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哲学いろいろ

もくじ
1  汝は しあわせなるや。
2  《同感》の人は しあわせなるや。
3  《同感》は一貫しているが 《しあわせ》は曖昧である。
4  《同感》の適宜性(もしくは 有効性)――以上:2005-03-11 - caguirofie050311
5  人びとは分業という事態にやはり事後的にでも同感しあったのではないか。
6  けっきょくはどこまでも同感行為の問題である。
7  中間のまとめ――以上:2005-03-12 - caguirofie050312
8   《分業人=経済人》としての欺き・欺かれとしての傷・・・。
9  同感は よわい人の側から・・・。――以上:本日
10 むすび――同感の人と しあわせの人:2005-03-17 - caguirofie050317

8 《分業人=経済人》としての欺き・欺かれとしての傷・・・。

道徳感情論の第七部(初版の第六部)・その《第四編 さまざまな著者たちが 道徳性の実際的な諸規則を とりあつかってきたそのやり方について》におけるかれの議論を とりあげたい。
これまでの議論とのかねあいで ひとつのこれからの段取りは 次のように考える。

《d》 (ローマ小文字は スミスの 同感一般の問題にかんする命題をあらわす)
判断力一般は 理性のことであるが その基本となるもの したがって 判断行為の内容をも基本的に成り立たせるもの すなわち これら二点を合わせて 《同感行為の原理》と言っていたが 別の言い方で 《正義(法)の一般的な諸規則》とも表現されている。

  • 法律の問題にも入るという構えに留意しておく。

《e》 その同感の 理論は 古代・中世・近世の《道徳学》によって あらわされてきた。
(鄯) 《古代の道徳学》は

一般的なやり方でさまざまな悪徳と徳とを叙述すること そして 一方の性向のみにくさと悲惨さを 他方のそれの適宜性と幸福さとともに 指摘することで 満足してきたが すべての個別的なばあいに例外なくあてはまるべき おおくの精密な規則を設定しようという意向には なったことがなかった。

ただし これらから 《倫理学》=《道徳感情論》を引き出すことができる。倫理学は 《法学》とともに 同感の理論一般を構成する。
(鄱) 《中性の道徳学》は 教会の神学者たちのおこなったもので それは《決疑論》としての 同感理論だと考えられる。

決疑論者たちの諸著作の 主要な諸問題は 《正義の諸規則》にたいして良心がはらうべき顧慮 どこまでわれわれは われわれの隣人の生命と財産を尊重すべきか 賠償の義務 貞節および節制の諸法と かれらの言語で淫欲の罪とよばれるものがどの点に存するかということ 真実遵守(うそをつくべきでないこと)の諸規則とあらゆる種類の誓約・約束・契約の責務である。
決疑論者たちの諸著作については 一般に 気分と感情だけが判断すべきものを 正確な諸規則によって指導しようと 役に立たない(=有効でない)企てをしたと いっていいであろう。

というように しりぞけられている。
(鄴) 《近世の道徳学》は 《自然法学》である。
《決疑論者たちは 〈正義の一般的諸規則〉へのもっとも神聖で誠実な顧慮から 同感の理論をくみ立てる》が 近世の

法学者たちは 《正義》が《法》ないし《法律》として経験的に成立しているところで――その成立も動態的ではあるのだが―― 同感の原理は どのような具体的な理論をふくむことになるか つまり 裁判においてとして どのようにわれわれは判断するか を考える。

これが 先ほどの《倫理学》と並んで 同感の一般的な理論を 構成すると考えられている。
《f》 同感の理論のいわゆる現実的な分野は 《諸国民の富の性質と諸原因にかんする研究》つまり《経済学》である。

そこでわたしたちは 《e》の(鄯)ないし(鄴)の三つを点検する。道徳感情論の結論的な部分を 確認しつつ検討し そのあと 《f》の社会具象的な分野にすすもう。
わたしたちは 《法学》については省略する。それは スミス自身が

法学の諸規則が どんなに完全であると想定しても そのすべてを守ることによって われわれは 外面的処罰から自由であることにしか あたいしないであろう。
(7・4)

と言っているゆえ。この限りで 法学は 同感の原理から逸脱したその無効な行為に対して 有効の行為の場へ復帰させることを 側面的に援助するのが 基本だからだと考えられる。
つぎに 《中性の教父たちの道徳学》すなわち決疑論としての同感理論を スミスがしりぞけていることについて 歴史の歩みの観点から一般にこれをみとめ かつその理論の把握が 少し おかしいとわたしたちは考える。
歴史の歩みの観点から スミスの判断に同感しなければならないことは 次のような点である。

しかしながら 決疑論者たちの学説はけっして 正義の一般的諸規則への良心的な顧慮がわれわれにたいしてなにを要求するかについての考察に 限定されてはいない。それは キリスト教的および道徳的な義務の 他のおおくの部分を包摂している。この種の科学の育成を主としてうみだしたように思われるものは 野蛮と無知の時代に ローマカソリックの迷信によって導入された 耳聴告白の慣習であった。この制度によれば キリスト教的純潔の諸規則からまったくわずかなていどにさえ後退していると疑われうる 各人のもっとも秘密な諸行為と 諸思考でさえも 告白聴聞僧にたいしてあきらかにされるべきであった。告白聴聞僧はかれの懺悔者たちにたいして かれらがその義務を侵犯したかどうか どの点で侵犯したか そして かれが機嫌を損じた神的存在の名においてかれらを赦免しうるには かれらは どんな苦行を経なければならないかを 告げたのである。
(7・4)

このようだとすると 《わたし》の同感行為が 告白聴聞僧との特定の仲間意識の中で 義務となり それは 同感の原理への侵犯(また 一般の仲間意識への欺き)から再びわたしの同感の行為過程にたちもどるということでなくして 特定の仲間意識における義務の侵犯とそのざんげの繰り返しとなる。繰り返しとなること自体は よいと言わねばならないだろうが 有効性は 教会社会のなかに限られていく。もし この組織のなかでの仲間意識に限られていったならば 《わたしの同感行為》が義務となるだけではなく 組織の規則のなかで この義務を守ることが義務となるはずである。
《わたしが 同感の主体である》ことは 分業の発生する以前の時代でも 潜在していた人間の自然本性なのである。もちろん 経験世界で 義務ということばで表現するところのこのわたしの自覚は 見られるが それは 人間関係の価格ではない。道徳哲学の内容などとして精神的な判断基準を いわば精神の価格と表現することができるとしても 精神は・人間は この指標ではない。ゆえである。
しかも 決疑論にかんするスミスの理解にあやまちがあると思われることがある。次の一点の例示に 明らかである。《女性における貞節の侵犯》という――もちろん同感行為の具体例としての――問題として。

われわれの想像力(理性=判断力にかかわるところの)は あらゆる事情あらゆる境遇における 誠実さのすべての侵犯に 恥辱の観念をむすびつけている。・・・貞節は 同様な理由で われわれがそれについて極度に警戒的な徳性である。・・・貞節の破棄は とりかえしのつかない不名誉をあたえる。どんな事情も どんな誘惑も それのいいわけにはなりえないし どんな悲哀も どんな悔恨も それをあがなうものではない。この点では われわれは ひじょうに敏感であって 強姦でさえも不名誉とするほどであり 精神の純潔は われわれの想像のなかで肉体のよごれをあらいおとすことができないのである。
(7・4)

さいごの一文において スミスは 《われわれの想像のなかで》という条件をつけている。《想像・想像力》は 同感の原理ではない。同感の行為そのものでもない。判断の結論そのものではなく そこに介在する精神のひとつの作用・分野である。しかし まして《想像のなかで》われわれは 同感行為の完結を見るのではない。判断は そのあとであり それとは別である。この条件のもとでだが スミスは 《精神の純潔(もっと拡げれば 自己の同一性の保持)は 肉体のよごれを――強姦といった事情のもとで起こったそれでさえ――(言い換えると 経験世界の必然の力の優勢な価格体系のもとで 余儀なくされた裏切り・欺きのよごれを) 洗い落とすことはできない》とのべた。つまり 決疑論者たちがかつてそう判断し理論していたと言ったことになる。これは まちがいである。
スミスは 《教会の古代の教父たち》も この決疑論者の中に入れ そこには アウグスティヌスが  註であげられているから アウグスティヌスの いまのテーマにかんして 述べるところを見よう。もっとも すでに初めに《わたしは あざむかれるなら 存在する》というのが アウグスティヌスの命題である。

《だが 他人の情欲によって汚されはしないか という心配がある》と 人は言うかもしれない。もしそれが他人の情欲であれば それが自分を汚すことはないであろう。
だが 情欲が自分を汚すとすれば それは他人の情欲ではないであろう。しかし 慎み(貞節)は精神の徳であり 勇気を友として持っている。そして この勇気によって 慎みは真に同意するよりも 悪がどんな種類のものであれ それに耐え忍ぼうと決意するのである。
だが気品と慎みを持っている人びとも 自分の肉体から起こってくることを自由に処理する力を持たず ただ精神によって是認したり否認したりすることのみを自由に働かす力を持っているにすぎない。

  • だから 《想像》は 同感行為の作用・手段であるが そのものではない。まして同感の原理ではない。

こういうわけで もし自分の肉体がつかまえられて暴行を受け そこで自分のものではない他人の情欲(――経済的な価格の必然の問題として読まれよ――)が力をふるい その思いが遂げられたとしても まともな分別のある人ならば だれがつつしみを失ったと考えるであろうか。
事実 もしこういう仕方で慎みが失われるとすれば 慎みは絶対に精神の徳ではなく また人をしてよく生きる(=同感を実践させる)ことを得させる精神の善(正義の一般的諸規則)に属するものでもなく むしろ種々の能力 美 健康 体力 その他この種の肉体の善(通俗的道徳感情の善)に数えられるものになるであろう。これらの徳性は たとえそれ自身が弱められることがあっても 善にして義である生きかたを弱めることは決してないのである。

  • 直前の一文は わたしたちの命題《A》=スミスの《a》。

ところで もし慎みがこういうものであるとすれば それを失わないために なぜ肉体の危険を冒してまで そのために苦労する必要があるだろうか。だが もしそれが精神の美(道徳感情を超えた同感行為の実践)だとすれば たとえ肉体に暴行を受けても失われることはないであろう。かつ 聖い節欲という善が肉欲の汚れに屈服しないときは 肉体そのものも清められるし またそれゆえに かたい志をもって肉欲に屈服しまいと頑張り通すなら 肉体そのものからも清さが失われることはない。というのは 肉体を清く用いようとする意志と その意志の中にある能力とが堅持されているからである。

  • 貞節だとか あるいはそれを汚すであるとか この主題は 価格関係なる必然の有力の支配する社会の中で 経済行為で手を汚すことを余儀なくされる場合と読むべきである。

いったい 肉体は その肢体に損傷がないとか あるいは他人との接触によって汚されていないという理由だけで 清いのではないのである。というのは さまざまな事件によって肢体は傷つきながらもなお暴行に屈しないこともできるし 医者が治療を施そうとして 見るも無残な結果となることもしばしばあるからである。産婆は 悪意によって あるいは技術が未熟なために あるいは偶然によって 調べているうちにそれを駄目にしてしまうことがある。わたしは たとえ肢体の健全さが失われても それによってその肉体そのものの清さが一部失われたと考えるほど愚かな人はいないと思う。この理由から 肉体を清く保つことのできる精神の決意さえ確くあれば 他人の情欲の暴力も(――つまり一般に 欺かれても――) 自己抑制によって辛抱強く保たれている節欲を肉体から奪い取ることはないのである。
これに反して もしある女性が精神的に堕落し 神の前で決意して誓ったことを破り 誘惑者のもとに走ってすっかり身を汚した場合 肉体を清く保っていた精神の清さが損なわれ なくなってしまったのに それでもなお そのように身を汚す女を その肉体においても清いなどと言えるであろうか。決してそういうことはない。むしろ わたしたちはこのような誤りに対して次のように考えるべきである。
すなわち たとえ肉体が暴行を受けても 精神の清さがあれば 肉体の清さが失われることはない。同様に 肉体が汚されなくとも 精神の清さが傷つけられれば 肉体の清さも失われるのである。こういうわけで 同意なしに暴行を受け 他人の罪を押しつけられた女性は 進んで自殺することによって自分を罰しなければならないような理由を 自分の中に何ひとつ持っていないのである。まして事が起こる前に そのような理由を持ってはいないのである。たとえ他人によってなされる破廉恥な行為にせよ それが実際に行なわれるか否かはっきりしないときに 明らかに人殺しと考えられる行為は許されるべきでない。
神の国 1 (岩波文庫 青 805-3)1・18)

スミスは しあわせではなかった。あいまいに しあわせであった。
倫理学道徳感情論のひとつの結論をつぎに考えていこう。

9 同感は よわい人の側から・・・。

《決疑論(casuistry)の諸著書は ふつうに退屈であるのと同様に 一般に無益である》と言って 結局 スミスは この《便覧》とか《手引き》式とあだ名した同感の理論に対して 批判している。

・・・それらは ときどき参照する人にとって かりにそれらの決定(判断)が正当だと想定しても ほとんど役に立ちえない。なぜなら それらのなかに収集された事例(たとえば 《ある女性が暴行を受けたというばあいのマニュアル》といった事例も入るであろうか)が 多数であるにもかかわらず 可能な事情の さらに大きな多様性のために もしそれらすべての事例のなかに 考察の対象となっているものと厳密に一致するものが見出されるとすれば それは偶然なのだからである。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・4)

もう決疑論は どうでもよいのであるが スミスが こういう形式で批判を展開することの一例として さらに引用した。すなわち 《同感の理論は 情況のあらゆる可能性に対処できるものでなければならない と言うと同時に その〈あらゆる事例をふくむ〉ということが 決してマニュアルとその実行――しかも 義務とされたもの――によるのではなく 〈いま わたしが 自己の全体として 同感行為の過程にある〉という実践でしかないであろう》というかたちで 自分の理論を すでに暗に 展開していくこと これの一例だと捉えられる。
《マニュアル――決疑論がこれによって同感の実践を その仲間うちで 義務とする――》については それが 具体的な事例をとりあつかうという点で とうぜん いまの同感論のうちに入る。と同時に これが 義務やおきての問題であるなら はずれる。(ただし また 法学・法律になると それは おきての問題なのだから むづかしい一面がある。)いま考えられることは 同感の問題は 《道徳哲学》などと言っても 通念上 社会的に義務とされているような道徳〔感情〕に対してさえも どのように同感行為として 考え進めていくか この理論である。
さらに あるいは 同感の実践は ある意味で 幸福な人びとの 内面的な義務でもあるのだが 実践の正解・不正解を手引きするような義務論の実行を 義務としない。

自分の義務をはたそうと(同感を実践しようと) ほんとうに懸命になっているものが もし自分がそれら(マニュアル規則)をおおいに必要としていると想像しうるとすれば かれはひじょうに弱い人であるにちがいないし 義務にかまわない人にかんしては それらの著作(決疑論のマニュアル)の文体は もっと注意するようにかれを目覚めさせそうなものではない。
(同上7・4)

というような切り口が スミスのものである。《マニュアルに頼る人が弱い人である》というのは そうかもしれない。だれでも よわい人であるのだが。そのあとの《義務にかまわない人がうんぬん》は 余分である。
法学・法律も じっさい あらゆる事態の可能性を想定し あらゆる事例に対処しようとする。ただし それは 実践の準備であったり 後始末だったりする。もしくは 《わたし》の実践そのものではなく 実践の場についての約束だったり また 仲間意識といった一個の集団としての《わたしたち》の実践に属する。約束は 法律とされるまでにいたることがある。法律の次元になると 約束違反にたいして 処罰しうるという権力の問題がからむ。
わたしの実践については 倫理学があつかう。スミスの倫理学は これまでの議論によって 次のふたつの性格を持っていると考えられる。はじめの内容をわたしたちは肯定し あとのを否定する意向を持つ。

《g》 同感の理論―― 一般的な問題としては 倫理学――は 同感の主体であるわたしの実践(あるいは むしろ生活一般)のなかにある。あらゆる事例に対処するわけであるから 倫理学として 一種の体系的な知識かつ知恵でもあるが わたしの同感過程そのものが まず動態的な体系といえば体系である。
《h》 また 《ひとつの倫理学体系をマニュアルとして必要とするならば それは 弱い人である。つまり 同感の主体として 幸福な人ではない》という語り口をもつ。となると かれスミスは《強い人》であったことを物語る。

同感の強い実践者ということは――この点が いま最大の問題なのだが―― あいまいに幸福な人であることを 排除しないと考えられる。同じく 次のような文体(→命題《g》)と語り口(→《h》)を例にとって 考えることができる。

悪いこと(同感しえぬもの・同感関係の仲間意識を裏切ること・つまり同感の主体である自己をあざむくこと)をしてしまったという意識 あるいはそういう疑問でさえも 各人の精神の重荷であり ながい非道の慣行(反同感の行為とその習慣化)によってかたくなにされていないすべての人びとにおいて 懸念と恐怖をともなうものである。人びとはこの困苦において 他のすべての困苦においてと同様に 当然 その人の秘密と分別を自分たちが信頼しうるある人物にたいして 自分たちの精神の苦悩をうちあけることにより 自分たちの思考にたいして感じている抑圧の重荷をおろそうと熱心になる。この自認からかれらがうける恥辱感は かれらの不安の軽減によって十分に償われるのであって かれらが信頼する人の同感が ほとんどまちがいなくその軽減をひきおこすのである。
それは かれらがまったく顧慮にあたいしないのではないということ そして かれらの過去の行動がいかに非難されようとも 現在の性向はすくなくとも是認され おそらく前者を償うにたり すくなくとも かれらにたいして友人たちのあるていどの尊重を維持するにたりるということを 見出すことは かれらを安心させるのである。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・4)

このような問題――主観どうしの関係が展開されるという主題――をかれが取り上げたということ また 取り上げたこと自体がその文体であるということ これにわたしたちは同感し その語り口(判断内容)には 疑問を感じる。
後者の点をいえば ここでは まず《われわれの幸福な人は かれの精神がそのすべてを制御しうるのではない肉体的な感覚 感覚的な肉体を持っているゆえ 欺かれ また 不安にされる》 ここまでは そのとおりだと考える。このとき 《われわれの幸福な人は その幸福ということ(同感の実践過程=日常生活)において なお つねに 幸福だ》が 先行していると言わなければならないにもかかわらず スミスが言ったことは この《幸福が 仲間のなぐさめという判断によって 初めて 成立する》というのだからである。
《幸福な人は 欺かれ 不安にされ 欺きと不安と恥辱感等々によって 影響されるが しかも左右されず つねに 幸福だ》というのでなければいけない。そうでなければ 《同感》は 行為として 可能ではないし 実践として 現実ではない。スミスは ここで あのマニュアル(その規範の義務化と実行と 違反に対するざんげ)に代えて 《同感の想像 仲間うちの想像的な同感》を 打ち出したのである。

どの国においても 実定法(法律)の諸決定が 正義についての自然的感覚が指示するであろう諸規則(つまり同感の原則)と 厳格にあらゆるばあいに一致することはない。したがって実定法の諸体系は さまざまな時代と国民における 人類の諸感情の記録として 最大の権威にあたいするとはいえ それでも けっして 自然的正義の諸規則の正確な諸体系(つまり 同感の理論そのもの)とみなされることは 〔あの決疑論のマニュアルと同じように〕できないのである。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・4)

それだから 《法学つまり法律の遵守 つまり違法行為をしないという外面的な(外形的な)同感としての安寧》に あやまって すすんだのではない。法に違反しないことと 同感を実践することとは 別である。定義ふうにいえば 後者が前者をふくむかたちになっている。法律にあからさまに違反したことというよりは 内面的にすでに同感したことに違反したこと――違反したとさとるのも 自己の同感行為である だから そうであるのに―― この同感違反の恥辱感などなどを スミスは 仲間意識から来るなぐさめ の想像によって その想像裡へ 同感行為をとじこめようとしているのではないだろうか。これは 幸福ではなく 幸福のイメージ(想像)であり 幸福の実践ではなく 幸福の像への寄りかかりである。人びとは 同感行為において かずかずの想像をおこなうことはあるけれども 想像によって想像裡において 同感をすでに成り立たせてしまったと言うべきではない。その想像は同感しうべき推理だと――あるいは 推理によって同感しうべきだと――判断するとき 同感の行為が始まるのである。
《不安の軽減によって安心させられ 顧慮と尊重にあたいするという自己の存在と名誉の回復によって 同感が実践された》というのではない。なんなら 同感が 自己のうちで保たれ 他者のうちでそれとして認められ 過程的に成立していること――想像過程を終え なぐさめも消えているとき―― このことによって それまでは影響をうけていた不安に左右されなくなり 顧慮と名誉も回復されていくのである。このことは むしろ はっきりしているのである。
同感は 自己の存在〔の同一性〕ではあっても 存在の想像ではなく また その想像裡において過程される顧慮や名誉といった経験的な仲間意識そのものではない。そのものだとしたら 《幸福》は 想像だという以上に 幻想であり 移り行くものにほかならず 倫理学や法学やをわざわざ 考察することもなくなるであろう。自己の・《わたし》の同感ではなく 他人の同感を どうにかして 引っ張りだそうと そのことをのみ考えて あくせくしているにすぎなくなるであろう。

真実性の侵犯(つまり うそをついたこと)がかならずしもつねに正義(同感の原理)の破棄ではないにしても それはつねに ひじょうに明白な規則の破棄であり その罪を犯した人物を恥辱でおおう傾向を 自然にもつのである。・・・

  • ここまでは よいのだ。

信じられたいという欲求(つまり うそをつかずに または うそをついてでも そうありたいという欲求) 他の人びとを説得し 指導指揮したいという欲求は われわれの自然的諸欲求のすべてのうちで 最強のもののひとつであるように思われる。

  • ここから 仮にそうだとしても 単なる経験的な道徳感情の事例である。ただしスミスは そうではなく 同感の原理に固有な欲求・意志であると 論じていく。

それはおそらく 人間本性の特徴的な能力である説話能力の 基礎となっている本能である。・・・大きな野心 ほんとうの優越性への欲求 指導指揮することへの欲求は まったく人間に特有のものだと思われるし・・・

  • という恰好である。この理由で 《信じられたい / 仲間からほんとうの承認つまり同感を得たい という欲求》は 同感行為そのものだと提示することに 不都合はない。主観関係の問題であるならば。けれども すでに結論をさしはさむとするならば この欲求が 仲間からの慰めやまたそれの想像によって その想像裡で 実践され成立するということには 無理がある。言うとすれば 説明できないようなかたちで 同感の実践――論理と実感――が成立し これが先行して 仲間からの承認も得られるというものである。そのときには とうぜん理性的な想像をとおして 判断がおこなわれている。このわたしの結論も 逃げているけれども・・・。(なぞの部分には 触れようとしないでいる。)

信じられないことは つねにくやしいことである。そして 信じられないのは われわれが 信じられるにあたいせず 真剣かつ故意にだます能力があると 想定されているからではないかと 疑うとき くやしさは二倍になる。

  • そうして かれスミスは いますでに言うならば 欺き(同感の破綻)によって 影響されるだけではなく 左右されてのように 次のことばを叫ぶ。

人にむかって あなたはうそをつくと告げることは すべての侮辱のなかでも もっとも致命的である。・・・自分の言ったことは一語も だれも信用しなかったと 想像する非運をもった人は 自分が人間社会の追放者であると感じたであろうし そのなかにはいっていくこと あるいはそのまえにみずから現われることを 考えることさえも恐れたであろう。そして ほとんどまちがいなく 絶望して死んだであろうと わたくしは思う。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・4)

スミスは 《暴行を受けた女は 自殺すべきだ》と言うのである。あるいは そういう想いをその女性がいだいたとしても 不思議ではないと なぐさめるのである。このようななぐさめには わたしは どこまでも反対であるが それだけでは議論にならない。
この文章のあと ただちに

しかしながら おそらく どんな人も かれ自身についてこの屈辱的な意見をいだくべき 正当な理由をけっしてもったことがないであろう。
(承前)

と付け加えている。《自殺するなどという考えをいだくはずは やはり ないであろう》と言っているのである。もし この あとの意見を言いたかったのであれば それまでの推理も想像も 無意味である。まだ 私的なメモの段階にとどまる。人は誰も 仲間を殺すことになると考えられる行為をゆるされていないし 屈辱感から自殺する理由をもたない。幸福は 欺かれ 屈辱感をもちつつも 《その想像に対して死ぬ》ことによって いよいよ強いものとなるであろう。そうでなければ 同感行為は 仲間うちの想像によるなぐさめあいという経験的な事例だけをいう。むしろ 信じられないで 人間社会から追放されたなら わたしたちは よろこぶべきである。仲間意識が かくして 確立されていく。追放されたという想像に対して死ぬことになるからであり その想像に対して死ぬことによってである。
これで スミスの倫理学とよぶ 同感の一般理論を――すでに今度は 上では わたしたちは 逃げなかったなら―― わたしたちは 議論し終えたはずである。なお社会一般的な同感の行為にかんするものにとどまるが 具象的な経済関係の議論として いくらか残したところを見てみよう。
(つづく→2005-03-17 - caguirofie050317)