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哲学いろいろ

文体――第四十三章 井戸端会議に始まり・・・。

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-23 - caguirofie050223よりのつづきです。)

第四十三章 井戸端会議に始まり・・・。

エントロピーの理論というものがある。大きく長期には人体を含めて 自然環境が そのまま自然行動をするという観測にもとづいたものである。その言うところは この自然運動が 人間の基本主観から限りなく遠い状態にあって 絶えずその状態(上限として一定の平衡状態があるらしい)のほうへ進んでいくというものである。自然環境の運動は――人間の文化行為によって手を加えられることをも含めて―― ほとんど理念とは無縁でありつづけるという観測結果である。人間なる生物は 理念にもとづく文化行為をなすことによって 自らそのものは それなりの秩序のもとにあるということらしい。そのほか 必ずしも秩序状態ではないが かと言って 無秩序の状態へ突っ走るのでもなく 混沌とした状態を続けるという場合もあるそうだ。
問題は この自然科学の理論が 社会科学にも応用されて言われる場合だと思われる。熱力学などの観測結果について争う必要はないと考えられる。
エントロピーとは 理念と無縁な状態であるように思われる。無秩序とは 基本主観の記憶行為としての組織秩序から遠いことだと思われる。
個々の人間は それとして エントロピーの増大する自然運動から自己を保持し管理することが出来ても その社会全般としての結果状態では 無秩序なるエントロピーは高まっていくという。だがこれに対しては わたしたちはそもそも このようなエントロピー状態というのは わたしたちの外にあるものだと言えば済むだろうか。そのあとのことは 知らない。

いかなる形態にしろ 社会活動の複雑化は(善とか悪とかに関係なく)そのままエントロピーの増加につながる。
人間が寄り合って生活していくための機構を 民主制度にするか独裁制度にするか 資本主義でいくか社会主義ないしは共産主義にするか それぞれの違いはある。しかしいかなる制度にするにせよ 速かれ遅かれ エントロピーは増大していく。
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そのとおりなのであろう。そして同時に 人間の内なる基本主観はひとつであり その中核理念は いくつかあっても理性概念として普遍性をもっている。エントロピーの増加する領域は 心理の経験領域での慣習化の部分であるか または社会環境の経験現実としてであるかである。けれども 国政は 基本主観の 理念の代理世界であり 人間の内なるではあるが後行する経験領域は 理念の慣習化としての複雑化・エントロピー化にさらされている。人間の理性行為能力やその中核である理念は 単独のかたちで取り出すことにはあまり意味はないだろうが それとして エントロピーが零であるか それに近いであろう。文化および文明の発展の余地は――とうぜん経験科学の補助とともに―― まだ大きいと思われる。複雑化した文明環境を わたしたちは 文化行為としての文明経験の仕訳けとともに あるいはそれ以上に 基本主観のなぞの開拓としての文体行為とともに 管理していくであろう。つまり ことさら管理しなくてもよいといったかたちで 管理していくであろう。――地球という自然環境がほろぶ つまり太陽がちから尽くといった場合などについては わたしたちは知らないのである。
それにしても 基本主観そのものとして なぞの自然本性そのもの同士として わたしたちは エントロピーが零の状態で話し合えないものだろうか。

  • 理念そのものになることではない。天使になることではない。天使の存在を欲することはあっても その能力を欲するのではなかった。なぞのほうに力点があり そのことは むしろ 後行する経験的なデーモン領域との結びつきに焦点を合わせている。そのとき わたしたちは 天使の存在を欲して この天使をわたしたちに仕えさせることにまで到達するであろうと考えられる。外なるエントロピーは 不可避のものは不可避であるだろう。 
精神の政治学は外へ出かけない。

外に出かけないとき 外では 同じ精神の政治学過程が展開されているであろう。つまり 外に出かけなかった自治過程としての文体展開が むしろ外で――天使の存在とその働きを欲した結果としてのように――有効となっているであろう。しばしば無力の有効ではある。
外に出かけないときには 経験科学による論証以外のやり方でも わたしたちは 精神の政治学を持つ。たとえば日常生活の文脈の中で わたしたちが怒るとき あるいはその前に苦しみをうけるとき

《・・・
シオンは産みの苦しみをなす前に産み
その苦しみの来ない前に男子を産んだ。
だれがこのような事を聞いたか
だれがこのような事どもを見たか。
一つの国は一日の苦しみで生まれるだろうか。
一つの国民はひと時に生まれるだろうか。
しかし シオンは産みの苦しみをするやいなや
その子らを産んだ。
わたしが出産に臨ませて
産ませないことがあろうか》と
主は言われる。
《わたしは産ませる者なのに
胎をとざすであろうか》と
あなたの神は言われる。
旧約聖書〈7〉イザヤ書66:7−9)

といった精神の政治学を じっさいには 聞いているのである。文体は 信じるものではなく 信じさせるものであるから 経験科学の行き方へ禁欲していくことを解く場合があるし そのほうが一般的である。外へ出かけないということをあげつらうために いまいちど こういう表現の文章を見てみることができる。

見よ わたしは新しい天と 新しい地とを創造する。
さきの事はおぼえられることなく
心に思いおこすことはない。
しかし あなたがたはわたしの創造するものにより
とこしえに楽しみ 喜びを得よ。
見よ わたしはエルサレムを造って 喜びとし
その民を楽しみとする。
旧約聖書〈7〉イザヤ書65:17−18)

《新しい天と新しい地》とは 自然環境のことを 少なくとも表現じょう言っているのであるから これの精神の政治学への受容は 現実としての都市であるとか生活共同体のことであると 文化行為するはずである。これは 《外に出かけない》ことが 《外と切り離されているのではない》ことを示す場合である。
マルクスは このような文化行為を 経験科学の行き方をもって 表明したと考えられる。

共産主義がいままでのすべての運動(文化行為かつ文明運動)とちがうのは つぎの点である。すなわちそれは すべてのいままでの生産関係ならびに交通関係の基礎(《基礎》!)を変革し すべての自然成長的(これは=経験領域的)な前提をはじめて意識的に〔理念のもとに置き〕いままでの人間の創造物(文化成果)としてとりあつかい それらの前提の自然成長性(=理念実現の旧い慣習性)をはぎとって 結合した個人たちの力にそれらを服従させるのである。・・・
マルクス/エンゲルスドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)1845−46〈〔C〕共産主義。――交通形態そのものの生産〉)

引用を途中で打ち切ったのだけれど このような 精神の政治学の 理念的または経験科学的な文体展開。こうして主張されようとしている中味については まだ吟味していないが こういった文体展開には とうぜん 《外に出かけない》ところの・だから内的な・言わば《新しい天と新しい地の創造》の問題が 先行していると――同時一体だが かつ 先行していると――考えられるし じっさい こういった経験的な文体で言わんとするところは(つまり 相互理解の中核となるところは) 先行条件の理念的な文体が その中味なのである。早く言えば理念に訴えているのである。天使の存在を欲しているのである。
具体的に このマルクスを吟味していくべきである。
第一に さらにこの主張に関して

一つの国民の内部においてさえ諸個人は かれらの財産関係を別としても まったくちがった発展(文明形式の)をたどる。そしてさらに前代の利害(経済基礎の)は その特有な交通形態(文明の形態)がすでに後代の利害にふさわしい交通形態によっておしのけられてしまっていても なおながいあいだ 個人にたいして独立化された(観念デーモンの必然有力化された)みせかけの共同体(国家 法――原文註)のうちに一つの伝統的な力をもちつづけてゆく。この力は結局はただ革命によってのみ打破されうるのである。
ドイツ・イデオロギー 手稿復元 新編輯版 同所)

というとき これは つまり《革命》は おおいに経験現実・経験行為にかかわったものとして 言われている。言っているのは 基本主観の政治学である。
次に 基本主観の政治学を 理念のもとに意識して扱う場合

つぎのことも説明される。すなわち より一般的な概括をゆるすような個々の点からみて なぜ意識がときどき同時代の経験的諸関係よりもさきへすすんでいるようにみえることがあるのか したがって後代の闘争(要するに生活)において前代の理論家たちが権威としてよりどころとされうるかということである。
(同上新版 ドイツ・イデオロギー

すなわち 経験行為として《革命》――その主張の中味にかんして わたしたちはまだ吟味していない――を主張する先験的な精神の政治学が――その先験性が――問われているし 説明されようとしている。故意に議論をひやくさせて これに対して 《理論のよりどころ》ではなく 精神の政治学の 時代を超えた普遍性という点で さらに《イザヤ書》を引いてみる。

《何ゆえあなたの装いは赤く
あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか。》
《わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
もろもろの民のなかに
わたしと事を共にする者はなかった。
わたしは怒りによって彼らを踏み
憤りによって彼らを踏みにじったので
彼らの血がわが衣にふりかかり
わが装いをことごとく汚した。
報復の日がわが心のうちにあり
わがあがないの年が来たからである。
わたしは見たけれども 助ける者はなく
怪しんたけれども ささえる者はなかった。
それゆえ わがかいながわたしを勝たせ
わが憤りがわたしをささえた。
わたしは怒りによって もろもろの民を踏みにじり
憤りによって彼らを酔わせ
彼らの血を 地に流させた。》
旧約聖書〈7〉イザヤ書63:2−6)

これは すべて 経験領域のことばで言われている。その限りで マルクスとの関連を見ようと思えば 経験行為としての《革命》が 出てくる。マルクス自身に関連がなくてもよいわけで いまは 精神の政治学なる文体展開における 基本主観と経験領域との結びつき方をとらえようとしているのである。
わたしは 先行する精神の政治学が外に出かけないと言うとき その先験性が 観念の問題とはほど遠いことを なんとか理解しようとしているにすぎない。
ドイツ・イデオロギー》が 最初の引用文につづけて 次のように述べるとき 《革命》という主張の中味についても 吟味してみることができる。

〔・・・服従させるのである。〕したがって 共産主義の建設は本質的に経済的であって この結合の諸条件を物質的につくりだすことである。それは既存の諸条件をば結合の諸条件とする共産主義がつくりだすところの現存物こそ 個人から独立したすべての現存物を この現存物がやはりなお個人そのもののいままでの交通の産物にほかならないかぎりにおいて 不可能にしてしまうための現実的な土台なのである。

  • 理念とは無縁なエントロピー的なエネルギーをもって 自然運動するところの 《個人から独立したすべての現存物(そういった文明過程の経済基礎の側面)》としての 経験現実=社会環境たる必然の有力 これから自由になることができ これを管理し《服従させる》ことができるというかたちである。

だから共産主義者たちは実践的に いままでの生産および交通(これによって《意志の中軸》を見ている)によってうみだされた諸条件を 非有機的なものとしてとりあつかう。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

これに対してわたしたちの観点は これら社会環境=経験現実=それとしての文明の《諸条件》を 《非有機的なものとしてとりあつかう》のではなく 《外にあるものとして取り扱う》。

〔必然の有力の〕矛盾がまだおこってこないあいだ諸個人がたがいに交通しあうばあいの諸条件は かれらの個性にぞくする諸条件であり かれらにとってなんら外的なものではない。
(同上)

というとき――つまり 階級関係が 歴史的に あたらしい形をとったばかりで その矛盾が まだ起こってこないあいだの段階で―― この《個性に属する諸条件》は やはり《文明の》であって もし自然本性たる個人の内部であるなら 《外的なものではない》としても 後行する経験領域たる心理・感性に属するものと わたしたちは考える。だから 《後行する経験領域》および《外なる経験現実環境》のふたつは 基本主観に先行されるとは言え 逆に 《有機的な》文明の諸条件と考える。それとして つねに 取り扱う。
《矛盾が起こって 非有機的で よそよそしい見せかけの文明状況になった》なら 《革命》が――経験行為たる革命が―― 基本主観内部のものとなるということではあるまい。いままでの歴史において 社会的な矛盾がはなはだしくなったときには つねに 革命が起こった(言い換えると そいういうかたちで 経験的にエントロピーが最大となった) と見るとしても ゆえに 革命だ!ということには まだ なるまい。それの選択・判断が まだ保留されている。だから 経験行為に先行する 基本主観の政治学の領域が 存在している。これゆえに マルクスは 文体を展開する。だから まず 《観念デーモンの必然が有力となり基本主観が無力となっているよそよそしい見せかけの文明状況》も 上の議論から言って ――ことばの問題だけとしても――有機的なものであり かつ それは もともと 外的なものである。として取り扱う。おそらく まず 皆が こう生きている。
だから 革命を起こすなとも 起こせとも よう言わないけれど 文体の 精神の政治学の問題としては 社会政治経済的な革命は 外的なものであり だから階級は 外のものである。理念は 結果であり なおかつ 初めの結論であって 社会階級関係という矛盾(エントロピーの増し加わる・あるいはデーモン関係的な人間関係)のいま起こっているときにも この矛盾から まず 自由である。無力の有効として自由であり しかも 文体は ここに過程している。マルクスが この過程的な文体の第一原則を離れたわけではあるまい。
文体の自由な展開過程たる社会の《建設は 本質的に経済的であって》ということは その経済基礎と自由意志の中軸と平等記憶の場とを合わせた《本質=存在的に 自然本性〔の生活〕的であって》というのと 同じである。《革命》がもしゆるされるとすれば これら全体的な文体の展開過程の中の一方式としてである。革命・社会階級は 先行しない。革命者にあっては この外なる社会階級関係の矛盾を受容して形成したかれ自身の精神の政治学の 経験行為実践が そのとき 先行する基本主観の存在と同じものとみなされたことを意味する。

これにたいして共産主義社会では 各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ 社会が全般の生産を規制する。そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気の向くままに今日はこれをし 明日はあれをし 朝には狩りをし 午後には魚をとり 夕には家畜を飼い 食後には批判をすることができるようになり しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。

  • 途中の議論を――それが重要だけれど――省略して(なぜなら いまは 理論内容そのものをではなく ふたたび 精神の政治学において 先行する無力の基本主観と後行する有力といえば有力の経験領域との 結びつきのあり方を 問おうとしている) 結論的な理論内容のみを 取り上げる。

この共産主義的意識の大量的な産出のためにも また事業そのものの貫徹のためにも 人間の大量的な変化が必要であり(――これは 基本主観の確立のことを問題にしていると思われる――) そして(――つぎは 経験領域行為である――) これはただ実践的な運動すなわち革命においてのみおこりうるのである。だから革命が必要であるのは たんに支配階級が他のどんな方法によってもうちたおされえないからだけではない。さらにうちたおす階級が ただ革命においてのみ いっさいのふるい汚物をはらいのけて社会のあたらしい樹立の力を あたえられるようになりうるからである。
ドイツ・イデオロギー 新編輯版 (岩波文庫)

これにもかかわらず――このように 外なる経験領域を 内なる自己の政府の採るべき不可避の行為とするかたちで 革命を位置づけるにもかかわらず――その革命を標榜する政党が 現代では おおむね合法化されている。共産主義政党が国政を代理する社会主義社会も これらの表現からいけば 《いっさいの旧い汚物》をもったとされる資本主義社会の国家と おおよそ経済社会政治的に 交通しあっている。(その盛衰の歴史を わたしたちは 見てきた。)この部分的な実現の経験の有無とは別に もし マルクスの出発点に 正統なる精神の政治学があったと主観共同されているとするならば そのときには むしろ当然のごとく・そしてその後の世界史的な展開の内容がどうであれ 《精神の政治学は 外に出かけない――したがって 革命という外の経験行為とは 別だ――》という文体の法則に みんなが 立っているということになるのではないだろうか。
ちなみに もし仮りに 《私はまったく気の向くままに今日はこれをし 明日はあれをし》というような《共産主義的な意識と生活》は すでにその表現内容として外に出かけたのだとするなら 外に出かけないその精神の政治学は 次のような文体を聞いていたし じっさい既に知っていた。前述の《あたらしい天とあたらしい地》の主題のもとにある。

わたしは エルサレムを喜び わが民を楽しむ。
泣く声と叫ぶ声は 再びその中に聞こえることはない。
わずか数日で死ぬみどりご
おのが命の日を満たさない老人とは
もはやその中にはいない。
百歳で死ぬ者は なお若い者とせられ
百歳で死ぬ者は のろわれた罪人とされる。
彼らは家を建てて それに住み
ぶどう畑を作って その実を食べる。
彼らが建てる所に ほかの人は住まず
彼らが植えるものは ほかの人が食べない。
わが民の命は 木の命のようになり
わが選んだ者は
その手のわざを ながく楽しむからである。
彼らの勤労は むだではなく
その生むところの子らは 災いにかからない。
彼らは 主に祝福された者のすえであって
その子らも彼と共におるからである。
彼らが呼ばない先に わたしは答え
彼らがなお語っているときに わたしは聞く。
おおかみと小羊は共に食らい
ししは牛のようにわらを食らい 
へびはちりを食物とする。
彼らはわが聖なる山のどこでもそこなうことなく 
やぶることはない と主は言われる。
旧約聖書〈7〉イザヤ書65:19−25)

おおかみは小羊と共にやどり
ひょうは 子やぎと共に伏し
子牛 若じし 肥えたる家畜は共にいて
小さいわらべに導かれ
雌牛と熊とは食い物を共にし
牛の子と熊の子と共に伏し
ししは牛のようにわらを食い
乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ
乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても
そこなうことなく やぶることがない。
水が海をおおっているように
主を知る知識が地に満ちるからである。
旧約聖書〈7〉イザヤ書11:6−9)

精神の政治学は 外に出かけないけれど 経験領域の現実の文明行為を行なわないのではないから その点は かさねて 留意しておきたい。単純に

あなたがたの言い分を持ってきて述べよ。
また共に相談せよ。
旧約聖書〈7〉イザヤ書45:21)

というとき 内なる自己の政府の議会と 外の経験行為としての文明過程とを 同時に 示している。問題は もし理念がそれとして結論であるとするなら わたしたちは すでに自己の政府の内に その結論を聞いていたということだと思われる。

あなたがたは さきの事を思い出してはならない。
また いにしえのことを考えてはならない。
見よ わたしは新しい事をなす。
やがてそれは起こる。
あなたがたは それを知らないのか。
旧約聖書〈7〉イザヤ書43:18−19)

と聞くとき すでに諸理念を知っていると考えるべきである。理念主義でも 理念体系の美の構築主義でもなかったが。
あるいは 次のように ことばとしては矛盾した言い方をしたほうが 基本主観のあり方をいっそうよく捉えるとこができるというべきだろうか。自己の政府の《民主制》の内実の問題なのである。

恐れるな わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ。
あなたはわたしのものだ。
あなたが水の中を過ぎるとき
わたしはあなたと共におる。
川の中を過ぎるとき
水はあなたの上にあふれることがない。
あなたが火の中を行くとき 焼かれることもなく
炎もあなたに燃えつくことがない。
わたしはあなたの神 主である。
旧約聖書〈7〉イザヤ書43:1−3)

表現の問題であらそわないとすれば 理念が理念として実現したあたらしい舞台と時とに わたしたちは あると考えてよいと思われる。

エルサレムよ 起きよ 起きよ 立て。
旧約聖書〈7〉イザヤ書51:17)
シオンよ さめよ さめよ
力を着よ。
(ibid:52:1)
起きよ 光を放て。
あなたの光が臨み
主の栄光(無力の有効)があなたの上にのぼったから。
(ibid:60:1)

(つづく→2005-03-04 - caguirofie050304)