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哲学いろいろ

文体――第四十四章 余計のむすび:精神の政治学は何もしないたたかいである。

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2005-02-24 - caguirofie050224よりのつづきです。)

第四十四章 余計のむすび:精神の政治学は何もしないたたかいである。

エスは自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ちあがった。すると預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと 次のように書いてある箇所が目に留まった。

主の霊がわたしに臨み
油をわたしに塗った。
主がわたしを遣わしたのは
貧しい人に福音を伝え
捕らわれ人に解放を
目の見えない人に視力の回復を告げ
圧迫された人を自由にし
主の恵みの年を告げ知らせるためである。
旧約聖書〈7〉イザヤ書61:1−2)

エスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは 《この聖書の言葉は 今日 耳を傾けているあなたたちに実現した》と話し始めた。
日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書 4:16−21)

このように書かれていることがらは 人間的な論法でいえば 精神の政治学が《解放》され その基本主観・自然本性・すなわち自己がこころの目で見られ 《自己の政府》の民主制の回復がすなわち自由をもたらすという現実を言っているのでないとすれば なんであろうか。肉の目でも見られるところの経験現実にかんしては この精神の政治学による文体の展開の社会的な関係過程において 民主主義的であり自由であり平等であるというのでないならば なぜであろうか。文体は過程的であるという第一原則のことと思われる。
第一原則がその文章をとおして捉えられ 第一原則をとおしてその文章を捉えることは マルクスのそれにおいても わたしたち自身の場合においても 同じであり 聖書とか神学などは この原則の・あるいは文体の主体の(もしくは主観の) 基盤を 弱いかたちで語るものと思われる。後者は 経験の言葉で語っても 基本主観の自乗過程をうながし 確立させてくれるものと思われる。先験的な自己の・その自乗過程の 理解力として・中核として 理念は 現代において じゅうぶん明らかになっているものと思われる。弱い基盤作りは その限りで 表現形式として 旧いものに見える。
井戸端会議としての文体〔論〕は まず 精神の政治学であろう。そのこころは 自己の政府の確立にある。マルクスにおいてもわたしたちにおいても その文章を読み合ったり会話を交わしたりするのは そこでそのとき このような井戸端会議が 先行して行なわれている。そして それは 理念としては・はたらきの内実としては 民主制であろうと思われる。
わたしたちの自然本性の精神 基本主観の理性 これは 広い意味のこころ・たましいであり これも 霊(spirit)であるが これに 《主の霊が臨んだ》と書いてある。このことをわたしたちは 経験科学的に論証することができないのである。《霊》はわかるが 《主の霊》は 考えても分からない。考え得ないゆえ 信じられないと判断するか それとも なぞにおいて信じているか どちらかである。どちらも 精神の政治学である。経験科学の理論によって明白にされることなのではない。
どちらの精神の政治学の展開をもつにせよ その文体が過程的であることに変わりはない。
いや と人は言うかもしれない。人間のことばで表明された文化成果たる理論は なるほど 変化するが その理論のやはり中核たる理念は 不変であり しかもなにも この理念を根拠とするのではなく そうではなく理念をとおして・かつ謎において 変化しえない根拠・たとえば物質を わたしたちは捉えると言っているのだと主張するかもしれない。わたしは この物質が なにものなのか よくわからないが なにものであったとしても もしそう主張する人びとであるなら その人たちは ほかでもなく

物質がわたしに臨み
油をわたしに塗った。
物質がわたしを遣わしたのは
貧しい人に福音を伝え
捕らわれ人に解放を
目の見えない人に視力の回復を告げ
圧迫された人を自由にし
唯物史観〔の祖マルクス〕を告げ知らせるためである。

と言っていることにひとしいと思われる。ここには 精神の政治学が見られる。なにも 皮肉を言うためにではなく そう言うマルクス主義者においても 基本主観の内なる政府の問題が 普遍的に 存在するのではないかということを 主張するためである。経済基礎(ことに階級関係)そしてこの階級関係に対する知解基礎 の自由は 精神の政治学に 先行される。もしくは 精神の政治学の一つの部分側面であることを見ようとしたいためである。

  • 現代では 史的唯物論ではなく あるいは 理念主義でも理念体系の美の構築主義でもなくはなはだ相対主義的な思潮が有力となっている。次のように言うと この相対主義の思想と あたかも同じようだと受け留められるであろうか。

すなわち 精神の政治学は なにも しない。特別 なにも しない。外に出かけず かつ 外に対しても 文体展開をつうじて はたらきかけた恰好となる。とするなら そして それは 何もしないたたかいである。これに対して 経験行為一般は 同時一体だが 必然の力関係のなかで已む無く優先されることはあっても 先行しえない。
生活は・そして殊に経済活動は 停止しておらず わたしたちを待っていてくれるものではないから 《何もしないたたかいが先行する》と言っても それは 先行する精神の政治学の時間的なあとに この経験的な生活をおこなうというのでもないし 生活をいとなんでいる人間において 精神の政治学が 経験現実の政治学とは別様に――なにかそれだけが 治外法権をもったような別の世界で――存在すると言おうとするのでもない。先験的というのなら 表現として そう言ってもよいと思われるが もし そう言うときにも その精神の政治学は 経験現実の政治から治外法権をもったそれ自身の領域として 想像され念観されるべきだとは言えないし 治外法権を 法かなにかによって持たされることを 受け入れるものでもない。そのありようは 経験現実の法的な有効もしくは必然有力に対して 譲歩しているか それとも 無力である。と言ってきた。先行して無力のかたちで存在するというのと 無力ゆえに何も存在しないというのとは 別である。
だから 《共産主義の交通形態(階級関係をわたしたちに服従させるという生活共同体)そのものの生産・建設》というのにも 無力の精神の政治学が 先行している。これは 理念的に言わば 知解・経済基礎の自由に対して さらに 意志中軸の民主制として 推し出すことができると述べてきた。そして もっとも 理念が明確に知られ それとして実現された段階の時代と社会にあっては 必然的に そのことも 実現されている。潜勢的であっても 理念としては結論のようであって すでに実現されているのだと。
《〈主の霊がわたしに臨み・・・〉という言葉は 今日 あなたたちに実現した》と言う文体は 人間的な論法で言う限り・そして少なくとも現代世界において わたしたちにとって あたりまえの現実である。ここにおいて たしかに 精神の政治学は 何もしないと言うことができるが 過去においても 実際同じくそうであったと言わなければならない。同時に 社会環境では・また自然環境に対しても 古い必然的な関係の対立や矛盾があって これらの経験行為を 〔同時に〕わたしたちは行なっているゆえ 《何もしない にもかかわらず たたかい》ではある。これが 自己到来とか 自立とか また 精神の政治学の確立といったことがらと つながるのだと思われる。

〔《・・・あなたたちに実現した》と話し始めた。〕皆はイエスをほめ その口から出る恵みの言葉に驚きながらも言った。《この人はヨセフの子ではないか》。
エスは言った。《きっと あなたたちは 〈医者よ 自分自身を治せ〉ということわざを引いて 〈カペルナウムでいろいろなことをしたと聞いているが 郷里のここでもやってくれ〉と言うにちがいない。》
そして イエスは話した。《はっきり言っておくが どんな預言者(文体の)も 自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておくが エリヤの時代に三年六ヶ月の間 雨が降らず その地方一帯に大飢饉が起こったとき イスラエルには多くのやもめがいたが エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで ただ シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また 預言者エリゼオの時代に イスラエルには多くのらい病人がいたが そのうちのだれも治されず シリヤのナアマンだけが治って清くされた。》
これを聞いた会堂内の人びとはみな憤慨し 総立ちになって イエスを町の外へ追い出し 町の建っている山の崖まで連れて行き 突き落とそうとした。しかし イエスは人びとの間を通り抜けて立ち去った。
日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書4:22−30)

これらは みな 経験的な心の領域のことであり 社会現実である。また 人間のことばで言われる限りで 《主の霊がわたしに・・・》というイザヤ書の詩句も 経験的・時間的な行為に属している。《わたし》と発音するとき 最初の音節《わ》を言っただけでは 何を言っているか わからない。しかも 人間のことばで捉えて言うときには すでにそこに 時間の経過が 起こっている。つまり 経験行為の領域である。これら全体と 同時に 無力の――存在するならば 有効の――精神の政治学がある。けれども これを表現しようと思えば そこで 何もしていない。外に出かけていない。けれども 外で 相手に・つまり社会現実の中に経験的に 反応がある。なにもしない たたかいが ある。
《どんな預言者も 自分の故郷では歓迎されないものだ》は よく引用されることばであるが 外に出た人間のことばとなっては 精神の政治学そのものではない。なにもしないたたかいは 内に――少なくとも言外に――あるのだから。だから 外に出たことばは もはや 理念でもない。ただそれは 経験現実の一つ〔の過程・局面〕をそれとして言ったまでであり たとえそれが 社会環境一般の歴史において 一つの法則のように見えて いくらか理念に近いものがそこに見通されるとしたとしても 精神の政治学そのものではない。
この場合は むづかしいことではない。いま語っている人の・過去の身近なまた懐かしい体験の思い出が それを超えて内なる理念を人びとに見させないように するものだといった意味合いのもとにある。ゆえに 消極的なかたちで 否定するにすぎない。とはいうものの このことの持つ普遍性もおおきい。精神の政治学は 教訓や規則ではない と語っているはずだ。(その場合も 教訓をとおして 理念を見通すということも 考えられるのだが。)
要するに 文体の中核は 単に理念だと言わないとすれば たしかに なぞを含んで《主の霊がわたしに臨んだ》と言っていることにある。もしくは 《わたしは基本主観をもって わたしがわたしである》というのが どこまでも 精神の政治学の内容なのである。
外の経験行為は この時にも まさに具体経験的に・特定の人を相手として 内的な文体過程と同時に おこなわれている。
外に出かけず何もしないたたかいが 外に対して まずは有機的な・生活共同の関係をつくっており 次に〔同じく外に対するかたちで〕外の必然の有力・経済基礎の矛盾に対して 無力であり かつ 有機的な関係のなかに 相手の反応をよび 有効であるというかたちの過程でなければ 文化行為は文化行為でないであろう。ただ経験領域の慣習によって生活しあう文明過程のみとなってしまう。その文明的な生活では 外の必然の力に対して 自由だとか平等だとかあるいは自由でないとか平等でないとか理念を考えることはないのであるから(――理念を内容とする倫理や法律に対しても 慣習として機械的に 守ったり違反したりしているのであるから――) 経済基礎の矛盾に対して 矛盾を解決しようとか・しなくてよいとかも 考えないわけである。ただ あっちへ行ってはぶつかり こっちに来てはぶつかり それらの矛盾対立のなかを すり抜けていくという歴史――これを 歴史と呼ぶ人がいるのかもしれない――しか ないわけである。
マルクスが 共産主義の社会とか そのような意識だとかを言い出したら 同じように あっちへ行ったりこっちへ移って来たりしていくしか ないわけである。《どんな預言者も 自分の故郷では歓迎されないものだ》と言われてみたとき それが 消極的に理念をあらわそうとしたからではなく また一つの経験法則(ことわざになるようなもの)を言い当てていたからではなく――その一回きりの場において 直接には そうだからではなく―― 同時に 隠れたところで(基本主観の内で)精神の政治学または《自己の政府》のことを言っていたし それを人びとに見させたから 無力の有効が 成就した。もしくは 過程経験されたのである。しかも これは 教訓ではない。教養知識の問題ではない。ありえても それは 無効である。
教訓とかことわざとか慣習法則また道徳とか世間の知恵だとかは 外なるもの・ないし後行するものであり すでに外に出かけてそれらに関連することがらをおこなっているときの 法権力のもとの有効であり 時には 必然の有力であるものである。必然の有力のなかを うまく泳いでわたるための知恵である場合が多い。
《イエスは人びとの間を通り抜けて立ち去った》のは 社会環境の必然有力のなかから提出された知恵を 用いただけである。もし《どんな預言者も 故郷には受け容れられない》を教訓とするなら 《人びとの間を通り抜けて立ち去った》ことも 同じく教訓としなければならない。同じ経験行為の過程に属しており それは この世の知恵に合致しているから。《共産主義社会》ということは――その理論内容を別として―― ただマルクスが怒ったことをあらわすか あるいは かれがそのことばで人びとを憤慨させただけである。ここに つまり その隠れたところでのかれの精神の政治学が この経験的なことばをとおして外に出て(文化行為として 正当にも 外に出て) 無力の有効を それに対する人びとの反応が呼び起こされるかたちで 語ったし語りえたとすれば 人びとは その理論内容を研究する。時に実践しようともする。ところが 理論内容・その知解行為は それぞれの人の精神の政治学に 先行していない。
このことを わたしたちは 文体論として語りたかったことになる。つまり 精神の政治学は 何もしない。たたかいであるとすれば 井戸端会議に始まり それに終わる。同時に 生活・文化行為としては――さらには 社会環境・文明関係の中に位置するその人自身としては言うに及ばず―― 外にも出かけている。外に出かけたかたちを含むことになる。
だから 外にも位置しているわたしたちの存在は 精神の政治学そのものは 外に出かけず何もしないたたかいであるとき 無力の有効を――理念として 民主制を――確立していくであろう。外に位置しなお外に同化する(外に出かけつくす)ならば それはむしろ 無力でなく有力となっている。そして 経験現実の波間をとおり抜けていくことであろう。それをゆるしあう度量は人びとにある。外に位置することさえ拒むならば なるほど無力であるかもしれないが それは 有効ではないであろう。
こういう人間を わたしたちは 考えているし 議論していこうと考えている。(おわり)