caguirofie

哲学いろいろ

#5

もくじ→2005-09-23 - caguirofie050923

補論ならびにわれらが理論の若干の展開

§6

それ自身 時間的・経験的・可変的・有限なものであって なおかつ もろもろの経験的な行為事象に 原理的に(つまり 観想してみると なるほどそうだとわかるかたちで)先行する人間存在の現実 これを 精神と定義する。
基本主観(独立主観または主体)・《わたし・自己》と定義する。
精神ということばで 身体を含めて存在(本質)をあらわすということは 魂( soul )と言って 人間をあらわすようなものである。また 《きみは何を考えているのか》と問いかけるとき それは 《考える行為→精神》で やはりその人の存在を尋ね 喚起しようとするようなものである。
精神たる一個のペルソナは 記憶と知解と意志との三行為能力を持っている。知解は ただ目の前の物体的な対象を認識するだけではなく 知解の蓄積たる記憶の倉庫から さまざまな物体の視像(あるいは 概念)を抽き出してきて 比較考量し 《わたし》にとっての意味関係を 判断する。そして だから そもそも 知解をおこなうこと自体に わたしのそうしようとする意志は潜在しており 先行している。また この知解の中で 価値判断をおこなうのは これも意志である。
この――ふたたび言いかえれば――《理性》が 基本主観である。基本主観の行為は 《同感》とも呼びうるであろう。しかも これらは 主観相互の関係の 少なくとも 展開経験に対しては 先行するというそのわけは この精神の同感が それは 外的な経験行為にあたかも密着するようにしては 外に出かけないと見ることからである。しかも さらに 内的な経験行為たる心理をも認識し判断する主体だからであるが その内実は したがって 基本主観の同感行為というものは つねに内的な 自己の発見( invenire ) いや 自己への到来( in-venire )すなわち 自己還帰であり また 自己のニ乗・三乗・・・と無限に自乗していくその連乗積であるからである。
《わたし》が 一であるならば その冪も つねに一である。
あるいはそして この基本主観という存在は そのように即自的に 自己到来であり 対自的に――他の基本主観=人間との関係において見て―― しかしやはりこの《基本主観》に対する記憶と知解と意志(愛)であるはずである。
この場合 即自的と対自的とを 互いに逆にして 言うこともできる。また 関係としては――もしくは その後行経験たる交通としては―― 意志の側面すなわち愛を 突出させて 捉えることができる。勿論 他者の存在を知解しないでは 愛ははたらかないし そこで 記憶野が 眠っているのでもないわけだ。
これらが 経験事象に 先行する。しかも 時間的に見れば 同時一体であるだろう。しかも 経験事象が起こったゆえに 基本主観が存在するのではなく たとえそうでも つまり すでに起こった経験事実に触発され 事後的に 自己到来をはたしているというときでも 原理的に基本主観は 先行していた。さもなければ 人間の存在は いなくなる。つまり外界に制約されてのみ存在することになり 環境決定論におちいる。であろうし 一時的に 環境や経験事象に決定されていたと(それに付き従っていたと・あるいは そこで欺かれたと)気づいたときでも この気づいたわたしは 先行する主体であることを放棄していなかった。わたしが 一時的に無力になることと その先行する存在じたいがいなくなることとは 別であるから。
したがって 外的な経験世界は われわれの基本主観に 後行する。外的な経験世界に対応する心の内的な動きとしての経験(=心理)は 先行する同感精神の素材ではあっても 主体ではない。先行する基本主観も さらに大きくは経験的な存在であって 限度を持っているということは 主体ではなく主体が判断するための材料たる心理経験が その必然の世界の流れにつき従って あたかも主体として振る舞うことがあるということを意味する。先行する精神が 後行するむしろ外側から来た心理あるいは感応や官能やに 屈伏しうる。このとき 基本主観は 自由に有効に同感行為をもっているが 無力にされてありうる。無力にされているが 自由にして有効でありつづける。無力にされうるとわたしたちが言えるのは――循環論法ながら―― それが 先行するものだからである。
後行する経験材料は 必要・不必要 有益・無益 有駄・無駄などと判断されることはあっても また 時に必然の流れとして有力になりえても それ自身 無力であるとかないとかとは 言うことができない。素材としてある。
先行する基本主観は 先行するということにおいて もともと 自由・有効だが そして時に無力となりえても それ自身 有力になるとかならないとかとは 言うことができない。先行・有効・自由とその自乗のみである。
わたしの《わたし》がそのように先行するということは 他者の《わたし》も まったく同じであることが 定義じょうから 想定される。即自的な基本主観の知解は 対自的な基本主観どうしの関係(=愛)である。また 即自的な自己の愛と 対自的な自己の知解もそこに同じくあって それらを ひっくるめて《同感》とよぶことに 不都合はない。
基本主観は 心理また感性に先行するも 同時一体ゆえに 一方で その先行する自己自身の領域に着目すれば 自己到来(わたしがわたしする)と表現でき 他方で その後行する経験領域〔への判断〕に着目すれば 《同感 sympathy 》と表現できる。基本主観が 心理や感性に先行するということは それらと無縁であるとまで表現できるし できるけれども その先行・後行の同時一体の関係は 後行領域に対する先行するものの 無関心・無感覚を意味しない。心理的な動きをなくしてしまったなどということではない。先行する知性は 限度を持ってながらその意味で 世界のすべてに対して 有効に及ぶものであるし 先行する愛は 同じく すべてに対して 自由な推進力である。
これら先行する知性や愛(意志)を無力にさせてのように 後行する心理や感覚も 《起動力》を持って 有力になることはありうる。また そこで これらの経験事象を 知性はそうだと認識し 愛はその先行する推進力を自己のもとに いましばらく 留保して 生きている(つまり 先行している)。


精神の二つの能力行為のなかで 知解は 基礎であり 意志は中軸である。外的な経験事象で言えば 知解は経済活動であって 意志(愛)の中軸が この経済活動という基礎に立ち 基礎にはたらきかける。記憶は 主体――狭義に主体――と言うのと同じであって 基礎と中軸に対しては 場と言うのがよい。主体たる場は また 内的にも外的にも 秩序と呼びうるであろう。その意味で 法とも呼びうるであろう。基本主観の同感は 内的に自己の自乗の過程として これら三つの 場と基礎と中軸とをもって 外的な法秩序と経済活動と愛(だから所有欲・支配欲をも含む。また政治)に対して 自己を展開していく。

  • なお《基礎 basis 》ということばは 《歩く》という意味を持つということで そういう動的な意味をも含ませるとよい。

このわたしは 外的な経験世界の事象によって だから 損傷を受けることは ほんとうには ありえない。わたしが 後行する経験世界によって損傷を受けたというなら それは もともと わたし自身がそのわたしに損傷をあたえていた すなわち わたしがわたしから離反していたことによるものである。これは 同感行為が 一時的に無力にされていることではなく 無効となったことを意味する。先行する存在ということが 同感の有効性を表わす。先行性・有効性ということは 自由のことだ。
ただし わたしの自由は みづから無効にしてしまうことも出来れば 後行する経験領域の必然世界によって 依然として先行し有効で自由であるけれども 無力になっていることは起こりうる。
先行する同感が みづから先行しなくなり無効になり 《わたし》の特に経済的な利害関係にもとづく利益を追い求めることは 他者の《わたし》を自己のわたしと 同等のものだとは見なくなったことである。同感の愛によるのではなく 経験事象の愛(愛欲など)に 自己が移行してしまったことである。
ただし このような利己心による自己の愛や経済活動や法秩序の追求に対して 先行する同感は それによって損なわれることはないのだから 一般に 譲歩している。

  • 歩みを譲っている。基礎の二角関係協働で 譲っている。その経済的な成果の分配で ゆずっている。また 政治でも 譲っている。

利己心の同感 つまり 同感の無効 に対して 依然として その主体つまりその他者が 先行する同感を持った存在であることを 同感(記憶・知解・意志)しており それを他者に想起させようとしつつ 待っている。利己心ではなく 博愛心を 他者が 持ち出してきた場合でも まったく同じである。博愛心は 愛欲に移行してしまった《わたし》をも愛せというものである。だから この場合でも その博愛心に 譲歩し 博愛心を持ち出す必要のない同感の主体に戻ることを 想起させつつ――想起させる努力をすることまでは われわれに 可能である―― 待っている。


同感を展開しつつ わたしの歴史(生活)を持続的に生きることは 勤勉とよばれる。ウェーバーが用いる《禁欲》は もしそれが 自己目的化しないならば われわれの《勤勉》と同じである。意志が強いというふうにも言えるが 上に見たように この同感は無力になりうる――少なくとも譲歩しつつ 何もしないでいうる――ゆえ 意志も待っているというとき それは 強いというよりも 弱いといったほうがよい。それは この勤勉という命名の段階では すでに 生活の経験的な領域に着目して言うのだから その後行する行為については 強いとか弱いとか 相対的な概念が出て来るのである。したがって この同感行為の勤勉という場合には 一つの代理として 知解行為(勉強)あるいはさらに外的な経済行為(産業)について 捉えることが便利である。そして 勤勉の徳(=経験的なちから)は 信用である。
勤勉の経験的なちからである信用には ある種の規範――経験的な法則――が出来上がっていて 認識して取り出されるであろう。それは 倫理である。意志の中軸の側から見れば 愛(=関係)の経験法則であり 記憶の場の側から見れば おきて・慣習法ないし法律としての秩序原則である。人びとが勤勉であるとき 知解=経済の基礎たる行為領域に 中軸たる関係倫理が作用しており 場たる法秩序が持たれていく。全般として 勤勉関係であり信用関係であるところの社会である。
先行する同感主体は 互いに同等であるが その後行する勤勉の領域では 互いに 差異がある。人びとが 顔かたちの異なるようにである。また 記憶や知解や意志といった行為能力の取りあえずの区分に従って その勤勉には いくらかの違いが生じている。記憶力にすぐれている人もいれば 知解力が抜群の人もいるだろうし 愛(意志)がそれらを凌駕する人もいる。この限りで 勤勉の徳たる信用にも 人それぞれに差異が生じているであろう。殊に経済活動で代理させて見る場合には その資産の・あるいは所有の対象たるモノ〔の評価額〕として 信用関係には 多い少ないが出て来うる。
ところで 経済活動における 生産とか所有とかいうとき 先行する精神の主体どうしとしては 同等であるゆえ 同感の関係過程として 生産も所有も いとなまれ おこなわれる。だから 生産は 協働であり そして所有も 一方で基本的に 独立主観の個体的な所有であると同時に 他方で 相互の同感行為のなかに置かれたその個体的な所有関係の動態である。個体的な生産の勤勉は 協働に対しても勤勉であることを 倫理とし法秩序とするであろう。

  • しかも これらは 後行する領域のことだから その倫理とか秩序とかは 相対的な概念で把握される。つまり その信用の経験法則は 一義的に固定的に決定することはできない。
  • また 勤勉の報酬は 勤勉の度合いに応じた所有を約束するというとき 所有関係という現実の中にも 個体的な所有行為が想定される。

所有が 所有関係の動態であり それは 生産が 単位的に見て二角協働関係の過程であることに対応し これらは 勤勉の信用関係たる社会の中におこなわれるし またその社会を 基礎において つくっている。社会や歴史は 具体経験的には ほとんどこれだけであるが その推進力はと尋ねられたなら 一人ひとりの人間・つまりそれら経験具体に先行するおのおのの基本主観であると答える。基本主観は 独立主体として存在すると同時に 関係的な存在であって そのまま 共同の主観である。
協働は その単位として 二人の主体のそれである。二角関係である。おそらく生産(広く労働)ゆえに所有するのであろうから 所有は この二角関係協働の結果である。協働の二角関係は 勤勉の・および信用の・だから結果として所有の 関係過程として さらにそして 基礎の経済領域にかんして 量の差異を生じさせている。それは 結果としての所有の 経済基礎の面から捉えたばあい いっそう はっきりする。

  • この基礎領域で 勤勉一般を代理させて考える。基礎であるから それは 便宜的に適切であろう。

協働による二角関係は 依然として同感主体どうしの信用関係――その意味での人格的なつながり――のもとにあるが 所有結果に経済量の差異を生じさせる。モノが不足する場合には ここに 貸し借りが生じる。人格的な信用関係ゆえに これがそれとして生じうるのであるし 経済量の貸し借りは 同感関係に後行し さらに信用関係にさえ後行している。貨幣――貨幣による評価の流通――を持って来ても 同じである。
およそこれらの歴史的な事態が 《道徳感情の理論》と《国富論》とでスミスが議論するところだと思われる。
(つづく→2005-09-29 - caguirofie050929)


[序説・にほんご]の

校正・再検を終えた。
表で示すことが難しいと思っていたが うまく出来たと思う。
ほかにも いくつかの作品で掲載の完成を見た。いちど休みを取るべきか・・・。