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哲学いろいろ

もくじ
1  汝は しあわせなるや。
2  《同感》の人は しあわせなるや。
3  《同感》は一貫しているが 《しあわせ》は曖昧である。
4  《同感》の適宜性(もしくは 有効性)――以上:2005-03-11 - caguirofie050311
5  人びとは分業という事態にやはり事後的にでも同感しあったのではないか。
6  けっきょくはどこまでも同感行為の問題である。
7  中間のまとめ――以上:2005-03-12 - caguirofie050312
8  《分業人=経済人》としての欺き・欺かれとしての傷・・・。
9  同感は よわい人の側から・・・。――以上:2005-03-16 - caguirofie050316
10 むすび――同感の人と しあわせの人:本日

10 むすび――同感の人と しあわせの人

スミスは 明確に《重商主義(mercantile system)》を批判している。この主義が 経済学としての同感のひとつの理論になっていたわけである。

輸出の奨励と輸入の阻止とは 各国を富裕ならしめようとする重商主義政策の二つの代表的な手段であるが ある特殊な商品については 重商主義は これとは反対の政策をとっているようである。つまり逆に輸出を阻止し 輸入を奨励するのがそれである。だが こうした政策手段の差異はあっても 究極の目的は 依然として同一である。すなわち 貿易差額balance of tradeを 有利にして国を富ませるにある と重商主義は主張する。
国富論 (1) (中公文庫)4・8)

ここで 《重商主義》は 明らかに 《おのおのが同感の主体である仲間のあいだで そのような仲間のひとりであるという想像(帰属感と集団意識)によって その想像裡において 〈同感行為〉は実践することができるのだ》というひとつの一般的な同感理論にもとづいている。《貿易差額を有利にして富ませた国》であれば また その共同想像によるイマージュとしての鏡の国の中にあれば 人びとは幸福だと 主張している。
そして同じく スミスはここで この主張に真っ向から立ち向かっている。重商主義なるひとつの経済同感論を 弾劾している。

消費こそはいっさいの生産にとっても唯一の目標であり かつ目的である。したがって 生産者の利益は それが消費者の利益を促進するのに必要なかぎりにおいて配慮されるべきものである。この命題は まことに自明の理であって

  • 《消費》ということは 《仲間のあいだで同感の主体として存在するその生活一般》を 経済的な側面に注目して 言いかえたものにすぎないとすれば むしろ自明の理である。

とりたてて証明しようとすることさえおかしいほどである。ところが 重商主義の政策においては 消費者の利益は 終始一貫 生産者の利益の犠牲に供されており 消費ではなく生産こそ いっさいの工業や商業の究極の目標であり かつ目的である と考えられているように思われる。
およそわが国の生産物または製造品と競争しうる いっさいの外国商品の輸入にたいする さまざまな制限で明らかなごとく 国内消費者の利益は 明らかにわが生産者の利益のために犠牲に供されている。この独占によって つねに引き起こされる価格の騰貴をおしつけられているのは国内の消費者なのであり それは ひとえに生産者の利益のためでなのである。
国富論 (1) (中公文庫)同上)

これは 経済同感論の基本のように思われる。この あやまったものと思われる重商主義なる共同想像の鏡の国としての政策を批判するスミスの議論を 世界が 継承してきているし さらに実現させていこうと努めている。
新興の産業資本が 重商主義者に代わって それとしての同感理論を実現させていったにせよ あるいは 再び・三たびのごとく あたらしい重商主義が あらたな一部の同感を得て台頭したにせよどうであるにせよ けっきょくスミスの言いたかったことは このような国富論の実行される同感の舞台において 《幸福な人よ 出でよ》ということではないであろうか。重商主義で固めた同感理論にかんして 結局のところ だれもが 同じ穴の狢ではないのかと問うならば 皆が 多かれ少なかれそのように手を染めていると考えられる。にもかかわらず 欺かれても 幸福な人は しあわせである。とするならば このしあわせの人種に向かって 語ろうとしたのではないかと考えられる。 
(おわり)