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哲学いろいろ

文体―第三十章 民主主義

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-09 - caguirofie050209よりにつづきです。)

第三十章 民主主義

自然本性にあって 記憶・知解・愛の行為能力をもつ精神の基本主観が 自己の政府である。ここに 理念がある。理性(精神)の内容としての概括的な思念がある。自由。自由の愛ゆえ 相互の自由としての 平等。自由の愛ゆえ 自由としての自治。これらの愛としての共同自治。これには 民主主義という名がつけられている。一人ひとりの生活者が 何にも誰にも 代表されえない存在であるという大前提の命題。
国政が 基本主観の信託を受けて それを代理するとき たしかに理念的にであり この限りで問題を見ようと思えば いちばんの理念として 自由で代理するか 平等で代理するか あるいは民主主義で代理するか等々だと考えられる。
もちろん 事の本質は あれもこれもそれもである。そして 基本主観の代理は ことばである理念としてだけではなく 人間が 信託を受けて 代理する場合が ある。代理者としての人間じしんは 一個の自然本性にちがいないけれど 代理者という権限ないし権力の有力としては 自然本性ではなくなる。経験領域のことがら・手段の領域で ほとんどもっぱら 代理するばあいである。大岡裁判のような代理者の職務行為は わるくはなく それでよいのであって なおかつ 職務者として 一個の自然本性である日常生活者であることから 多かれ少なかれ 離れた立ち場にある。とりあえず考えられることは いわゆる大岡裁判のような代理行為が 国政の全般にわたって実現されることがよいと言ってもよいわけで これは やはり理念としては 《自然本性》本位としての国民本位とか市民本位とか言われるものである。
基本主観の代理たる国政は 基本主観の具体内容たる諸理念を代理するその仕方も さることながら 共同自治の仕組みとしては 基本主観の三行為能力に範をとってのように 立法府(知解)・行政府(意志)・司法府(記憶)の三権分立のかたちをとる。
このような権力機関としては 相互の分立というのであるから 精神の三行為能力は 互いに――とうぜん経験行為であるからのように―― 異時異体となっている。大岡裁判とか市民本位の共同自治というのは このような制度上の仕組みにかかわらず――ある種の仕方で かかわらず―― その権力者も一人ひとりは ふつうの自然本性にちがいないと言ってのように 自由に文体を展開する(たがいに 議論する)その過程を まず第一に 大事にすることである。ただし 現代社会の複雑は むしろ 自然本性であることから離れてのように(もしくは 離れない場合は きわめて自然的になって そのことを 裏で隠れたかたちで おこなわなければならないと見てのように) 仕組み上・また法律上ゆだねられた権力・権限の範囲内でそれを越えないで 共同自治のそれぞれの役割りを分担することが 合理的でよいことだと考えられている。このことは 経験領域の問題として それはそれで 一つの行き方なわけである。
この経験領域の問題に限るならば これまで直接にあつかわないとしてきた経済制度の問題が なかでも 議論の対象として おおきい。だから ここでは 三権の分立の以前に 国政権が 経験行為じょう どの理念でいちばん 基本主観(市民)を代理するかという議論としてである。
基本主観の行為能力のなかで その基礎は 知解であり 中軸は意志である。いま 理念として 自由と平等とをもってくると 基本〔主観の行為〕能力の 基礎と中軸との連関の仕方を あくまで経験のうえで 一方では 《意志の平等という知解の自由》と 他方では 《知解の自由という意志の平等》とそれぞれ考える文体があらわれると思われる。《平等の自由》と《自由の平等》と。《空気を吸う意志の普遍性》と《空気を吸う自由の普遍性》と。それぞれ一方が自分を第一位におくとすれば それぞれ その他方を 第二位におくことになる。
きわめて幼稚な議論だが これらふたつのいづれかで 国政が 社会主義経済社会か資本主義のそれかに分かれるのではないかとは言われる。後者の資本主義経済社会のなかから その理念の配置関係に反対して 前者のそれが主張され 実施にも移された。

  • つまりは 現代(二十一世紀になって)において 自由主義市場経済制度のうえで 資本主義か社会主義かが 或る意味で 争われている。

おそらく どちらの国政も 時代に即して一定の理念体系を――その以前には 理論体系を――もったとしても 大筋の考え方は 個々の理念に対して あれもこれもそれもなのだと考えられる。経験科学の理論体系(とくに政治経済学)に 国政が基づいていたとき やがて この科学が たしかに生活の補助手段だと明確に把握され また そうであることが実現されるようになった。これは 理念(とくには社会福祉ということ)が明確に把握され実現されるようになったということと 同じである。だから 何らかの理念体系――生活の安全とか豊かさとか福祉の平等とかの相互配置――に依拠していると言っても おおすじでは もはや あれもこれもそれもなのであって 国政は 生活全般の・つまり基本主観総体の まず 代理であるという共同自治のすがたが 実現されるように進んできたわけである。それは 甘く言うとであるが 辛く言うとしても ひとつの原則としては やはりそう言わなければならないように思われる。
わづかに なおかつ 生活の安全ないし豊かさないし福祉の問題が 《自由の平等》か《平等の自由》かで 経済制度として分かれてくるわけである。これは 歴史的にではなく 共時的・平面的に言っているとしても。けれども 経験領域の問題は そもそもどうでもよい性格のものであるから それを同時に重視するといっても 議論は きわめて幼稚なのである。
つまりここで いま一つの民主主義という理念も 同じく国政の問題でもある。言いかえると 民主主義的に 議論しあっていくという過程的な理念。じっさい 二つの経済制度の考え方とその国政も すでに この生活次元の民主主義的な議論のすすむところを 民主主義的に 代理するという理念を かかげている。
いえることは もし 国政という共同自治のかたちを持った歴史的な段階において 理念体系は単なる便宜的な方策にすぎないとするなら 基本主観の主体性(国民主権)だとかの形而上学的な議論によってではなく 個々の理念をたしかにあつかっていくその日常生活の議論過程によって それが 国家という前提枠をとるよう取り決めあっているのだから まずは――まずは―― この経験的な・いま形成されている共同自治をすすめなければならない。前提枠じたいに対する生活次元の民主主義的な議論を展開することによってである。さもなければ この国政という前提枠が それぞれ いちばんの理念として 自由の平等か 平等の自由かで代理すると言ってのような二つの知解形式・理念体系・それとしての経済制度の分立(いわゆる二大政党制)で行き続けるほかはないわけである。
わたしは 第三の鬼となったのであろうか。
資本主義社会と社会主義社会とを 融合すると言ったおぼえはないから あたかも第三の理念体系を提出したのではない。しかも わざと 理念を先頭に出して議論しているぶんには 第三のもの・すなわち民主主義という理念を 念観させようとしているかのようである。もし あえて念観せよとさえ言っているのだとしたら これは 《自己の政府の内なる民主制》として・その理念として 愛のことだと言っておけばよいであろう。国政への代理は――つまり 民主政は―― これらの後行するものであり 理念として他のものたとえば自由とか平等とかを念観するばあいよりも 観念化を防げるのだと考える。自由になりなさいとか わたしたちは平等だとか叫ぶよりも 愛し合いなさいと言ったほうが 鬼になることを防げると思われる。これは 論証にはなっていないが 各個人の文体行為のひとつの代理をあげつらうとするなら 愛・民主主義なのではないか。
言いかえると 二つの経済体制それぞれの共同自治社会を そういうふうに継ぐということである。民主主義をあたかも先頭に出すようにしてである。しかも このことは 精神の政治学によって まずは 文体行為としてであり 生活日常の次元でのことである。国政は 後行する。その国政は まさに民主主義を代理しているから わたしたちの精神の政治学に従うであろう。
わたしも 魔法を使ったかのごとくである。なんのことはない つまり 自己の政府の精神の政治学をすすめあう生活全般において 理念が明確になり時に理念体系による共同自治の段階にまで来たとしても およそ これまでどおりに 精神の政治学を第一に継ぎ 既成の歴史はそれぞれの場で おしすすめるという行き方である。それには 民主主義をあげつらうことが よいように思われる。
理論体系(または簡潔に エリートの主導による共同自治)から理念体系(理念の主導による広く社会的な共同自治)へ 舞台が新しく移行しつつある。これが移行したということは 人間が変わったことを意味しない。理念が明確になり ともかく普遍的に共有されるようになったということは 基本主観の歴史的ないとなみ・たたかいの結果であって そのいとなみは まだ変わっていない。わづかに 理念が明らかになる道筋・またその理念体系の配置内容に ふたつの経済体制において それぞれ異なったものがあるとしても 人間の基本主観のいとなみは むしろ同一であった。だから 各経済体制のなかで この理念体系という新しい舞台に立って さらに同一の基本主観のいとなみを相続していくことには 具体的な議論として 異なったやり方がある。なおかつ 基本主観が それぞれの社会にある人にとっても 同一であるということは 理念のうえで これを総括的に代理する仕方にも 同じものがあってよく 歴史経験じょうの経緯から言って 現代において たまたまであるが さらに同じでありうる。つまり 民主主義という理念である。
わたしはここで まったく不用意に・つまり 来たるべき何らかの経済制度といったものをまったく考察も想定もしないで のべているのであるが それは たしかに経験的に この自己の政府の民主制およびそれの代理としての民主政をとおして それぞれの歴史的な 制約条件のなかから 決めていくものであるはずだという理由によっている。そういう精神の政治学の 文体の 一議論なのである。
つまり 基本主観〔の到達度合い〕を あくまで 語ろうということにあり そうだとすれば わたしは 今度はむしろ 人間が変わるのではないかと 考えてのうえである。
理念は――現代におよそ普遍的に明らかになった理念は―― 経験領域の概念整理たる科学的な理論とは明らかに別であり それに先行する基本主観に属している。科学的な理論は たとえば無階級社会という外形的な理念をとっても 階級という経験現実の特に観念デーモンの作用――何か階級的人間という一個人にその責任が帰せられないもの――をとらえて 理論しているのであり まさに いい意味でもわるい意味でも 経験科学的である。この経験科学またそれを用いての社会的な闘争によっても明らかにされ獲得されるようになった理念は 各個人に直結している。ここでは 科学的な理論の末に 理念が明確になる・理念を明確にするのではなく なにかひとつの理念を語れば 理論はそれについてくる。法の下に・国政権力のもとにはじめて そうであるのではないけれど 理論のひとつのめざした目標は すでに実現されている。
このとき なお理論作業をおこなうのは 直接には 法体系の精緻化や法実現の手段の確立のためである。このとき それではというので 理念体系の確立をめざすのは このような新しい段階に取り付いて 人間が変わったととなえることである。人間が コンピューターではじき出した諸理念の体系装置となってのように 歩きまわることである。理念をすでに明らかに知っていればよく だから知っているから それらの秩序体系を えがきだして 人間のすがたとすることである。すべての理念が 《基本主観》にインプットされるというわけである。
もちろん理念は 必要であり 新しい舞台で時代に沿っての行為の問題としては これらを用いていく。そして 経験科学は なお当然のごとく 必要であり有益である。ただ 理念知の体系が 人間であるのでもなければ 理論はこれらの理念をあきらかにすることに役立ったが(またさらに役立つであろうが) 人間を主導するのでもない。だから もし わたしたちの見方からいって 人間が変わると言うとすれば 理念をなにゆえにそうかと 経験理論的に明らかにする文体を 一般的に 展開してすすむ人びとの登場であるだろう。
理念が何であるか その定義は これまでの経験科学も理論してきたのである。理念知主義は この理念を用いてすすむのではなく――そのように見えるが―― いわば理念なる天使の世界に取り付かれ〔天使を崇拝し〕しかもこの視像を 人間のすがたとして 描き出そうとする。このことは これまでの経験科学も 形而上学として やって来なかったわけではなく しかも おおざっぱに言えば 舞台がちがっていたのだと思われる。

  • カントの議論は そういう意味で逆に ふたたび活用できる。また ヘーゲルなどは 《国政》を 《基本主観》にさえ先行させようとし それら理念の世界を見させようとしたと考えられる。

いまでは 《国政》の問題も 理念のうえで 経験的にも 解決されたとすら言える段階にあり これに基づいてのように 理念知の世界を・その先を あたかも人間のすがたとして描き始めたのではないだろうか。経験科学は 知の組み換え・パラダイムの変換が必要だし 起こっていると言われている。
この章では 第一に経済体制のちがいは 現在そこに住んでいるところの経済体制から出発するということ 第二にこの道を 基本主観として 出発するのだということ これらを語った。おそらく当然のことだと思われる。
次にはつづいて 民主主義という理念を それがなにゆえかに注意しつつ 議論していきたい。
(つづく→2005-02-11 - caguirofie050211)