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哲学いろいろ

文体―第二十五章 理念の位置

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-02 - caguirofie050202よりのつづきです。)

第二十五章 理念の位置

カントとの異同

イマヌエル・カントとの異同――。

  • 理念(Idee)は 理性(Vernunft)の所産である。(??・2・2・2・2・4)
  • 理念は ア・プリオリな認識源泉(――先行する基本主観――)に属する。(??・2・2・付録〔かっこ内は引用者〕)
  • 理性概念(Vernunftbegriffe=理念)の旨とするところは 理性による理解である。(??・2・2・1)
    純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

    純粋理性批判 上 (岩波文庫 青 625-3)

つまり このようであるのにすぎないのに

  • 理念が現物的な物の概念と取り違えられるとその適用(――だから わたしたちの言うごとく観念として適用されること――)において超越的となる。(??・2・2・付録)
  • 純粋理性の理念はそれ自体 弁証法的なのではない(――経験行為の過程的であるという文体の第一原則的なのではない――)。ただそれが誤用されると仮象(――やはり 観念。その念観の作用はデーモンという鬼――)が生じるのである。(同上)

したがって

先験的弁証論(transzendental Dialektik。――先行する基本主観の領域〔のみ〕に焦点をあてて議論する文体――)は 悟性(知解能力)および理性の超自然的使用(観念化・天使化)を批判し 悟性および理性のかかる越権行為がなんら根拠をもたないにも拘らず あたかも正当な権利を有するかのように装う欺瞞(――観念デーモンの必然有力――)を暴露する批判である。
(??・2・緒言・??)

わたしたちの言うところの 後行する経験領域に基本主観が《先行する》というのは そのまま《先験的》とよんだほうがよいのかも知れない。いちおう 《先行 / 後行》は 《ア・プリオリ / ア・ポステリオリ》とよぶことにし その同時一体をむしろ表に出す調子で これからも すすめたい。その同時一体の文体過程つまり文体の第一原則を 《弁証法》とよんでもよい。精神の政治学は弁証的(ディアレクティーク)である。独立主観(ロゴス)の対話・交通(ディア)過程であり 二者(ディア)の関係過程にある独立主観である。
そしてカントは これを 形而上学――旧来の形而上学の批判――として 文体するものと思われる。この行きかたは いわば指紋を残さないというかたちを自己の指紋とするように見える。それとして 人間のことば 理性的動物に到達しているものと思われる。わたしたちは あるいはわたくしは 個性として趣味として 中間段階の過程を言ってみれば忠実に 重視して 表現する行きかたをとっている。以上は ひとこと カントに敬意を表したものである。

理念の位置ということ

カントに逆らったようにでも 男と女は平等で 人間は自由であると〔いう理念〕は なにゆえそうか。まず 理念の位置といった事柄を取り上げる。
ふたたび カントは こう議論する。

たとえどのような理由からにもせよ 我々の意志は自由であると断定するだけでは十分ではない・・・我々は 自由を 理性的でかつ意志をも賦与されているような存在者一般の活動に属するものとして証明せねばならない。そこで私はこう言おう ――自由の理念のもとでしか行為し得ないような存在者は まさにそのことの故に 実践的見地においては実際に自由である(――無力で有効な自由である――) と。
(¶3)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

道徳形而上学原論 (岩波文庫)

じっさいカントにあっては 《理念のむねとするところは 理性による理解である》。人間は自由で平等であるという理念のこころざすところは 理性(基本主観)による理解である。経験領域のものごとへの理解を措くとすれば つまりそれらに先行するものは 基本主観による基本主観の理解である。自己到来のことである。つまり ここに 理念の位置。カントは 《義務》ということばで この自己到来のことをいうのであるが

愛とは感覚の事柄であって 意欲の事柄ではない そして私が愛しよう と意欲するからとて ましてや私が愛すべきである(愛すべきように強制されている)からとて 愛することは出来ない。従って愛するという〔理念そのものとしての〕義務は無意味なことである。・・・けれどもあらゆる義務は強要であり 強制である たといその強制が〔客観〕法制による自己強制であるにしても。ところで強制から為されることは愛から生ずるのではない。
(〈徳論への緒論〉)

道徳哲学 (岩波文庫 青 626-1)

道徳哲学 (岩波文庫 青 626-1)

と言ったあとに――もしくはやはり それらに先行して―― 基本主観(理性――また意志としての愛――)の存在・行為能力そのものとしての義務のことを 言っている。つまり 《義に対する愛の確立 / しかも 自由意志の確立》のことを 言おうとしている。《理念》――たとえば 自由・平等・愛――は こういったところに こういったかたちで 位置すると。
要するに わたしたちは 文体〔の主体〕の問題として 基本主観の一般は ――それが依然として想定であり仮定でありながら また 定義上の想定であることのゆえに―― ひとまず終えたと見なして 新しい段階に入っていくかのように なぜ理念かを問うことを始めようとしている。理念の位置がいま見ているようであるならば やはり 批判の立ち場から なぜ理念かを問う。なぜなら 観念的な精神の政治学も そのデーモンの有力の中に そしてこれを保守しようとしてのように むしろ理念を立てるからである。男女差別者は 全面的に 差別論者なのではなく 平等の理念を知っており 時にこの理念を利用して 差別をではなくとも一般デーモン関係を保守しようとする。つまり 建て前と実態との 理念を実用した 使い分け。この夜から わたしたちは 始める。カントもそうしているはずだが 予備的(propaedeutic)である色彩が濃い。指紋は残すのだが・つまり歴史を夜から始めるのだが 残さないことを自己の指紋とするというべき傾向を 予備的な色彩という。予備は 予備(また補助)であり 《教育のため・教育の前段階←propaedeutic》といっても 他人が人を教育することはできないと――だから 義務でない義務 自然本性の義務一般のことを――言っている。だから これに敬意を表しつつ わたしたち自身の――指紋の問題としても――文体をおのおの 展開していかなければならない。

日本国憲法において わたしたちは 理念をどう扱っているか
  • すべて国民は 法の下に平等であって 人類 信条 性別 社会的身分又は門地により 政治的 経済的又は社会的関係において 差別されない。(日本国憲法 第十四条一項)
  • 華族その他の貴族の制度は これを認めない。(同上 同条二項)

この第二項の《平等》は 法律的・制度的な問題をあつかっている。精神の政治学においては 経験領域に属しているものとして扱う。経験領域には 性が存在し それをめぐるもろもろの概念がデーモン観念化すれば その差別も現われる。つまり これを おそれ 精神の政治学の歴史的な進展の観点から言うとしても 重要視するものであるが それは 基本的に どうでもよい領域である。だから もはや貴族の制度はないとともに 天皇ないし皇室の制度(憲法・第一章〔1−8条〕)も 経験的にとらえるという体裁のもとにある。
つまり 憲法とか法律の条文等は 文体として その主体がいないかのようであるが(また 事実 日常生活の個々人の文体とは 異質であるが) 《主権が国民に存する》(憲法・前文)のだから 条文等の文体の その背後の主語つまり主体は 《国民》である。つまり《国民》という概念で 各主観の共同というかたちをとっている。みんなで こう取り決めたというほどの意味である。

  • ただし 細かいこととして 天皇家が《国民》であって この憲法の制定に賛成したのであるのか等々は わからないかたちとなっている。天皇は 国民の一人なのか。そうではないと解されてもしかたないようにも映っている。もっとも 国民(経験領域)であることによって 上の第十四条のような自由で平等な人間でありうるというのは 文体論として おかしいはずだから ゆえに天皇制にかんする議論は一筋縄ではいかないから いまはここまでである。つまり 人間であることのゆえに 国家があって国民であって天皇の制度も取り決められているという方向を 文体論は 主張するが そういうたぐいの文体にかんする議論・世論を俟ってでないと 国家制度の問題は 議論できない側面がある。だから いまはここまでである。また 文体論は それ自身として 経験領域において未来の制度とかを論議することから自由であり まして文体じたいの将来のあり方などといったことを展望しはしないから まず 現在であり まず文体である。

いまは 《性別》の問題に例をとって議論する。この共同主体のようなかたちの《国民》という概念を措いて考えるとすれば 第十四条一項は 《人は 性別により 差別されない》と文体したわけである。わたしたちの前章の議論・《男と女はなにゆえ平等か》は この たとえば 憲法の条文に関係する。
もっとも憲法では やはり わたしたち日常生活者たる主体は 《国民》という概念で語られ 《平等》は 《法の下に》であって《差別されない》のは 《政治的 経済的または社会的な関係において》だという 全体として 文体の構造をもつ。これは かんたんに言えば この第二項の《貴族制を認めない》ことと 同じ性格のものと言わなければならないのであって 言いかえると 第一項も おおすじでは(もしくは 形式上は) どうでもよい経験領域にかんする議論なのである。性の存在しない基本主観における精神の政治学(人間の自己到来ないし自立)の問題は ここでは 《信条》の領域であって これには 憲法は 触れない。触れない(自由だ)というかたちで触れている。ということは 精神の政治学と同じ自由な文体過程の一環としてであるか。一環としてである。と同時に 《法の下に》おいてであるから 法に触れるか触れないかの基準によって 判断(裁判)するのだから 精神の政治学本体の 補助手段である。つまりこの場合 後衛の役割りを果たすものだと思われる。
精神の政治学は 《法の下に》たる経験領域を どうでもよいと見なし かつ おそれ したがって重視するが 《平等》〔という理念〕は 《法を超えて つまり 法律に先行して》であることを 定義(想定)している。そして これの 経験科学による論証が 待たれている。法律に掲げてうたえば 論証されたということにもならない。わざわざ この経験科学による論証といった補助手段の行為を ここでは 重視するのは ほかでもなく 今ではすでに 法律も 《理念》をうたっているからである。その限りで 経験現実において なかんずくその観念デーモン関係の部分の有力なる側からも この法律における建て前としての理念を その必然的な有力性にまかせて あたかも自己の精神の政治学とするということが生じると見るからである。
早い話が 観念の政治学は ある時には 理念の理念たること・つまり 法に先行する各自の基本主観を理解するための概念たるその位置を 知っていて 経験領域はどうでもよいのであって 男女平等の理念ならこの理念を 杓子定規として 実行することはむずがしいと訴えるし またある時には この理念を念観し広くその観念を盾にして 機械的に今度は実行させてしまう という・いづれも 自己に都合のよい理念や法律の利用をおこなう。という問題が生じているし 精神の政治学の問題は 広く こういった理念――法の下の・あるいは新しい法律を立てていくところの――にまつわった問題というかたちになっている。ここでは なぜ平等か なぜ差別をしてはならないのかの経験科学による論証が 精神の政治学の歴史的な進展のひとつの焦点である。
日本国憲法(昭和二十一年十一月三日公布 二十二年五月三日実施)の前文は つまりわたしたちの憲法も この憲法法律に先行するところの基本主観の問題を 次のように処理している。

われらは いづれの国家も 自国のことのみに専念(――《専念と断念》!――)して他国を無視してはならないのであって 政治道徳の法則

  • つまりこれが わたしたちの言う《精神の政治学》の領域であり 《法則》というのは この領域の《勝利ということ》たる過程を示している。

〔政治道徳の法則〕は 普遍的なものであり この法則に従ふことは 自国の主権を維持し 他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国憲法 (講談社学術文庫) 前文)

経験科学による論証を避けて《信ずる》という表現で 処理している。つづけて

日本国民は 国家の名誉にかけ 全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
日本国憲法 (集英社文庫) 前文)

と述べて 経験行為としての文体展開の問題を 《誓ふ》ということばで 表現した。なぜ《信ずる》か なぜ《誓ふ》かは 補助的な手段の領域であり その補助手段としての論証・認識には 触れていない。わづかに 情況経過の認識として

日本国民は 正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し われらとわれらの子孫のために 諸国民との協和による成果と わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し 政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し ここに主権が国民に存することを宣言し この憲法を確定する。
全訂 日本国憲法 前文)

と言った。精神の政治学における具体的な理念内容の 経験科学による論証は 保留されている。正当にも 保留されていると言えるし また いまでは――前章までに議論してきたいきさつから言えば―― それでは 不十分であるとも言わなければならない。上の文につづけて

そもそも国政(――つまり 精神の政治学の経験領域の部分――)は 国民の厳粛な信託によるものであって その権威は国民に由来し その権力は国民の代表者がこれを行使し その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり この憲法は かかる原理に基くものである。
日本国憲法 前文)

とやはり 《基本主観の先行性》の問題を 経験科学的なことばにしてはいるが 《人類普遍の原理》として 逃げた恰好である。
そうして こういった前提――文体の 構造的な前提――のうえで 共同生活をおこなっていこうと 取り決めあったことになる。生活者を《国民》として だから その社会を《国家〔間の関係〕》として そういった前提での文体である。

  • また さきほどの問題としては 《天皇》には 選挙権がないとされているのだから 取り決めあった人びとのひとりであられるのかどうか それについても 皇室の人びとの意志がどうなっているのか よくわからない。こういった前提での文体である。

《普遍的な政治道徳の法則》《人類普遍の原理》は これを《信ずる》と言って 先行する基本主観の問題をあつかい そのうえで 後行する経験領域においては 既存の 国家という社会形態にかんがみ これを ともかく取りあえず 生活のための約束事のもう一つの前提枠としたわけである。この行きかたは ひとつの行きかたであり さらに現在では これが 経験的に一つの正当な行きかたであるゆえに 時代の移行とともに さらに知りうべき事柄を知って 補助手段としてながら 経験科学的な認識・論証を 《はじめの前提》について 要請しているというのが わたしたちの見方である。いや その主張である。

日本国民は 恒久の平和を念願し(――《念観し》ではない――) 人間相互の関係を支配する崇高な理想

  • 《支配》ということばの問題で争わないとすれば この《理想》は わたしたちの言う《理念》の問題である。理想というほうが 理念よりも 経験領域的である。

〔崇高な理想〕を深く自覚するのであって 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して

  • なぜなら 《義に対する愛》=《勝利ということ》のひとつの理念は 《平和の愛》であろうから。

われらの安全と生存を保持しよう(――ふつうに生活していこう――)と決意した。
われらは  平和を維持し 専制と隷従 圧迫と偏狭〔――といった観念のデーモン関係――〕を地上から永遠に除去しようと

  • 《永遠》と《除去》との表現は 《無力の有効の勝利ということ》から見れば ことばのあやであるとも考えられる。

努めてゐる国際社会において 名誉ある地位を占めたいと思ふ。

  • すでに 経験領域の問題に限定すると言ったのであるから 《名誉》の問題つまりどうでもよい・文体の経験行為のことばで 表現する。

われらは 全世界の国民が ひとしく恐怖と欠乏(――観念のデーモンの有力の恐怖――)から免れ 平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
日本国憲法 前文)

観念のデーモン関係の有力に対する闘争(共同自治)としては 《権利》の概念で つまり デーモンの有力に対する社会共同自治としての有力の概念で これらを《確認する》し ふたたび取り上げれば そのあとに 《国家の名誉にかけ 全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ》とむすんだ。《崇高な理想(つまり 基本主観の内容たるいくつかの理念)と目的(ふつうに生活すること)》を 確認するのではなく それ《を達成することを誓ふ》と文体展開した。
問題は こういった前提枠のなかでの 各種法律の起草・実施・司法とか 法学以外に社会科学の各分野での概念整理とかは どうでもよいことであり かつ これらを重視し そこでの基本的なもんだいとしては 《人類普遍の原理を信じ その達成を誓う》という生活態度(つまり 文体過程)のほうにあり ただし この原理・政治道徳の法則じたいは 或る意味で 共通に了解されているのであるから――だから 《信ずる》とのべた―― その具体内容たる理念が なにゆえに 理念であるか これを 明らかにすることである。
なぜ 男女は 平等であるのか。
《法の下に平等であり 性別により 社会制度的に 差別されない》こと・またその実施方を見守っていくこと・実際に実行していくこと これは 経験領域の問題である。もちろん そこでも 基本主観の精神の政治学が 同時一体であり かつ 先行しているが いまは この先行領域を《信ずる》・その達成を《誓う》という表明によって 文体を展開していくのが 問題なのではない。
また 哲学的に この先行領域の基本主観ないし自然本性たる人間をあきらかにしていく――つまりそれは それも 補助手段であるが――ことも 必ずしも 当面の問題なのではない。(同じ問題なのだが いちおう議論しおわったとして あたらしい段階に入ったととらえている。)つまり 哲学的にも この自然本性を考究するなら そこに 必然的に 数々の理念内容も付随しているはずであり それなりに論究されたことになるわけだが さらに――この哲学という学問にとっても―― 基本主観の《原理》を《信ずる》ことによって そこから 理念内容をみちびくというやり方では 不十分なわけである。言いかえると それはむしろ 十分な条件であるようにも考えられるが 現代では そのような理念が 法律にも掲げられ それなりに普及しているとするならば 局面が変わったのではないかととらえられる。
男女平等の理念は 獲得された。これを さらに 文体展開していく。とき なぜ この理念が掲げられるのか。なぜ ただしいか。
《人種 信条 性別 社会的身分または門地により 社会制度的にだけではなく――なぜならそれは きわめて突き放した見方をすれば その時代と社会との条件によって 制約されている その制約からのみ 社会制度が 法の下に 敷かれると言わなければならないのだから その社会制度的にだけではなく―― 精神の政治学(つまり それは 上の《信条》行為であるが)においても 差別されない》ということは 憲法では 《人類普遍の原理》と考えられている。人類とか自然とか人間の基本主観とかを 概念として 考察すれば その概念の想定の限りで この《政治道徳の法則(原理的な法則)》は 人びとが《信ずる》ことができると信じられるし そこでは それなりに 具体内容としての理念も みちびかれているはずである。このことは 文体展開――つまり政治(共同自治)行為――が 過程的であるゆえ この概念活用による考察は それでよいわけである。なおかつ なぜ《人種 民族 階級・階層の別》は 区別であって しかも差別とはならずに 平等であるのか。この理念を 経験科学によって 論証することが 要請されているのではないだろうか。でないと この理念が これも 観念化してしまう つまり観念の政治のなかで 外形的・制度的にのみ扱われ 文体展開が過程的であることをいいことにして 《国民の いな人間の 厳粛な信託》によって 理念は わたしたちがひとしく・すべからく 聞くべき《天使の歌》として 制度化されるであろう。
これが いままでの・旧来の《観念のデーモン》であるのかどうか 知らない。《うた》は――つまり ことばではなく 旋律などは―― あまり《観念》とはならないのかもしれない。ただし 《天使》は そのことばとしても 《念観》の対象となりうるであろう。基本主観――これは ひととおり《人類普遍の原理》のもとに共通に了解されている――の具体内容として 理念が 天使であり この天使すなわち理念がつまりたとえば《男女平等の原則》が あたらしくやって来たデーモンとなりうるわけである。
《何が男女平等か / 男女平等とは何か》が 問題ではない ここでは。なぜ この理念なのかが 当面の問題である。これは 《信ずる》対象ではない。理念・天使は わたしたちが 信ずるものでも それに仕えるところのものでもない。そうするなら それらは 新しい観念の形態・新しいデーモンとなるであろう。理念を 観念として・共同の観念として 人びとは 新しい鬼となって この理念の実現を そのデーモン関係の有力によって すすめていくであろう。
そうではなく わたしは経験科学的に・つまり 生活日常のことばで これこれと考えるゆえに 男女は平等なのであるうんぬんといった文体が 自由に展開されなければならない。これまでの歴史もそうして来たはずである。もしくは ひとつの方向として これをめざして走って来たはずである。しかも 星ではなかったはずでもある。解決過程 過程的な解決 つまり もともと走っていることの自乗としての文体過程 これは 目指して来た。もともと存在していること・生活していること そのものである。男女平等などなどの理念は 天使であるかもしれないが だからその限りで守り神であると見て見られなくはないとしても 《わたし》じたいではないし わたしが仕える対象でもない。《わたし》つまり基本主観の 内容ではある。だから 《わたしが わたしである》ことの過程として 文体を展開し 走ってきたのであり その内容として 理念としても 普及するようになった。理念の獲得を もし目指したとしたなら そうだとしても 目的ではなかったし 獲得したなら 確立・自立したというのでもない。そして いまでは 社会制度的に経験領域において 普及したのである。
経験領域における普及は こんどは わざわざ念観しなくとも その外なる領域で 観念のデーモンとして 流通しがちである。理念は そういう位置にしかないからである。
これを 経験科学によって 明らかにし したがって理念を論証しなければならない。
目下の問題は 以前に見た 基本主観という先行領域と 経験領域という後行過程とが 互いに転倒したような観念のデーモン形態なのではなく――だから 《モノだけではなくこころも》ということが 端的な例としては 語られるようになり―― 先行する基本主観にかんして その中で 総体的な《自己》とその具体内容たる《理念》とが 錯視されるその新たな観念形態である。もっとも そこでも 《理念》を優先させるとしたらそれは 後行する経験領域の引力に引っ張られた恰好のデーモン作用に由来するものでもあろう。
経験領域の引力(つまりデーモンの有力)も愛であり 基本主観たる自己の自乗過程も 義に対する愛である。言うとすれば それらである。義に対する愛の確立(聖)は 自己の自由意志をかえって 立てるから その具体内容たる理念をも この自由意志が 用いるところのものである。そこで 理念なのである。
理念の念観 理念への固着が 自由意志を立て 自己が自己に到来するようにさせるのではない。理念は天使として 守り神ではあるかもしれない。しかし わたしが 理念をも用いるのである。もしくは そこでは自由意志が無力の有効であると考えられるところの《なぞの自然の主体》のもとにあって 自己到来し 理念をも用いるように 自由意志がかえって立てられていく。《勝利ということ》。その精神の政治学。そこで 理念なのである。だから 文体の経験行為は キホンシュカン キホンシュカンと叫ぶよりは 理念の次元で またそのさらに具体内容として 平等とか自由とかのことばを用いる いな 文体過程・生活の展開じたいが 自由とか平等とかの理念内容として 受け取られることを願ってのように ことばは これを自由化している。そういったところで 理念。
理念 理念を知っていること 理念をその意味で《はじめに》――たとえば 法律や道徳やの関係として――用いること これらが 自己の到来を得させたり自己を立てたりするのではない。逆である。なぜ男女が平等なのかと 経験科学のことばで 明らかにしなければならない。わたしたちは 未知の密林を切り拓いていくごとくである。《法の下の平等》というのは すでに開拓したジャングル(なぜなら 観念のおばけの有力が 開拓したあとにも 勢力をほこることができる。また それゆえに 法律を敷く。そのジャングル)のなかでの 経験科学・経験行為(文化)である。なにゆえに 法の下の平等なのか。
なぜなら これを明かさないと 法の下の平等を 経験的に過程的に すでに社会制度じょう 実現しようとしているのだというその文体展開(共同自治)のゆえに 《信託された権力の厳粛な行使》が 守り神の化身だと見られるのは 容易なことである。わたしたちは ほんとうに 《厳粛にも 国政を信託した》のであろうかという別の議論の仕方も ありうるかと思うけれども それは しかしながら 経験領域の問題である。なにゆえ国家かという問いかけは ありうるし 重要だと思われるが 精神の政治学の共同生活は 社会外形的には少なくとも共同自治を あたかも鏡に映ったすがたとしてのように 持っているであろうから いつ・どこで作られたかが問題になる憲法・法律にかんする――つまり 国家とか国民とかの概念の――吟味・検討は 別の仕事である。 その憲法等がうたった理念 これが なにゆえに理念かを 経験科学的に知ることが 精神の政治学(つまり 生活)として 先行する。

  • 先行するというのは だから 政治的・経済的・社会的な制度の吟味・改革といった後行する経験領域と 同時一体である。

石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を
浦(=心)なしと 人こそ見らめ
潟なしと 人こそ見らめ
よしゑやし 浦は無くとも
よしゑやし 潟は無くとも
鯨魚(いさな)取り 海辺は無くとも
和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に
か青なる 玉藻沖つ藻
朝羽振る 風こそ寄せめ
夕羽振る 浪こそ来寄せ
浪の共(むた) か寄りかく寄る
玉藻なす 寄り寝し妹を
露霜の 置きてし来れば
この道の 八十隈(やそくま)ごとに
よろづたび かへり見すれど
いや遠に 里は放(さか)りぬ
いや高に 山も越え来ぬ
夏草の 思ひ萎(しな)えて
偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む 靡けこの山
(柿本朝臣人麻呂 石見国より妻に別れて上り来る時の歌 万葉集 全訳注原文付(一) (講談社文庫) 巻二・131)

このうたで 男女平等の理念を 必然的に ふくんでいる。この理念の有効であることを つまりそういうかたちで生きることを 思っているし 希望している。男女の平等という理念のゆえに――まして この時には 法の下でも かならずしも そうではなかった あるいは そのなかったことのゆえに 理念を念観して―― うたったわけではないし 理念を念観しようと 妻や人びとに向かって うたったのでもない。自己到来によって うたを表現したとき 理念をふくんでいた。その自己到来――いつ・幾日の時の自己到来――も 経験的な情況に対面し 理念との関係で 想起され このうたを 持ったのだとしても。かれは そしてその妻も 理念によって 言ってみれば すくわれているわけではない。自己到来の自由 しかも無力 したがって 完全な自由の希望によって すくわれているのである。つまり このことによってわたしが言いたいのは 無力だから なんらかのかたちで 悲惨であるのだが この悲惨に 理念とか その念観とかによってデーモンの服を着て 勇敢にも耐えているのではない ということである。
あるいは この希望のなかに 天使の歌を聞いていたとしても 希望は 天使が知らせたのだとしても 天使があたえたのではない。理念は この歌の主題の一つひとつとして そこに 見られる。文体行為とか希望とかは やはり過程であり 守り神を立てた結果のことでもないし そうやって守り神にうったえたのでもない。理念も見られるとすれば 守り神も関係してくるが この守り神を 自分たちに仕えさせているのである。そこで かれらが 天使の歌を聞くかどうかは 知らない。《信条によって差別されない》のだから そこまで規定しようとするのは 基本的人権の無視である。
もっとも ゲーテが方程式として・またその中で 表現したように 天使の歌を聞くかどうかも 自己の文体の主題対象(ないし題材)とは なりうる。《信条》を内容的に表現していけないのではないから。
ところが この人麻呂のうたにも見られると思われる両性の平等といった一つの理念 これは それとして 今では 法律の中にまた経験科学の中に 取り入れられるようになっている。なにゆえ そうか。一方で 人麻呂の文体のやり方を相続しつつ 他方で 概念を用い経験科学によって この理念の論証をおこなわなければならないと思う。歴史がここまで進展したと見る。
(つづく→2005-02-04 - caguirofie050204)