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哲学いろいろ

もくじ
1  汝は しあわせなるや。
2  《同感》の人は しあわせなるや。
3  《同感》は一貫しているが 《しあわせ》は曖昧である。
4  《同感》の適宜性(もしくは 有効性)――:2005-03-11 - caguirofie050311
5  人びとは分業という事態にやはり事後的にでも同感しあったのではないか。
6  けっきょくはどこまでも同感行為の問題である。
7  中間のまとめ――以上:本日
8  《分業人=経済人》としての欺き・欺かれとしての傷・・・。
9  同感は よわい人の側から・・・。――以上:2005-03-16 - caguirofie050316
10 むすび――同感の人と しあわせの人:2005-03-17 - caguirofie050317

5 人びとは分業という事態にやはり事後的にでも同感しあったのではないか。

スミス批判は スミスの見解の訂正もしくは補修をもって おこなわなければならない。
同感とか仲間意識(④項)というとき 仲間のなかの個人が たしかに同感する人として 存在していなければならない。この個人は――たとい自我とか主観とかが自覚されていなかった時代においても 同じこの判断行為が 潜在的であったのだと見ることによって―― すでにスミスの同感の概念に立って しかも その理論を継承した現代の地点に立って 幸福な人(③)として存在していなければならない。もっともこれは たがいに仲間である 社会的な人間であるという意味である。
また 《A:幸福な人は 欺かれても 幸福だ》というとき 欺く・欺かれるというのであるから それは 人びとが互いの仲間うちに存在していても 《わたしが欺かれた / かれがわたしを欺いた》というように 《わたし》たる個人でなければならない。この点は 命題の《A》ないし《D》が そして 項目の①から⑬までが さもなければ成り立たないということであるから 重ねて確認されるべきである。
それは この特定の《わたし》の存在がなければならず 種とか類とかの概念で《仲間・人間・社会》であるだけでは いけない。家族・同じ村の人・種族・民族・国民・人種・人類などとしての存在であるだけでは いけない。もしスミスをわざと批判しなければならないとしたなら それはむしろ いまのこの問題にかかわっている。すでにかれにあっては 主観を自覚した《わたし》が存在するのであるが だから決してかれの《人間》は どんな集団概念でもないのだが 先に結論づけようとおもえば 《同感する人》といった なお抽象的な・客観的な 類概念に立っているように思われる。これから吟味していくとき 決してほんとうは そうは言いきれないのだが 話として わざと批判するとすれば そういうことになるはずだ。
横着な議論をおこなうわけである。
前節の⑨ないし⑬の 同感行為にかかわる人びとの関係過程は おのおの《わたし》の行為であって それ以外の場合は――ありえたとしても―― たとえば集団意識が強い社会情況にあると考えられる。表と裏 義理と人情の世界でのことだと考えられる。自愛心とか自己の利益といっても それは 集団意識としての博愛心と密接に関連している。地縁・血縁はたまた面識の有無といった人と人のつながりが 利益の問題と直結している。
《わたし》の行為であるということは 《我れ思うゆえに我れあり》と言っても あるいは《我れ欺かれる ゆえに 我れあり》と言っても よいわけで これが 近代人の問題である。分業の事態に即していえば 近代市民の存在形式にかかわる。自己の主観において独立した《わたし》であることが その主観関係の・また分業的な二角協働関係の《出発点》にとって大前提である。
くどいように言えば 《抽象的な類概念としての人間(人類)が思う――また これこれのことに同感する――ゆえに我れあり》であっても いけないし また 仲間のうちに関係的に存在していても 《あいまいに仲間が思う――みんな そうだ みんながそうしている――ゆえに 私もそうすることによって我れあり》でも おかしいわけである。
このうえで 《専門的な職業への専念(⑩・⑬)》や《取引・交換(⑨・12)》が形成されてゆく。それは 仲間意識という基本的な社会存在として だから 同感のはたらくところの自愛心にもとづいて 可能となるという。実際そうなれば 《利益――自分の・そして他人の――(⑪)》を一つの尺度としていることも可能になるという。
さらには 取引・交換すべきモノが 余剰(⑫)であって なおかつこれが《自分自身の労働の生産物(⑫)》にかかるものだということにもとづく。
言い換えると 人はここから《はたらかざる者食うべからず》のことわざを導いてくるよりは すべてが おのおのの《わたし》の同感に発していると かんがえるべきなのである。この限りで 分業というあたらしい事態が起こっても 同感しあう仲間意識 いな おのおのの《わたし》という個体的な存在が 変わりなく 大前提であると言っている。
以上のように スミスの見解を解釈できる。わざと批判すると言ったのだから いまは わざとそうしないのならば 上のように捉えられると思われる。
分業という事態に やはり 人びとの一般的な同感行為がたしかにおこなわれたと解釈するのならば 次には こうである。その後 分業という事態でよかったのか 分業のままでよいのか これについて 同感の主体どうしが まず社会的な構造関係を結び合っているであろうし このときの判断行為が 経済の問題となってくる。スミスの真骨頂なのだと考えられる。しかもスミスは ここまで明示的にのべるべきであった。
結んだ構造関係は それだけとしては まだ《出発点》の・前提としての経験現実そのものである。同感の主体 もしくは 主体の主観的な同感行為 これは ある意味で これら経験的な社会領域を超えている。けれども 離れてではないから 主観関係は この経験世界の構造過程における出発点としての動態である。
分業形態を編成しなおすか どう編成しなおすか あるいは 分業をそのままとして余剰の交換形態 これをどう再編成していくか これらが 同感理論の射程のなかにある。その軌道のうえにある。このことが しあわせの理論である。

同胞市民の博愛心に主としてたよろうとするのは 乞食をおいてほかにはいない。乞食ですら それにすっかりたよることはしない。なるほど 好意ある人たちの慈善によって この乞食が生きてゆくのに必要なもののすべてが用意されるかもしれない。だが たとえこうしたやり方で かれの必要とする生活必需品のすべてが結局ととのえられるとしても かれの望みどおりに必需品がととのえられるわけでもないし 同じく 合意により 交易により 購買によって 充足されるのである。かれは ある人がくれる貨幣で食物を買う。もっとよく自分にあう古着と交換したり 一夜の宿や衣食住のどれかを買うことのできる貨幣と交換したりするのである。
国富論 (1) (中公文庫)1・2)

あたらしい問題の展開は したがって 乞食であって いけないとか よいとかの議論にはなく 乞食ですら――それは変な言い方だが―― 近代市民としては 《わたし》たる同感の主体だという点にある。そこから導かれる理論にある。
おおよそ 人間の歴史において この分業が発生するときに 《わたし》の自覚が生じたと見ることにしよう。そして まずこのことを言うことが 先決問題である。それ以前には 人びとのあいだで 《わたし》は互いに未分化であった。言い換えると 潜在的に――そして原始心性のように―― 人びとはおのおの同感の主体であった。同感行為の不可能な人間から 同感する主体である別の人間に変わったということではないであろう。
人びとは 道具をつくり 道具をつくる技術を発展させ その技術に専念する人たちの発生という事態とともに 生産が高まり 余剰を持つに至った。未分化だった《わたし》が現われ 潜在的だった同感は これを自覚的に はたらかせるようになる。といったことが 原始心性のうちで 無自覚的に・かつ共同自覚的に 現われたのだろうか。余剰が 共同自覚的なかたちで《わたし》にとっての余剰であり 生産は 専門化した《わたし》の労働であるというかたちになったのだろうか。取引がおこなわれ 分業が形成されていく。
ともあれ スミスはここで 博愛心を否定しさったわけでもなければ もはや自愛心のみと宣言したわけのものでもない。
問題点として――

⑭ 分業の発生したあとの時代において 《わたし》という同感の主体が存在する。 
⑮ 同感という仲間意識は 博愛心でもあるが それは 固有に(適宜性において)《わたし》の博愛心であって 《わたし》を言うときには 幅広いかたちの自愛心が 介在している。
⑯ 分業形態における同感の適宜性ないし有効性は 重心が 博愛心から自愛心に移ったと見られると同時に 自愛心――しばしば利己心――のみにはよらないであろうと考えられている。ちなみに この同感の宣揚そのものによるのでもない。後者だと それは ある意味で原始心性に戻ってのような宗教的な仲間意識=博愛心 という幻想となるであろう。
⑰ 自愛心をとおしての同感関係は 価格を用いて二角関係協働することへと 帰結して来た。これが 便宜的にでも適当だろうと議論される。

⑰項の限りでは もはや分業について その発生じたいの是非を問うなどということは なくなるようである。分業したがって専門分化の上に立った協業という社会形態は 大前提であるだろうか。
そして 容易に見通せることとしては 詰まるところ 自愛心に対して わたしたちは どのように同感を及ぼしていくのか いけばよいのか ここに焦点があると考えられる。

6 けっきょくはどこまでも同感行為の問題である。

前節の最後で 項目⑯として 同感の適宜性は 自愛心――しばしば利己心――のみを内容とすることではないであろうと捉えたが これは スミス自身によって 裏切られたかに見える文章がある。つまりそこでは あの《見えざる手に導かれて》という条件句とともに かれは《利己心》のみを指摘し主張しているように見える。
例によって長い引用。

ところが すべての社会も 年々の収入は その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換価値と つねに正確に等しい いやむしろ この交換価値とまさに同一物なのである。それゆえ 各個人は かれの資本を自国内の勤労活動の維持に用い かつその勤労活動をば 生産物が最大の価値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから だれもが必然的に 社会の年々の収入をできるだけ大きくしようと骨を折ることになるわけなのである。もちろんかれは 普通 社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけでもないし また 自分が社会の利益をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。
外国の産業よりも国内の産業を維持するのは ただ自分の安全を思ってのことである。そして 生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利得のためなのである。だが 他の多くの場合と同じく この場合にも 見えざる手に導かれて 自分では意図していなかった一目的を増進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは その社会にとって かれがこれを意図していた場合に比べて かならずしも悪いことではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも 自分自身の利益を追求するほうが はるかに《有効に》社会の利益を増進することがしばしばある。社会のためにやるのだと称して商売をしている徒輩が 社会の福祉を真に増進したというような話は いまだかつて聞いたことがない。もっとも こうしたもったいぶった態度は 商人のあいだでは通例あまり見られないから かれらを説得して それをやめさせるのは べつに骨の折れることではない。
国富論 (1) (中公文庫)4・2)

例によって 事項別に検討しよう。問題は ⑯および⑰項の内容いかんにある。

⑱ 《見えざる手に導かれて》というのは ここで 同感行為を超えたことがらである。《わたし》という主体の力を超えている。その限りで 直接には 論議の対象にならない。
⑲ 《社会の利益のために》というのは 同感のなかでも 特に博愛心の具体的なありかたとして 言っているのであろう。そして 《人のため 自己の利益を含めた人の利益のため》のことだとすると しかしそれは むしろ《自愛心》とそれほどちがわない。けれども 有効性は 博愛心という観念(ことば)そのものの思い込みによるのではなかった(⑯)ゆえ 自愛心とそれほど違わないところの博愛心も このゆえ しりぞけられている。
ややこしい言い方だが 言いなおそう。もし ⑱の《見えざる手によって 社会の利益の増進へ 導かれる》ことを いまの議論の中に入れると――ということは 《見えざる手》を《見える手としての人びとの同感行為》が分有しているとすると―― 自愛心と博愛心とは 盾の両面であることになる。もしくは 象の鼻と頭とであることになる。
⑳ となると 《自分自身の利益を追求するほうが 利益を増進することがしばしばある》のは 《自愛心の発動に対する同感の主体どうしの過程的な・構造的な関係》そのものをやはり言っている。そして 自己の利益の追求が どう有効なのか その何が有効となるのか これは じっさいには《当面の研究主題の中には入っていない》。分業発生の以後の時代(⑭)において 乞食ですら同感の主体たる《わたし》(⑮)となったこと そしてそのとき自愛心を介在させること(⑯) これらのことと 《何がなんでも自己の利益を追求せよ》とは 互いに離れていないけれども 別である(⑯)。そしてスミスの意見では このことが あやふやである。⑱《見えざる手に導かれて》という条件句で 処理している。
《21》 ところが――というか したがってけっきょく――問題点は つきつめていえば 《自分自身の利益の追求の仕方》に 帰着する。そこで人びとが 同感をどのようにはたらかせるか これは 依然として 残っている。――スミスの文章は それを読む人が この点を見落としても とがめられないほど 分業という事態に ぴたりと密着している。
《22》 重複をおそれずに整理すれば ⑭《分業以後の時代》では ⑮《〈わたし〉という個体的な存在が一人ひとり 同感の主体である》のだから やはり ⑯《一般に 自愛心が 同感行為には介在する》そのとき 経済活動として言えば 一方で 《自分自身の利益を追求せよ》 他方で この《自分自身》とか《その利益》とかあるいは《追求の仕方》とかは まさに――《見えざる手に導かれる》かどうかを別としてさえ―― 人びとの同感行為の対象となって つねに過程的に判断され 自由にあらそわれ 推移してゆく。スミスは こう言ったもののようである。

こうとしか考えられない。あたりまえの結論でもある。わたしたちは――もしこの結論が妥当だとするならば―― スミスをえこひいきしたと同時に かれはあいまいだと批判した。現代の問題だと考えられる。
スミス物語としてわざと一言口挟むならば かれが しあわせな人間ではなかったのではないかという意地の悪い見方が成り立つかもしれない。同感の主体として――ゲームの理論などと言って―― 現代のわたしたち自身の問題であるようにも見える。
この節での問題は もちろん経済の問題である。だれが いったい このスミスという姓の始祖アダムからであるにせよないにせよ 《ホモ・エコノミックス》というモデルをみちびきだしたのか。近代人という同感の主体を この《経済人》に歪曲してしまったのか。
それは だれでもないわたしたちなのであるが 幸福の問題を残しつつ スミスの著作に帰って物語をつづけよう。

7 中間のまとめ

ある人のすべての能力は それぞれ他人における類似の能力について かれが判断するさいの尺度である。わたくしはあなたの視覚を わたくしの視覚によって あなたの聴覚をわたくしの聴覚によって あなたの理性をわたくしの理性によって あなたの憤慨をわたくしの憤慨によって あなたの愛情をわたくしの愛情によって 判断する。わたくしは それらについて判断するのに なにもほかの方法はもたないし またもちえないのである。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)1・2・2)

と たしかに 道徳感情論のスミスも 語っている。つまり 同感が同感するのではなく わたしが同感するのであるから――《自己の利益を追求せよ》が 《自己の利益を追求する》のではなく 《わたしが 自己の利益を追求する》のであるから―― この《わたし》を前提するならば 自愛心・利己心が 尺度であり 一般に行動の介在物(契機)であってよいし それ以外には むしろ ない。博愛心が問題になるのは 自愛心の追求の仕方においてである。というよりも 仲間意識のなかで 自愛心を追求するのであるから その仲間意識というときに 博愛心は含まれている。

その意向(affection)が それをかきたてる原因または対象にたいしてもつように見える 適合性または不適合性 均衡または不均衡に その帰結としての行為の 適宜性または不適宜性 礼儀正しさまたは無礼さが あるのである。
その意向がねらっている あるいは生みだすことになる 諸効果の 有益なあるいは有害な性質に その行為の値打ちと欠陥が すなわちその行為に報酬をうける権利をあたえたり その行為を処罰するにあたいするものとしたりする 諸性質が存する。
(同上)

《生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは 自分自身の利得のためなのである》(国富論 (1) (中公文庫)4・2)というのは 逆に言って 《自分自身の利益を追求しようとして人は そのように・つまり経済人のごとく 産業を運営する》と言ったことに等しいのだから このなんなら《経済人》は 同感の主体つまり人間のモデルなのではなく その経済的な行動の場であり 一つの尺度としてある。物指しが 人間になったということは わたしたちは まだ 聞いたことがない。わたしたちは スミスの文章も あやふやだったのではないかと論じたことになる。
人間の社会生活の――少なくとも現代では――きわめて普通のことがらを あたりまえの結論をみちびくためにの如く 議論している。けれども 焦点は 明確である。分業すなわち協業の社会にあって 自愛心ないし利己心が きちんとしたかたちで 表現されるようになったとき あたかも 同感の主体であるわたしは その単位的な二角協働関係において 価格の関係として 生活している そして時に あざむかれる にもかかわらず 幸福であるか。

《E》 幸福な人間(D)は 無感覚ではない(C)から 仲間によって 仲間の自愛心が利己心に変わり 利己心こそがイコール同感の原理なのだとする仲間の行動でもって あざむかれる(A)。そうして 感情を害するが 幸福であって 同感の主体であることの同一性にとどまる(D)。
《22》 自愛心さらには利己心 これが一つの尺度であるとき 自己の利益の追求をおこなうようになっているが 幸福な人は 自己とか利益とか その追求の仕方を 社会的な同感の関係過程で 追求していくと考えられる。

ここからは 物語の後半である。3節までの序論を承けた6節までの前半のあと 同感行為の有効性いかんについて 問いつづける。自愛心を一つの尺度とすることの適宜性 また 自愛心の追求という必然の世界における価格指標の使用の 便宜的な適切さ これらは 経験世界の便宜的な有効性だと思われる。
グラーズゴウ大学の道徳哲学教授であるスミス氏は 《道徳哲学の諸体系について》考察する。(道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)の第六部。――第六版では 第七部となる。そのときには 《法学博士アダム・スミス著。ロンドンおよびエディンバラの王立学会会員・スコットランド税関委員会委員・前グラーズゴウ大学道徳哲学教授》となる。)

道徳の諸原理をとりあつかうにあたって 考察すべきふたつの問題がある。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・1〔初版6・1〕)

という。ここでいう《道徳の諸原理》は むしろ《同感行為の諸原則》のことである。これは 自愛心を尺度としてふるまう人びとの《道徳感情 moral sentiments(=習俗的な感覚 / 感性をともなったエートス)》を一つひとつ判断してすすむところの《わたし》の・共同主観的な視点のことを言っている。
そのうち第一の問題は すでに触れてきている。

第一に 徳性はどこに存するか すなわち 卓越して称賛にあたいする性格 尊敬と名誉と明確な是認の自然的対象である性格を 構成する気質の調子 行動の色合いはなんであるか。
・・・
徳性がハチスン博士が想像するように慈愛(博愛心)に存するのか クラーク博士が想定するように われわれがそのなかにいるさまざまな関係に適合的に行為することに存するのか あるいは 他の人びとの意見がそうであったように われわれ自身の真実で確固たる幸福を 賢明かつ慎重に追求することに存するのかを われわれが考察するときに 我々は第一の問題を検討する。
(同上)

《他の人びとの意見》の線ですすめるわけだが ハチスンやクラークの意見では 同感行為が 慣例となり 《道徳》化する・さらには法律とされるような場合をも視野に入れている。たとえば裁判は とうぜんのごとく 同感の実行にほかならない。

そして第二に この〔同感行為としての徳性の〕性格がどんなものであるにせよ それは精神のどんな力または能力によって われわれにすすめられるのであるか。
あるいは べつのことばでいえば どのようにして どんな手段によって 精神が行動の色合いを他の人のそれよりも好んで 一方を正しいとよび 他方をまちがいとよぶということが 一方を明確な是認と名誉と報酬〔――ここに 価格の決定などをめぐる問題がある――〕の対象とみなすということが 起こるのであるか。
・・・〔つぎのことがらを考察するときに この第二の問題を検討する すなわち〕有徳な性格というものがなにに存するにせよ それがわれわれにすすめられるのは われわれ自身においても他の人びとにおいてもこの性格が われわれ自身の私的な利益をもっともよく促進する傾向があるということを われわれに知覚させる 自愛心によってであるか
あるいは 真実と虚像とのちがいをわれわれに指摘するのとおなじようにして ひとつの性格と他の性格とのちがいを指摘する 理性によってであるか
あるいは この有徳な性格が満足させ喜ばせ 反対の性格が不機嫌不快にする 道徳感覚とよばれるひとつの知覚によってであるか
あるいは 最後に 同感の変形あるいは類似の 人間本性のなかのなにかほかの原理によってであるか
〔これら〕を われわれが考察するときに われわれは第二の問題を検討する。
道徳感情論〈下〉 (岩波文庫 白 105-7)7・1)

この第二の問題は わたしたちの議論の後半へ向けてけっきょく中間のまとめとしての役目を果たすと思われる。くどいように触れるならば。

  1. 《自愛心》は 判断の尺度である。尺度として およそつねに介在するが 同感行為そのものでない。まして 判断の主体じしんのことではない。
  2. 《理性》は 判断行為じたいのほうに 介在するであろうが 判断力を理性と言いかえただけでは 問題の解決にはならない。
  3. 《道徳感覚とよばれるひとつの知覚力》はどうかというと それは 《C:幸福な人は 無感覚ではない》というときのその人・すなわち わたしたちが持つ感覚・知覚力ではあっても 幸福な判断力・判断行為そのものでもない。したがって スミスの議論の立て方にしたがえば
  4. やはり 同感行為は同感行為としての(それにかかわるところの)《人間本性にそなわった原理》 これが 判断力であり 判断行為であると言ってすすめることになる。これは 理性のことだが そういう言い方よりも 同感行為は同感行為の原理にもとづき そこに基本的な行為原則をもつと言ったふうに 自同律でとらえたほうが よいと思われる。わたしの自己の同一性・その有効な保持ということを よく言い表わすことができる。同感行為は 主観において そして何の困難も危険もなく主観関係において 《わたしが わたししている》ときにもたらされると考えられる。

旧い感があるもののスミスの論述にそって いま少し 物語をすすめたい。
(つづく→2005-03-16 - caguirofie050316)