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哲学いろいろ

もくじ
1  汝は しあわせなるや。
2  《同感》の人は しあわせなるや。
3  《同感》は一貫しているが 《しあわせ》は曖昧である。
4  《同感》の適宜性(もしくは 有効性)――以上:本日
5  人びとは分業という事態にやはり事後的にでも同感しあったのではないか。
6  けっきょくはどこまでも同感行為の問題である。
7  中間のまとめ――以上:2005-03-12 - caguirofie050312
8  《分業人=経済人》としての欺き・欺かれとしての傷・・・。
9  同感は よわい人の側から・・・。――以上:2005-03-16 - caguirofie050316
10  むすび――同感の人と しあわせの人:2005-03-17 - caguirofie050317

1 汝は しあわせなるや。

アダム・スミスは しあわせな人間であったか。
かれは 二度の恋愛におちいるも いづれの場合にも 《同感sympathy》が成立せず すなわち 結婚にまで至らなかった。このことのゆえに むしろ――物語を活性化するために―― 或る種の仕方で 《スミスは しあわせな男であったが 人間として しあわせではなかった》と まず 話を切り出してみよう。
ここでわたしたちが《しあわせ》というとき それは はっきりしている。スミス自身が 次のように発言する場合の概念で言っている。

《寛大で人情のある》人がもっとも残念に思いがちなのは かれらが いっしょに生活している人びとの背信と忘恩によって 失うものの《価値》ではない。かれらが失ったかもしれないものがなんであろうとも かれらは一般に それなしにもきわめて《幸福》でありうる。・・・
(《道徳感情論》〔1973筑摩書房〕1・3・3。引用符《》をつけたのは引用者。)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)

かんたんに言いかえてみるなら 《しあわせな人は あざむかれても しあわせだ》というときのその概念である。
上の引用文では つづけて こう発言している。

・・・かれらをもっとも動揺させるのは かれら(《しあわせな人びと》)自身にたいして背信と忘恩(《欺かれること》)が実行されたという観念であり この観念がかきたてる不協和で不快な諸情念が かれら自身の意見では かれらがうける侵害の主要部分なのである。
(同上・承前。かっこ内は引用者。)

したがって――したがって わたし自身の意見では―― あとのこの文章でスミスが 《しあわせな人が侵害される》と明らかに述べなければならなかったこと この点において かれスミスは 《しあわせな人間ではなかった》のだと まず 結論して 話を進めたいと思う。

《a》 幸福な人は 欺かれても 幸福だ。
《b》 幸福な人も 欺かれることによって 侵害を受ける。

このふたつの事柄を 同時に言わなければならなかったこと この点において わたしたちは 最終的に かれスミスに 《同感》することが むづかしい まずこう言おうとおもう。わざと こう スミスを批判し 議論をつづけてみよう。

  • 最初の引用文において 《寛大で人情のある》ということばは 文学的な匂いがするとしても すでに《価値》というのは そうではなくなってもいる。人びとの言わば二角関係のなかで その関係協働として 創造し 享受していくそれである。その価値が 主観的ないし共同主観的であることは 文学を逸脱しないことを物語る。

ただちに つけくわえておかなければならないとすれば そうは言っても わたしたちは 次のことがらまでを否定したわけではないことである。

《c》 幸福な人も 《背信と忘恩》をこうむるし 《動揺する》のだし 《不協和で不快な諸情念(ないし感情)》を覚えないのではない。

したがって 気の早い一つの結論を出してしまうなら わたしたちの《しあわせ》の概念は スミスを批判するかたちで 次のことがらによって あらわすことが出来る。

ここで用いる《しあわせ》の定義:
《A》 幸福な人は 欺かれても 幸福だ。
《A−1》 人間は 幸福な人も 至るところで 欺かれうる。
《C》 幸福な人は 無感覚ではない。
《C−1》 人間は 幸福な人も 感情を害する。
《D》 幸福な人は 感情を害しても(A−1/C−1) つねに幸福(A)だ。

さしづめ こういった事柄を わたしたちの《しあわせ》の概念は その内容としている。おそらくこの内容というのは 同時に 時間的な過程であるというべきであろう。スミスの場合 ここにつけくわわっていることがある。すなわち 《b》の一項目である。そして この点については いくらスミスといえども かれのこの見解に対して 同感できないとわたしたちは 言い始めている。
話のお膳立てはできた。スミスの《b》項と わたしたちの《C / C−1》項とは たがいの異同が 明らかでないので おおいに議論を継ぎ足さなければならない。けれども この点が まさに ここで取り上げる問題の核心であるので このスミス物語の最後まで尾を引くものであることを おことわりしておきたい。

2  《同感》人は しあわせなるや。

アダム・スミスが言うように まず

《同感》は その情念を見ることからよりも それをかきたてる境遇を見ることから おこるのである。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)1・1)

つまり この《同感》は 《情念》ないし感情として起こってくることがらではなく 《しあわせな人》の理性的な――むろん 主観のだ――判断行為に属していると言うことができる。理性的というのは 精神の 知解能力(知性)および意志能力(愛)を含めて その最高のちからといった意味で とりあえず 使っている。
ところが――わたしたちは 気が短くはないけれども 遅くはなく つまり長く早いので 議論を先へ飛ばそうと思えば―― スミスは《国富論》で 《分業をひきおこす原理について》 次のように言った。

〔こんなにも多くの利益をうむこの〕分業(労働の役割分担による協働)は もともと それによって生じる社会全般の富裕を予見し意図した人間の知恵の所産ではない。分業というものは こうした範囲にわたる有用性には無頓着な 人間の本性上のある性向 すなわち ある物と取引し 交換しようとする性向の 緩慢で漸進的ではあるが 必然的な帰結なのである。
(1・2)

国富論 (1) (中公文庫)

国富論 (1) (中公文庫)

整理してみると――なぜなら ここでスミスは わたしたちの《出発点》すなわち その基本単位であるところの二角関係協働 これを 《分業をひきおこす原理について》 考察している――
この文章で 

  1. 《分業》という事態は わたしたちの《出発点=はじめの社会動態》という小前提のもとに いまは脇に措いておいて
  2. 《人間の本性上のある性向の 必然的な帰結》がおそらく 《情念――つまり 所有欲・消費欲・〔そのあたらしいものへの→〕交換欲といった感情的な傾向――の必然的な産物》だと かれが言ったとするなら
  3. この一文によってスミスが提示している判断は 《同感》のそれであるのかどうか これが 問題である。《所有欲などの情念を見ることからよりも それを掻き立てる境遇を見ることから おこる》同感による はたして 判断であるのかどうか。

言いかえると この問いは 次の二つのことがらを 内容として含み それらをめぐって議論しようとしている。

① 《ある物を他の物と取引し 交換する》のは 人間の《境遇》である。
② 《ある物を他の物と取引し 交換しようとする人間の本性上のある性向》は どちらかといえば 《情念》にかかわっている。

②が成り立つとするのは ここでスミスが もし《知恵》を《同感》と――《精神・理性》という概念のうえで――おなじものだとした時に この《人間の本性上のある性向によって 引き起こされた分業は 人間の知恵の所産ではない》と言っているからである。同感は 情念の問題から自由だという前提なのだから。
ぎゃくに もし《分業は 人間の知恵――同感を経たところの知恵――の産物だ》と言うとすると この②は成り立たない。そのばあいは ①についても 《取引や交換の形成される以前の人間の社会的な境遇を見ることから 分業(ないし単位二角の関係協働)が 人間の知恵によって 始められた》と 言いなおすことになる。
わたしたちは あとのほう 言いなおした判断のほうを好むし また より一層ふさわしいと見ているとおもう。
いま強引に結論づけようとおもえば スミスは 一方で 《同感》の定義で

《a−1》 幸福な人は 情念によって影響を受ける(《c》)が その情念によってではなく それをかきたてる境遇を見ることによって 知恵をはたらかせ幸福にとどまる。そこでおこなわれる判断は 同感という行為である。

と言いつつ 他方では やはり同時にそして同等に

《b−1》 幸福な人も――この同感による判断をもちつづけ 幸福にとどまるかどうかを いま 別として―― 人間の 情念を含む本性の或る種の性向によって その緩慢な漸進的な成り行きによって帰結したところの 広く分業といった社会的な状況を 避けがたいし また その影響を受ける(《c》)。

と論じたことになる。この《b−1》では 《分業》が 《背信と忘恩》なのかどうかは 別である。ただしやはり 《b》のように その分業の社会の中で 分業のすすみゆく過程で 《侵害される》ことは一般にありうるから 含むであろう。
第一節に取り上げた同じ内容の問題を こうして わたしたちは 確認する。すなわち 《b−1》の情況の中で 先の《b:幸福な人も 欺かれることによって 侵害を受ける》けれども 《a:幸福な人は 欺かれても 幸福である》というスミスの 同感理論の一内容をめぐってのものである。《分業》を《二角関係協働》ととれば わたしたちの《はじめ=出発点》の問題である。つまり 広く人間関係 また そのコミュニケーションの問題にほかならない。
スミスが言うには この《分業を引き起こしたところの性向》について

いったいこの性向は これ以上は説明できないような 人間性にそなわる本能(だからまた情念)の一つなのか それとも このほうがいっそう確からしく思われるが 理性と言葉という人間能力の必然的な帰結なのか この問題はわれわれの当面の研究主題には入らない。
国富論 (1) (中公文庫)1・2承前)

というのである。つまり わたしたちが上に掲げた①および②の事柄にかんして そうではない見方 その逆の見方のほうが 《いっそう確からしく思われる》と言い かつ この引用文の限りでは その問題への回答を 保留しているという恰好である。つまり わたしたちの問いは スミスにとっても つづく。

3 《同感》は一貫しているが 《しあわせ》は見方があいまいである。

《この〔取引・交換へおもむく〕性向はすべての人間に共通なもので 他のどんな動物にも見出されないものである(承前)》と 自身の回答の方向を示して 続けてスミスが論じるのは 次のような判断である。それと 《同感》との関連が いまの問題である。そこでは 《分業》の事態を 広く社会一般的な観点から――わたしたちの議論の小前提たる《はじめの総体》から――取り上げて 発言する。

文明社会では 人間はいつも多くの人たちの協力と援助を必要としているのに 全生活をつうじてわずか数人の友情(――これは 同感にもとづくものであろう――)をかちえるのがやっとなのである。ほかのたいていの動物はどれも ひとたび成熟すると 完全に独立してしまい 他の生き物の助けを必要としなくなる。ところが人間は 仲間の助けをほとんどいつも必要としている。だが その助けを仲間の博愛心にのみ期待してみても無駄である。むしろそれよりも もしかれが 自分に有利となるように仲間の自愛心を刺激することができ そしてかれが仲間に求めていることを仲間がかれのためにすることが 仲間自身の利益にもなるのだということを 仲間に示すことができるなら そのほうがずっと目的を達しやすい。
他人にある種の取引を申し出るものはだれでも 右(上)のように提案するのである。私の欲しいものを下さい そうすればあなたの望むこれをあげましょう というのが すべてのこういう申し出の意味なのであり こういうふうにしてわれわれは自分たちの必要としている他人の好意の大部分をたがいに受け取りあうのである。われわれが食事をとるのは 肉屋やパン屋の博愛心によるのではなく かれら自身の利害にたいするかれらの関心による。われわれが呼びかけるのは かれらの博愛的な感情にたいしてではなく かれらの自愛心にたいしてであり われわれがかれらに語るのは われわれ自身の必要についてではなく かれらの利益についてである。
国富論 (1) (中公文庫)1・2)

ここで 《友情》は 二角協働関係において 《同感》にもとづく事態であろうし 《協力と援助》も その同感としての判断が仲をとりもって もたらされる事態であるだろう そして なおかつ 《博愛心》とか《自愛心》とかに訴えるかどうか このことが 命題《a》と《b》および《c》を内容にふくんだ《同感》の行為過程の問題である。
わたしたち自身の結論は 命題《A / C / D 》によって示した。そして それとスミスのとの異同を明らかにするのが 課題であり焦点である。
《友情 / 協力と援助》を 《同胞感情=仲間意識(基礎的には 主観どうしの関係)――ないしそれにもとづく行為――》ととり 《自愛心》の反対としての《博愛心》を 狭く《哀れみ・同情》と解してみるならば 《道徳感情論》には 次の議論がある。

哀れみと同情は 他の人びとの悲哀にたいするわれわれの同胞感情をあらわすのに あてられたことばである。同感は おそらく本源的には意味がおなじであっただろうが しかしいまでは どんな情念にたいする同胞感情であっても われわれの〔その〕同胞感情を示すのに 大きな不適宜性なしに用いることができる。
道徳感情論〈上〉 (岩波文庫)1・1)

《哀れみ・同情》というよりも 《同感》と言ったほうが 適当だというのである。そうすると おそらく こういうことになりはしないか。上の国富論のほうの長い引用文は 依然として《同感》の観点からスミスは 述べているのであって 《博愛心》や《自愛心》は その同感という判断が用いるもの 用いているところの情念なのである。その《文明社会》では 一般に 自愛心のほうを 用いるようになっているのだと。
言いかえると 同感の一貫性が――もしくは 自己の〔知恵の〕同一性が――保たれるなら その限りで 《a:幸福な人は 欺かれても――自愛心が または博愛心が 欺かれても―― 幸福だ》し かつ そのときにも 《b:この幸福な人も その欺かれたということの観念 また その観念がかきたてるところの 仲間とのあいだの 不協和な情念によって 侵害される》のだと。欺かれるのは 博愛心も自愛心もであるのだが いまでは 自愛心のほうを 多く用いるようになっている。それは 同胞たちが 仲間意識で作り上げてきた分業――もしくは 分業という事態によって作り上げてきたところの仲間意識――のもとでは そうなのだと。
ここで わたしたちの問いに対するスミスの一つの結論がいかなる内容であるのか これを指し示すことができる。
わたしたちの仮説とのかんれんで 命題として取り上げた《A》と《a》 《C》と《c》とは それぞれ 同一である。そして これらに対して 《D:幸福な人は 感情を害しても つねに 幸福だ》と《b:幸福な人も 欺かれることによって 侵害を受ける》との異同 これが わたしたちの問いであったものだが いま言えることは スミスは 道徳感情論から国富論をあらわすに至って 《同感》の概念を変えていったのではなく まず同じ問いをもって――つまり そこから回答を抽き出すべき同じ一つの場に立って―― 論じすすめていったということが ひとつ。そして 二つ目に その回答の内容は むしろ《その問題は 当面の研究主題には入らない》として そう言うことによって その方向を示したこと これである。
道徳感情論のほうでは 《かれら自身の意見では》と 条件づけたこと(第一節の二番目の引用文中)に やはりその回答の同じ内容方向があるように 考えられる。しかも――
しかも わたしたちは このようなスミスの論じ方をもって スミスの欠陥だとさえ言って ここでは 批判の矢を放とうとおもうのである。
分業という事態ないし広く経済の情況 における《同感》の 適宜性あるいは有効性を論じることが わたしたちの問いの次の展開となるであろう。これは 《はじめ》の二角協働関係の・ないし一個の主観の〔無力の〕有効のことであるから 論点としては 前節の蒸し返しになるけれども 主題は アダム・スミスをわざと批判する物語である。
ここまでで わたしたちは 《同感》論じたいはスミスにおいて 最後まで 有効となっていると見た。その上で この主題をもって わたしたちは より一層あきらかに 歴史の連続性の上に立ちたい。

4 《同感》の適宜性(もしくは有効性)

われわれが 自分たちの必要としている相互の助力の大部分をたがいに受け取りあうのは 合意 交易 購買によってであるが もともと分業を発生させるのも 取引しようという この同じ性向である。・・・
国富論 (1) (中公文庫)1・1)

とスミスは 《分業を引き起こす原理について》 つづけて語ろうとしている。この文章のあと 例示によって論じられている。その前に この上の一文は これまで議論してきた経過からいけば 次のように 言いなおして 確認しておくことができる。
丸カッコをつけた項目のつづきとして――

③ わたしたちは 幸福な人間だ。もしくは 幸福であるべき(ありうる)人間として 存在する(←《A》)。
④ 同感(sympathy)という仲間意識(fellow feeling)。または 共同主観(common sense)。その意味は わたしたちは 他人をも幸福な人間として もしくは 幸福であるべき人間として 愛し 接する。(愛するというのは 生きる〔共存する〕というほどの意味に取られよ。)
⑤ 同感は 《合意》ないし同意に 発するか もしくは 現われる。
⑥ 《われわれが 自分たちの必要としている相互の助力》というのは 《必要》ないし必然という点で 特には 経済的なモノ・コトを言っている。
⑦ この《相互の助力の大部分をたがいに受け取りあう》のは 同感の経済的な行為にほかならない。
⑧ 上の⑦は 基本的に 《合意》ないし契約にもとづき 《交易 購買》等として 現われる。
⑨ スミスの意見では この⑧の《取引しようというその性向》の発現によって 《分業》が形成されていくというのである。

これら③ないし⑨の項目は ここで スミスが 《同感》の理論を落としていないことを確認するためのものであることになる。その同じ場(ないし観点)で 経済的な社会行為を論じていくということ このことも確認できる。
そこで 《分業の発生》の例示が 与えられる。

・・・たとえば 狩猟や牧畜を営む種族のなかで ある特定の人物が 弓矢をほかのだれよりもすばやく巧妙に作るとしよう。かれは弓矢を しばしば仲間たちの牛や羊や鹿の肉と交換し そしてついには このようにするほうが 自分で草原に出されてそれらを捕えるよりも いっそう多くの牛や羊や鹿の肉を手に入れることができる ということをさとるようになる。こうして自分自身の利益にたいする関心から 弓矢作りがかれのおもな生業になり かれは一種の武器作りとなるのである。別の人は 自分たちの小さい小屋や移動家屋の骨組と屋根を作ることに秀でているとしよう。かれは この手腕で隣人たちに役立つようになり そのさい隣人たちは 同じように かれに家畜や鹿の肉を報酬として与え ついにかれは この仕事にうちこみ そして一種の大工になるのが自分の利益だとさとるようになる。同じようにして第三の人は 鍛冶屋や真鍮工となる。第四の人は 野蛮人たちの衣類の大きい部分をしめる獣肉のなめし工や仕上げ工になる。こういうわけで 人はだれでも 自分自身の労働の生産物のうち消費を超える余剰部分を 他人の労働の生産物のうちかれが必要とする部分と交換することができるという確実性によって 特定の職業に専念するように促される。またその特定の業務にたいしてもっている才能や天分がなんであれ それを育成し完成させるように力づけられるのである。
国富論 (1) (中公文庫)1・2承前)

分業という社会情況における同感の 適宜性(propriety)ないし有効性を この節〔以降〕で わたしたちは論じるのであるが それは 分業の発生時点における同感のありかた――それが どうはたらいたか――に 問い求めなければならない と見ての この文章の引用である。また 分業の発生といったことは わたしたちの議論にとって人間どうしの二角関係なる《出発点》を なぜ小前提とするかの検討にも つながるものと思われる。

  • 長い引用の点ゆるされたし。

分業が発生したときに 同感がいかに作用したか――仲間意識として どのように同感したか―― これを論じることは 取りも直さず わたしたちの《D:幸福な人は 感情を害するが つねに幸福だ》という自己の知恵の同一性が そこで保たれたかどうかの問いに かかわっている。分業という新しい事態の出現によって もしくはその事態から影響されて起こりえたところの 仲間意識への背信によって 侵害を受けるとき どうであったか。欺きによる仲間意識の破綻とそして頽廃 これらは 同感の主体にとって その主観の有効性にとって いかなる影響を及ぼしたか。これらはまったく 初めからの問いの展開である。
分業の発生 つまりそういう事態への同感の発動のありかた これを 例示した上のスミスの説明は やはりその内容を すでに挙げたように項目別に とらえなければならない。細かい事項の確認は もはややめて 問題点だけをさらに挙げていこう。

⑨(既出) 《取引しようという人間の本性上の性向》が 分業をもたらした。
⑩ ある人の卓越した技術が 専門的なものとなっていくことに 人びとが同意した。
⑪ 上の⑨および⑩のとき それらは 自分の利益にもなり 他の人びとのためにも役立つと考えられた。
⑫ 《自分自身の労働の生産物のうち自分の消費を超える余剰部分 の交換》という考え方および事態。
⑬ 《こうして人びとは おのおのの特定の業務に専念する(⑩)ように促される》 そのことが 同感をもって迎えられた。

つまり⑨は 具体的に⑩ないし⑬の各事項を その内容とするであろう。すでに これら各事項のなかに わたしは《同感》の過程の存在をも容れて 表現したわけであるが それは ④項の《同感という仲間意識》を 前提にしてであり 前提していると仮定しての話である。問題は その前提ないし前提の想定が 具体的にどのようにはたらいたものであるか これにある。
意地悪く解釈すれば スミスは この問題はすでに《当面の研究主題には入らない》と言ってのように むしろ 言外で 《同感》の一本槍なのである。その意味では この近代ないし現代にまでつながる 分業とか経済的な諸問題は たとえばこのスミスの例示する原始時代ないし古代の 分業発生の歴史のなかに問い求めなければならない。言い換えると 原始時代の人びとが この分業の出現に対して はたしてどのように同感を及ぼしたか したがって いま現代において わたしたちが これをやはり同感をもって どう追認するのか あるいは何を追認すべきではないか この問いに替わる。⑨ないし⑬項を吟味する。
(つづく→2005-03-12 - caguirofie050312)