることは 控えよう。精神分析の問題が複雑にからんで長くなるからである。
  • ただし 基本的に同じ大前提に立っていると言えるかも知れない。

逆に言いかえると 一例として 信仰ではないものを 明らかにすることができたなら そのことによって 初めから述べてきているところの・妥当かつ有効な信仰領域というものが想定できるというわたしたちの議論は まだ持ちこたえることができそうである。
なお ここでひとこと触れるなら この有効と想定される信仰の対象である純粋欠如ないし隠れたる神のことを もはや《排除された第三項》という概念は 信仰領域には ほとんど必要ないと考えられる。表現の問題で争わないとすれば 非経験ということじたいが 第三項だとは考えられるということである。言いかえると その純粋欠如は 誰が排除したなどということに まったく関係なく 初めから《排除された》領域である。
経験領域における《第三項》について 次には 考えよう。貨幣・価値論における《第三項》という分析視角についてである。
つづく→2006-02-07 - caguirofie060207