文体――第三十一章 インタスサノヲイスム
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(2005-02-10 - caguirofie050210よりのつづきです。)
第三十一章 インタスサノヲイスム
民主主義を 内的な基本主観の問題として(つまり その一理念として)語ろうとすることは たとえば男女の両性が平等であるという関係過程のそこにおいて見られるであろう相互の意思決定(知解と判断)の理念形態が この民主主義なのであろうから すでに 経験領域とつなげて 語っていることである。
あるいはむしろ 経験領域の問題として 民主主義(自然本性の主体の 経験的な 有効性。ないし有力までを含むかもしれない)の理念が言われているとき これを わざわざ強引に 内的な基本主観の一理念へ引き入れるかのようである。
この強引さが 理論的に無罪と保証されるのは 経験領域と基本主観とに共通な分野においてか または 行為能力としての意志(愛)においてかである。言いかえると 民主主義ということばを 自覚せずに・自覚してのいづれにもかかわらず 基本主観による生活〔のたたかい〕を自然本性たるわたしたちが これまで行なってきたとしたなら そのときその結果として獲得された理念としてであるか それとも 経験科学によって理論的にも明らかにしながら 実現した理念としてであるかである。だから この生活の歴史では 基本主観の内に その理念として 潜在的にしろ もともと 見られたものだということが 保証である。
男でも女でも その思想・表現が自由であり その両性は平等であると 経験科学によって明示的に言ってきたかどうかを問わず これらの自由や平等の理念の実現されることをめざしてきたその基本主観には 同じく明示的でなかったとしても(ということは 必ずしも知解行為を優先させずとも) 意志があり その理念は 民主主義というものであった。という見方である。
言いかえると 知解行為・経済活動という生活の基礎の側面に深くかかわって 資本主義社会をいとなみ あるいは それに対抗してのように社会主義社会をおしすすめてきたのは 理念的にいうと 民主主義の意志である。理念が明らかとなりそれとして実現した段階では このように ふりかえり総括することができるのではないかという これはまだ 単なる見方である。しかも 理念を・そして民主主義を 突出させた一議論として。
保証がどうのこうのと言っても このような議論では ほとんど何も論証していないから 雑談のたぐいではある。で 民主主義という理念〔ではあるが 一種〕の場で・それを意志しようとするちからで 自由の平等という知解行為の一理念 あるいは 平等の自由というそれを 一つの法治社会のもとで きづきあげようとしてきたのだと。過去に対して 一面としてこのような見方をおおいかぶせる あるいは線として引いてみるということである。そして この議論は 論証するためのものではなく 過去との対比で あたらしい舞台のすすみぐあいを さぐってみることである。
精神の政治学は――つまり 論証を抜きでいうとすると―― とりわけ おのおの自己の政府の民主制を 志向するゆえであると思われる。しかも 論証抜きで はじめの定義として言おうとおもえば 民主制に対応する共同自治の外形的な民主政 あるいは それのもとにある経済制度 これらは 特に経験領域に属し 基本的に言って どちらでもよい。また とうぜん 歴史相対的であるのだから どうでもよい領域の一定の選択とその結果情況は 重視されなければならず また ここからつねに出発するのである。
国民ないし市民に 主権が存するというのは――これは 理念で語っているから 理念でいうと―― 基本主観の問題として その自己の政府の 民主制の理念のことである。この定義がただしいとするならば この国民主権は すでに 理念として 実現されているのだから 問題はないように見える。それは この理念がなにゆえにかが明らかにされて 問題がないようになるのであろう。そして いや問題があるというのを 理論的に示そうとおもうなら 基本主観をもった自然本性つまり人間が なぜ《国民》であるのかを問うところにある。これは 雑談から出てきた問題である。
たしかに 人民とか市民とかいうほうが 自然本性の人間を代理することばとして ふさわしいように思われる。この点では ことばの問題で争わないとすれば なにゆえ民主主義の理念かが 問われなければならない。そうでないと すでに現在の法の下における社会は理想郷である というかたちで 法に触れさえしなければ――また触れても 法の有力の下におくことによって―― あとは 飲めや歌えやということになる。民主主義なのだから自由だという 呪文の合唱のなかの世界 これがわたしたちの望むところだということになる。おそらくそして 経験領域では この理念がかかげられるようになった新しい舞台は わたしたちの望むところを 含んでいるのだと思われる。とうぜん この新しい舞台をめざしてきたという一面が 存在するのだと思われる。呪文ではいけないと言って この理念を 優美にまたあたかも甘美に 描き出すような理念の交響楽の世界が もう一方で 出現してくるかも知れない。
ここまで もし仮に 来たのだとすれば たしかに舞台は変わったのである。或る意味で 豊かにもなった。そして ゆたかにまだなっていない世界を議論することによって 理念の実現をさらに目ざすのは 理念体系世界のほこらしげな住民であることを示す。すでにそこでは 理論などなんとかなるであろうと言ってのように 理念の国を享受している。ということではあるまいか。
憎まれ口をたたくのは 自己の政府の民主制の問題である。たたくことによってではなく 民主制は にくまれ口をたたきうることを一つの内容としている。民主政は この民主制の代理なのであるから 法を超えて(法に先行して) 基本主観のことばの自由を 見守っていなければならない。つまり 代理というのは その公共的で専門的な手段領域に専念するのではなく その手段領域で・権限の範囲内で きわめて抽象的な本体たる民主制を 代理することである。
理念として言わば 民主主義は この意志であり愛であり 基本主観の共同性である。
市民(スサノヲ)の自治 その相互の共同自治(インタスサノヲイスム)である。これを 厳粛な信託を受けて 国政=民主政は 代理している。
理念として言うと きわめて窮屈なのであるが もう少しすすめよう。つまり 自由は 理念として 基本主観の内容であるが 基本主観を代理すると 自由の民主主義となりうるし 平等についても 同じようであるだろう。友愛とか慈悲とかが 自由や平等と同じようにかかげられると 道徳つまり観念的な理念となるようにである、。ところが 民主主義やまた愛は 経験領域でも ことばとして 共通である。友愛とか兄弟愛もそうであるが おそらく日本語として なじみが少ないのであろう。平等とか自由は むしろ経験領域の差別とか不自由に対して もたれるので 道徳であり また理念が一般的に明確なものとなった情況では 通念となっている。愛は経験領域では 欲望・欲求のことだが それらの自由や平等をふくむことができるし 自由意志・意志の自由選択として 基本主観にもかかわっている。この愛と同じものとして 理念としては 民主主義というのが よいであろうのではないか。(ただし 時代とともに 変わるかもしれない。)
理念一般がすでに明らかになっているゆえに 基本主観の共同性(つまり 生活の共同)といった内容として 民主主義の語を用いることができる。
これは 知解・経済といった基礎に対して 精神の・共同自治の 中軸である。こう言ったところで 民主主義が まず有力であるのではなく またただちに〔それだけで〕有効だというのでもない。基礎としての行為能力(知解・経済)に対して 民主主義は 忘れ去られるべきではないとまでは 言うことができるし 言っているべきであると言おうとしている。自由のゆえに・あるいは平等のゆえに――それらをかかげる法の下に―― 民主主義であるといった考え方に 対抗して 提出することができる。おそらく 日本国憲法(その前文)にそって こう言えるものと思われる。まず この原則論。
したがって なにゆえに民主主義という理念かは すでに 現在の もしそうだとすれば 理念的な法権力の有力のもとで そうなのだと見ることもできる。わざわざこたえるまでもないのだと この民主主義という一点では 考えられる。
つまり なにゆえに理念(理念一般)かの問題に帰ってくるし 次のようなわけで この問題が 民主主義という理念の扱い方にも 横たわっているように見える。すでに 理念の国に――理念を明確にかかげる法治社会で――あるという前提枠が 民主主義をも 或る一つの観念と見させている。つまり これは すでに古くなっているとも考えられる。つまり この意味でも 舞台は変わった。そして ここで なお理論作業によって 舞台の大道具・小道具(法学・政治経済学的な)を よりみごとなものにしていくか あるいは すでに 理念の体系配置の美の世界をえがくことにすすむかの 基本主観のあり方・選択が 問われている。舞台は変わったが 人間は変わっていない。基本主観の生活のいとなみは これまでの歴史と同じであり これを相続している。経験科学は その理論を 新しい舞台のためではなく そこにおける生活のために 補助手段として 提供する。じっさいは これである。ということは ひとつの表現として可能だとすれば この経験科学の従来の対処の仕方の背後では 舞台の変化とのかんれんで 人間は変わっているとも言うことができるのだと思う。表現は別として 内実は 経験科学が 言ってみれば生活の補助手段であるという固有の役割りを すでに自由に追究することができるようになったということではあるまいか。
だから 一般に なにゆえ理念か なにゆえ国家という共同自治の社会形態なのかを 経験科学によって 論議し明らかにして 生活をすすめていくことができる。この文体展開という点では ふたつの現在の経済体制に 共通の そして一つの中軸となる行き方であってよいし 事実そうであろうと考えられる。民主主義がである。インタナショナルなインタスサノヲイスムがである。
言いかえると ここでは もはやすすんで 人間が変わるという一つの文体内容である。
経済制度に対して――つまり 経済活動という生活の基礎の 社会総体的な 経験法則の有力に対して―― わたしたちは 個人は無力だが しかも 生きている。これまでの歴史においても 生きてきたし いまも生きているし これからも生きていくであろう。こういった意味ないし意味の構造は その理念ないし文字に取り憑かれなければ わたしたちの基本主観また自然本性の生活過程そのものである。つまり だとすれば 基礎に対して 中軸は 生きている。中軸も生きている。つまり これらが 同時一体であり 基本主観としてわたしたち自身が生きているからである。
これは 民主制ということだと思う。スサノヲの生だと思う。民主主義であり 共同自治の民主政も かちとっていくであろう。人間が変わるなら・人間が変わるにつれて つまりそういった人間が確立されるなら――あたらしい舞台としては その方向へ 確立され始めたから―― 知解行為のあり方・経済活動そして経済制度も 変わるべきは変わるであろう。変わって行き方・その段階の具体的なあり方は いまのそれぞれの歴史社会から出発して まちまちであろう。
基礎の形式・形態を変えることによって 人間が変わっていく側面があるわけだが 変わりうる人間のそのあり方は すでに 潜勢的にそうであるのでなければ おかしい。だから とりわけ 基礎に対して 中軸なのである。ウェーバーは これを 経済的な利害関係という基礎の軌道に対して 転轍手の役割りを果たすものだと言ったが むしろ転轍手は有力である。民主主義という理念は 転轍機ではない。通念ないし理念主義は 転轍機であり転轍手であるのかもしれない。経験領域における軌道を転轍するのというのは 現在の段階では 同じ性格の法権力のもとにあって コースを修正するか それとも 古くプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神の情況では すでに新しい――たとえば 産業革命へとつらなる――生活態度のコースを 確認し その情況での一つの有力な理念としようとして始めた歴史を言っているかであると思われる。
旧い情況では 自由などといった理念が たしかに基本主観の内に見出されて すでに これの実現過程としての生活(経済活動)がくりひろげられているところで なお この理念の道徳化(つまり理念の確認)として 再出発しようとしたものであるか あるいは わざわざそんなことを言わなくとも 合理的な考え方(つまり一つの理念として)が もともと基本主観の能力としてあって これが開花した(顕勢的となった)ことだと 考えられる。プロテスタンティズムの倫理(理念による関係行為のやり方)は そういった資本主義の精神の 高次の通念形態だと思われる。高次のだが 通念だと思われる。
これは それが 必要であり有力であったとしたなら 転轍機の役割りを果たした。けれども わたしたちが 経済軌道の基礎に対して 意志の中軸というのは はじめに一つの新しい軌道を敷こうとしたときにも 中軸であったものだし(この場合 ことばとして 転轍手であったということができる) この軌道を走っているときにも やはり中軸として作用しているものである。古い軌道の基礎の中に・またその上で 勤勉なら勤勉をそしてまたそのための自由を ある種の転轍機として その自らを推し進めていくとき 突き詰めて言えば さらに別様に中軸があった。この中軸は いまから 理念整理しておさえるとすれば 経済行為の自由とか男女の平等とかの理念に対しても 中軸であったであろうところの言うとすれば 民主主義だったのではないか こういうふうな見方である。女性の権利の主張とその獲得への自由なる理念は 軌道を敷いたり 少なくとも方向を指し示すことがあろうが その自己の政府の中軸には スサノヲの生があり 民主主義なる愛が作用したのではないか。
現段階では これ以降では 基本主観の理念内容は それとして 明らかにされているのだから 問題は 転轍機ではなく なにゆえに――言うとすれば―― 転轍機かだと思われる。転轍機は 役目を終えたのかもしれない。(そうでないかもしれない。)
未来はどうなるのか わからないのだから あるいは新しい転轍機〔の問題〕が出てくるかもしれない。けれども 転轍機ゆえにというかたちでは ないであろう。プロテスタンティズムの倫理の場合でも そうではなかったのだとさえ思われる。少なくとも 資本主義の精神が プロテスタンティズムの倫理のゆえに発展した――そういう経験領域での見方は 成り立つが――のではなく 基本主観の生活のゆえに ある段階で資本主義の精神の顕勢化があり(つまり もちろん経済活動の素材・手段・技術などと一体としてであり) これゆえに その観念的な確認(特に 神学的な理由づけ)として プロテスタンティズムの倫理の興隆なのであったと考えられる。その倫理は すでに或る意味では その法となっていたものであるだろう。
はじめの資本主義の精神の(つまり イギリスの)経済活動は 生活の言わば第一次的ないとなみ・たたかいであり プロテスタンティズムの倫理は(だから イギリスにおいても) その理念主義であらざるを得なかった一面があると考えられ これは いまの理念体系の先駆的な形態でさえあるのではないだろうか。だから 観念デーモンの共同化の有力として そこでは 転轍手でもあったと考えられる。第一次的な生活のいとなみとして 理念が芽生えこれを意識するようになることと すでに理念をかかげて生活すること(エートスの側面)とは 別だと思われる。
いまでは とにかく生活をしていて そのあとに実現させていたい理念の自覚と実現とを見るというかたちでは なくなったのだと思われる。で 基礎の問題としては 一般に自由が 経済活動の形式として 理念的には実現されていると見るなら 時論として言って 中軸の民主主義が 忘れられているか もしくは 基礎と切り離され 基礎に対して 劣勢である。優勢へ逆転させよというのではなく また言うことはできないから 現在時点での これまでの基本主観の生活の相続そのものとして 出発することができるし そう文体展開していくことができると考える。このゆえに インタスサノヲイズム。
(つづく→2005-02-12 - caguirofie050212)