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哲学いろいろ

文体―第二十七章 あたらしい密林

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-04 - caguirofie050204よりのつづきです。)

第二十七章 あたらしい密林

切り拓くべき密林のなかで 右往左往しているからとて デーモンよ おごるなかれ。いな。デーモンならむしろ それを見て あざわらうべきである。精神の政治学にとって それが 基本領域に属することであるから。しかも 補助手段の領域で ふつうの日常生活の文体で 片や すでに開拓された土地において デーモンの有力が優勢な経験領域の過程に流されずに 片や 経験領域を超えるとは言えその超えた内容たる理念を それが明確だからと言って やはりすでに開かれた土地と見なしきって 自己そのものと錯視せずに・・・
錯視せずに 理念は理念だがなにゆえにそうなのかを 或る暗い密林を切り拓いていくように 語り出していくべきである。
ここでは 自己が 一個の密林であるかのようである。
自然であるかのようである。たがやす行為は 文化であり その結果の普及状況は 文明である。文化は 法・経験科学(したがってもちろん自然科学をふくむ)である。そこに 理念があるし 自然科学の法則も理念(理念の場・場としての理念)である。すべては 自然の過程の生活である。人間は 自然本性であり 文化や文明の領域は 社会である。
文明は 文化結果の既成の情況であるとすれば 自然本性の社会関係の中の 後行する経験領域である。文化行為は 社会関係をなす自然本性の 先行する基本主観がおこなうものである。文化は 概念(ことば)を見出し用いる。その結果として始められ作りあげられる文明は 慣習化すると はじめの概念が 観念となる。ただの観念つまり通念となる。概念も古くなって 古くなったかたちで有力となる。そして ふたたび新しい概念。概念行為としての文化は 基本主観のものである。その具体内容は 理念である。理念内容にかかわって 概念行為され その客観認識の補助手段は 科学である。この基本主観による精神の政治学――その一般は 生活であり 普遍性をもって普及すべきことがらは 文化である――の過程において 観念化も生じる。旧い概念の念観として。つぎに この旧い概念の念観による有力な鬼に対抗するためにとして 新しい概念をはじめに念観する鬼の有力。此処では客観認識たる科学の鬼も 《有力》となりうる。あるいは そして 理念そのもの(ないしさらにその具体化としての理想)の鬼のばあいなど。
基本主観は 独立しており 同時に 相互依存的であるとすると――つまり これが 自立の原形式だと考えるとすると―― それ自身にかんする概念内容たる理念は 独立的な自由だとか 相互依存性の平等(その他 愛とか 民主主義など)だとかであると考えられる。さらに具体的に性別による差別からの自由であるとか 身分の別に制約されない平等であるとかいうばあい 理想である。理想といったことを含めた広い意味での理念は 基本主観・自然本性ないしわたしたちの存在じたいにかんするものだけではなく 社会や環境自然にかんするものがある。社会階級〔の無〕とか酸素(きれいな空気)とかは 後者である。いな 《階級的な人間》とか《空気を吸う人間》とかいえば いい。いな それはまだ 単なる概念であるから 《空気を吸う自由》とか《階級差別のない平等》とかいえば 広義の理念である。そして 基本主観そのものではない。つまり 階級的な人間や空気を吸う人間というのは まだ《わたし》そのものではないし 自由とか平等とかいうのも 同じく《わたし》そのものではない。
環境社会や環境自然にかかわる理念(理想)は 《わたしは階級だ》とか《わたしは酸素だ》とか言えないように わたしそのものではない。わたしそのものの具体内容・部分概念である理念は 《わたし》とイコールではないけれど 《わたしは自由だ / 女であるわたしは 男であるあなたと 平等だ》と言いうるように 基本主観を代理する。
《無階級社会》をめざそうという文体展開や《きれいな緑の自然環境》を回復しようというそれが 社会行為(ないし文体行為)でありうるように 環境社会ないし環境自然のそれぞれの理念(理想)も 《わたし》の存在じたいにかかわる理念は わたしを代理し 代表さえするのかもしれない。つまり 自由とか平等とかの理念のゆえに わたしは存在すると言ってのように。ただ 《代表》は ほんとうは ありえないであろう。《無階級社会》は 自由とか平等とかに深くかかわるから わたしの文体展開では当然ありうるのだが かつ わたしを代表するかのように 立てられうる。つまり じっさいには まず 代理として。
今度はここでは 具体的ないし個別的な理想との関連で 理念の位置が ある。
なにゆえ これらの理念かは その中で環境社会のや環境自然のを除いて まだ 明らかではない。具体的・個別的である理想は 明らかであるように見える。が それとても 直接には 理念(狭義の理念)の問題であって 理念を根拠としている場合 なぜその理想であり理念であるかは 必ずしも明らかではない。生存〔の権利〕とか・つまり生活つまり基本主観ということにまで さかのぼらなければならないし わたしたちも そういった論理で議論してきたのだが この基本主観は ただ定義の問題であり 想定であったし むしろ想定であることのゆえに 議論・文体展開・総じて精神の政治学の無力の有効を 主張しようとしたし それらじたいが 過程的な文体の第一原則の内容そのものであった。まだ そこでは 自同律である。
わたしたちは 科学の補助領域を俟って初めて 文体展開するものではなかったから――つまり 言いかえると 精神の政治学は経験領域に先行するけれども その先験性にもかかわらず もしくは 先験性ゆえに 言わば待ったなしの現実であり過程であるから―― 文体の第一原則の内容じたい(つまり わたしがわたししていること自体)で基本的に 事はすんでおり 推し進められている。しかも なにゆえに理念かの経験科学的な論証ないし議論〔の時代〕。
言いかえると 補助領域たる経験科学の――または文体行為の――発達によって 全体領域たる生活ないし文体展開の過程一般の中で 必要なだけ十分に 経験科学も それとして 用いられていくという議論(井戸端会議)の時代。だから これは――つまり これがもし 当面の課題であるとするなら この新しいかたちの議論(コミュニケーション)というのは―― 文化成果たる理念をそのまま知っていて用いればよいというのではなく(すなわち 理念が普及した文明情況にただ従っていればよいというのではなく) どうしてこれこれの理念が 各自の指紋を残すようにしてわたしはこうこう考えるが あなたはどう考えるかといった議論の中に あれそれの理念が位置しているかどうかの 問題である。

  • この意味で 人間が 変わっていく。

《酸素》は 環境自然の中のそのものと 対応したことばであるから まだ それだけのものであり それとして 明確である。《きれいな空気を吸う平等を要求する自由》となると 明確さが より少なくなる。また 基本主観と より密接にかかわるようになる。《社会階級》は 《いちばんきれいな空気のもとに住むことができる人びと あるいは よごれた空気をきれいにする手段を持つ人びとと そうでない人びと》との違いであって 明確である。そこでも《人びと》というなら これが そのように 集団的・総体的な概念であることを問わないとしても しかし 人間そのものではなく 人間の存在の 客観的な側面の認識にもとづくものだが 部分概念である。つまり その社会階級の概念で 階級を・そしてその限りで人間を 明確に区別して 認識しているが この区別・それによる認識は 《人間》の一面的な区別であり認識である。もしくは 後行する経験領域における 区別・認識である。社会関係は 一般に 階級関係〔が基礎〕だと言いうるにしても これは 経験領域において言っているのであり わたしの基本主観と 同時一体だが これに先行しはしない。言うことの意味は 先行性・先験性が 超越性のことではないのだから 観念論に陥ったかというと そうではない。そうではなく とうぜんのこととして 先行する基本主観には 階級――それによる差別的な経験事実だけではなく 階級じたい――が 存在しないということだ。つまり 《無階級社会》を歴史的に展望し理論し この理念をもって 基本主観の先験性(そこには 平等などの理念があるが)が成り立つのではなく 逆だということだ。無階級社会への歴史科学的な理論 これは 基本主観に後行し 客観認識を 議論の媒介としようとする役目を果たす補助手段だということである。この補助理論を持たずとも 理念的な実践を人はおこないうるし おこなっていると言わなければならないと同時に こういった補助理論は まだ なにゆえ理念なのかを 明らかにしない。
誠実に真実に 歴史の流れを分析し把握しようとしているが 経験過程〔の認識(また意欲)〕の真実は その真実が内容としている理念の 後行領域での実践のすがたを明らかにできたとしても なにゆえそうかは なぞの中にある。なぞの中にあっていいわけなのだから むしろわたしたちはここでの行き方および議論の焦点として このこと・すなわち はじめになぞがある そこに理念が位置するということ これを 単なる但し書きにすぎないようだが まず 明らかにして コミュニケーションの とばくちとせねばならない。しかし このコミュニケーションの入り口〔の確立〕こそが 無階級社会ならそれとしての理念の 理念に固有の実践〔過程〕だと考える。つまり 理論は 補助となっているはずである。
これは 文体という観点からの歴史観ではあるはずだ。
わたしたちが 文体展開において 概念を用いてすすむというとき この理念をも――つまりわたしを代理するかのような理念をも―― 用いるか 仕えさせている。概念一般は コミュニケーションにおいて 相手に伝わるというよりは 道具として 互いに用いられている。理念――《わたし》の存在にかかわるところの概念――は むしろ 伝わるかどうか わからない。伝えさせる すなわち 受け容れさせるというのは 内政干渉である。内政干渉ということによって つまりこのことを 入り口で 明確にしていることによって むしろ 伝わることを願っており 無力の有効で 伝わるはずである というのが 《理念を用いそれをわたしたちに伝えさせている》ということだ。固有に理念というもの(こと)は 内的な自己の政府の中にしか ないものだから。
たとえば 何人かの人びとが集まって 話し合っているとしよう。このとき その場に 或るとき 沈黙の時間がながれると 《天使がとおる。Un ange passe.》と ことばする。この場合 天使の理念を わたしたちの自由意志は 用いているとは言えないが(意思せずにその沈黙が起こったから) それでもむしろ 事の実情は それによって 気まずい思いをするよりも この天使(つまり何らかの理念のはずだ)を わたしたちに仕えさせているのである。基本主観への到来を この一瞬 互いに待っているのである。手段をえらばずに 無階級社会あるいは緑の自然環境の社会を実現させるために 行動するならば それらの人びとは 《わたしは理念だ / 理念がわたしだ 》と それぞれ文体展開したのである。つまり 《わたしは天使だ。この天使をわたしは通す》と言い張り 実行に移したのである。《解放の神学》。
ここには あやまりがあるが――誤りと言うことばも理念の問題に関係するから むやみに使ってはならないが 次の事情の全体のなかで そうだと思われる―― 後行する経験領域では あやまりは それとして つきものである。そして 同じような性質のあやまりは――つまり 別のかたちで同じ性質の経験行為は―― 憲法に(ということは文化として・一定の文明として)理念がかかげられたならば その法の有力の下に 理念は 自由自在にとおる・ないしわたしがこれを通してよいと考えて 行動することにある。理念の人格化 ミスター理念といった人は いない。
なにゆえに理念か。《その理念がわたしだ》と錯覚する場合があるわけである。法を侵したというよりも その行動がたしかに合法的であって しかも 自己の基本主観を侵したわけである。密林を そういうかたちで――つまり観念的に・観念のデーモンの有力によって・これを推進力とすることによって すなわち 自由なら自由の理念を その理念を侵すことによって 実現させるかたちで―― 切り拓いたわけである。既成の文化・既存の文明のなかでは 旧い概念が観念化しており さらに必然有力のデーモン関係のすがたをとっている これは 不自由である 理念に反する ゆえに と言って 自由な理念を不自由にすることによって 変革しようと。理念が理念であるならば そのなにゆえかを問わずとも 理念ゆえに 密林の自然を どう開拓しようと かまわないと考えたのである。
これは 経験行為であるから そこに あやまりがあると言えもするし その誤りはじっさい あやまりかどうか 分からないと言えもする。ただし 言えることは 理念のゆえに 理念をもって 理念たるわたしによって 切り拓く・文化する・生活するのではないということである。この原則論を言うことはできるし 受け容れさせることはできないが 受け容れるよう ねがって ことばで伝えることはできる。
理念をかかげるところの法ないし国家政府は わたしたちのおのおの《自己の政府》の厳粛な信託によって成り立っている。これは 通念である。《自己の政府 / 精神の政治学》はその具体内容として 理念をもつが 理念そのものではない。法は 《精神の政治学》の生活過程の共同自治の一手段として 持たれ その中に 理念をかかげたり 今度は議論の対象ともするし 経験科学は内容を整理し 補助する。これら手段領域の問題の取り扱いが 信託の内容である。
法律家・政治家・経験科学者たちも これら信託を受けた手段領域の内容にかんする仕事のほかに 自身がおのおの生活者であるのだから 精神の政治学をおこなう。つまり だれもがみな 基本主観における自己の政府をもっている。自己の政府による文体展開の過程は あくまで概念(ことば)を用いて これをおこなう。この概念のうち 基本主観にかんするもの・すなわち 自由とか平等とか愛(慈悲とか平和とか言う場合もある)の理念は 基本主観よりも ことばとして明確であり その自己の文体を 代理するかに見える。また 法学や経験科学が これら生活の手段領域の内容の取り扱いを 信託されたということは この代理としてのことば・つまり理念に ほとんど直接・密接に かかわっていることである。
けれども 理念は おのおのの自己の政府を 代表しない。そして その精神の政治学つまり文体行為を 代理するかに見える。また 代理するかに見えるところで 《国政》をあずかる人たちへの信託がある。かれらは 《代表者》であるという表現が用いられているが そのときでも 《主権が国民に存する》ことに 変わりはない。《主権》つまり《自己の政府》つまり生活の 手段領域の処理にかんして信託を受け また代理する場合 この手段領域として 生活主体とまったく切り離されたものではなく しばしば 待ったなしの判断と実行をしなければならない。つまり 生活〔者〕本体の代理者は生活者と同じ場・同じ立場にいるとも考えられる。それで 《代表者》ということばを使ったのであろう。げんみつには 主権の代理者という意味である。
ここに だから これらの事情のあとに 理念の問題がある。主権たる《自己の政府》の代理者のもとに その法のもとに そして 経験科学による概念の整理のもとに たとえ理念が この環境社会および環境自然において 人びとのおよそ基本主観的な諸関係をなす網の目のように 制度として・通念として一つひとつの行為の中に その位置をきづいていたとしても ただ それだけのことである。理念じたいは 明確であると同時に 理念の網の目のなかでこの理念をとらえて生活する人びとにとっては まだ なぞだらけである。なぞをもって(なぞにおいて)わたしたちは生きるのであって 理念をもってなぞを解くために・あるいは すでに部分的に解いたがゆえに 生きるのではない。
昔は 明確な理念すら しばしば明示的には 持っていなかった。理念をもったなら 密林が開かれ明るくなったと言うことができるが なにゆえこの理念〔の位置〕かは 依然として なぞである。なぞにおいて生きる・生きてきたゆえ 理念をもったのである。なにゆえこの理念かが 新しい密林の世界なのである。
理念は 言ってみれば 旧い密林――つまり 同じ一つの密林の旧い見方・接し方――を代理して 開明された文化と文明を可能にしたが そしてその限りで 《自己》を代理したが 《自己》を代表したりそれに取って代わったのではない。理念は 基本主観の下位概念・部分内容である。その最高のはたらき(理性 / 精神の霊 / 自己の政府の秘所)の 明確な――つまり自由・平等・愛といった明確な――概念ではあるのだが。
自然の過程として これまで 文体を展開しあって生きてきた その結果 ただ経験領域の過程としての経験的な法則――たとえば 男の自己政府と女の自己政府とは ちがうのじゃないかといった見解――にもはや流されずに つまり この意味で 〔旧い〕デーモン関係から自分たちを解き放ち 後行する経験領域に同時一体だが原理的に先行する基本主観を見出し(そこに到来し) そのことの内容として理念――つまり 男女の平等――をとらえ 明らかなかたちで 宣言するようになった。また 法や 経験科学として この理念の内容を具体的に取り扱い 手段領域としてだが その実現を 共同自治していこうということになった。
この意味で 人類は あたらしい舞台に出たのである。しかも この理念が 主役となるようになったのではない。主役は 変わらない。せりふに用いることばが 明確になった。しかも なにゆえ これは明確なのかが あたらしいなぞの舞台である。概念が明確になったことと この概念を用いて発する文体が――つまり せりふの一まとまりとか台本とかのように 一定のパターンをもったものとして――明確となったこととは べつである。後者は ありえない。前者は 理念のことであり(もちろん 自然科学的な知識の・その概念の明確化も あるが) 後者は 理念が代理するのではなく代表してしまうことである。すなわち 前者が確立するまでには ただ経験領域にのみ引っ付いて たとえば愛を欲望とか怨念としてだけ捉え 無自覚にでも自由であり平等であろうとして ことばを或る呪文のようにしてとなえた。理念がそれとして確立したのち なお《理念的なパターンの文体》を固執するとならば それは 新しい呪文だということになる。これは ありえない。つまり 無効である。
この無効が それでも観念として実効性をもち 新しいデーモンの有力をかたちづくるならば それは わたしたちの新たな敵であり 文体の新しい問題が そこに生じた。手段領域の目的化が 新しい呪術である。理念の文化は さらに耕すべき(たがやし返すべき)密林をそこにひろげ これに対処するという新しい文化の理念を はこんで来た もし理念として言うとすれば。
これは――新しくここで問題提起するとすれば ただしすでに言われていることとして―― 民主主義の問題である。つまり 《自己の政府》の民主制と ひろく外形制度的に 民主政と。
ここでは 経済制度の問題を 直接あつかっていないけれど 経済行為の制度――つまり 《自己の政府》にあてはめると 労働とか精神の三つの行為能力の中の知解とか の形式――と したがって これに対するいまひとつ別の精神の行為能力としての意志(自治)の形式――つまり 民主主義(独立主観であると同時に相互依存の関係にあるというような)――との 相互の連関の問題である。ここでも 《精神の政治学》つまり生活における 《自己》としての民主制と 《社会》としての民主政。そこで 経済活動ないし制度は 同時一体である。まず 同時一体として 知解と意志とは 連関しあっている。
《きれいな空気のもとに生活できる人びととそうでない人びと》との階級関係 これは 生活の基礎として 知解・経済行為が 作用しており なおかつ同時に 意志としての精神の政治学や社会の政治行為が はたらいている。《社会的な身分や門地によって 差別されない》ところの自由や平等やまた愛(福祉)といった理念 これをかかげ しかも 法のもとに・だから現在では国家ないし国政のもとにかかげ 広く共同自治していこうというとき この理念としては おおよそ同じであるが しかも 経済制度がちがう国政の形態が あるわけである。どちらも 主権の存する国民が その国政に 信託をあたえている前提のうえに いまでは 成り立っている。
経済制度のちがいは 《よごれた空気をきれいにすることのできる手段を だれが持つか》への判断・理論に よっている。ここで その知解行為は 二つに分かれている。みんなで持つか それとも 個人個人が基本的に所有し しかも信託を受けた国政においては――差別のないことを旨とするのだから―― みんなで持つ場合と同じように 少なくとも理念(この場合 建て前)としては 立法(知解)し行政(意志)し司法(記憶の秩序)するというやり方である。
経済の制度を直接にあつかわないという行き方では いづれの場合においても なお同時に これらそれぞれの経済制度(ないし知解・労働行為の形式)を どう意志するか つまりどんな民主主義のかたちをとるか これが 問題となっている。つまり 経済制度も 知解(文化)行為の結果として持たれた一つの理念が その経済制度の面だけをとらえるなら そのまま実行に移されているという問題とその見方である。逆に言うと そういうことになる。国政という権力の有力が この自己政府の知解形式を代理する理念を 自己政府の代理者として 前提枠の限りでは ただちに 実施しているかたちである。そのあと 自己政府の意志形式の代理たる理念――これについては つまり いづれの経済制度でも 民主主義という同じ一つの理念――を そうして 実現しているように はかるというかたちである。つまり 理念としていえば 経済制度ないし知解行為の形式(階級をどう見るか)が 意志行為の形式(民主政)に対して 優位に立ち先行している。図式的だが くりかえすと 理念のなかで 知解形式のが 意志形式のより 先行しているかたちである。
この 知解(経済)と意志(政治)との連関のしかたは ふたつの経済制度において いづれも 同じであり それは 《理念》が先行しているし おそらく同時同等のものとして互いに連関していると思われるところの二つの理念の一方が他方に対して先行している。《理念〔一般〕が先行している》というのは 知解と意志と記憶の三行為能力の一体である精神・基本主観が その部分概念である理念によって 逆転されたことである。かつ 意志の理念(民主主義)は 知解の理念(個人として自由ないし社会関係そのものとして自由)に対して 劣勢である。こちらのほうは 意志が知解に対して優勢であるはずなのにというのではなく 不当に劣勢になっているのではないかという考え方である。あちらのほうは 全体と部分(ないし全体の代理)とが 転倒しているのではないか。
全体と部分(ただし 全体の中の最高のものであって 全体を明確に代理しうる)との転倒で その部分が 全体を代理するのではなく(そうではあるのではなくなり) 全体の呪文となるというかたちである。全体(基本主観)として生きるためには 部分(理念)を 呪文として始めに となえていなければならないというデーモンの観念形態であるはずだ。
全体(基本主観・精神)のなかの 互いに同時同等である行為能力またはそれぞれの理念が そうではなく 差別異時のもとにあると見られているという事態は 上の観念形態において呪文となった理念(この場合 理念一般)が 有力に 作用する社会関係つまり経験領域の 慣習(慣性の法則)の優位をものがたる。生活全般の基礎は 経験領域から見れば 記憶(家族とか集団とか社会一般とかの組織的な秩序)よりも・また意志(上の秩序をどう文体して実現しようとするか)よりも 知解(特には衣食住の安定〔のための〕)にあると考えられているその考え・あるいは 慣性的な法則のようになったその考え これが 優位に立ったことである。衣食足って礼節を知るというのは 経験領域〔のみ〕の慣性法則をとらえて言ったのである。じっさいには 現代では 慣性法則ですらないようにも思われるが。わたしたちは この礼節と衣食とを 優劣の順序において見ようと思わないし 見ることもできない。ただ これを言うのみである。なにゆえ理念かという問いかけに対して。
目下の問題は かんたんに 理念主義にある。そして かつては 理念の実現のために 理念を念観し 必然デーモンのちからに頼って これを通そうとしたかも知れない。いまでは それとして 理念は 実現した。それとして実現しているところでは その理念を知っていればよいと 呪文(じっさいには観念)としてとなえていればよいと考えてのように やはり 観念デーモンの社会関係の慣性的な領域にそのまま付き従っていけばよいということに なっているかのようである。そういう理念主義という敵。これは 経済制度を直接にあつかわず 精神の政治学として文体する一つの議論である。このような行き方の議論が成り立ちうるような社会の情況として その意味での密林が生じているのではないかと。
(つづく→2005-02-08 - caguirofie050208)