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哲学いろいろ

文体――第四十二章 精神の政治学は不安である。

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-22 - caguirofie050222よりのつづきです。)

第四十二章 精神の政治学は不安である。

わたしたちが 互いに分かり合えるのは――あるいは その範囲は―― おもに ことばを通じてである。そのことばの普遍性が もし互いに異なった言語の間においても 通訳を通してでも わたしたちは理解し合えるということにあるとすれば それは 経験的に言ってやはり 理念が その普遍性の中核であることとつながっているのであろう。(感性のことは 合ったり合わなかったりするであろうし 共感をよんだり呼ばなかったりするのだと思われる。)
この理念が すでに 社会的に 明確なものとして実現され〔る舞台が実現され〕ているのだとすれば その現代という時代は 近代のヨーロッパ人の文化成果によるところが大きい。けれども 理念によって・理念ゆえに ことばが普遍性をもち わたしたちが互いに理解しあえるのだということにはならない。それは あたかも ヨーロッパ人によって 他の国の人びとが人間であると言うにひとしい。基本主観の行き方としては  それでは 経験じょうの部分的な見方にしかならないか それとも 間違いである。
理念は ことばの・従ってわたしたちの相互理解の 普遍性にとって中核だと見ることは そのことのゆえにこそ ことばは 普遍性をもち わたしたちが相互に理解しあえると見るところへ そっくりそのまま 逆転するものではない。そうではなく わたしたちの存在の 〔自然本性ないし基本主観という〕類的な同一性・共同性のゆえに 理念も その内容として 普遍的だということなのであろう。この人類としての同一性・普遍性は ことばを通して理解しあえるし 理念によって さらに明確なものとして把握される。
近代人・ヨーロッパ人の文化成果をおとしめるためのものではない。ヨーロッパ人といわず 現代世界における現代人のうちの《近代市民性》は 顕揚されてきた。この明確な理念は 文化を伝達し 普遍的なものを知らせる。文化の普遍化(普及)が 文明であろうと思われ 従ってそこでは その中核に 共通の 類としての理念があり 同時に各地域の 種としての文明には 一定の固有の(可変的だが固有の)普及の仕方がある。互いの間の文体的な交流が望まれ 摩擦も起こっているであろうと考えた。 
けっきょく言おうとするところは 理念は その知識がすでに充分得られていたとしても 実際の問題としては 事後的なものなのではないだろうか。基本主観の内にあって 経験領域に対して 先行しているのだけれど しかも その人間の存在の普遍性の中核ではあっても 最先行する中核ではないであろうと。
ことばが わたしたちの存在の・もろもろの行為の・あるいはこころの 代理表現であるとすれば 理念も なお なぞを持つ基本主観を代理して表現するものであるだろう。理念を用いて 文体を展開することになる。その全体が・また過程が 精神の政治学だということであった。
わたしたちは 自分のちからで 理念に従うことはできない。理念を創造することはできない。理念を発見する・確認するのである。理念という中核をもった自己に到来するのである。自己到来・自立はこれを わたしたちは欲し努力する。理念のゆえにということでは 必ずしもない。
ただ 便宜的に見て 知解行為能力の自由とともに あるいはそれ以上に 意志中軸の愛・民主制という理念を かかげようともして来た。基礎である行為能力の知解よりも 中軸である意志の愛 これを掲げるときにも おおざっぱに言って 自己到来の問題を見据えた文体過程をあゆむことが出来るであろうと見たからである。あるいは 意志の愛――要するに 自己を愛すること――は 実際じょう 意志の自由な選択として 知解行為の自由をも含みうる。さらに意志中軸の理念が 愛といったことばを使っていたとしても 空論に陥らないと思われるのは 愛は 後行する経験領域にも その領域一杯に 通じていると思われるからである。先行・後行の区別は あくまで 経験存在なるわたしの 同時一体なる過程におさまるものと考えるからである。
《わたし》じたいは 《愛》そのものではないであろうが この理念を言い出せば 《自由》を包含して かなり明確になるのではないだろうか。愛は 《自己の政府》にあって意志中軸の《民主制》のことでもあるから 経験世界の国政の民主政とも対応して 一般的に社会とも相い呼応していける。奴隷解放の自由も 男女差別からの自由も とうぜん意志中軸にはこの愛がはたらいているというほかにない。
あらためて整理してみよう。

まとめ―1
                 社会環境
                  ↑
わたし=自然本性←―――――――――→自然本性=わたし
   (人体環境)       ↓        (人体環境)
               自然環境

まとめ―2
自然本性(人間)←――――――――→社会環境(人間関係・行為事実)+自然環境

  • 精神
    • 理性(行為能力)・・・〔心理を一部分ふくめて〕先行する基本主観
    • 心理(状況反応)・・・以下 後行する経験領域
  • 身体
    • 感性(自然活動)・・・同上
    • 人体(内的環境)・・・同上

まとめ―3
―――→自然本性(人間)←―――――――――――→自然本性(人間)←――→
・・・・・精神・・・・・・・・・・・・・身体・・・・・・・・・・・←―――→社会環境
・・理性・・・・心理・・・・・・・感性・・・・・・人体・・・←―――→人間関係
(行為能力―状況反応)(自然活動―内的環境)・・・・・・・(行為事実)・・・・・
―基 本 主 観―経   験   領   域――――――経験現実―――――
・・・・〔中核理念〕・・・・・・・

  • 記憶〔平等〕・・・生活の共同体・・・・・・・・・・・・・・組織・場・・・・・・
  • 意志〔愛〕・・・・・民主主義・・・・・・・・・・・・・・・・・・自治中軸・・・・・・
  • 知解〔自由〕・・・生産(消費)・・・・・・・・・・・・・・・・経済基礎・・・・・・

―文化(結論の発見)―――-―――文 明( 文化 成果 の 応用)――――――

  1. 基本主観の三行為能力のそれぞれについて たとえば知解の理念は 自由ひとりに限られないから 経済基礎の方策の問題として 平等を 全体としてあるいは補足的に立てる社会制度がありうる。ふたつの 経済制度(経済政策)がありうるのは 文明の問題である。
  2. 《自然本性》は 存在=本質=それとしての自己=人間〔としての 己れ〕などといったように 類としての概念であり 《わたし》は 種としてのあるいは個としての 現存在とか実存といった概念をふくんでいる。
  3. 《人体としての自然環境》は 独立個であるが 《自然環境》に属している。人体も 自然環境も 構成要素(質料)が 同じである。
  4. 《社会環境》は 人間の手が加えられた自然環境を その意味で 含み 一般に人間の手が加えられたというその行為事実の関係過程である。
  5. 自然本性は 精神と身体とから成る。
  6. 《精神》は 行為能力として《理性》であり 記憶・意志・知解の三つから成る。精神の受動活動は《心理》である。理性に心理を合わせて 《基本主観》を構成する。《身体》と心理を合わせたものが 基本主観に後行する《経験領域》。
  7. 自然本性には なぞがあることをもって その基本主観は 経験領域に先行するという。わたしという存在は 経験現実と 同時一体の過程である。先行・後行は 考え方の上でのことである。
  8. なぞとは 不明瞭な寓喩であると言われる。基本主観の中核には 《理念》があって これによって それとして多少なりとも 主観内容は明瞭となる。
  9. 三つの行為能力それぞれに 理念が捉えられる。記憶には平等の理念が 意志には愛・民主制が 知解には自由が それぞれ固有にふさわしいと考えられる。このとき 自由意志を想定しており 記憶も自由である。三つの行為能力は もともと 同時一体である。しかも 自由意志の傾きによって 互いに異時異体でありうる。
  10. 傾いた自由意志のもとに 記憶・意志・知解の間に 異時異体の行為がおこなわれると コンプレックス(時間複合)が生じ 人はデーモン(鬼)作用を起こす。このデーモン反応は 基本主観と経験領域とのあいだの異時異体でもある。世の中は思い通りに行かない。
  11. 《心理》は 《感性》を通しており とりわけ 受動的である。感性は それだけを取り出すなら 自然活動(生理)のようである。《人体》は わたしたちが肉につくられているということ 自然環境の一部であるということを物語る。
  12. 社会環境・人間関係は わたしたち自然本性の外にある。感性・心理をとおしてそれをわたしたちは 受容し 行為能力によって それをつくっていく。
  13. 大きな自然のもとに 人の主観も あらゆる経験現実も ひろく同時一体の過程であるということは 人が 社会的な関係存在であることをものがたる。しかも とりわけ意志の自由選択を想定するとき 人は 社会的な独立存在であると見る。
  14. 人は 社会的な関係存在であると同時に 社会的な独立存在である。
  15. 外の《経験現実》よりも 内の自然本性のほうが より現実的である。行為の有効の度合いが大きい。主観主義に陥ろうとするのではなく 基本主観の先行をいうところから 帰結される。より現実的であることが 実際に実現しないことが多い。基本主観の有効は しばしば無力の有効である。
  16. 基本主観の内容に異時異体のことが起こると 行為は無効に傾く。しばしば 無効が実効性を持つに至る。デーモン作用の関係が生じ 社会が デーモンしがらみの交錯関係(コンプレックス)の状況を呈する。
  17. 《組織(共同体ということ)の場 / 自治中軸 / 経済基礎》の三側面から成る社会環境なる経験現実においては 基本主観の三行為能力(記憶・意志・知解)に応じて 《司法 / 行政 / 立法》から成る国政という代理を立てている。これは 現在では 国家という社会形態をとっている。
  18. 基本主観のいとなみは あたかも 内なる自己の政府としてのように 自己到来しつつ 自己表現をおこなう。これは 精神の政治学と名づけられている。
  19. 精神の政治学は 表現行為として 文体である。理念中核の耕作をもって 文化である。
  20. 国政の形態のもとに 民主政の法治社会をうたうことは 基本主観の民主制に呼応するものと考えられる。理念に対応するのが 法である。耕されてきたのである。自然本性の中核である理念は 自然法とも呼ばれる。
  21. 理念に経験領域で対応するものは 倫理・道徳・掟・慣習である。
  22. 理念は 慣習化すると 経験現実において 必然の有力となる。慣性のちからでもある。
  23. 経験現実の中の経済基礎は 基礎であって 倫理(主観相互の人間関係)を その基礎の動きによって 必然的なものとする。
  24. 経済基礎のもたらす必然性は 二種に分かれる。互いの自由意志にもとづく合意――つまり約束・契約――から来る倫理関係の必然性と 理念の慣習化による有力の固定されたもの(権威)が 意志の自由な選択を凌駕する場合の必然性と。後者の場合には むしろ悪い意味で 意志中軸が(政治力が) 知解基礎(経済生活)を 支配している。
  25. 中軸意志と基礎の知解とは 記憶(精神の秩序)とともに 互いに同等・同時一体であるというのが 自然本性の要請するところである。自然法
  26. 精神の政治学は 理念の観点から見て 文化である。経験科学等の補助手段は 補助的な文化行為である。これらは 文明経験を仕訳けしていく。一人ひとりの基本主観が おのおの 決算していく。
  27. 精神の政治学は 文体である。自然本性にあって 理念は なぞの一部分であると言わなければならないとするなら 従って 基本主観のいとなみには 理念で明らかにする文化行為以上のものがあるとするなら この精神の自治過程を 文体行為という。精神の文学といってもよいが この表現は あまり意図するところを伝えないかもしれない。 
  28. たとえば文体過程には 無効が実効性をもって有力となったデーモンに対する怒りがある。科学は 補助手段である文化行為として 怒る。
  29. いまのまとめでは 精神と身体とからなる人の 個別的なものごとについては触れていない。人の個性の問題。身体的な特徴である性についても このまとめでは触れていない。肌の色・顔かたちなどの人体の特徴である人種や 血筋ないし殊に言語の違いにもとづく民族など 種的な区別についても 同様である。これらは 後行する経験領域に属する。
  30. また 社会環境における後行する経験現実に属するところの《身分ないし階級》なる種的性質についても触れていない。前項の個別的なことがらと同様に  これは わたしたちの《外》のものである。これらを科学的に考察し文体展開するのは 先行する基本主観のものである。
  31. 経済基礎の必然のちから――理念有効的なものと観念有力的なものと両方がある・そしてそこでは 意志中軸がそれぞれ〔別様にだが〕同時にはたらいている――にもとづいて起こる社会階級としての人間関係は まず第一に外なるものである。これを 文化行為していく作業は 内なるものである。だから その内なる文化行為(社会科学)にもとづいて 理念の有効を 経験現実においても うたい実現させていこうというのは――つまり 社会階級関係を しかるべきは然るべきように つくり変えていこうというのは―― 基本主観の代理たる国政の次元でおこなうことが そのまま代理次元の一手段である。代理に先行する生活において実現させていこうということが 精神の政治学のいとなみである。
  32. 後行し外にある経験現実におけるものとしては 一定の民族社会という場に即した・文明の問題としての方式が考え出されるであろう。外のものであることに対して 精神の政治学は 歴史的な展望をことさらにしないし たしかにその展望(理論)を 自己の根拠とはしない。
  33. 国家政府を民主主義の理念のもとに さらに作り変えていく経験行為は 精神の政治学において《自己の政府》を民主制とする文体行為に先行される。ただし 後行する領域での文化行為こそが 先行する全体行為を証言する場合がある。
  34. 後行(外)が先行(内)を実現させたりしないし 凌駕して優勢とはならない。なったら 無効である。と考えられるが 証言しうる。単純なことであるが 文明の問題に属する変革の方式の多様性が それである。多様性の中で 対立する方式・見解があるということが また それらの中から選択するということが 先行の精神の政治学のあることを証言している。あたりまえのことのようだが 立ち場の選択を保留することをも含めて 後行・部分のことがらが 先行・全体のことを 証言する。ここには 先行する《わたし》の――法経験的に 基本的人権の――領域があることを物語る。
  35. 個別的なことを措いて考えるなら 手放しで楽観する状況だとも考えられる。現代の国家政府は およそ個人の民主制なる理念にもとづき 法のちからのもとの民主主義を理念としているのだから およそ生活者一人ひとりの 精神の政治学およし補助科学にもとづいた総合的な文体展開の過程として これを進めていくことができる。文化が普遍的であるならば 文明もその中核理念の問題として 多様性のうちに普遍的なものになっていくであろう。 

(つづく→2005-02-24 - caguirofie050224)