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哲学いろいろ

文体――第三十五章 民法・第七百五十二条

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie0412117
2005-02-15 - caguirofie050215よりのつづきです。)

第三十五章 民法・第七百五十二条

《女子と婦人と女性はどう違うのか》。
衆院予算委員会で先週末 用語問答があった。・・・《婦人》は ある年齢以上の女性を示すが これに対応する男の表現は見当たらない。
そのこと自体はさして問題ではないにせよ 政府は今国会から 《婦人差別撤廃条約》の呼び方を 《女子差別撤廃条約》に改めた。条約の内容が小学校教育にも及ぶため 幅広い年齢層を表わす表現に変えたのだという。・・・
朝日新聞 1985年2月27日)

と始めて 同じ日(前章の記事と)の同じ新聞の社説は 《男女平等の埋めたい断層》と題して 論じている。ついでだから これも読んでおこう。
《むろん 伝統的な〔男女の〕役割り分担意識が変わってゆくのは容易なことではない。職場や家庭 地域 学校での話し合いの輪を広げたい》としめくくったこの社説では まず第一点として

言葉は社会慣習と深く結びつく。男中心の物差しがまかり通ってきたせいか 身近なことわざや文字にも不平等が目立つ。
朝日新聞 1985年2月27日 社説)

といった《ことば》の問題。最初にかかげた書き始めの議論にかかわった問題だが 取り立てた議論は はぶかれている。わずかに 《ことし最終年を迎えた〈国連婦人の十年〉の場合は どうするのか。用語の変更ひとつにも その国の現状を垣間見る思いだ》と触れられ 問題提起するかっこうである。
わたしたちも この第一点では つっ込まないが 考えられることは 古い《物差し》に対して新しいそれをつくるよりも 基本的に(経験領域へと 基本主観を 代理していく前に) 言葉の全面的な自由化を前提させていたほうが よいのではないか。なぜなら 《身近なことわざや文字にも不平等が目立つ》のは ことわざが 性の区別の存在する経験領域から作られるのだから むしろ 目立たないほうが おかしい。ことば・ことわざの観念化のほうにあると思われるからである。さいわいに日本語の《ひと(人)》は あたかも《ひとつ》の独立主観・ひとりの自然本性を表わすかのようで この点に限ると 不平等ではないと思われるのだが。つまり 《man》が 《人》と《男》とを 一語であらわすようには出来ていない。この第一点は 世間話にとどめて――第三十八章に継ごうかと思うが――
社説が論じる第二点は 総理府の《婦人に関する意識調査》の結果を見ての評価である。この点についても 保留したい。一つにわたしが 統計を考察の重要な材料とは見たくないから。不平等だとか有害だとか言わないが 基本主観の文体が 一定の項目ごとに対して述べられ 一定の項目ごとであっても 述べられたまではよいのだが 《あれかこれか》の数量的な選択として把握され これが数量的に集められると 一人ひとりの文体の過程が 停止してしまうと思うから。数量的な評価さえ もし真実をあらわしうるとしても その評価の世界からさらに出発して 評価をおこなおうとすると すでに過程が過程でなくなるからである。少なくとも 文体展開の過程の代理となる。代理は代理で役目があると思われるが 第一次的な文体の問題としては あまり重要とは思われない。
代理者がくだした評価を さらに評価していくことは 第一次的な文体の過程である。だが ここでは 社説はあまり多くを語らない。つまり 保留することの理由の二つに 社説では この《意識調査》の結果を見て 一方で 《男女の役割分担への根強い意識が女性の側で次第に変わり始めていることを示す》と言い 他方で だが 《多くは無関心なのだ》と言わざるをえない統計数字を示しているというかたちで お茶をにごしているからだ。(議論のスペースがあまりにも狭いゆえでもあろう。)もっとも前者の明るい統計結果への評価を言ったあと 《その限りでは 差別撤廃条約を大きな支えとして 男女平等への道を進む原動力となると思われる》とまで 論じた。少数関心派のちからは大きいというわけだ。多数無関心派〔という統計数字〕の女性 また男性一般の 一人ひとりの基本主観が 女性の中の少数関心派によって 代理されるという見方をとらないならば わたしたちの観点つまり《経験的・感覚的なものの管理は 女性的なものなる知恵によって とりわけ女性によって 果たされる》という観点からして 代理としてではない《原動力》であってほしいという思いは わたしたちに共通なのではないだろうか。みんなが原動力だということなのだ。
社説の第三点は

相手である男性の側や企業社会では 相い変わらず保守的な考え方が幅をきかせている。女子大生が就職する時に直面する壁の厚さを典型として さまざまな不平等が現存する。
(同上)

ということがらだ。そして この第三点は 経験領域かつ基礎経済的な側面をとりあげ そこでの《保守的な》観念の有力を論じ 一つには 次のように言って これを やはり《意志の中軸》の側面と対応させている。

いま 雇用均等法案をめぐる論議をつきつめると 根強い慣行(観念のデーモン形態)を変えてゆくための方法についての対立 といった面も色濃い。差別を直ちに停止するか 行政指導でゆくかの対立は 容易には解消しまい。
(同上)

民主制ないし広く民主主義の側面である。ただし この《方法についての対立》が ちょっとこの議論では  精神の政治学だとは思われないのは つづけて次のように言うからである。

そうだとするなら 当面は事業主の努力義務にゆだねるにせよ 三年ほどの啓発期間を置いて募集差別などは禁止する方向が望ましい。参院での審議に注目したい。
(同上)

この提案が わるいからではなく――経験領域での改革の提案だから 基本的に よい・わるいの問題ではなく―― 《禁止〔する方向〕》をもって 《意志の中軸》からの議論(文体)を 代理したからである。代理たる国政は 法的な措置によるから 《禁止》が その手段として基本だが そして 一般に 観念論や空論でなければ 具体的な提案が とるべき行き方だが と同時に 過程・経過を 切り離したもののようにも 映る。
《方法(方策)についての=つまり 民主主義的な議論にもとづく方策処置についての対立は 容易に解消しまい》ゆえに 具体的な結果提案にすすむということには 非常に高度な政治学的な判断が じっさいに 過程されていると見ることもできるが もしそうだとしたら その――ここでは――隠された提案者の判断過程 これを まず 明らかにすべきではないだろうか。言いかえると この社説論者は ここではすでに 《基礎と中軸》との 基本主観(つまり 論説者および読者の)における同時一体性が 成立しているという暗黙の前提に立っている。《男女平等へ埋めたい断層》論者は 《男女は平等である》という理念〔の共有〕に すでに暗黙のかたちで 立っている。すなわち 理念主義の理念で 断層を埋めようとした。一面がある。
《根強い慣行を変えていくための方法についての》議論は そしてわたしたちが言う基本的な方策は なにゆえこの理念かを民主主義的に自由に議論しあって明らかにしていくところにある。さもなければ それは 代理者としてのみの発言である。じっさい もしこれだけだとすると それは ファシズム・観念共同による理念実現にまで発展する。こうだとすると この議論は 男女平等の理念に立っていない。経済基礎の側面だけではなく 方法についての討論といった意志中軸の側面を指摘しておきながら その民主主義的な過程である意志中軸のことを 男女平等ならそれとしての一理念に 取って代えたかっこうである。理念体系の美の世界へではないけれど 男女平等の理念と 現存する不平等の経験現実との 
反射しあう或る鏡の国に――代理者として――自己を位置させた。《言葉は 社会慣習と深く結びつく》のであって 男女は平等だという理念を知りこれを口に出すことは 一つの社会慣習になっているのだから そのときには ことばが この鏡の国〔のデーモン関係〕に からめ取られていることになりはしまいか。
それでも この提案なら提案の実行によって 理念は理念として経験的に 実現される方向へむかうとは思われる。そのほうが ともあれ 生産的・建設的だという見方も成り立つし そういうたぐいの文体ではある。そして 理念が理念として実現されたことは すでに大筋で――法権力のもとにおいて――ともかく 動かしがたい経験現実であるというやはり暗黙の前提に立っている。わたしたちのほうが 遅れているとも見えるかもしれない。
だから 綜合して言えることは――ひとこと余分に言いたいと思うことは―― なぜなら 《男女平等》というなら じっさい そこには《断層》はないからである。これが 言うとすれば 暗黙の前提になっている。わたしたちのこの物言いが もはや遅れていると思われる根拠は こういった一般に文体の 基本主観から発する過程とまた構造とにかかわって 存在する。
わたしたちは 或る理念の《星》をめざして進むのではなかった。人麻呂が 《偲ふらむ 妹が門見む なびけこの山》(25章)とうたったのは 一般化して 男女両性の平等の観点から論ずれば そこに《断層》または《壁》があるからではなく すでにそれが存在しない基本主観に立って しかも 《この山よ なびいてしまえ》と 経験領域に例(題材)を採って そこでは現存するこの《壁ないし断層》がないようになるといった感覚的な表現で かたったのである。人麻呂やかれの《妹》とて 《山がなびく》――観念デーモンの有力が ただちに なびく――とは 考えていなかったであろう。その意味で このうたは 人麻呂の《男女平等へ埋めたい断層》という一社説なのである。精神の政治学である。そして 現代では 新しい舞台環境として 民主主義の世の中なのである。しかも 舞台環境のゆえに 人間が変わったとも言えない。
そこでなお わたしたちは 天使の存在を欲するし――その能力を欲するのではないから―― 無力であるし しかも有効であるなら 《男女平等への道を進む原動力になると思われる》のである。わたしは このなぞを持った精神の自治過程をあゆまないならば そのときこそ 文体は 現実的でなくなり 神秘的となり おばけや鬼の世界となると考えるのである。
もちろんわたしたちは このおばけや鬼の世界と この自然本性の地上のくにでは 互いに混同しあっているのである。かつ 基本主観は そこで 先行するものとして存在すると 無力にも 言っている。
そこで 理念としては 一つの時論風に 民主主義をであった。《根強い社会慣行を変えてゆくための方法についての対立 といった面も色濃い》ものに 今では なっているから。つまりこの社説の第三点は 《慣行の 基礎経済的な側面のみの変革》の問題では なくなってきていると たしかに指摘しようとしている。
第三点ではさらに 《男性に対して育児時間・また広く育児休業制度をみとめ 実施していく》ことを支持し 主張している。男女の性の区別ゆえに 慣行としてきた役割分担をなくすことが 男は女の 女は男のその従来の役割を一つひとつ互いにひとしく今度は分担しあうということでもないと思われるが この提案については 保留したいとおもう。それはそれでよいのではないかと思う。
最後に第四点として この社説では四つともそれぞれ包括的・概括的な議論ではあるが

それにもまして大切なのは 毎日の暮らし方や男女の役割分担について話し合うことだろう。この十年は女性が家庭から外へ出ながら さまざまな自立の道を手さぐりした時期であった。その結果 日常的な暮らしの面では男のひとり立ちも迫られている。
(同上)

もし このように議論をかかげたのなら 自己の文体を一つの主題について展開し始めたのなら 経験的に言わば このあと 《我が家ではこうこうであった / さらに こんな話も聞いた》等々 おおきな運動に発展させるくらいのことでなければおかしい つまり そうでないと 文体が死ぬ。としても この第四点は わたしたちの基本的な方向ではないかと考えられる。ここでは人麻呂のように 経験的なことばで 特には基本主観の問題を 語っている。《日常的な暮らしの面では》と この生活を 特別な一面とするのではなく 《暮らしの面でこそ》とわたしたちは考える。
なおかつ 問題が残るとすれば――これは社説に対しては 邪推すればということになるが―― 《女性の自立》と《男性の一人立ち》とが なにか別のものと考えられている節がある。基本から出発すべきである。同じ一個の基本主観の自立であり かつ男女の区別のある経験領域では 民主主義の関係であって その愛は むしろ相互依存的な生活の共同をうながしているであろう。《別居しうるくらいの それぞれの自立》ということでもあるまい。これは 社説の論旨から そういう響きが聞こえるというのみだが 一般化して言っても

夫婦は同居し 互に協力し扶助しなければならない。
民法IV 補訂版 親族・相続・第七百五十二条)

のである。むろんこれは 理念ゆえにでもなければ 法律ゆえにでも必ずしもない。人麻呂は 先ほどの歌で この法律のなかった時に 理念として(理念として認識があったかどうか わからないが 結果的にでも 理念として) うたっている。つまり それを実現できなくなったことを なげき この嘆きを超えて(嘆きという経験事態に先行して) うたったのである。《暮らしの面でこそ》 男女両性の平等なのである。
《暮らし》に 意志の中軸(民主制)と知解の基礎(経済生活)とが ふくまれ 同時一体である。国政は この自立を代理するのであって 国政が 自立に反するところの差別を禁止し 自立の条件を義務として課すのは 代理領域での後衛(背衛)的な 便宜の手段である。雇用均等法をかかげ 民法の条文をうたうのは 《男女平等への道をすすむ自立した人びとの原動力》があるからである。
《むろん 観念デーモンの有力の 伝統的な役割分担意識が変わってゆくのは容易なことではない。職場や家庭 地域 学校での話し合いの輪を ほんとうに 広げたい》。ただ わたしたちの密林を切り拓く作業としては すでに観念のデーモン有力は 慢性化したと見られるのではないか。鏡の国の魔法が 解けてきたのである。井戸端会議が 必要であり有効である。
この章の最後に さらに新聞記事を引用しよう。

I子さん(26歳)は 東京 多摩地区の中学校の教師だ。大学院を出て勤め始めて三年目になる。最近 同僚の男性教師に《典型的な女教師の顔になったネ》といわれ ショックを受けた。
《教師が板についてきた という意味で 何げなくいったんでしょうけど イヤな気分になりました。いわゆる〈教師ヅラ〉にはなりたくないと思っていますから。その先生とは 口もきかなかった》。
彼女は いまの仕事社会で 女らしさをそのまま発揮できない仕組みになっていることに疑問を感じている。やさしさ ていねい といった女の特性を職場でなまの形で表現すると 軽く扱われてしまう。《要するに 男性化しないと負けちゃうんです》。典型的な女教師の顔 という表現の中に 彼女は 男性化しつつあるとみられている自分を発見した。
五十七年の春に教師になった時 すぐ二年生の担任となった。大学院卒だったこともあったのだろうが 先生になりたてで担任になるのは それなりに評価されてのことだ。現在は社会科の主任で テニス部 生徒会顧問 組合の婦人部の役員もしている。男性教師に対抗して 人並み以上に頑張っているのは間違いない。だが その彼女も 十年後どうなっているかは 《分かりません》という。
《結婚までの腰かけのつもりでいるわけではないんですよ。でも 男女平等が最も進んでいるといわれる教師の世界も やはり男性中心の社会なんです》。
女である自分の顔をいつまでも保っていたい という彼女だけに いくら働いてもやはり その組織体系の中に入り込めない違和感がつきまとっているようだ。
《私 教師になったせいかしら すぐ命令口調の乱暴な言葉遣いになってしまうんです。いけない といつも反省してるんですが・・・》。そして そんな気持ちでいる自分が 仕事社会の中で生き抜いていくことはできないだろう と思っている。
インタヴューのため訪れた時 身についたしぐさで玄関のあがりまぶちに手をつき 彼女は《よくおいで下さいました》と頭を下げた。仕事に疲れた男にはない《みずみずしさ》が そのしぐさに漂った。
朝日新聞 1984年7月18日 〈男と女――雇用均等法――〉・10)

仕事の金銭的な報酬の問題を別にすれば――これを別にすればということは したがって 仕事内容が 男女とも均等になれるか 女性が結婚までの腰かけでなくなるのか なくなるかたちで男女均等になれるかといった大きな問題をかかえるから 保留すれば―― このインタヴュー記事は いったいどこが 男女平等とかかわっているのか わたしは 理解に苦しむ。ひとことで批判すれば 《男性中心の社会》というのは 裏返せば そっくりそのまま受け身のかたちで 《女性中心の社会》なのであるから。仕事社会での男性中心は そうでない社会の部面で 女性中心――もちろん 差別されたかたちの中心だが――であるから。だから 給与の平等の問題を別にしたのだけれど あとはただ 男女平等という理念をもてあそんで 男女不平等の経験現実を それなりの男性中心かつ女性中心のかたちで むしろ享受しているとしか思えない。
《自分の顔――つまり 基本主観――を大事にしたい》のなら 愚痴・不平(あるいは 玩弄)は出て来ないはずだ。

  • だから 弱くないということでないのは これまで何度も述べてきた。弱い文体であれば 愚痴・不満も現われるのだが 基本主観に より近くより親しくあって 自然本性のなぞの有効をも 語りだそうとするはずだ。

経験世界に《違和感がつきまとう》のは はじめから わかっている。仕事社会とそうでないところ 結婚までの腰かけかそうでないか といった区分によって この区別を前提として 男女平等の理念を議論するのは ばかげている。それは 夫婦が別居してそれぞれが 生活全般をいとなむことによって初めて 男女平等の理念が実現する(その基礎がつくられる)というのと 同じことである。民法第七百五十二条と 《自分の顔を大事にする》こととは 両立するし また しなければならず ここから男女平等の方策が考え出されていかなければいけないように思われる。結婚・夫婦の同居は 基礎知解と中軸意志との 自由な 同時一体の過程だと思われる。未婚の母は そして比喩的に言って 不平等の断層を埋めていくとき 知解と意志との分裂によって採用しようとする《未婚の母》としての方策はこれも 無効だと考える。
(つづく→2005-02-17 - caguirofie050217)