caguirofie

哲学いろいろ

文体――第三十六章 休憩

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-16 - caguirofie050216よりのつづきです。)

第三十六章 休憩

さて ファリサイ派の人びとが近寄り イエスを試そうとして 《何かの理由があれば 夫が妻を離縁することは 律法(理念の規範)にかなっているでしょうか》とたずねた。イエスは答えた。《創造主がはじめに人を男と女とにお造りになり 〈だから 人は父母を離れてその妻とむすばれ 二人は一体となる〉(旧約聖書 創世記 (岩波文庫)2:24)と言われたことを 読んだことはないのか。もはや二人は別べつではなく 一体である。したがって 神が結び合わせてくださったものを 人間が離してはならない》。すると かれらはイエスに 《では なぜモーセは〈離縁するときは離縁状を渡す〉(申命記24:1旧約聖書〈3〉民数記・申命記)ことを命じたのですか。》とたずねた。
エスは答えた。《きみたちの心ががんこなので モーセは妻を離縁することをゆるしたのであって 初めからそうだったわけではない。言っておくが 不法な結婚でもないのに妻を離縁して 他の女と結婚するものは 姦通の罪をおかすことになる。》すると弟子たちが 《夫婦の間がそんなものなら 結婚しないほうがましです》と言った。イエスは答えた。《だれもがこの教えを受け入れるのではない。ただ恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者もあり 人から結婚できないようにされた者もいるのだ。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。》
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書19:1−12)

《だから 人は父と母を離れてその妻と結ばれ ふたりは 一体となる》と聖書に書いてあります。これは偉大な神秘であり わたしの考えでは キリストと教会の関係を述べたものです。いずれにせよ あなたたちも それぞれ 妻を自分のように愛しなさい。また 妻は夫をうやまいなさい。
パウロ:エペソ書小型聖書 - 新共同訳

おのおの人間は人類の一部であり 人間の本性は社会的なものであって 偉大な自然本性的な善と また友愛の力をもっているので そのために 神は人間が種族の類同性(単性的な人類)によるだけではなく 血縁の絆によっても その社会性において結び合わされるように 一人の人間からすべての人間を造ることを欲した。したがって 人間の社会の最初の自然的な結合は 夫と妻である。神は かれらを別々に造って いわば無関係なものを結び合わせたのではなく 女を男から造り 女がそこから取り出され形成された脇腹は 結合の力を印づけた。(創世記2:21−22小型聖書 - 新共同訳
なぜなら いっしょに並んで歩く者たちは 脇のところで結びつき 歩いていく方向をいっしょに眺めるからである。その結果 子たちにおいて社会の連続は生じるが かれらは男と女との結合ではなく 性的関係の 唯一の真実なる果実である。なぜなら それぞれの性において そのような混合なしにも 一方が支配し 他方が服従するという 友愛的で真実な結合はありうるからである。
アウグスティヌス:《結婚の善》¶1)

〔9〕 神はわれわれに ある善は 例えば知恵 健康 友愛のように それ自身のために求められるべきものとして与え ある善は 例えば学識 食物 飲み物 睡眠 結婚 性的結合のように何かのために必要なものとして与えたことをよく考えなければならない。後者のうち あるものは 例えば学識(経験科学)のように 知恵(基本主観)のために必要であり あるものは例えば食物や飲み物や睡眠のように 健康のために必要である。またあるものは 例えば結婚や性的結合のように 友愛のために必要であり ここから人類の繁殖ということが成り立つのであるが 人類において友愛的な関係は大きな善である。

  • 善とは 存在である。存在は 基本主観である。基本主観の行為能力は 一つに 意志すなわち愛がある。友愛的な関係とは 基本主観の中軸たる意志行為の理念であって 民主主義――自己の政府のとして民主制――である。ここには 性は 存在しない。これのために 結婚や性的結合が必要だというのである。
  • すなわち 性の存在しない先行する基本主観は こうして 性の存在する後行する経験領域とつながっている。ただし 先行するというのであるから その友愛は 性的結合や結婚によって 目指させられるものではない。社会の外形的な民主政によって 民主制なる自己の政府の確立(聖)を目指すのではない。なぞにおいて 基本主観は先行する。アウグスティヌスは このことを 《結婚は善である》というテーマで 議論している。

したがって 他のもののために必要なこれらの善を 定められた目的のために使用しない者は 罪を犯す(その人の行為は無効)のであり ある場合には許されるが 或る場合には咎められる。だが これらの善を許された目的のために使用する者は 善いことをしている。それゆえ 必要でないものを使用しない者は いっそう善いことをしている(その人は生きている)ことになる。

  • という言い方をすることによって アウグスティヌスは わたしたちの自由意志・意志による自由な選択・すなわち 罪を犯す自由を 排除しない。また これによって 基本主観・自然本性のなぞという恵みは かえって わたしたちの自由意志を なくさせるどころか 立てていくのである。
  • わたしたちは わたしたちの自由意志のちからの及ばないなぞの自然による恩恵〔のちから〕と そして自由意志との両方をみとめなければならない。

だから これらの善を必要なときに欲するのは善いことであるが 欲するよりも欲しないほうがいっそう善いことである。なぜなら それらを必要なものと考えない場合にわれわれはいっそう善い状態にあるからである。

  • 基本主観の自乗過程に近づく。

子を生み 家庭の母となることは善であるゆえに 結婚することは善であるが(パウロ:テモテへの第一の手紙 5:14) しかし 人間的関係のために それを必要としないほうが より善いことであるがゆえに 結婚しないことはいっそう善である。結婚して交わる者たちだけでなく 不法な性的関係に耽る者たちも含めて 節制しない者たちのために かれらの悪からも善なるものを造り出す創造主によって そこから聖なる友愛が得られるように 多数の子孫と豊かな相続が絶えない というのが人類の現状である。
そこで 人類の初期においては 主として神の民(この民をとおして 万民の君である救い主が予言されて 生まれるべく)を増やすために 聖徒(自立の確立された人)たちは それ自身のために求めるものとしてではなく 他のもののために必要なものとして 結婚の善を用いなければならなかったと考えられる。しかし今は 聖にして清らかな交わりに入るために いたるところで あらゆる民族からなる聖的結合の豊かさが満ちあふれる時であるから ただ子をもうけるために結婚を望む者たちにも むしろ節制といういっそう大きな善を使用するように 勧めなければならないのである。

〔10〕しかし次のようにつぶやく人たちがいることをわたしは知っている。《もしすべての人があらゆる性的関係を控えることを欲したら どうやって人類は存続するのだろうか。》ああ すべての人が ただ《清い心と正しい良心と偽りのない信仰》(テモテ第一書1:5)によって そのこと(節制)を欲してくれたらよいのに。そうしたら 神の国はもっとすみやかに成就し 世の終わりは早まるであろう。なぜなら 使徒パウロ)が次のように言う時 かれが何か他のことを勧告しているのは明らかだからである。《みんなの者がわたし自身のようになってほしい》(コリント人への第一の手紙7:7)。あるいは 同じ箇所であるが 《ところで 兄弟たちよ わたしは次のことを言っておきたい。時は縮まっている。妻のある者はない者のように 泣く者は泣かない者のように 買う者は買わない者のようにすべきである。なぜなら この世の有りさまは過ぎ去るからである。わたしはあなたがたが思い煩わないでいてほしい》(同 7:29−32)。それからつけ加えている。《妻をもたない男性は どのようにして主をよろこばせようかと 主のことを考える。(《自分の顔を大事にしたい》と考える。)しかし 結婚している男性は どのようにして妻をよろこばせようかと この世のことを考える。結婚していない女性や処女は違っている。結婚していないかのじょたちは 身も心も聖くなるように 主のことに心を配るが 結婚した女性は どのようにして夫を喜ばせようかと この世のことに心をくばる》(同7:32−34)。そこで 今の時代には 自制できない者たちだけが 同じ使徒の《もし自制できなければ結婚するがよい。情の燃えるよりは 結婚するほうが 善いからである》(同7:9)という意見に従って 結婚すべきであると思う。

〔11〕しかしながら かれらにとって結婚は罪ではない。もし それが私通と比べて選ばれたのだとしたら 私通よりは罪は軽いが やはり罪であることになろう。だが 今や 使徒が 《望みどおりにするがよい。結婚しても 罪を犯すのではない》(同7:36)そして 《もしあなたがたが妻を迎えても 罪を犯すのではない。また おとめが結婚しても 罪を犯すのではない》(同 7:28)と きわめてはっきりと語っている言葉に対して われわれは何と言おうか。だから 結婚が罪ではないことをなお疑うのは 確かに正しいことではない。したがって 使徒は 譲歩のつもりで結婚に同意しているのではない。実際 今は許されている者たちがかつて罪を犯したことがないというのは きわめて不合理であることを 誰が疑うであろうか。そうではなく かれは 性的関係に譲歩のつもりで同意しているのである。性的関係は子を生むためばかりではなく 時としてはまったく子を生むためではなしに 不節制によって生ずる。結婚は 性的関係が生ずるように強いるのではなく それが許されるようにするのである。しかし それは 祈りのためにとっておくべき時間を妨げたり(自己の自乗過程・精神の自治過程をもはやまったく顧みなくさせるようにすべての時間を占拠したり) 使徒が 汚れた不敬虔な者たちのはなはだしい堕落について語ったときに(ローマの信徒への手紙 (ニューセンチュリー聖書注解)1:26−27)黙っていられなかった自然に反する関係に変えたりするほど 過度にならない限りにおいてである。
アウグスティヌス:《結婚の善》¶9−10)

結婚・家庭は 経験行為であり後行する経験領域に属する。友愛・夫婦愛・家族愛――身近にいる者を愛さずして どうして 男女の平等・人間の民主主義を言うことができようか――は 経験領域につながって 特には 先行する基本主観の問題であり その内容概念つまり理念である。わたしたちは 理念のために――それを理念主義として――生きるのではない。自愛心のない博愛心は ありえない。自己の自由意志――罪を犯すにも自由な人間の意志中軸――がかえって立てられ確立されていくとき 自愛心がなくなるわけではない。自愛心に対して先行する自由意志が立てられ そのことの一断面を 博愛心とか慈悲とか言ってもよいわけだが この概念には 〔基本〕主観を超越したといった響きがある。もしくは 慈悲なら慈悲というそういったむしろ客観認識を つまりは知解基礎を 意志中軸に対して 優先させている。知解した事柄はすべて 自己のちからで 自己の自由意志で 実現できるという考えに立っている。ここから 男女平等を実現しようと 方策を立てることは 不可能である。それは 文化(文体)を 四角く区切っていくことである。自然〔本性〕を耕し 密林を切り拓いて 新たな密林となることである。
理念のために生きているのではなく 《自己の政府》の確立へ向けて進んでいる。そこで 精神の政治学が 過程的に この主題としては結婚についても 展開される。わたしたちは この無力の 精神の政治学を こばむことはできない。男女平等の 民主主義の 主観自治および共同自治が 議論されている。
《〈すべてのことが許されています〉。しかし すべてのことが益になるわけではありません。〈すべてのことが許されています〉(あらゆることばの自由な解放)。しかし すべてのことが人間を向上させるわけではありません》(コリント前書10:23)における精神の民主自治過程。
結婚という経験領域のことばで語って 基本主観的である。そこで 理念的である。ただし 理念は 目的ではない。

〔8〕 それゆえ 《結婚はすべての人の間で重んじられるべきであり また寝床は汚されてはならない》(パウロ:ヘブル書3:4)。われわれは それが私通(結婚と恋愛は別だというその恋愛)と比べて善であるという意味で善だと言っているのではない。そうでないと 二つとも悪であるが 後者のほうが より悪いということになり また 姦淫のほうがより悪いので 私通も善であることになってしまう。娼婦に通うよりは 他人の結婚を侵害するほうがより悪いからである。また 近親相姦のほうがより悪いので 姦淫は善だということになろう。そして 使徒が《口にするだけでも恥ずかしい》(エペソ書5:12)と言っているようなものに至るまで すべてのものがより悪いものと比べては善だということになろう。だが それが間違っていることを誰が疑うであろう。
それゆえ 結婚と私通は二つとも悪であるが 後者のほうがより悪いというのではなく 結婚と節制は二つとも善であるが後者のほうが より善いのである。それはちょうど 現世の健康と弱さは二つとも悪であるが 後者のほうがより悪いというのではなく 健康と不死とは 二つとも善であるが 後者のほうがより善いというのと同じである。また 知識と虚偽とは 二つとも悪であるが 虚偽のほうがより悪い というのではなく 知識と愛とは二つとも善であるが 愛のほうがより善いのである。
なぜなら 使徒が 《知識はすたれる》(コリント前書13:8)と言っているが この世において知識は必要なものであるのに対して 《愛は絶えることがない》からである。そのように 結婚の目的になっている 子をもうける営みはすたれるが あらゆる性的関係からの自由(純潔)は この世においても天使的な行ないであり 永遠に続く。しかし 正しい者の食事が神をけがす者の断食よりも善いように 信仰深い者の結婚は不敬虔な者の処女性にまさる。しかしながら その場合 食事が断食にまさるのではなく 正義が涜神にまさるのであり また 結婚が処女性にまさるのではなく 信仰が不敬虔にまさるのである。

  • これは 基本主観のなぞの有効が その無効にまさるという定義じょうの問題でもある〔にすぎないが〕。

なぜなら 正しい者たちは 必要な場合に いわば善き主人が しもべに対するように 正当で公正なものを身体に与えるために食事をするが 神をけがす者たちは悪霊に仕えるために(理念を守っていることを見せるために)断食するからである。同様に 信仰深い者たちは操正しく夫と結ばれるために結婚するが 不敬虔な者たちは真なる神から離れて私通するために処女でいるのである。それゆえ マルタが使徒たちの接待に夢中になっていたことは善であったが(日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書10:40) 妹のマリアが主の足元に坐って主の言葉を聞いていたほうが いっそう善であったように われわれは 結婚に対する貞潔さのゆえに スザンナの善を讃えるが(ダニエル書 (新聖書講解シリーズ (旧約 17))13:22−23) やもめのアンナ(日本語対訳ギリシア語新約聖書〈3〉 ルカによる福音書2:37)や処女マリア(同1:27)の善をいっそう讃えるのである。自分たちのもちもののうちから キリストとその弟子たちに 必要なものを差し出した者たちの行為は善であった。しかし その主にただちに従うために 自分のあらゆるもちものを捨てた者たちはもっと善い。
だが 後者の行為の場合であれ マルタやマリアの行為の場合であれ これら二つずつの善のうち より善いほうは 他方を無視したり放棄したりしなければ 起こりえなかったであろう。したがって 結婚をひかえることによってのみやもめの貞潔さや処女性の完全さを保つことができたからといって 結婚を悪と見なすべきでないことが 理解されなければならない。なぜなら マルタのしたことは かのじょの妹のほうがそれをしなかったためにいっそう善いことができたからといって 悪だったわけではないし また完全にキリストに従おうとする者は いっそう善いことをするために 家をもつべきではないからといって 義人や預言者を自分の家に迎えることが悪なのではない。
アウグスティヌス:《結婚の善》¶8)

(つづく→2005-02-18 - caguirofie050218)